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2014年1月3日

松山に行ってから正岡子規とほととぎすのことを考えた話です

子規記念博物館



おはようございます。

2014年1月の記事です。

日露戦争において陸で海で日本軍を最終的な勝利に導いた愛媛松山の秋山兄弟は、ベースボールを野球と名づけた俳人正岡子規の友人でもあります。

子規はおそらく数十年もの間、日本の小中学校の国語の教科書に横顔の写真が必ずと言っていいほど掲載されており、そのシンプルな坊主頭は落書きされやすい教科書上の偉人としてナンバーワンの地位を誇っています(平成26年ビルメン王調べ)。

なおこの写真は結核に臥せってからのものらしく、元々は頑健な体格で、野球も喀血してできなくなるまで続け、捕手のポジションがお気に入りだったとのことです。

子規の雅号は、ホトトギスとも読みますが、これは血を吐いても鳴くのをやめないと言われるほととぎすに自らを例えたということです。

ここにもまた激烈な人間性を見ることができます。

決して教科書の人物伝には出ないような話です。

相当な激情家であったとも伝わります。

また幼名を升(のぼる)といい、野球を「のぼーる」と読ませて雅号にしたりと粋な人間でした。

結核や脊椎カリエスといった病で満34歳で世を去りますが、病についての恨みや暗さを出さない強い生き方だったようです。

似顔絵落書きの児童の皆さんにも、そのあたりが伝わるような授業にしてもらいたいものだと思いました。

正岡子規より遥かに馬齢を重ねた筆者からの教壇話は以上です。

(平成26年1月3日)