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2014年3月2日

かつての関東覇者小田原北条氏に学ぶ現代日本に及ぶ統治方法(後篇)

小田原城の桜




おはようございます。

2014年3月の配信記事です。

小田原北条氏、後編です(前篇から続く)。

しかしそのような戦国時代に保たれた小田原北条氏100年の平和も、京の聚楽第を本拠に、西は九州まで制覇し尽し東北は宮城の伊達氏までも配下に収めた豊臣秀吉によって侵されることとなります。

小田原北条氏の周りは全て秀吉傘下の大名ということになったのです。

この小田原攻めの中、後北条氏の数多ある支城の中に、北条方成田氏が籠もる「忍城(おしじょう)」がありました。

沼地に浮かぶ城はまさに浮き城に相応しい威容で、秀吉は、本拠地小田原に次ぐ兵力2万人を、功臣石田三成に命じてこの忍城に差し向けます。

理財(後方補給)には功のある三成に、武功を立てさせ古参武闘派家臣団の嫉妬を黙らせたいという秀吉の余計な配慮と、理財に比してどうも軍略に素養のなかった真面目人間石田三成により、忍城攻略戦の幕が切られます。




忍城攻防戦で名を挙げた北条領内の成田正親(まさちか)





結果、城に籠もる成田正親以下農民兵含めて3,000人を攻略できないまま、小田原の本拠のほうが先に陥落して戦が終わるわけですが、ここに小田原北条氏の意地が見えるような気がします。

負けた成田氏ですが、その家中の多くは新たな関八州の首領となった徳川家康によって高禄をもって召し抱えられます。

さらに後北条氏が持っていた官僚制度の多くをそっくり受け継いだ徳川幕府は、それまでの日本の首府の地位を、京や大坂から江戸(そして明治以降は東京)に移したのです。

今日、都は京都御所ではなく千代田区丸の内の皇居となっています。

このように考えると小田原北条氏は、今の東京を中心とする日本の原型を作ったといえるのではないかと思うのです。

小田原には一度しか行ったことのない筆者からは以上です。

(平成26年3月2日 最終更新:平成28年3月2日)