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2018年6月1日

本当の賢さというものは何かということについて今一度考えてみたという話です






おはようございます。

2018年6月の組織に関する配信記事です。

日本大学アメリカンフットボール部の試合中の「笛が鳴ってプレイが止まった」後のタックルがなされたという問題で、企業のコンプライアンスや企業統治、セクハラやパワハラといった問題が一気に非営利団体、いわゆるプロスポーツとしてお金を取っていない大学や高校や中学などの部活動や体育会(文化部も含む)にまで及んできたことについて、昭和生まれの筆者などは非常に感慨深く見ています。

いわゆる昭和的な根性論では、現代の組織のマネジメントはできないということで、そのズレは決定的な所にきているということです。

つまり、暴力癖のある指導者には誰もついていかない、知性や教養が不足している学長や理事教授陣を抱えて自浄能力のない大学には誰も入学しない、ということなのだろうと思います。

選手たちが黙っていなかった、その選手側にも世間の同情、いやそれ以上の支持が集まったのは、当該プレイが何度でも動画を検索すれば一瞬にして見られるという、インターネット時代による情報拡散共有が一役買っていることはもちろん否めませんが、状況を正しく認識して適切な対応を個人レベルで取ることができるという意味で、個々の学生が自らの身を守るために弁護士など周囲の助けを得ることができる環境に世の中が一段先に進化したというのは特筆すべきことだと思っています。

もう平成も30年となりまして、来年で元号も変わります。

世論はもうはるか先に行っておりまして、世論の支持が得られない蛸壺型の組織は、いくら学校法人にしろ、公益法人日本相撲協会にしろ、いくら閉じた世界で運営されていたとしても、世の中の視聴者や利用者からそっぽを向かれては活動できず、存続していけないということが赤裸々になってきている、そのような感じがいたします。

そして、この世論による適切な批判的目は、政治や国会といった国権の最高機関での振る舞いにも徐々に影響を与えてきていると考えられまして、官僚の作成文書の意図的改竄がなされてその官僚組織の当時のトップ(財務省理財局長)が責任者として全ての責任を負うということに形式的になったとしても、そのような危ない橋を渡るような指示をしたのは誰かという当たり前の疑念の存在については広く大衆の知るところとなりました。

次の国政選挙の時にはまたこのような「背景」を踏まえた投票行動になるでしょう。

こう考えますと、世の中というのは急速にいい方向、まともな方向に進んでいるといって良いと考えておりまして、素人が、当たり前と思うことに対して世論が当たり前に寄り添い支持していくことがあらゆる場面で起こってくると思っています。

世界的には、#me too 運動というものが起こって、これまで闇に葬られてきた数々の芸能界含めた各界の大物たちがその地位を追われるといったこともありました。

いわゆる、古い考えの(年齢が高いということではなくて)大人たちの賢いという評価軸は、(自分たちで決めた教科や仕組みの上でのテストにおける)いい成績を取るとか、(こちらも自分たちで決めた甲子園とか箱根駅伝とか世界的には特異すぎるルールや運営方法で行われるもののそうした大人たちには過分な人気のある)スポーツ大会で一番になるということや、世界的にはもはやランキング100位以内の維持すら難しい日本の国立大学のうちの比較で大きいもの(東京とか京都とか)への(学部とか専攻とかをまるで無視した)入学などでありましたが(実は入学だけでOK、退学してもあまり関係ない)、そうした既存の既得権益自体をまとめて本気にぶち壊しにくる、自分の地位なり心の拠り所であるものを一気にひっくり返そうとする、そのような本物の賢さを若者が身につけようとすることについては、非常に(恐怖心からか)冷淡でありました。

しかしながら、そのような本気の既存価値のひっくり返しこそ、真の勇気というか振る舞いというか、本当の賢さではないかと思うわけです。

失うものがまだ多くない、いわゆる若い人ほど正直です。

逆に、積み上げ続けて失うものが多い老人ほど、嘘をつくものです。

記録文書が出てきても、覚えていないと答弁したり、記録より記憶のほうが勝るというのであれば、人工知能に首相をやらせた方がよほど合理的となります。

記憶に頼れば良いのですから。

タックルの反則は見ていなかったと答えたフットボールの監督は、試合の直後あれくらいやらなきゃだめだという持論を展開していました。

反則を犯した選手のその場面の目の前に、監督が立っているのがVTRで残っています。

きっと、眼球は開いていてもその瞬間は目は見えなくなっていたのでしょう。

マルクスが言った、「失うものがない人は正直である」というのはけだし名言だと思います。

さて、積み上げがなくて失うものがないまま中年になってしまった筆者からのコメントは以上です。

(平成30年6月1日 金曜日)