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2014年1月12日

福岡と博多(福博とも呼ばれる複合都市の成り立ち:その2)

博多弁



おはようございます。

2014年1月の記事です。

博多の街は古くからあり、いつごろ成立したかもよくわからないくらい昔からの港町でした。

古代においては、西の都(本当は倭国と呼ばれた九州王朝の王都だったと筆者は信じています)と呼ばれた太宰府へ大陸の賓客を迎えるための大切な玄関口だったようです。

同時に大陸からあらゆる新知識が入ってきました。

この頃現在の「福岡」と言われる同市中央区のあたりはほとんどが海の底だったところ、博多には当時の最新知識であった仏教(密教)を持ち帰った天才留学僧であった空海が日本に戻って最初に立てた寺もあります。

名づけて東長寺といい、これから東の都(天武天皇の頃から「日本」と名乗った後発の京都奈良の都のこと、と同じく筆者は信じています)に向かってこの最新トレンドである密教をバッチリ伝えていくのだという空海の気合を感じることができます。

空海伝説は四国のお遍路に限らず日本全国にありますから、地球一周の間寛平も真っ青の超絶ウルトラランナーだったと思われます。




日宋貿易で大儲け


中世に入ると博多はその地の利から貿易都市として大発展します。

日宋貿易で巨万の富が流れ、続く日明貿易で絶頂を極めます。

博多は自治都市として、大名を凌ぐ勢力を持ち中国のみならず琉球や東南アジアまでその活動範囲を広げ、一介の博多商人が琉球国王の代理人として生糸や砂糖の貿易一手を取り仕切るような世の中でした。

明の生糸が京都では数十倍にもなったそうです。

逆に日本の銅は明国で数倍で売れました。

しかし、戦国時代になるにつれ、足利将軍家や細川管領家の貿易利益の代理人でもあった機内の堺にその地位を脅かされていくことになります。

世俗の権力と結びついた堺自体も、いずれ更に強力な織田信長に飲み込まれていくことになりますが、博多も大友宗麟や少弐氏といった盟主に支配されていくこととなりかつての栄光を失っていくことになりました。

しかし、1,000年以上にわたりこの地で栄えた博多の商人は、博多弁や博多祇園山笠、博多人形、博多ラーメンや博多明太子など、世界に通用する数々の文化を生み出しました。

昔、日本はグローバルプレイヤーであったことを雄弁に語る博多の地に是非お越しください。

実は博多出身ではありませんで、官営八幡製鐵所のお膝元、北九州市八幡出身の筆者からは以上です。

(平成26年1月12日)