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おはようございます。
2014年10月の邪馬臺国(邪馬台国)に関する配信記事です。
5連続での同テーマで恐縮ですが、邪馬臺国関係詳論を続けます。
今回で最終回です。
第1回から読みたい方は(こちら→第1回)をクリックください。
前回、倭の伊都國という交通交易の要衝であった重要拠点のことを述べ、そこから倭人が案内するその先のそれぞれの國までの方角、距離感が記されたところまでを述べました。
そして、奴國と不彌國については今回は省略して、後日論じる機会があるとすれば述べるとして、まず大国である投馬國と邪馬臺國に絞って考えます。
(ヌ) 南のかた投馬國に至る。水行二十日。五萬余戸ばかり有り。
(ル)南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。(加えて別のとところには七萬戸の記載あり)
伊都國から水行するということですから、有明海(今よりもっと陸側に海岸線はあったと思われます)から南に船で下るということでしょう。
二十日ということですからかなり南に沿岸沿いに行って、筆者は現在の薩摩川内市あたりに投馬国を比定しました。
五萬戸という大国ですから、領土も今の鹿児島市くらいまで展開していたのかもしれません。
この投馬国については、後に出てくる邪馬臺國の永遠のライバルである狗奴国と違って、特にいさかいもなくさらりと書かれています。
おそらく、女王國連合には加わらなかったけれども邪馬臺国や女王國連合とはかなり友好的な関係だったと推定します。
次にいよいよ邪馬臺国です。
水行十日ですので、筑後川下流の有明海から薩摩川内市までの約半分にあるところの熊本県八代市あたりを中継上陸地に比定します。
それから陸行一月、筆者はそのまま球磨川をさかのぼり、えびの高原を経て宮崎平野に入っていったのではないかと考えるのです。
宮崎平野の北端に、目指す西都原古墳が見えてきます。
繰り返しますが、伊都國から投馬國、伊都國から邪馬臺国までの行き方は、これまでの漢人的杓子定規な距離方角方式から、何となく倭人的と言いましょうか、行くという行為に着目した人間くさい書き方になっています。
つまり、資料にまとめたいと考えていた漢人が、伊都國で倭人に尋ねたら「水行二十日」と「水行十日・陸行一月」かかりますよ、という答えが返ってきたということではないかと思うのです。
補強として書きたいことは山ほどあるのですが、一旦邪馬臺国にたどり着きましたので、本論は一旦完了とします。
もう一度、その1から読み返して見られると、素人ながら一定の論拠がある説ではないかと思います。
次はやわらかい話題としたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
宮崎と言えばチキン南蛮、昼食に食べに行くことだけは決定しました筆者からは以上です。
(平成26年10月31日 金曜日)
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