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2018年1月20日

「2代目は守成の人」加賀藩百二十万石2代目前田利長公のことについて語ります

金沢城




おはようございます。

2018年1月の記事です。

加賀百万石のご当地金沢は、それは綺麗な伝統工芸品や料理などがひしめくまさに絢爛豪華な北陸文化が花開いた場所です。

しかしそれは、江戸幕府に常に警戒され、睨まれ続けた豊臣恩顧(というか対等の友人)の大名である加賀家が、徳川家と対峙し一見泰平の世であった徳川幕府政権下でしたたかに生き抜いて行くための方便であり、戦わない戦であったと思うのです。

ここで加賀藩第2代の前田利長公を取り上げますが、この利長公は、父の前田利家が関ヶ原の戦いの直前に亡くなるという急転直下の状況の中、加賀家を任されることになります。

そもそも、藩祖の前田利家は織田信長亡き後、その後継者の地位を争った柴田勝家と羽柴秀吉との間に立って苦悩します。

柴田勝家は北陸の総司令官で前田利家の上司であるも、羽柴秀吉と前田利家は無二の親友で、お互い子女を結婚するなど親戚でもあったからです。

結果、一度は柴田側に付いて秀吉と戦うも、利家のできた妻であるまつのとりなしにより、今度は秀吉側に与みして戦い、先頭に立って戦い秀吉の厚い信頼を得て、越中加賀能登の三国の太守として揺るぎない地位を確立しました。

しかしながら、加賀前田家のこの秀吉、豊臣家との近すぎる距離が、のちのち力をつけてくる徳川家には邪魔なわけです。

しかも、代が変わった2代目の利長、まだ余命を残している徳川家康は得意の陰湿な言いがかりであらゆる揺さぶりをかけてきます。

家康謀殺の謀反をかけられても、必死の弁明につとめてこれを斥け、実母のまつを江戸に人質に出すという無理難題を受けて、それに返す形で利家の四男を養嗣子に迎えて、その利常に徳川家康の孫娘を輿入れさせるという離れ業の交渉を成立させ、自らの印象を薄くし、早くに家督を利常に譲り自らは引退し金沢城から高岡城に移り、その引退分の領地10万石分もまもなく本藩に返上します。

そして、最後には豊臣秀吉・秀頼の印象が色濃く残る自らをこの世から消し去るように、わざわざ毒物を飲んで病気の進行を早めさせ、53歳で病死するのです。

一気に死んではまた逆に幕府に疑いの目を向けられる、という利長一流の鬼気迫る処世術のなせる技でした。

このように、組織でも藩でも一家でも企業でも、2代目が守成の人として素晴らしい場合、その組織は長く命脈を保ちます。

黒田藩の藩祖黒田官兵衛を継いだ黒田長政しかり、伊達藩の藩祖伊達政宗を継いだ伊達忠宗しかり、そして関ヶ原で西軍として戦い撤退した島津義弘の子島津忠恒もいます。

特に大坂夏の陣における真田信繁(幸村)の評として有名な「真田日本一の兵(つわもの)」という言葉を手紙に残したのは島津忠恒であることからも、才能と武勇に溢れた2代目の研究がもっと進めば良いと思いました。

真田幸村も2代目として輝いた武将の一人です。

今を生きる全ての2代目3代目に光あれ。

そんな歴史好きのつぶやきは以上です。

(平成30年1月20日 土曜日)