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2017年8月3日

修羅場をくぐったという経験が糧になるという人の人生に学ぶ話です




おはようございます。

2017年8月の暑い夏の記事です。

暑い夏ですが、プロ野球も全国高校野球夏の甲子園選手権も行われる野球好きにとってはたまらない季節でもあります。

さて、かつて小林繁という読売ジャイアンツ所属の選手がおりました。

サイドスローのエース。

小柄ながら人一倍の練習と野球のみに打ち込む真摯な哲学で順調に成績を伸ばしておりました。

趣味もなく、事故に遭うのが怖くて週末に家族をドライブに連れて行くこともしなかった、それだけ野球のことだけを考えて生きていたと言います。

さてそんな純粋プロ野球選手の小林氏は、1978年、日本プロ野球界を揺るがす大きな事件に巻き込まれます。

俗にいう江川事件です。

小林選手が所属した読売ジャイアンツは、「入団交渉期間は、ドラフト会議当日から、翌年のドラフト会議前々日(2日前)までとする」としていた野球協約の盲点を突く形で、前年のドラフト会議でクラウンライターライオンズの指名を受けた江川卓選手とドラフト会議前日にあたる1978年11月20日に突如入団契約を取り交わしたのです。

さて想定していない状況に野球界は大揺れです。

江川氏と読売ジャイアンツとの入団契約をセ・リーグ会長の鈴木龍二は認めず、逆に反発した巨人はドラフト会議をボイコットします。

ドラフト会議の結果では、阪神タイガースが江川との交渉権を獲得しますが、読売ジャイアンツは「全球団が出席しないドラフト会議は無効」と主張します。

そして江川の読売ジャイアンツ選手としての地位保全を求める仮処分申請を東京地方裁判所に対し行うと同時に日本野球機構を脱退し新リーグ設立を画策するに至ります。

えらいことになりました。

そして、年の暮れの12月21日、日本野球機構コミッショナーの金子鋭は「ドラフト会議は有効」、「タイガースが江川に対する交渉権を有する」とする裁定を下した上で、翌12月22日に「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という旨の「強い要望」を表明します。

そうして江川選手との交換トレード要員として、巨人から誰がピックアップされるか、そこに世間の注目が集まることになりました。



そして小林繁選手が選ばれた



選ばれたのは小林繁選手、文字通り金看板の巨人のエースをプロ実績ゼロの新人、怪物江川卓の代わりにいただこうというのです。

ちなみに江川選手を怪物と呼んだのは平成の怪物松坂投手の時に文字通り怪物的な成績を収めたということではなく、江川選手の風貌が当時の藤子不二雄の少年少女漫画「怪物くん」の主人公に似ていることから来ています。

怪物的な成績や豪速球を投げたからではなかったのです。

文字の持つイメージが時とともに代わるよい事例だと思います。

さて、小林選手は、この裁定に公式には何も言わず、ただ後年「人生のバッターボックスに立ったらならば、見逃しの三振だけはするな」との言葉を残します。

翌シーズン、巨人戦に先発投手で臨む阪神の小林選手からは、近寄りがたいくらいのピリピリした雰囲気が放たれていたと言います。

巨人戦の8連勝を含め、この年22勝を挙げ、最多勝、沢村賞を総なめにする驚きの成績をあげたのです。

エースとして君臨していた球団から突然の意図しないトレード宣告を受け、ライバル球団に移籍し古巣を見返す、このような仕打ちが個人に降りかかろうとは思ってもみなかったのではないかと思います。

しかし、小林選手は強い意志の力で、逆境を力に変えました。

小林さんは引退後、解説者やプロ野球コーチなどを歴任、まだ若い57歳において体調不良による突然の死を迎えます。

人生における修羅場をくぐり抜け、その逆境を力に変えた小さなサイドスローの大投手、小林繁さんという人がいたという話でした。

こちらからは以上です。

(平成29年8月3日 木曜日)