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2017年8月1日

誰が正しいかではなく何が正しいかを議論するようにすると気が楽になるという話




おはようございます。

2017年8月の記事です。

毎日ストレスフルな日常を過ごしておられる現代人のみなさんお疲れ様です。

さて、そのようにただでさえストレスの多い社会において、より静穏に静謐に過ごすために必要な一つの技術について論じてみたいと思います。

それは、誰が正しいのではなく何が正しいのかを議論するようにするというお作法を身に付けることです。

人類の歴史の開闢以来、歴史は時の権力によって都合の良いように書き換えられてきたという「歴史」があります。

太古の昔、例えば蘇我氏という歴史上から消えた一族があったらしいですが、その一族は専横の果てに誅殺された、と公式資料に書かれているようですが、本当にそうであったのかというのは議論されるべきところなのです。

聖徳太子、というとてつもない賢人で偉人で、2歳の時に仏教の啓典を諳んじた、という伝承も、本当のことだったかどうか検証が必要なのです。

何が正しいかを議論するという態度は、誰が言っているか、に関係なく事象に対して等しく平等に論じることができるという点で非常に優れています。

何より個人攻撃をする必要がなくなるのです。



事実と意見を分けて発言すると人格に触れることはなくなる



ファクト(事象)とそれを発する個人(人間)とを分けて考えることができるというのは有用です。

あなたは間違っている、とかそれは違うと言い切ってしまうと、人は人格自体を否定されたように感じて基本的に不愉快になります。

そうして人を不愉快にさせたという負い目が発言者にも伝染して、双方不機嫌になってしまうのです。

ですので、「大人な」振る舞いとしては議論が本当に必要な場合においても、例えば終戦すべきかの決断を促すような重大局面においても、人は他人の人格を「忖度」して過激な、率直な発言を控えようとします。

しかし、それならば何となく徹底的な議論は避けて、とりあえず、まあやってみるか的な感じで中国やイギリス、米国との戦争に突入していったようにしか見えない過去の我々日本人の先達を笑えません。

もともと、人はそれぞれ考え方が違うのであって、まずは異なる意見が出た場合はなるほど、そういう考えもあるのかと一旦受け止めて、そして自らの「意見」を述べるというやりとりを通じて何が正しいかを共に導くようにできたら最高です。

雰囲気に流され、空気を読んでばかりいれば、本当に空気になってしまう。

そのように感じていながら二次会には間違いなく流れてしまう筆者からは以上です。

(平成29年8月1日 火曜日)