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2018年2月11日

人材不足な世の中なのにどうして定年制度が続いているのか疑問に思うという話





おはようございます。

2018年2月の配信記事です。

日本は今空前の人口減少状況にありまして、もはや高齢化傾向すらそろそろ終わり、単純に人口が減っていくというステージにさしかかっているというのはかなり共通の認識になってきたものと思っています。

そして、企業や組織の生産現場やサービス供給現場では、人材不足はますます深刻となり、24時間開店サービスがその根幹であった外食やコンビニエンスストアチェーンですら、もはやローテーションの人員が確保できないと、一定の時間閉鎖するというオペレーションに移行するといった状況になってきています。

しかるに、人材雇用における定年制、いわば65歳といった絶対年齢を持って一律強制的に公開している解雇制度がずっと続いているのは何故なのか疑問に思うわけです。

半ば強制的な雇用の維持、のために企業側に義務として65歳までは勝手に解雇してはダメですよ、ですが65歳まで耐え切ったら晴れて公認しておおっぴらに解雇できる権利が予定されていて、そして雇用契約を自動的に終了させることができるというわけです。

本来ならば、年齢に達した際の強制解雇予定制度、と呼ぶべきものが、単に定年、という曖昧な言葉で濁されています。

なぜ、定年に達したら仕事を辞めなければ、またやめさせなければいけないのでしょうか。

今の時代、スキルがある高齢者であれば、同じ会社としてもあと数年くらいは今の現場で働いて欲しい、という場合もあるはずです。

もちろん、雇用延長や再雇用といった制度はあるものの、例えば何の人事的な裏付けのない人を例えば管理職として置いた場合、その元管理職がゾンビ的に実際の部門運営をすることと、雇用形態が再雇用といった期間限定のもの(+給与面でも劣後する)であれば、ついていく部下も気を使って大変なところがあります。

筆者はまだ65歳に到達しておりませんが、人は60歳以上になると急に仕事ができなくなるのかといえばそのようには思いません。

逆に、若くてもすでに墓場に埋められたくらいの温度の低い人もいて、さらに別に温度が高かろうが低かろうが仕事の遂行能力というものはそういうものとはあまり関係ないという論調もあります。

思うに、これまでは一方的に雇用側の雇う義務がクローズアップされてきましたが、そもそも本来は立場の違いはあっても対等な立場で雇う側と雇われる側が日々ここで働く、労働力を提供する、労働力の提供を受けて給料を支払う、ということが合理的に納得感あって続いている限りにおいて本来雇用契約は維持されるべきです。

そうした信頼関係に変化があった場合、雇われる側から申し出るのが退職であり、雇う側から申し出るのが解雇であって、本来その2つで良いわけです。

定年制度は、解雇権濫用法理によって、ほぼ通常の解雇が不可能となった今の厳しい雇用者側にとっての労務規範のバーターとして、一定の年齢に達すれば自動的に公認された解雇権を発動できるという、単なる強制解雇制度です。

一般的には定年「退職」という曖昧な表現となっていますが、定年解雇とは表現されません。

退職は、先に書いた通り解雇なのですが、定年「解雇」とは表現せず、本来自主的に基づくはずの退職のはずが、本人の意思とは関係なく一定年齢で雇用契約が終了、すなわち雇用側の事情で解雇するというのが定年退職の実態です。

定年退職する人を囲んで、同僚でお祝いして、職場の人から花束などが渡されたりします。

こうしてみるに、定年退職とは卒業と同じようなものです。

例えるならば、学校の卒業式と同じようなものとして理解されているのかもしれません。

小学校は6年で、中学校と高等学校は原則3年で卒業です。

大学の学部は4年で、羽織袴を着てから卒業式に臨みます。

同じように、社会人としては43年、もしくは46年くらいで終わり、ということなのかもしれません。

本来、働いて給料をもらう関係である会社が、勉強して学費を払う学校と同じように理解されるのはよく考えれば不思議なところです。

今後の雇用体系については新卒一括採用も合わせてもう少し柔軟に変わって行くことが期待されます。

転職回数なら負けない筆者なら以上です。

(平成30年2月11日 日曜日)