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2014年10月30日

[不定期連載]邪馬臺国謎解き(その4)

放射式に読むのが自然です



おはようございます。

2014年10月の邪馬臺国(邪馬台国)に関する配信記事です。

連日投稿しますがご容赦下さい。

これも含めて不定期連載です。

さて我々の旅は、伊都國(筆者推定)は吉野ヶ里遺跡近辺ということで前回は終わりました。

ここで、この「伊都國」がわざわざ「到る」と書かれているところや、「千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。」などと具体的に説明されているところからすると、この時代、この伊都國は倭と呼ばれた九州島全体のまさに交通の要衝、十字路のようなところであったものと思われるのです。

現在でいうところの佐賀県鳥栖市が、九州自動車道と長崎大分自動車動がちょうど交差する物流拠点であるということに重ねてイメージするようなものでしょうか。

そして、その交通要衝から先の国々への行き方について、記載方法がガラリと変わります。それまでは、◯◯から◯千里で◯國に至る、と書いていたのが、

(チ)東南のかた奴國に至ること百里。二萬余戸有り。

(リ) 東行して不彌國に至ること百里。千余の家有り。

(ヌ) 南のかた投馬國に至る。水行二十日。五萬余戸ばかり有り。

(ル)南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。

といった何となく実際に行ったのかどうなのかわからない伝聞を記したような書きぶりになっているのです。

ここで素人であることに甘えて大胆に考察しますと、魏志倭人伝の筆者たちの中で、実際に邪馬臺国まで行った者はおらず、逆に伊都國までは行ったことがあるのではないかということです。

そうすると、伊都國から先の國は、全て伊都國を起点とする「放射状」の方角距離記載だという解釈をすることが「自然」だということになります。

すなわち、

(チ)伊都國から奴国までは東南に百里(100㎞)。

(リ)伊都國から不彌國までは東に百里(100㎞)。

(ヌ)伊都國から投馬國までは南に水行(海の上を船で)20日。

(ル)伊都國から邪馬臺国までは、南の方向に水行(海の上を船で)20日行き、それから陸の上を1ヶ月かけて到着する。

と読めることになります。

さあ、いよいよ邪馬臺國まで迫ってきました。

次回(その5:最終回)を乞うご期待ください。

1級小型船舶操縦免許を持っておりますが、その昔海ならぬ湖で沈没しそうになりました船舶操縦不得手な筆者からは以上です。

(平成26年10月30日 木曜日)

▷▷次の記事は

邪馬臺国謎解きシリーズ(全5回)

(その1)

(その2)

(その3)

(その4)

(その5最終回)