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2014年7月6日

自由と決断の絶妙な塩梅が人生の彩りを決めるのではないかというお話

選択と決断




おはようございます。

2014年7月の自由と決断に関する配信記事です。

自由であることは良いことだと、近代市民革命からの「教義」について我々はあまり疑問なくそのように思っています。

しかし自由だけを突き詰めるとどうもうまくいかない、幸せにならないのではないかということもなんとなく気づいてしまっているのではないかとも思います。

市民革命以前の人々は大なり小なり権利としての自由をかなり制限された状態で過ごしていました。

身分制度も存在したし、居住の自由やましてや職業選択の自由などといった権利はなかったのです。

現状の環境に束縛が多いときには、フリーハンドで自己決定ができる立場に憧れるのはもっともなのですが、市民革命後かなりの年月を人類は経験し、今や生まれながらにして放任されているような「自由過ぎる」人々も増えてきたのもまた真実だと思います。

我々が自らの社会の繁栄を最大限にしたいならば、その第一の方法は個人個人の自由を最大にすることである。

自由は、貴重で価値があり、人が人であるための根幹であるからである。

そうすれば、個人は自身の発展のために最大限考え行動するようになろう。

一見非常に正しいことのように感じるのですが、ここにはもうひとつの解釈、「私も含む他の誰もがその「個人」のために面倒な決断をしなくて済む」という面が隠れているのです。




自由には他人のやることには関知しないという面もある





他者のやることには関知しないことがその人の自由を尊重するということになります。

人のために一肌脱ぐというのは大変なことです。

良かれと思ってやったことでも、小さな親切大きなお世話などといって、全て喜んでもらえるとは限りません。

時には厳しいことも言わなければならない場合もあります。

何の世話や教育を与えず、自らの選択権に基いて全て判断せよと放任するのは得策ではありません。

全ての選択肢を実際に試し尽くすには人生はあまりに短く時間は限られているのです。機能が多すぎる携帯電話やビデオデッキのようなものです。

ですので、特に子供や部下に対し保護者や親としては選択肢を与えて自由だという宣言をする前に、社会の荒波にもまれても大丈夫なように自身の言葉に出来ない方向性や信念のようなものを育てておく必要があるのです。

もちろん適宜現れる選択肢については、できるだけ子供や部下自身に考えさせるようにしなければなりませんが、一緒に横に付いて考えたり相談を受けたりしながら、決断を下す難しさを少しでも軽減させてあげて次の段階に押し上げてあげなければなりません。

これを教育というのでしょう。

決断を下すのがあまりにも難しくて躊躇してしまうという環境が、ひょっとしたらニートとか引きこもりとかいった社会現象を引き起こしているの「かも」しれません。

一緒に決断することを見ていてくれる人になりたいものです。

よい社会の指導担当に恵まれ日々飲み事を「決断」している筆者からは以上です。

(平成26年7月6日 日曜日 最終更新 平成28年7月6日 水曜日)