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2014年10月29日

[不定期連載]邪馬臺国謎解き(その3)

吉野ヶ里遺跡(筆者説では伊都國に比定)




おはようございます。

2014年10月の邪馬臺国(邪馬台国)に関する配信記事です。

不定期連載邪馬臺国シリーズ(その3)です。

過去記事は全く同じ題名ですので、ブログ記事検索窓から検索もしくは下記前記事リンクをご参照いただければ出てきますので必要に応じてご利用下さい。

さて3回目ですが前回は魏志倭人伝の記述に忠実に沿い、末廬国(現在の佐賀県松浦川河口の唐津市)にやってきたところまででした。

末廬国部分から魏志倭人伝を再掲します。

(ヘ)又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。

(ト)東南のかた陸行五百里にして、伊都國に到る。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。

(チ)東南のかた奴國に至ること百里。二萬余戸有り。

(リ) 東行して不彌國に至ること百里。千余の家有り。

(ヌ) 南のかた投馬國に至る。水行二十日。五萬余戸ばかり有り。

(ル)南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

ここで、(ト)の伊都國について、北部九州説の大部分が、松浦川河口の唐津から北東にある糸島方面に向け、さらにその先の奴国を福岡平野に比定するのですが、筆者はその「北部九州通説」を採りません。

魏志倭人伝の記述に忠実に従えば従うほど、九州説にしかなりえない(逆に言えば魏志倭人伝の記述は畿内説には絶対的に不利)のに、なぜここで魏志倭人伝が「東南」ときちんと言っているのに「東北」などといった読み替えを行うのか。

素人ながらここが疑問なのです。

そもそも魏志倭人伝の最初のフレーズに、(イ)倭人は帯方の東南大海の中にあり、と書いてあり、魏の帯方郡(今のソウル)から「東南」の海を経たところに倭はあるといっています。

魏志倭人伝の筆者が文ごとに都合よく方向音痴になるとはどうみても考えられないのです。

すなわち、唐津から陸行五百里、すなわち対馬~壱岐を千余里(100㎞)と言っている記載を適用してちょうど50㎞ほど行けば、まさに邪馬臺国を思わせる大きな楼閣を有し、王墓も有る大規模環濠集落である「吉野ヶ里遺跡」が存在する場所に到達します。

そして、わざわざ魏志倭人伝がそれまで使っていた「至る」ではなく、なんだか1ランク上のにも思える「到る」を使っていることからしても、この伊都國は郡(帯方郡)の使いの往来して駐在所があるところ、すなわち倭国の外交使節の玄関口のような重要拠点ではなかったのかと思われるのです。

魏志倭人伝を忠実に読みながら、伊都國すなわち吉野ヶ里遺跡までやってきました。

筑紫のまほろばの国の夜が明けてまいりましたので、続きは次回(その4)以降に致します。

(平成26年10月29日 水曜日)

▷▷次の記事は

邪馬臺国謎解きシリーズ(全5回)

(その1)

(その2)

(その3)

(その4)

(その5最終回)