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2016年12月2日

日本の歴史の戦国時代あたりから江戸時代にかけて完成した石高制度って何かという解説です

関ヶ原着陣図(西暦1600年10月21日午前8時)


おはようございます。

2016年12月の記事です。

先のエントリー記事で「石高(こくだか)」について黒田52萬石などと書いていたのですが、そもそも石高って何ですかと小中学生の読者より問われましたので、改めてお勉強がてら確認の意味を込めて書いておきます。

石高は、一石を日本の大人一人が一年に食べる米の量に相当するものととらえた単位です。

兵士に代表される国やそれに準ずる地方公共団体、豪族や大名に属する旗本や武士は、「公務員」として農業生産を行いませんから、米を与えて養わなければなりません。

つまり、石高×年貢徴収率(四公六民とか五公五民とか)で換算されるだけの公務員を常備することができるわけです。

単純に五公五民(徴収率50%)とすれば、加賀藩100萬石は理論上50万人の人員を[農業生産ではなく]政治に動員することができることになります。

もちろん政治の延長としての戦争となり戦地に赴くとなれば、補給や後方支援、遠征費や殉職込みの特別手当や遺族年金のようなものも必要になりますし、通常の領国経営に必要な公務員の仕事も引き続きありますから、一概にどれだけの兵力を動員できるかというのは言えませんが、ともかく兵農一致の戦国時代から江戸時代にかけて、石高は各藩の力をシンプルに図りうる便利な指標だったのです。

一例ですが、各大名が限界までその動員兵力を集結させた西暦1600年関ヶ原の戦いにおいて、西軍の実質的主導者(総大将ではない)だった石田三成は近江佐和山19万4000石の大名で、6,900名の軍勢を率いましたので、対石高兵力動員比率は3.5%というところです。

東軍の猛将福島正則は尾張国清洲24万石で、6,000名の軍勢ですから同2.5%です。このように、戦争とは国力の戦いであるというのは、実は昔から変わっていないのかもしれません。

因みに、応仁の乱から150年間もの長期にわたって全国津々浦々にわたって戦争だらけだったという国は世界的にも珍しく、この「経験」を経て当時の日本は世界最強の陸軍国に成り上がったのではないかと見られています。

関ヶ原やその後の大坂の陣(断じて大阪ではない)、そして島原の乱まで、大動員されていた兵力が浪人化していく中、どのようになだめて再雇用して太平の世に返していくか、その長い鎮静の時を経て、武士は兵士から江戸幕府の公務員として変容していったのです。

19歳で海軍に召集され戦場に趣き、戦後も市役所職員として働いた祖父からこのようなことを教えて貰ったことが懐かしい筆者からは以上です。

(平成26年8月8日 金曜日 最終更新:平成28年8月8日 月曜日)