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2015年7月6日

吉野ヶ里歴史公園として吉野ヶ里遺跡が保存されるまでの長い道のり話






おはようございます。

2015年7月の吉野ヶ里遺跡に関する配信記事です。

不動産開発において、文化財保護法による調査義務は大変な負担です。

数十年前、佐賀県のあるひなびた町に、工業団地を誘致するという話が持ち上がりました。

世は高度成長からバブル経済を迎えた頃、日本全国がなんとか成長に取り残されまいといろいろ知恵を絞っていました。

福岡では福岡空港の拡張、長崎ではオランダ村、そしてハウステンボスといった大規模都市開発がなされている中、佐賀県も、県庁上げて工業団地の整備と誘致に県の運命をかけたのです。

そして、決定した吉野ヶ里の地に、発掘の手が入りました。

ここに大規模な古代都市が眠っていると密かに信じる県庁職員は、限られた発掘期間で最大の成果を上げて、全てを記録に残そうと意気込みます。

そうして、工業団地ができれば子や孫が地元を出て行かなくてここで働いてくれる、と期待してくれた農家の方々を人手として、大発掘隊を組成します。




掘ってみると驚きの古代都市が現れた





そうして、実際に掘ってみたのですが、それは想像を超えた、日本史上類を見ない弥生時代の「都市」だったのです。

大規模な側溝に囲まれた大規模集落は、六本の柱に支えられた物見櫓によって見張りが立てられ、そして「王」にふさわしい巨大な墳丘墓も見つかったのです。

ここで、佐賀県では工業団地推進派と保存派で激しい議論が起こります。

もともと工業団地を誘致したいという地元の熱意もあり始まったこの発掘作業です。

いくら歴史的発見といえ、このまま保存というのでは当初の目的は何も達成されません。

「遺跡で飯が食えるか」とは推進派の言葉ですが、まさにそのとおりだったのです。

当時の佐賀県知事が決断します。

墳丘墓の中を最後に掘ってみて、決めようと。

そうして掘った墳丘墓から、多くの甕棺に埋葬された国王級の人たちと、副葬品である豪奢な剣とガラスの管玉など、国宝級のものが出土されたのです。

考古学界のみならず、保存運動が巻き起こりました。

こうして、この遺跡は、保存が決まりました。

発掘作業に協力いただいた地元の農家の方々への説明会に県庁の職員たちは重い気持ちで臨みます。

説明し、顔を上げたところで迎えられたのは、彼らのほっとしたような笑顔だったそうです。

自分たちの先祖は誇れる人たちだった。

そしてその証拠をずっと残すことができる。

このことがここを掘って本当によかったという気持ちにつながったのでしょう。

人が生きていくのに最も必要なものは、生きていく誇りであると。

こうして、吉野ヶ里遺跡は国の歴史公園に指定され、現在では年間50万人が訪れる名所となっています。

是非訪ねてみてください。

ここに生きたずっと昔の人と、ここを掘った少し昔の人がずっとつながっていることが肌で感じられると思います。

今日の長いお話は以上です。

(平成27年7月6日 月曜日 最終更新:平成28年7月6日 水曜日)