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2018年2月7日

日本史上類を見ないエクストリーム帰宅選手権「島津の退き口(のきぐち)」について語ります!






おはようございます。

2018年2月の記事です。

全国高校生帰宅選手権、優勝は東京代表という虚構新聞の有名な嘘ニュースがありまして、筆者も大好きなのですが、この虚構新聞の題材となったと筆者が勝手に推測するのが、実際にあったエクストリーム帰宅、またの名を史上最高の帰宅難民事件、古今東西類を見ないダイナミック帰宅として名高い、かの島津の退き口(のきぐち、と読みます)であります。

島津の退き口とは、1600年の関ヶ原合戦の最終盤において、西軍で最後まで戦場に留まった島津義弘公が下知した「相掛けよ」という号令によって火ぶたが切られます。

それまで、大阪に駆けつけた兵1,000あまりで布陣した島津軍は西軍の真ん中に陣を置いておりましたが、近寄る敵は撃退するだけで主だった動きを見せてはおりませんでした。

突如東軍に寝返った小早川秀秋15,000の軍が南から攻める中、他の西軍諸将は散り散りとなり退却、そしておよそ300まで撃ち減らされた島津軍は不気味な沈黙を保っておりました。




島津義弘公の決断は?




義弘公の決断の時が迫ります。

義弘公「敵は何処方が猛勢か」(敵の勢いが最も強いのは何処であるか?)

家臣「東寄の敵、以ての外猛勢」(東側の敵勢の勢いが尋常でなく強いです)

義弘公「その猛勢の中に相掛けよ」(その猛烈な敵の中に突っ込め!)

そして、前代未聞の前進退却、コンビニ寄ってお家に帰ろう、というくらいのそぶりで、突然、薩摩軍300は死兵となって家康本隊に向かって猛然と突撃したのです。

この時点ですでに関ヶ原の勝敗は決しており、東軍は残党狩りモードでした。

普通ならば300の部隊が80,000の東軍に包囲されている中で、最も強い本隊に向かって行くなど狂気の沙汰ですが、猛将島津義弘公率いる一騎当千の島津軍、それも目の色を変えて突撃してくる軍隊に対し、合間見えた東軍の福島正則は迂闊に手を出しては大火傷を負うと判断、島津軍をそのまま見送ります。

そうして島津軍は徳川家康本隊の目前まで一気に突破し、そのまま本隊の脇をすり抜けて伊勢路方向へ一直線に駆け抜けていったのです。

ここからが壮絶です。

当然、家康の命により東軍は追撃します。

島津軍は、「捨て奸(すてがまり)」や「座禅陣」と呼称される決死の足止め作戦を行い、主君義弘公を逃すべく、捨身で東軍に襲いかかるのです。

これは、火縄銃と槍刀で武装した兵士たちが、ある程度の集団として本隊から離脱して時間稼ぎ役となるもので、座禅を組み座り込んで火縄銃を構え、敵将を狙撃します。

そして撃った直後に槍や刀に持ちかえ敵集団に突っ込み撹乱し、死ぬまで戦いほぼ確実に死ぬという壮絶な戦法です。

そして、義弘公の甥っ子の島津豊久や家老である長寿院盛淳なども、幹部自らの捨て肝(すてがまり)を敢行し、次々に討死していきます。

「ヒャッハー!」
「道連れだー!」

と叫んだのかは不明ですが、真面目に捉えますと、島津軍の最終目標は、義弘公を無事に薩摩に逃すこと、それこそ島津の勝利であり(西軍は敗北しても島津は負けていない)、兵子(へこ)ども今こそ命の使いどき!という場面なのです。

この島津軍とすでに勝利し命を噛みしめている東軍との士気の差は大きいはずです。

こうして、島津義弘公は、多大な犠牲を払ったものの、80名ほどの部下と一緒に薩摩に帰還したのです。

エクストリーム帰宅、ここに完結です。

この前代未聞の「突撃する」撤退戦こそ、後に「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれ、薩摩隼人の武勇を世に知らしめることと相成りました。

そして時代は15年ほど過ぎまして、この薩摩隼人たちが、大坂夏の陣において最後の突撃を敢行した豊臣軍大将の真田幸村を評して、「日本一の兵(ひのもといちのさむらい)」と書き残し、長く後世に伝えたのです。

突き抜けた者たち同士、敵味方を超えて通じ合うものがあったのかと思います。

西の島津義弘と東の真田幸村、一方は生き残り武名を挙げもう一方は死んで名誉を残しましたが、いずれも時の最高権力者である徳川家康を震え上がらせ義理を果たした、後世に語られるにふさわしい生き方だったと思うわけであります。

そろそろ(明後日くらいから)本気出そうと思います筆者からは以上です。

(平成30年2月7日 水曜日)