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2015年1月16日

厳島神社(広島県廿日市市に鎮座する平家の崇敬厚かった氏神神社)について述べます

厳島神社 大鳥居




おはようございます。

2015年1月の神社のお守りを目指して巡るビルメン王のブログ配信記事です。

弥山(みせん)と厳島神社(いつくしまじんじゃ)について好評でしたのでもう少し書きます。

すみません、正確には好評だったかどうかはわかりませんが筆者が書き足りなかったので書きます。

厳島神社は平家滅亡後、混乱と衰退の道をたどります。

それも当然で、最大かつ唯一の大パトロンといってよい平家という後ろ盾が、壇ノ浦で突然の「滅亡」を遂げてしまうのですから仕方がありません。

まさに春の夜の夢の如し、というところでしょう。過剰品質となった水の上の寝殿造りという大建築は、それを維持するだけでも大変だったと思われます。

しかし、苦難の時代を経て、厳島神社はふたたび大パトロンに恵まれることになります。

それが毛利元就でした。

しかし、神の島として敬われている宮島も、戦国時代の習いで戦場となることもあったのです。




厳島の戦い(1555年10月16日)





厳島の戦いとは、1555年(天文24年)、かつては西方六カ国の守護大名として西中国地方を支配した主君大内家の当主、大内義隆(おおうちよしたか)を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた)を、その子分であった毛利元就が厳島に敗死させたという戦いです。

陶軍兵力は2万とも云われ、毛利軍兵力は4千から5千と云われています。

普通に戦えば勝機が低いと見た元就は、巧みな謀略で陶晴賢を狭い厳島におびき寄せました。

そして毛利軍はその後伊予水軍を味方に引き入れ制海権を握り、一斉に島内へ上陸、奇襲を仕掛け、狭い島内で大部隊を混乱させ陶晴賢を討ち取りました。

戦死者5千人という壮絶なものだったといいます。

合戦後、毛利元就は戦死者を対岸に運ばせ埋葬させ供養し、血で汚れた厳島神社の社殿を洗い流し清めさせ、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせたと云われています。

血の穢れに対する神域としての宮島の禁忌は厳しかったのです。

その後、毛利元就は勢力を伸ばし中国地方を代表する戦国大名となり、厳島神社の造営や再建、寄進を数多く行ったということです。

神社のある意味したたかな生存戦略が見えて面白いものです。

お好み焼きは食べられませんでしたが、宮島の鹿にはしっかりと鹿せんべいをあげて寄進に協力してきました筆者からは以上です。

(平成27年1月16日 金曜日)

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