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2014年11月13日

魏志倭人伝を考察するにここに出てくる「邪馬台国」と「女王国」は同一ではないかもしれないという件について

石舞台古墳 ヤマト王権を確立した蘇我氏の墓と伝わる




おはようございます。

2014年11月の邪馬台国に関する配信記事(以前からの続き)です。

一旦強制終了させたひとり邪馬台国論争なのですが、最近読者の皆様より様々な関連文献や資料やご示唆、並びに昼食などまでいただくことが多うございまして、筆者は魏志倭人伝の該当箇所を読む限りにおいては邪馬台国は宮崎に推定したという結論を持っているわけではあるものの、そうしたその後の関連情報の集積と思索深化によりまた違った考えが沸き上がってきたので追記ばかりに述べたいと思います。

魏志倭人伝にある「邪馬台国」と「女王国」が同一ではないのではないかという疑問です。

魏志倭人伝には、実は邪馬台国という言葉はたった1回しか出てきません。対して女王国は5回も出てきます。

そうして、魏志倭人伝は女王卑弥呼とその跡を継いだ親族の娘である台与のことについて書かれています。

まず魏の時代に卑弥呼が魏に朝貢してきて(239年)、親魏倭王の位をもらったこと、それから台与が13歳でその跡を継いだことです。

また、台与については、別の古文書「晋書」によれば、また晋に朝貢してきた(266年:27年後)ことが記されているのです。

そうすると、魏志倭人伝の記述というものは、239年卑弥呼朝貢時にもたされた倭の公式情報と266年台与朝貢時にもたされた倭の公式情報が混在しているのではないかと見られるのです。

おそらく、239年卑弥呼朝貢時の情報だけで魏志倭人伝を書いたならば、例の論争の的となる「水行10日、陸行1月」といった倭人的記載はなかったのではないかと思われるのです。

邪馬台国という「国名」の記載がこの部分のみで、あとは女王国と記載しているのもなんだか匂います。

魏志倭人伝の著者たちは、女王国と濁すことで、実はその女王が「卑弥呼と台与」の2人いたことをよくわからんのでごまかしていた、ぼかしていたのかもしれないのです。

または、卑弥呼を盟主とする国家の場合は女王国と述べ、台与を盟主とする国家の場合は邪馬台国と記したのかもしれません。

そうすると、台与の部下である倭人たちは、自分たちの国の名前を邪馬台と呼び、そこには水行10日、陸行1月かかると言ったとしても話が通りそうであります。

以上、筆者の私見をまとめますと、卑弥呼時代の女王国は、明らかに九州にあったが、台与の代に「邪馬台」と呼ばれるようになったかの国は、どうも九州にはなさそうで、どうも「大和」=「畿内」にあったような気がしてならない、ということです。

畿内説と九州説、どちらにもいい顔をしないと気がすまない、まさに業界のこうもりと呼ばれて久しい筆者からは以上です。

(平成26年11月13日 木曜日)