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2016年10月31日

同一通貨の域内格差を考察する(ユーロと円)

現在は2016年10月ですが、欧州の経済情勢がなかなか回復しないので、ユーロという通貨の信認も同じく向上していないようです。

この状況を招いた最大の原因は「通貨は単一ですが、それを運営する経済主体はたくさん存在する」という壮大な社会実験における最大の問題点が露呈したものと言えます。

通貨は単一ですが、本当のものの値段の考え方は違うということです。

確かに、日本の都会と地方でも同じことがいえると思います。

東京と沖縄では、言ってみればギリシャとドイツくらい考え方も違うかもしれません。

地方では昼食代として500円出せばかなり美味しいものが食べられると思います。

翻って都会の東京では1,000円程度出さないと同じようなのは食べられないのではないでしょうか。

このようなことは肌感覚として納得できると思います。

そして、地方でもさらに遠くに行った場合、たとえば北海道の夕張などにいったら、300円ではるかにうまいものが沢山食べられそうです。

かように同一通貨で同一国でも地域ごとの経済格差に応じて物やサービスの値段の決まり方は違うと思います。

ここで私は東京では何でも高いということを言いたいのではありません。

たとえば電化製品や衣料品などは東京のほうが他の地方の百貨店で買うより安かろうと思います。

競争が激しいですので。

しかし、日本は単一の政治形態を持ち(民族が単一といっているわけでは決してありませんので念のため)、例として挙げますが夕張のような地方、東京のような都会が単一通貨たる「円」経済圏の中で持ちつ持たれつ今のところうまくやっていると言えます。

都会での超過所得が税金という形で、地方の医療福祉介護や道路橋などの公共事業の形で事実上投入されますし、そうした補助金的役割を持つ所得再分配に「期待」して地方になるほど熱心に政治家を国会に送り込みます。

地方の高齢者保守層ほど選挙に熱心です。

全国的な知名度や人気は別にして、地元(選挙区)では案外受け入れられているという政治構造は戦後政治レジームである例えば田中角栄による政治に代表されるように、日本における厳然とした「お約束」なのかもしれません。

ユーロについては、政治的に複数ある主権国家同士の経済独自性が高まると、単一通貨としてのユーロの信任が揺らぐというジレンマがあると思います。

このように比較して考えると中央と地方、官僚制と分権システム、といったさまざまな政治経済の話題について詳しく語れそうです。

実はヨーロッパには行ったことがない筆者からは以上です。

(平成28年10月31日 月曜日)


2016年10月30日

ボブ・ディラン、ノーベル文学賞「受け入れ」@2016年10月

毎年いろいろと物議をかもす感じもあります「ノーベル文学賞」ですが、2016年は米国のシンガー・ソングライターであるボブ・ディラン(Bob Dylan)氏(75)に授与されることが「発表」されました。

しかしながら、「発表」を受けたディラン氏側からの反応はずっと無いという状態が続いていました。

ディラン氏は2016年10月13日に音楽家としては初となるノーベル文学賞の受賞決定が発表されましたが、同賞の選考委員会であるスウェーデン・アカデミー(Swedish Academy)は、ディラン氏とまだ連絡がついていないことを明かしました。

ノーベル賞を、「辞退」すらせず「無視」となれば、それはロックを標榜するボブ・ディランらしいそりゃもう最高の態度だと好意的に見る向きもあれば、

無視は失礼だ、何にせよ反応するのが礼儀である、電話くらいとれよ、その上で辞退せよといった声までさまざまな意見が世界中で飛び交いました。

その「沈黙の騒動」の最中、ノーベル賞選考委員サイドから、「(賞について何もコメントしない)彼は無礼で失礼だ」といったコメントがなされたといった記事も配信されたようですが、

これについては、もう少し全体の意図を含んで配信した他のメディアにおいては、「無礼で無礼で傲慢だ。でもそれが彼(ボブ・ディラン)ってもんだ」と後に続く文が省略されずにきちんと引用されています。

この点、世間はより「面白く」「センセーショナルな」ものを「消費」したがるので、オリジナルのスウェーデン語を英語に訳して日本語にさらに訳すという作業の中で、いろいろと段階の中で面白いことだけが切り取られていったという可能性が強くあります。

さてようやくボブ・ディラン本人の声として、受賞を受け入れるというコメントがなされたということで、本件については、本人がそう思うのならそれが最も良いと考え筆を置きたいと思います。

家庭の平和も守れない筆者からは以上です。

(平成28年10月30日 日曜日)

家庭の平和を守ります

2016年10月29日

院卒は食っていけないのか?

学業に一区切りつけて企業へ就職するに際し、大学学部卒を超える学歴は武器となるどころかむしろ邪魔な存在となりつつあるのかもしれません。

その同じ時間を企業の新人教育と実務に充てる企業側としては、いくら高度な専門知識を身につけているといっても特に文系大学院などは趣味の延長かという声も正直あるようです。

経済界の新卒採用らの視線は冷たいです。

名だたる大学院を出たとしても実社会の経験がないところを敬遠され、企業では使いにくいとされてしまうようです。

良くても非正規雇用やアルバイト、そうでなければ無職となってしまうポスドクといわれる者たちが続々と生まれています。

大学院重点化は文部省の音頭で始まりました。

折しもバブル崩壊後の就職難と相まって、学部卒の学生をそのまま大学院にうまく誘導することはそんなに難しいことではなかったようです。

21世紀には修士博士の政治経済界での必要性は飛躍的に高まるとの期待のもと、統計で1991年に10万人だった修士・博士は2011年には約26万人まで増加しました(文部科学省:平成23年度「学校基本調査」より)。

しかし出口としての就職を遅らせただけである面も否めません。

そんな状況を評して「高学歴ワーキングプア (フリーター生産工場)としての大学院 (光文社新書:水月昭道著)」という本まで出ています。

大学を出たけれどとは昭和初期の恐慌時の言葉ですが、平成の今では大学院は出たけれどということになっているのかもしれません。

自らが多くの学費をかけてもらっていながら、自らは家族どころか自分自身を養えないという悲しい状態です。

この状況自体が大学院卒の人たちの精神を蝕むであろうことは想像に難くありません。

多くは真面目な人たちなのです。

大学院を出て博士号を取っても、非常勤講師だけではとても充分な収入とは言えず、帝大卒ならばそのへんの家庭教師のバイトや塾講師のほうが儲かってしまいます。

生活費に加え資料代や研究費などの経費も原則自己負担ですから、追加でアルバイトに精を出すしかありません。

新司法試験制度と同様、大学院卒の修士博士の就職先として「出口」となるべき経済界の理解が全く得られませんでした。

経済界からすれば、一人前の新人というのは22歳の大学学部卒というのがベストで標準で、大学院修士のプラス2年が新卒としては限界で、中には一浪一留した学部卒と同じ待遇というところもあるくらいなのです。

新卒一括採用、年功序列賃金を温存する企業にとって、学部卒と同じく就労経験はないのに、年齢は上なので高い給与を払わなければならない存在である修士・博士の採用は残念ながら敬遠されます。

なんと安田講堂がある大学ですら、大学院博士課程修了者の就職率は現在でも半数強との状況です。

そして、大学に残るにしても博士が大学教員として正規雇用されるかは、研究実績よりもポストに空きがあるかどうかという要素が強いです。

強いというより最早それのみといっても過言ではありません。

大学院生を増やしても、上の世代がポストを空けなければ行き場はありません。

また、カタカナユニークキラキラ学部への相次ぐ衣替えに象徴されるように、大学側が教科ごとに正規教員を抱える余裕をなくしていっており、その流れから都合のよい非常勤講師を増やしていく傾向も状況悪化に拍車をかけています。

そうして大学教員の派遣社員・契約社員化も進んでいます。法科大学院の惨状と同じく、国の音頭に乗ってよいことはあまりないということの証左なのかもしれません。

ノーベル賞が続出しているこの国の、研究基盤の裾野の整備が必要です。

今日は少し真面目な話をいたしました。

将来を悲観したのか大学院博士課程在学中に自ら命を絶った学友を持つ筆者からは以上です。

(平成28年10月29日 土曜日)


2016年10月28日

これからは増税が避けられない

2013年新政権となった安倍政権は、当時では考えうる限りの重厚な内閣布陣を敷いて、野党3年3ヶ月の間暖めた景気浮揚対策を発動すると期待されてきました。

景気対策のために、公共事業を打つといいます。

さっそく、日銀の政策を転換させ通貨の番人である日本銀行の役割をも変容させ大量の事実上の通貨を発行させ円安を実現してきました。

金融緩和策で一定の政策成果が得られたわけです。

円安とは日本の通貨に対する信認が揺らいだということなのですが、それでも行き過ぎた円高で輸出企業は青息吐息という経済界の悲鳴に対する政治の一つの答えを出した形です。

円は一ドル90円後半近辺でしばらく推移しました。

しかし、中長期的には同時進行で、景気対策や国土強靭化というふれ込みの公共事業系予算が増え続けています。

その行き着くところは財政破綻かそれを避けるための「さらなる増税」しかないのです。

民主党政権下で国民があれだけアレルギーを起こした消費税増税など序の口の大増税が待っていると言えましょう。

戦後の日本が急成長したのは、日米安保によってアメリカの武威に守られ、軍事費を抑えることができたことが大きな要因です。


この国の高齢化する1億人超を養うには、軍事と公共事業という二兎を追う力などはなかったのです。

そして人口減の現在はさらにその傾向が顕著になってきています。

20年続くデフレ不況下、税収は上がらず減り続け、公共事業を増やす予算は国債発行に頼らざるを得ません。


同時に軍事費を積み増す余裕は本当はどこにもないはずなのです。

しかし、安倍首相の視線の先にある目指す美しい日本という社会は、アメリカと日本を疲弊させてきた軍事と公共事業の予算の両方を増やす大きな政府で
しか実現できない社会だと考えられます。

国民の声なき声には、むしろこれ以上の金融緩和や財政出動はマイナスの影響ばかり、このまま当面は「何もしないでほしい」と望んでいるというものも多いと思います。

この点が、2006年に発足し、7割の積極的支持を得ていた第1次安倍内閣とは対照的な結果でありましょう。

「何もしないでほしい」というのは、総選挙後、期待感のみで株価が上昇してしまっているからであり、ここで具体的な対策が打ち出されればそれだけでさらに期待しすぎる向きの失望を買ってしまうことと、財政再建派の批判が激しくなるその両方の板挟みになってしまうということを国民の多くは実は気づいてしまっているということなのです。

「アベノミクス」と称する更なる金融緩和や大規模な公共投資などのデフレ対策を提起していますが、今後具体的な数値を伴う政策を打ち出すより、よく分からないけれど何となくうまくやってくれそうだという、ぼんやりとした期待感を保ち続けたほうが当面の景気対策として有効なのかもしれません。

今後の経済運営は、非常に高いハードルを課されています。

事実、インフレ目標としていた物価上昇目標年2%水準の「達成」は、なんとそれを提唱した黒田日銀総裁の任期が切れる後に、「後ろ倒し」されたというのです。

これは、「期待された効果がなかった」ことを言い換えただけではないでしょうか。

その間、際限なき財政出動とセットで日本の借金はまた更に増えてしまいました。

少子高齢化という抗うことのできない社会構造の変化に、そろそろ昭和以前の拡大志向からの脱却も必要だと感じてなりません。

選挙は好きですが政策には疎い筆者からは以上です。

(2016年10月28日 金曜日)


2016年10月27日

サンク・コスト(埋没費用)の考え方

覆水盆に返らず。

後悔先に立たず。

という日本語の似たことわざがありますが、サンク・コスト(埋没費用)という言葉があります。

それまでの損失や、こんなに頑張ったのに、と思う気持ちが将来の見る目を曇らせ、更に闇雲な勝負に打って出てしまうことを戒める際などに使われます。

サンク・コストは既に費消されてしまって跡形もなくなった文字通り「消えたコスト」であり、それは将来の投資の判断基準にはなりえません。

すでにその部分の勝負はついているのです。

しかしながら、往々にして人はこの峻別がつきません。

時には「こんなに投資してきたのにここで撤退するのは男がすたる」だの、「先人の努力を鑑みれば、ここで撤退することはありえない」だのといった浪花節で勝ち目のない投資をいかに続けてきたか本当に反省しないといけないということです。

先人たちの努力も、ここまでこんなに投資してきた、という事実も、全て成果が出ている・出ていないに関わらず埋没費用なのです。

将来の投資の成否はあくまで「今から」の可能性がどうかということをベースに考えられるべきなのです。

こうした、感情や過去の経験に類し、投資家を陥れる要因は数多く存在します。

小さな損失を許容できない気持ち、勝率100%を目指してしまう気持ち、懐疑心の欠如、準備不足、統計的戦略の欠如、数え上げれば切りがありません。

それらの要因を、私たちは「負けたとき」にはじめて痛感するのです。

しかし、多くの場合、痛感しただけでおしまいであり、時が経つにつれ痛みを忘れ、いずれまた同じ過ちを繰り返しがちです。

サンク・コストだと割り切る心と過去の失敗から学ぶ姿勢、そして、実はあと少し頑張れば鉱脈にたどり着くかもしれないという事実認識、それらたくさんの要因のバランスが大切です。

だから人生は面白いといえます。

順調に失敗を重ねて人生を面白がっている筆者からは以上です。

(平成28年10月27日 木曜日)

投資は果実

2016年10月26日

学び続ける(豊かさはポケットにはない)

2012年に格好いい大学卒業生が誕生しました。

アメリカ東北部の世界屈指の名門私大(アイビー・リーグ)で鳴らすコロンビア大学(ニューヨーク)で、難民として米国に渡り19年間にわたり構内の清掃員として仕事を務めてきた方が、大学職員に適用される授業料免除の制度を利用し、全くわからなかった英語を学びながら授業に出席し単位を積み重ね、このたび古代ラテン語とギリシャ語などの古典学の学士号を優秀な成績で取得したということです。

彼は、卒業式後に集まった報道陣に対し、自身の研究対象でもある古代ローマの有名な政治家兼詩人、ルキウス・セネカの手紙を引用して富や名声を求めすぎればシンプルで誠実で尊敬される人生は送れないと語り、豊かさとはポケットの中ではなく心の中にあると言い残しあっさり清掃業務に戻っていったということです。


コロンビア大学では職員に対しては無料の講座を開いています。

この学生(ガッツさん)はまず英語の講座を受講し準備しました。

そして、2001年に一般課程に入学し、古典文学を学び始めたそうです。

午前中は大学で講義を受け、午後は構内の清掃にあてます。

23時に仕事が終わった後は自習して翌日の講義に備えます。

そんな生活を12年間続け、2012年の春、ついに単位を全て取得し卒業及び学位の取得が認められたわけです。

学び続けるということを考えさせられる話でした。


お金や物は奪うことができても知識は誰にも奪われないということなのかもしれません。

私の家の近くの小学校にはもはやめずらしくなっているかもしれませんが二宮金次郎の薪を背負った読書像があります。


このような古くて新しい精神は大事にしたいと思いました。

学ぶことがあまりに多い筆者からは以上です。

(平成28年10月26日 水曜日)


2016年10月25日

脳の老化を防ぐという健康法

まわりの景色が変わらなくても、それを解釈する脳の方が老いてしまえば見え方は変わってきます。

脳が老けるとはどういうことでしょうか。

特に最近の記憶減退が激しく、昨日の昼ごはんも思い出せないようになったならば、あなたも立派な脳の老化組です。


年齢を重ねるとともに物忘れが多くなったり、アイデアが浮かばなくなったりして行きます。

もちろん加齢のせいもありますが、どうもその劣化が激しいと心配になっていることはありませんでしょうか。

特に仕事を責任をもって進めなければならない30代40代50代60代のサラリーマンや自営業者のみなさんにとっては他人事では済まされない話です。

脳と体は密接につながっています。

脳も身体の一部ですから当然ですが、仕事をばりばりこなしつづけるために生活習慣の見直しを行なってみては如何でしょうか。

脳を老けさせる習慣をストップして、イキイキした脳とカラダを取り戻しましょう。

まず第一に一番良くないのが、夜の21時以降に食事を取ることです。

これは肥満防止にも大敵で、良い睡眠を妨げる一番よくない要因です。


確かに、夜中のラーメンやビールなど、ついつい口に運んでしまうものですが、21時以降は脳や体が休息を欲する時間なのです。

食べることによって、脳を始めとする内臓がひっきりなしに働くことになり、良質な睡眠休息を妨げます。

胃腸に消化しろと命ずるのも脳なのです。

ですから、ほぼ確実に脳を始めとする内蔵は休むことができずに朝にはげっそり、そして朝食も満足に取れずに体は寝たままで出社してまた夜にドカ食いするという、メタボ一直線の生活習慣となってしまいます。


これでは胃も肝臓も、もちろん脳も50歳まで持ちません。

それから、悪口を言うのもやめたほうがよいようです。


悪口は、否定的な言葉でそれを発した時にそれを最も聞くのは残念ながら自分の耳と脳です

そして、ネガティブな言葉は知らず知らずのうちに、前向きな気持ちを減退させます。それはとりもなおさず神経系を司る脳の働きに影響するのです。

脳を新鮮に保ちたいのならば、ループになりやすい怒りモードを抑えて、普段とは違う思考回路で物事を前向きに考えるようにとらえてみては如何でしょうか。


このような結果、肥満などの生活習慣病の防止にもつながり、余計な脂肪やストレスが脳にかからなくなることから、脳は健康に毎日を過ごすことができるでしょう。


さあ今晩、今日からチャレンジです。


どうしても夜中にラーメンが食べたくなってしまったら、一旦寝て早起きして食べるようにすればよいのです。

頑張りましょう。

夜中にカップラーメンとポテトチップスという黄金のコンビを食しながら、このような記事を書いた罪深い筆者からは以上です。

(2016年10月25日 火曜日未明)



2016年10月24日

昭和の地方出身者の長期的移動様式を考察する

東京から見れば、皆地方出身者という一つのカテゴリーに収まってしまうのではないか思われる大学・大学院・就職における地方出身者ですが、少なくともこれまでの昭和から平成の初期にかけては、大きく東京以北の東北地方(北海道・上越地方含む)とそれ以外の中部圏・中国圏・四国圏・九州沖縄圏に分けられると考えています。

それはなぜでしょうか。


東北地方出身者の場合、仕事や就職先で外へ出るときにその意識の向かう先は自動的に東京圏一択になるのです。

全体のかなりの部分が東京圏へ向かいます。

特に仕事の場合は、東京圏より先の愛知や関西ましてや広島や九州沖縄になど行く必要がありません。

一般的に東京圏で「すべて」揃うのですから。

この「東京圏へ移動することが極めて多い」というのが重要です。


職がないとか希望する学部を擁している大学が近くにないとか、気分を変えたいとか、とにかく居所を移動せざるをえないときに「東京」へ出ることが当たり前なのです。

都会といったら東京。

例えば九州出身者が新幹線のぞみを乗り継いで、神戸に降りるか大阪に降りるか京都か名古屋か静岡か横浜か、と悩む必要はないわけです。

杜の都仙台から、一気に東京になります。

移動する当人だけでなく親や高校の教師も地域社会もこぞっても東京へ行くものだと若者たちに指し示します。

花の都大東京と歌った元フォークソング歌手は鹿児島出身でしたから、若干の選択の幅があったのかもしれません。

1,300年の都奈良京都でもよかったはずなのです。

人間にとって自由に意思決定ができることは良いことでもある反面、辛いことでもあります。


ですが「東京へ出るのが当たり前」という状況では実は不安もたいへん小さくなります。

現実にまわりの友人も東京へ行きますから、ひとりで行ったつもりでも、いつの間にか周りにに地元の人がいるわけです。

特に戦後、高度経済成長期の頃からは一貫して東京へ人が流れていますから親族や親類がいることも多いのです。


東京で結婚することへの抵抗も非常に少なくなります。

その昔の昭和の高度経済成長期の頃というと、集団就職で上野駅に到着するイメージがあります。

上野駅は東北地方からの終着駅でした。

もちろん東海地方からも沢山きたのでしょうが、実は我々の古い記憶はそこから始まっているのかもしれません。

上野発の夜行列車といえば演歌でなくてもイメージはかなり固まりまして、絶対に津軽海峡に向かわなければなりません。

しかしながら、逆に東京駅から東に下る場合、何処で降りるのかによってイメージが違う、言い換えればわかりにくいと感じます。

東京に定着し残っている人がいてその方々が水先案内人の役割を果たします。

地方は都会と違い、親族関係が密ですから親族同士で助けあうというのが当たり前のように行われています。

たとえば、東京に叔父さんがいる若い子は、東京へ出てしばらくの間は、叔父さんの家に寝泊まりしながら自立していくといった、そういった方法が可能になります。

そして友人も東京にできてきます。


地元にいれば付き合わなかったような同級生であっても、東京でたまたま同じ大学に進学すると仲良くなることは毎年ノーベル文学賞候補になるハルキさんといった日本人作家の作品を読むまでもなくよくあることです。

お互いに故郷を離れて寂しいですから。

また採用する企業側や大学側も、定着率を高めるために例えば毎年新卒を受け入れる際に、「岩森出身者枠」のようなものを非公式にしろ設けるという傾向です。


こうして、たとえば高校生や専門学校卒の学生が学校の斡旋で就職し東京へ出てきます。


そして会社の寮に入ります。

するとその寮には同じ高校出身の先輩が何人もいて最低限の人間関係がつくれます。

いまの若い子にしてみれば若干うっとおしいことであるかもしれませんが、不安を抱えて東京へ出てきて完全に孤立するよりは良いということになります。

ここでは先輩たちとお国言葉で話し、愚痴も言える。お国言葉で話せるか話せないかというのは心の安定にとっても大きな問題です。


そういう寮だとわかっていれば、高校の先生も安心して送り出すことができるのです。

以上このようにそれぞれ個人が自由に進路を選んだとしても、実はある型に収斂していく傾向が地政学的に認められるようです。

我々は生まれた土地文化からなかなか自由になれないようです。

東北地方にはほとんど行ったことがない筆者の勝手な論考は以上です。

(平成28年10月24日 月曜日)

花の都大東京



2016年10月23日

日本人は何処から来て日本国ができたのか

我々は現在自分の国を日本(にっぽん、にほん)もしくは日本国と呼びます。

しかし、またこの国が昔「倭」「倭国」と呼ばれていたことも知っています。

それでは、倭=日本なのでしょうか。

実はそうではないのではないかという説があります。

控えめに申し上げておりますが、筆者の中ではもっと強く別物であると推測しています。

これまでは、倭を和と読み替え、大和としてこれをヤマトと呼ばせて、ヤマト政権に遷移させて日本につなげるという無理やりな解釈をとってきたのですが、そもそも倭を和に読み替えるなどというのが現代人の想像に過ぎず無理があると思います。

日本人が自らを日本人と呼ぶようになるそれ以前は外から何と呼ばれていたのでしょうか。


中国の歴史書には日本と呼ばれる前は倭国と呼ばれていたから、今の日本人の先祖が単純に「倭人」と呼ばれていたと言い切ってよいのでしょうか。

2,000年前の(あくまで地理的な今の)日本列島には倭国があり倭人がいたと中国の史書は記録しています。


そして断続的に中国の歴史書は王朝が変われど日本列島にあった倭国について、その情勢や文化風習や国の状況について記しています。

倭の五王という五人の歴代の王がいて、それぞれ中国の朝廷に王として認められるように朝貢して運動して、最後の5人目の倭王「武」においては、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」なる仰々しい称号を賜った、などという記録が残っています。

しかしながら、我々の直接の先祖である「日本国」の最初の歴史書だと自ら宣言した「古事記」「日本書紀」にはそれらに対応する「倭国」に関する記述がほとんどないのです。

いきなり最初の天地創造から「日本」で始まります。

不自然なのです。

この状況は何を意味しているのでしょうか。

これは冷静に考えればすぐに感覚的に納得できるはずのものだったのに、これまでの1,000年以上経った子孫である我々「日本人」にはできなかったようです。

倭国」は「日本」とは別の国であるということを。

同じ日本列島に存在はしていても。

「古事記」「日本書紀」は確かに日本人によって発案企画され、8世紀初頭に完成したものですが、
中国人による中国正史の「倭国」については後漢の時代から書かれてきたものでずっと古いものです。

古事記」「日本書紀」に書かれた内容や国のあり方が、中国の正史である歴史書に書かれたものと同じであるという証拠など実はないのです。


不思議なことに日本人の多くはその内容の大きな相違(書いた者たちの意図)を斟酌することができず、ここに書かれていることは日本列島内の同じ国や民族のことだとして、何らの違和感も持っていないようです。

もし中国が日本列島の国々について記録していなかったとしたら、日本の歴史は「古事記」「日本書紀」をはじめとしてそこから語られることになったはずです。


つまり、文献資料としての邪馬臺国もなければ卑弥呼も登場しません。

結果、このような論争も起こらずに済んだのかもしれませんが、国としての真実の歴史が闇の中に消えてしまったことになります。


本当に「倭国」から「日本国」に発展した人たちのつながった歴史だったのなら、はたして自らの歴史の一部ををわざわざ闇の中に葬るなど考えられないのです。

意図的に「断絶」させています。

もしくは、倭国の歴史も日本国の歴史に紛れ込ませて(上代にわたって)付け足しているのです。

このように、「倭国」をことさら無視する「日本国」側の事情は何かと考えるに、663年の大事件である、朝鮮半島で起こった白村江(はくすきのえ)の戦いがポイントのようです。

ここに、大海戦及び陸戦が行われ、唐と新羅が勝利し、百済と倭国が負けたのです。

その後、新羅と唐の連合軍の軍隊が、太宰府に進駐し、「筑紫都督府」という機関が設置されていたようなことが、日本書紀にもさらりと記されています。

削除し忘れたのか、適当に匂わせるように残したのか、それとも意図などないのか、それはわかりませんが、とにかく大戦争のあとにさらりと唐や新羅の軍隊が物見遊山に九州の筑紫にやってくることはないでしょう。

そして、その後間も無く唐と新羅で高句麗を共同して滅ぼした後、新羅が唐を朝鮮半島から追い出してしまうことにより、九州についてはまたまた空白地になった、と見る方が自然でしょう。

そして壬申の乱が起こり、近江に成立していた天智天皇の政権を天武天皇が滅ぼす、という日本古代空前の大乱が起こるわけです。

こうした事象を考え、その後の世の701年大宝律令制定、710年平城京遷都、といった時代において編纂された日本書紀の編者の都合で、そのように曖昧に記されたのではないかと睨んでいます。

つまり、倭国と日本国は別の国であると推論する次第です。 

日本人は後にいずこから来てそれまでの倭人を征服なり放逐なりしたのでしょう。その放逐された側の倭人の代表者が卑弥呼の系譜を継ぐ九州倭国の王たちだとしたら?

などと考える歴史の想像は楽しいものです。

現代に通じる歴史の編纂者を任じておりますが非常に荷が重い筆者からは以上です。

(平成28年10月23日 日曜日)

筑紫は国のまぼろば

2016年10月22日

政党交付金というものを詳しく解説します

政党とは、本来そもそも国家権力の担い手である機構としての議会や政府とは独立した私的な集団として、独自の政治活動を行うために自発的に結成されるものであり、同じ政治理念を持つものが集って結党され維持され発展し衰退し(役目を終えれば)消滅すべきものです。

その費用も当然党員自体や機関紙の発行、寄付行為等などで支弁すべきものなのですが、現在の政党交付金は我が国において、企業・労働組合・団体などから政党・政治団体への政治献金を制限する代償として1990年代の政治改革論議において登場し1994年に政党助成法を含む政治改革四法が成立し導入された経緯があります。

助成金の総額は国民1人あたり年間250円で決められる額となっており、年間総額20億円程度が支給される計算になります。

この点、政党助成法において「政党は、政党交付金が国民から徴収された税金その他の貴重な財源で賄われるものであることに特に留意し、その責任を自覚し、その組織及び運営については民主的かつ公正なものとするとともに、国民の信頼にもとることのないように、政党交付金を使用しなければならない」ものとされていますが、こんなものは字面に過ぎず、実際は何に利用しても(領収書等で確認はされるようですが)いいわけです。


こうして、今や5人以上の政党助成法上の「政党」になることが先で、理念や綱領は二の次となり、政党は単なる選挙互助会に堕している感があります。


政党は歴史の審判によって裁かれるべきで、名前をコロコロ変えては有権者も混乱します。


野球やサッカーではないのだから、いつの間にか移籍したり脱党したり無所属から与党に戻ったりのカメレオンではいけません。

政党が嫌いならば完全無所属を貫くべきです。

政党が政党たる所以をなくして政府議会の手先に成り下がったのではないか、政党助成金により骨抜きにされたのではないかと思います。


そもそも国会議員には歳費が払われるのですからそこから所属する政党の活動資金に充てたらよろしいのではないでしょうか。


また講演会活動や政治資金パーティーなどでの寄付も募れます。

わざわざ自らの政治活動資金を当の政府からもらおうなどというのはよろしくないのです。

堂々と国会議員の歳費を増額したらよろしいのではないでしょうか。

この点で主義主張が歴史的に尖りすぎていて敬遠されがちでありながら一定の支持と存在感を見せ続けている某労働系左翼政党は一貫して政党交付金を辞退し続けています。


結党以来90年超という歴史と合わせ、この点についてはあっぱれというべきでしょう。

筋を通すというのは政治の世界に限らず、経済でも投資の世界でも重要な徳目だと感じます。

しんぶん赤旗並みの日刊紙20万部を目指して頑張る、零細日刊ブログメディア主宰の筆者からは以上です(編集者1名)。

(平成28年10月22日)



2016年10月21日

新入社員の皆さんへ社会人として備えておくべき徳目を伝えたいと思います。

こんにちはブログ「ライフワーク」管理人やってます筆者です。

だいぶ涼しくなって来ました。

さて震災から5年半が過ぎ、秋の音色も深まってまいりました。

10月は日本の新年度ではなく、まだまだ新入社員というと4月が恒例ですが、欧米諸国では新学期ということで、秋入社として新人が入ってくる会社もめずらしくなくなってきました。

そのような折、日本最大級の広告会社の新人社員が命を絶つという事案が労災と認定されたというニュースも流れてきました。

いわゆる最高学府を卒業して入ってきた彼女の仕事内容がいったいどれほどの実態であったのか、筆者は知る由もありません。

しかしながら、旧社員である我々は年を取っている分、新人もしくはそれに近い若い社会人のみなさんに何らか伝えておくべきことがあるのかもしれないと思ったのです。

私も初心に返って、私がもし今、新入社員だった自分に贈るならばどんなことだろうかと考えてみました。

私は幸いにも同じようなことをたくさん教えていただけるよき先輩に恵まれましたので、その先輩方の恩に報いることになるかもしれません。

まあ劇画演説調にいけばこのような感じになりましょうか。

「さて皆さん。学生時代、君達が持っていた人間関係は、ほとんど同格同列のものだったはずであります」

「1回生から4回生、大学院生や留年組も含めても、所詮は数年スパンの、つまりは『横の』『お友達の』人間関係です」

「体育会でもサークルでもゼミでも、これは変わらないと思います」

「しかし、これからの実社会での人間関係は違います」

「『上下』関係が入ってくるのです」

「いやむしろほとんどが、斜め上を含む上下関係といっていいかもしれないです」

「1年生の新入社員から、社長のその上の会長相談役特別顧問まで連綿と続きます」

「ざっと1年生から50年生くらいまでが平気でいる不思議な社会なのです」

「ここで大事なことは、上の者は配下をどう掌握できるか、下の者は上司に如何に認められるか、それが大人の『働く』実際の、リアルな社会のありようだと思います」

「新人としてこれを認識できなければ、上司といえばただムカつく奴だと思うだけでドロップアウトしていくしかないです」

「もしくは、こちらのほうが圧倒的に多いが、組織の中に埋没し、無気力にマニュアル通りこなすだけの、管理はできるが勝負はできない所詮二流の人材となってしまいます」

「そうであってはならないし、そうならないためにはどうすべきでしょうか」

「そこで、将来君達が会社や組織をしょって立つ時までに備えておくべき徳目を教えておこうと思います」

「それはたった二つです」

「ひとつ、率直であるということ」

「もうひとつ、気前がいいということです」

「まず、『率直である』、ということは正直である、と置き換えて良いです」

「正直に思うところを述べる、物事は本質を率直に語る。回りくどく煙に巻いたりしません」

「素直に、丁寧に自分も相手も大切にします」

「相手の感情や立場を慮って行動します」

「自分の身を固めて防御せず、オープンな態度を貫きます」

「できるだけ開かれたコミュニケーションを対等に取るといった姿勢です」

「次に『気前がいい』、ということについて述べます」

「もちろん、例えばおごるときなどに金を出し惜しむなということももちろん含まれます」

「しかし、『気前がいい』というのは、とりわけ、後輩や部下に対して、自己を盾にして守ってやるという敢闘精神を持つということだと思います」

「下の成果を横取りしない、手柄は部下につける、責任や失敗の責はこちらで負う、というようなことなのです」

「つまり、この二つを自分の感情と同等に相手の感情も人間として大切にすべき、ということであります」

「その結果、上下関係を示す肩書とはあくまでも対等な人間同士の率直な話し合いの結果、本当にどちらが良いかわからない時、最後に要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎないということがわかるでしょう」

「それを踏まえ、皆さんの社会人としての良きスタートに期待するものです」

・・・いかがでしたでしょうか。

なかなか我ながら気が引き締まりました。

20年目の新人の筆者からは以上です。

(平成28年10月21日 金曜日)


2016年10月20日

レバレッジ効果(てこの原理)を解説します

金融派生商品(FX含む)などでよく使われる「レバレッジ効果」についてご説明致します。

レバレッジとは「てこ」のことで、言い換えると「てこ効果」です。

手元に100万円があったとします。

これで、今1ドル100円の為替レートで全額ドルに交換するとしますと1万ドルとなります。

取引コストは無視します。

ここで、例えば1ドル110円になりますと、円換算で10万円儲けたことになりますし、90円になりますと同様に10万円損したことになります。

さて、ここでこの将来の予測不確実性(ここでいうと将来のドルの価値)についてもっとリスクを取って大きなリターンを狙いたい、という人がいるとします。

すなわち、手持ちは100万円だが、これを全額失っても良いから一気に2倍の利益も狙ってみたい、というようなリスクテーカー、のことです。

現実に、これが可能です。

100万円の手元資金を証拠金、として、900万円の借金をします。

借りるお金はFX会社が比較的低利で用立てます(ここでは無視します)。そして、合計1,000万円になった手元資金でドルを購入します。

1ドル100円ならば、10万ドルのドルが手元にある、ということになります。

さてこのまま、1ドル110円になってくれれば、1,100万円になりますから、そこで円転して、借金の900万円を返済すれば、あらら200万円が手元に残って倍になった、ということです。

しかしながら、逆に1ドル90円になってしまえば、900万円となり、そこで円に戻して借金を変換すれば、あれれ100万円はなくなってしまった、ということなのです。

FXは、原資産をFX会社のルールでのレバレッジ効果を利用した金融派生商品、と覚えておきましょう。

リターンの可能性も倍になれば、リスクの量も倍になるのです。

私ですか?もし確実に円高円安がわかればよいのですが…。

約半分の確率で当たったり当たらなかったりする筆者からは以上です。

(平成28年10月20日 木曜日)



2016年10月19日

政党の役目は終わったのかもしれないと思う所以(ゆえん)

2012年冬や2014年冬にありました我が国最大の国政選挙である衆議院議員選挙で各政党が準備運動から集合離散を繰り返したことが思い起こされます。

そもそも政党の役割はもうこの現代においては終わったのかもしれません。

すでに地方選挙においては特定の政党に所属せず推薦とか支持といったゆるい支援を受ける無所属で立候補するのが当選への鉄板の戦略になっています。

また選挙戦は無所属で活動しながら当選後にどこかの政党や会派に所属して存在感を出すといった動きです。

すでに特定の政党というものに所属するメリットが薄れてきた、言い換えれば有権者が大人になってきたともいえるのではないのでしょうか。


ヒトラーの時代を紐解くまでもなく、今の日本も昔のヨーロッパもアメリカも時の「風を受けた」政党が大勝する事例が多くありました。

ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は最も良い例で、ごく少数支持の尖った右翼政党だったのが一気に議会の第一党になってしまう例もありましたし、現代の日本でも郵政解散後の自民党や政権交代選挙後の民主党などの事例もあり枚挙にいとまはありません。

ナチスの時のドイツ国会は、ヒトラーによって瞬時に永久解散されてしまうので第一党という意味も特にありませんでした。

さて特定の政党ではなく有権者が候補者一人ひとりの能力や政策を見て投票するようになったとすれば、これは議会制民主主義という制度が浸透してきた歴史の進歩であり候補者も自らの選挙区の有権者へのアピールこそ最も大事だと気付いてきたということになるのかもしれません。

なにしろこれからの日本における政権与党は流動的な可能性があるのです。

とりあえず政治家やるなら永久与党の自民党で下積みを積めばじきに大臣まで用意されているという時代ではないのです。

ですのでこれからは、候補者の行動は大きく二つにわかれます。


一つめはひたすら旬な新しい政党に乗り換え続ける(日本新党という党もありました)こと、二つめは政党はあきらめて無所属で活動し選挙区の候補者に自らを訴え続けることです。

後者のほうが有権者としてはありがたいかもしれません。

そのような候補者が自らの価値観で選挙を勝ち上がり、党議拘束から真に自由な国会議員として活動することがこれからの日本の舵取りに必要なのではないでしょうか。

こう述べてきたことの結論として、今や、政党交付金で生きている既存政党は早晩解体される存在なのかもしれません。


幹事長、総裁、代表、代表代行に委員長と役職のネーミングも古いです。

政党交付金は議員個人に支給すれば宜しいでしょう。

もちろん議員間の会派という自主的な連帯は残るかもしれませんが、あくまで議員個人の資質が一層試される時代が来るような気がするのです。

ほっとけば政治ネタとスポーツネタばかりになってしまいます、正しい中年男子の筆者からは以上です。

(平成28年10月19日 火曜日)


2016年10月18日

持続可能な年金制度を考える(4回シリーズ第4回:最終回)

持続可能な年金制度を考えるシリーズも今回で一旦終了します。

さて、世界人口のかなりを占める日本はいうに及ばず中国も完全に減り始めました。

あとは最後の「古き良き人口ボーナスの巨大国家」イ ンドがどこまで持ちこたえるかです。

しかし2075年くらいになると趨勢が見えてくるでしょう。

筆者はそこまで生きているかかなり微妙ですが(筆者は1974年生まれですので、100歳を超えて生きなければなりません)、人類全体として人口オーナス、黄昏に入るという新境地、そしてその時代を生きる人類がどのような選択を取っていくかを見てみたいと強く思います。

できれば、自分個人としては 後の世代の負担にならないようにしたいものです。

自ら動き、話し、できればなんらか発信することで「稼げる」「健康な」状態でいることが大切です。

数十万年前から数十年後の世界に一気に妄想をはせましたが、とりあえず足元今進んでいる社会保障と税の一体改革で何を目指すのか、政府の真の狙いを注視する必要がありそうです。

未来に責任を持つというのは結構大変なことですが、人類史上初めての人口減少社会に向けて、挑戦し甲斐があると前向きに考えて、このシリーズを終わります。

ちなみに本日をもって、当職42歳になりました。

100歳まで現役で、それから悠々自適に行こうと考えております筆者からは以上です。

バックナンバーはこちらです。

(第1回)
http://birumenking.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9101.html

(第2回)
http://birumenking.blogspot.jp/2016/10/42.html

(第3回)
http://birumenking.blogspot.jp/2016/10/43.html

(平成28年10月18日 火曜日)



2016年10月17日

持続可能な年金制度を考える(4回シリーズ第3回)

話を広げて、さらに恐ろしい実態があります。

隣のまさに日の出の経済発展のはずの中国の話です。

長期的視点で見て、一番悪い知らせが日本と同様の人口動態問題なのです。

30年間続けてきた一人っ子政策の結果、実は2012年末に労働人口は▲0.1%となっているのです。

すなわち、労働人口比率の増加は成長を 自動的に後押しする効果がある(人口ボーナス)けれども、逆に、労働人口比率の低下は自動的に成長を押し下げる効果がある(人口オーナス)となるわけです。

日本は1950年から90年代にかけて息の長い人口ボーナス状態にあり、それが世界から奇跡の経済成長と称賛された面があるのですが、実は成長の「前借り」によるところも大きく、今の現役世代の我々はその後に控える副作用である長い返済の時をこれから生きるわけですが、実は中国の少子高齢化のほうが怒涛の勢いで迫ってきているのです。

こうして、人類が現代種「ホモ・サピエンス」としてアフリカの片隅で20万年前に 出現してから、出アフリカののちヨーロッパでネアンデルタール人との壮絶な生存競争を勝ち抜き(その結果数%は混血し)、世界中に拡散し農耕を始めて文明を作り文字とお金を発明して歴史を残しながら現代に至るまで、一貫して人口は増えてきたわけですが、おそらく、今世紀の末には「人口が減る」世界に突入することになります。

高度に先進化・専門化した文明社会においては、子供の教育期間の長期化とそこにかかるコストの大きさが少子化を招き、人類全体として そのような新しいステージを迎えるのです。

人類は例えば中世ヨーロッパでペストの流行による一時的な人口減少は経験しています。

日本における天明の大飢饉などもそうでしょうし中国三国志時代の戦乱の長期化による人口減少も然りです。

しかし出生率の低下による「長期的な」人口減少は、人類初めての経験になるのです。

そんな文明の絶頂にありながら黄昏の時代を、今のわたしたちは生きております。

日がな黄昏時からずっと飲んでる筆者からは以上です。

(2016年10月17日 月曜日)


2016年10月16日

持続可能な年金制度を考える(4回シリーズ第2回)

年金財政の前提となる人口構成について引き続き述べてみます。

さて大きなレベルで、国家としても同じことが言えます。

人口ボーナス状態で経済成長を40年にわたり続けてきた日本は、年金制度としても世代間の助け合いという触れ込みで、いつしか年金は現役世代(自分の子や孫の世代)から捧げられるものという間違った概念が蔓延してしまいました。

状況はさらに悪いことに、自分の年金を自分の子からいただくという以上に、自分の年金を「他人の子」から補填してもらうという状況になってきています。

出生率が2.0を下回る状況がずっと続くわけですから考えてみれば当たり前の状況です。

現在、年金制度の改革が叫ばれておりますが、この本来的な「自分で積み立てて、自分で使う」というところを外してはなりません。

少々難しい言葉で繰り返して説明しますが以下頑張ってついてきてください。

年金の財政方式としては、「積立(つみたて)方式」と「賦課(ふか)方式」があります。「積立方式」は、若い現役時代に納付した保険料を積み立て運用益も加えた額を老後に年金として給付する仕組みです。

私的年金の場合には各個人ごとに収支が均衡化するように保険料と年金額が設定されますが、公的年金の場合には、ある年齢階層 (あるいは数年間の年齢階層)で収支が均衡するように制度設計がなされます。

これに対して「賦課方式」は、現在働いている現役の人から保険料を徴収し、現在の高齢者に年金を給付する仕組みです。

各年度(あるいは数年間、収支均衡させるならば非常に長い期間、例えば100年といった均衡期間が設定される場合もあります)で収支が均衡するように制度設計がなされます。

どちらが公平 でわかりやすいか、それは「積立方式」に決まっています。

そして、年金が積立方式で運用されているか限り、相対的高齢化(年齢階層別人口規模の相対的変化)は、年金財政に直接の影響は及ぼさないのです。

自分のことは自分でする、という至極当たり前の論理がそこにあります。

しかし、現実の年金財政運用はそうなってはいません。

そこに乖離があるのです。

次回は翌日に回します。

(2016年10月16日 日曜日)


2016年10月15日

持続可能な年金制度を考える(4回シリーズ第1回)

今日のテーマは年金です。折しも、5年ごとの国勢調査をもとに総務省が最近発表した、最新の将来人口推計によると、2075年には日本の人口は8,000万人を切って1人のお年寄りを1人の現役世代が支えるいわゆるおんぶ型になるということになっています。

いわく、30年前は、10人で1人のお年寄りを支えた「胴上げ型」

いわく、現在は、3人で1人のお年寄りを支えた「騎馬戦型」

いわく、30年後は、1人で1人にお年寄りを支える「おんぶ型」

こうして、現役世代の負担が増えつづけるという論調でどの新聞もテレビもそのような騎馬戦の図や絵を示してしたり顔なわけなのですが、ここで根本的な論理のすり替えが行われていることをこれから述べようと思います。

まず、年金とは何でしょうか。基本は、「自らの老後のために、自らが現役世代のうちに積み立てておいた貨幣価値の払い戻し」であります。

これが根本原則です。

しかし世代間の助け合いなる曖昧な都合のよい論理によって、なぜか年金は若い世代が老後の世代を支えるものという概念のすり替えが戦後ずっと行われてきたのです。

これは、戦後の日本の復興、戦争という強烈な体験をした親世代を、それまでの儒教概念的な孝行の概念から敬い、支えないといけないという「古き良き」家父長制度、文化が生み出した修辞、レトリックであると思います。

自分のことは自分でするというのが正しい姿なのではないのでしょうか。

当たり前ですが、人口ピラミッドが「人口ボーナス(上の世代に比して下の世代が相対的に多くピラミッド型の人口構成にあること)」の状況にある組織はそれはバリバリ元気です。

社長が20台後半、全ての社員が社長より年下、新卒が一番多いといった会社がまさに青竹のように伸びるのはある意味理の当然、それは能力が云々という前に、 下の世代が上の世代より多い、加えて最も上の世代の絶対年齢も若い、という特異かつ優位な状況に支えられているからです。

ですが、勢いに 乗って成長したベンチャー企業の社長がいつしか30代になり40代になり50、60となっていくにつれて、一緒にやってきた社員や中途で入ってくる社員の年齢構成も上に伸びていき、世代間の隊列が長くなり、均一化し、創業社長が会長、相談役、特別顧問・・となり、粘るけどついに引退して次世代の経営に本当にバトンタッチして取り巻きの第一世代が身を引く、という長い長いワンサイクルを経ないと、真の意味で企業を「ひと世代存続させた」ということにはなりません。

そういう意味で、ソフト銀行もユニバーサルクロックもまだまだ半人前です。

上場して有名になって派手に売り上げ伸ばして海外進出しても、100年以上続く老舗企業とはここでいうワンサイクルを経ていないという一点においてまだ青いからです。

一旦社長を退いたのに、 なぜか後継者であった社長を解任して自ら会長兼社長兼CEOという肩書で復権する方もいらっしゃいます。

今回は全4回シリーズに分けてお送りします。

第2回は翌日アップの予定です。

CEOをチーフエグゼクティブオフィサーと最近まで読めなかった筆者からは以上です。

(平成28年10月15日 土曜日)


2016年10月14日

「シェアオフィス」というトレンドについて熱く語ってみる

おはようございます。

ライフワークを主催しております筆者です。

ワークライフバランスを追求する世の中の動きと連動して、ひところ「ワークシェアリング」という言葉が流行ったことがありました。

この「ワークシェアリング」というのは、バブル崩壊後ずっと続く不況、生産過剰、消費不況、販売不振、設備過剰に人員過剰、債務も過剰といった構造的な不況の原因であり結果を取り除くための一つの方策として提唱された面があります。

すなわち、売上不振や収支不調をカバーするためには、固定費、ありていに言えば人件費を削らなければなりませんが、組織内の不協和音がいや増す出向による雇用調整やリストラや解雇、希望退職ではなく、勤労者同士で雇用(仕事)を分け合うことにして急場をしのぎ、さらに社員教育を行い組織メンバーの生産性をこの不況時に上げておこうというやり方です。

最も典型的なのは各々の労働時間を短くして、それぞれが時短による減給を受け入れるが、リストラによる離職者を出さない、というものです。

また、誰もがどの仕事もできるように、ローテーションを活発化したり、教えあう時間や機会を増やして実質的なOJTの場を増やして好況時に思い切り収益を伸ばせるように備えておくという攻めの姿勢を指すこともあります。

しかしながら、少子高齢化社会に本格的に突入した我が国においては、人員過剰という言葉はとうの昔の話として遠く去り、反対に、外食や販売、介護医療、建設といった業界では深刻な人手不足の状況が続く状況になりました。

人手不足で失業率も低いのに、なかなか経済が好転しない(GDPが上昇しない)というのは、これらの産業分野がおおむね労働集約的なサービス産業であり、付加価値率が低いといったところに原因を求める向きもありますが、筆者は少し違った見方をしています。

それは、日本に色濃く残る、サービスに対する対価を求めにくいという文化に根差したものではないかと考えているのです。

要した費用や労力に対する対価など求めない、見返りを超越した精神文化が津々浦々まで浸透しており、「目の飛び出るような」サービス対価を求める、いわば例えばブラックジャックのような専門家(エキスパート)が生きにくいのではないかということです。

さて前段がいつもながら長くなりましたが、今回はそんなワーキングシェアを凌ぐ概念と筆者が個人的に期待している、シェアオフィスという考え方を紹介したいと思います。

まだ世界的にも確立された概念ではないですが、「仕事」や「業務」を行う場としてオフィスを考えた場合、現在はすでに組織を超えたメンバーでプロジェクトを組んで行うことが多くなっていると思います。

こうしたチームで動く場合、そのチームメンバーで打ち合わせたり意見交換をしたり検討討議したり分担して資料作成を行ったりすると思うのですが、さてそのような作業をどこで行うかというと、最もそのチームの主要な構成員が所属する会社や組織の「会議室」や「打ち合わせルーム」であることがほとんどだったと思うわけです。

もしくは、そのような専用の会議室が持てないチームであれば、街なかのスタバやオープンカフェでを打ち合わせ場所(雑誌の編集やデザインの打ち合わせなど)に使っているのではないでしょうか。

また、個人事業主として一人で事業を始めたばかりのような人は、専用のオフィススペースを持つだけの手持ちの収入がまだありませんから、自宅を兼オフィスにしたり、それでは集中できないのでこれまた街なかのカフェに籠ってPC手にして作業をするということになっております。

筆者の自宅近くの大濠公園のスターバックスや、赤坂(東京の港区赤坂ではありません、福岡にも赤坂という地名があります)のスタバやタリーズといった洒落たカフェのソファや椅子スペースは、このような事業者や営業職らしきサラリーマンで埋め尽くされております。

彼らはネットで遊んでいるのでしょうか?・・。

否、筆者がそういった近くの人を観察したり話しかけたりした限りでは、全員「仕事」「作業」「勉強」「打ち合わせ」をしておりました。

一人で没頭する作業であれば、このようなカフェスペースの利用で用途は満たせます。

しかしながら、チームで行う「仕事」の場合、どうしても他者とのコミュニケーションが必要になるのです。

確かに、PCオンラインやスマホでのチャット(文字情報)でのやり取りで代替できる部分も多いと思います。

しかし、残念ながらダイナミックに物事を創造していくには、打ち合わせや少なくとも電話や双方向画像転送等によるコミュニケーションがどうしても必要です。

人は、言語情報だけでコミュニケーションしているわけではないからです。

したがって、ある程度「企業秘密の」会議を、外から遮断された環境の中で行っていく「場」がどうしても、チームビルディングには必要になるのです。

こうして、多様な事業者やメンバーが個々の意思に於いて集い、一人の場合は作業し、必要な仲間を集めて「打ち合わせ」「討議」することもでき、外部の連絡者や交渉相手と音が漏れないブースの中で電話連絡もできるという、「シェアオフィス」という考え方が生まれてきたのです。

これは、オフィスの床を坪あたり何円で借りますという不動産賃貸借契約で事務所を構えるのではありません。

まず、かなり大規模なスペースを、シェアオフィス&コワーキングルームとして大家が作り込みます。

この中を自由に使える「会員」を月額料金で募集するわけです。

賃貸借契約ではありません。

シェアオフィスの利用契約となります。

「会員」は原則個人資格でこのシェアオフィスに自由に出入りします。

そして、このシェアオフィス内で普段は自分の作業をやりながら、時にはメンバー間をつなぐ閉じたSNS(ソーシャルネットワーク)で自由に事業のアイデアや協力業者の募集を行うのです。

事業や仕事のアイデアを、会員組織の中で回してあたかも一つの会社、事業体として付加価値生産する、もちろん外部と連携する場合も、専用外部用ルームを利用することで打ち合わせも容易にできます。

いちいち、外部の打ち合わせや社内の打ち合わせで会議室に移動したり、近くのスタバやタリーズに出かけて行って席を取る必要はありません。

コーヒーも飲み放題です。

個人で歩合制の契約や商品販売を行っているような訪問販売系の従業者、個人事業者、といった方には特に使い勝手が良いのではないでしょうか。

例えば営業職の人の場合ですが、外出訪問中に何かと作業したり連絡を取ったりするためにスタバやマックを利用しますが、だいたいそんなところで営業日あたり500円×2回使えば、月額2万円がコーヒーショップを介した場所代として使われているということになります。

この同じ値段で、このような専用オフィス、コワーキングスペースを利用できるのであれば、これは一考の余地があるのではないでしょうか。

以上、働き方を劇的にしなやかな方向に変えてくれそうな画期的なサービスの可能性の話でした。

ちなみに筆者の活動範囲の近くにも、このようなシェアオフィスが誕生するそうです。

一度見てみようと思います。

コーヒーよりも紅茶が、紅茶よりも緑茶が実は好きな日本人の筆者からは以上です。

(平成28年10月14日 金曜日)

The Company (2016/12 Open予定)












シェアオフィス



2016年10月13日

「一票の格差」と「地域代表制度」のバランス

日本全国、地域の声を広く募らなければならないという流れを強化する方向で働くのが一票の格差と投票率です。

ただでさえ、衆議院議員選挙で最大2.5倍、参議院選挙では5倍くらいの一票の格差があり ます。

すなわち、田舎の人は都会の人3人分の選挙権がある、という現実があるのです。

加えて投票率は高いときています。都会の無党派層は、知名度が高い候補が出ないとそもそも選挙にすら行かないのではないでしょうか。

さらに参議院選挙は各都道府県の地域代表という色を濃くしており、さらに広範な格差も許されると法の番人の最高裁判所も少し前まで言っていました。

しかし 純粋に考えればこれはおかしいことです。

憲法で保障された選挙権の平等に反するわけです。

国民の選挙権は平等なのですから、選挙の実務上仕方ないという「格差」などというものは、どう見ても2倍以下にしなければならないのではというのが憲法学会の通説です。

2倍を越えれば複数選挙権を事実上認めることになるということですが、これもなんとかひねり出した限界という程度のもので、本来ならば限りなく1倍に近づけなければならないのです。

しかしながら、全国を1選挙区にしてしまわない限り、選挙区というものを作る以上必ず格差は生じるので難しいのです。

実際、人口流入や流出や少子高齢化や都市化や過疎化によって、適切に区割りがなされていない、そういった現状を追認助長する風潮があるわけです。

地域の美名の下に。

もし逆に都会のほうが選挙権が3倍、となっていたら地方の反感は尋常ではないでしょう。

このことからも地方は人材を拠出しているからその意味で中央政府から各種の恩恵を得るのはいわば当然であるという日本型「定理」が導き出されます。

地方は都会への人材拠出役割を担っているので、選挙権は大きく予算配分も「入超」だというわけです。

そして地方の切捨ては許さないという論調になります。

本当は、もっと「自分のことは自分でやれ」「自助努力」と都会の人が言ってもいいかもしれないのです。

しかし都会の人もルーツは田舎ですから、自分の親や祖先、父祖の地を悪く言うのは気がとがめるということなのでしょう。
同じ国ですが地域ごとによって事情も違うということを理解することから始めるしかないのかもしれません。

因みに大学の法学単位で唯一の「優」が憲法だったという筆者からは以上です。

(平成28年10月13日 木曜日)