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2015年1月2日

福岡市の志賀島から出土した金印の歴史的位置付けを考え直してみるという話です


金印公園





おはようございます。

2015年1月の記事です。

今日は歴史のお話です。

「漢委奴國王」の金印が福岡市の博多湾に浮かぶ志賀島から発見されているわけですが、この読み方に諸説あります。

通説では、漢の倭の奴の(かんのわのなの)国王と読むのですが、当時恐れ多くも世界を統べるといって良い漢の皇帝が、冊封国の王に与えた金印であるところ、これを博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはないと思われます。

例えて言いますと、現在の日本でも、国が地方公共団体と話をする際には、まず都道府県となり、市町村は、政令指定都市でもない限り直接国と交渉することは少ないと思われます。

このように、漢が与えた金印は、間違いなく当時の倭全体を支配するか、少なくとも代表する立場にある者に授けられたのではないかと思うのです。

この点、三国志の魏から卑弥呼が賜ったとされる金印も「親魏倭王」であり、魏は卑弥呼を倭の王として認めたということだと思います。



読み方が違う?




ここで、卑弥呼が支配した(影響力を行使した)倭の範囲がどのあたりまでなのか、ここで筆者は少数派の九州説を採るのですが、畿内説を取る人にとっても、その他の皆さんにとっても、この「発見されていていつでも見ることのできる」金印の読み方について再考されないのは少し変だと思うのです。

「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の国璽として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたと考えられるのが自然であると考えますと、漢の倭の奴の国王、とではなく、漢の委奴国王(かんのわなこくおう)と一気に読むのが正しいということではないのでしょうか。

そして、委奴国とは倭国そのままの言い方、倭国そのものもしくは倭国を代表すると漢が認めた国であり、漢によって王と認められた者の住む国ではないかということになります。

となりますと、さらに時代が下った邪馬台国の卑弥呼の比定地には争いがあるとしても、そこから遡った漢委奴國王の金印は間違いなく博多湾から出土していることから、北部九州には、卑弥呼の時代のずっと前から、「倭国(=委奴国(わなこく))」を代表するだけの力をもつ王朝というか朝廷というか、そういう存在があったと考えるのが自然なのです。

時代は卑弥呼から下って、筑紫国造磐井の反乱、という古代史上の大戦争が起こるようですが、これは大和朝廷から見た地方豪族の反乱といったスケールではなくて、力をつけてきた新興勢力である機内大和朝廷に対する、伝統的九州王朝の最後の抵抗というかあがきだったのかもしれないと思うのです。

今年も込み入った歴史ネタにもお付き合い願いたい筆者からは以上です。

(平成27年1月2日)