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2014年9月27日

[不定期連載]邪馬臺国謎解き(一応全部で5回あるうちのその1)

西都原古墳




おはようございます。

2014年9月の記事です。

長らくお待たせしました。

これから断続的になると思いますが数回に分けて邪馬臺国(邪馬台国)の比定地につき筆者の現在の考えを述べたいと思います。

なお何回で終わるのか今のところ未定ですし、本件は不定期連載とさせて頂く旨ご了承ください。

さて時間のない方のためにも結論だけ申し上げますと、筆者の邪馬臺国の比定地は「宮崎平野」、卑弥呼がいた宮殿の所在は「宮崎県西都市西都原古墳群近辺」です。西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)とは、宮崎県中央に位置し、標高70-80メートル程度の丘陵上に形成されている古墳群です。

中でも最大の古墳が、宮内庁管理となっている『男狭穂(おさほ)塚・女狭穂(めさほ)塚陵墓参考地』となっております。

西都原古墳群は、我が国最大のまさに古墳銀座です。

この地域に集中して実に300基以上の古墳があるのです。

数といい集中度(古墳密度?)といい、これ以上の規模の古墳群はほかでは見つかっていません。

畿内説の皆様のみならず、北部九州説の地元の皆様にも大変残念なお知らせとなってしまいましたが、そうあってほしいという希望以上に、魏志倭人伝や後漢書東夷伝、その他地名等の事象を読み解いた理屈を合わせると筆者としてはどうしても宮崎に行き着くのです。

しかし筆者とて、かつては太宰府説、そして学生時代を過ごした近江説、そして吉野ヶ里遺跡近辺、それからまた関西の纏向遺跡(箸墓古墳)と研究深化と新発見の連続を経る中で変節を重ね、そうして先祖の地でも宇佐説を経てようやく今の宮崎説にたどりついたわけでして、一人の人間ですらここまで変遷する以上、各人毎に違った考えが当然あることを尊重している点はご理解いただきたいと思います。

ただ、筆者の考えとしては、北部九州にも女王国の勢力は連合国として及んでいたと考えますので、筆者説は南部九州説ではなく「汎九州説」とでも名づけたいところです。

それでは次回以降の謎解きにご期待ください。

結論からイントロだけで終わってしまいましたが本日は以上です。

次回(その2)をお楽しみに。

(平成26年9月27日 土曜日)

▷▷次の記事は

邪馬臺国謎解きシリーズ(全5回)

(その1)

(その2)

(その3)

(その4)

(その5最終回)