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2018年6月28日

国語というものを初等教育から高等教育まで教えるのはなぜかという話をします







おはようございます。

2018年6月の教育に関する国語という科目に関する配信記事です。

最近旗色が悪いように感じる、文系の筆者です。

国語の指導や勉強方法について、悩むことが多いです。

自分自身は本をよく読む方ですし、このような形で駄文を書くのも好きなので、国語は得意になりましたが、どうも他人に国語を教えるとはどういうことか、実のところよくわかっていないのです。

しかし、国語とは、母国語を駆使し、算数や理科、数学や物理化学といったいわゆる専門専攻知識を身につけるための大きな土台になるものであることは間違いありません。

物事を、頭ではなくて身体全体で感じることができる感受性や、他者との関わりの中で自分の立ち位置と自分のやりたいことを定めることができる決断力や、他人を尊重する共感力といった「感覚」を養う、学問の前の人格形成に大変大切な基本の科目なのかもしれません。

計算問題をときまくったり、漢字の書き取りをひたすらこなすというような、数をこなすというアプローチではだめです。

合理的に、定理を定めて演繹的に考えるという、数学的思考でも難しいです。

それが、国語という根源的な人間の疑問に向き合う、非常に原理的な学問であるゆえんだと思います。

国語力が人格力であると考えられる以上、国語力を高めるとは、教える側が心を込めてその想いを注ぎ込むだけです。

これは、甘やかすということではありません。

心ないことをしたり放り出そうものなら本気で怒る、叱る、そしてがんばった時は手放しで褒める、そしていろいろな対話や体験を一緒にやる、まさに松下村塾のような心のやり取りを行うことで、国語という科目の力は急激に伸びます。

そして、そんな誰でもできることで、誰もが続けてできないこと、その心の入った指導ができる指導者に出会えたら、それは学習者として大変幸運であると言えましょう。

情熱を持って接する、これは社会人になっても大学生になってもとても大切なファクターで、結局人は人によってしか動かされないということなのです。

ビッグデータや人工知能によって人個人個人が動かされることではなく、心を添わせてどれだけ共感したか、そういうところに教育の真髄があるような気がします。

こうした教育に触れて自己啓発できている生徒の答案は、他とは全く違ったものに仕上がり、読む者を感動させます。

時々、新聞の懸賞作文にそのような文章が載ることがありますが、かつて見た、小学生の作文で、病院から戻ったお母さんが作る料理の味がおかしくなってしまった(おそらく抗がん剤のような強い薬の投与から来ている味覚障害)から自分がお母さんの舌の代わりを申し出て一緒にご飯をつくる、という作文がありまして、このような泣ける、素晴らしい、熱量のこもった文章を作れる人間はきっと深い洞察ができるはすであると刮目したものです。

これが、国語という科目がある理由であり、この科目の特異なところであって、独自なところで、代えのきかないところだと思います。

しかしながら、必要以上におだててしまうのは逆効果です。

いわゆる学習者が、なんかご褒美や、砂糖を舐めさせてくれないと頑張れない、といった、いわば心の虫歯にならないようにしなければなりません。

学ぶ理由は自分自身で見つけ出す、定めることができる。

これが、生徒や児童それぞれに、オリジナルな大切な価値観が芽生えるために非常に大切なプロセスだと思います。

他人(の成績)との比較ではなく、自分基準で自己評価して、前に進むことができる。

こうして自ら立った人間を、大いに認めることが、真の自立心を育てることになると、本当に自分を大切にすることにつながるのであるということを伝えることが、国語という科目を教えるにあたって最も大切なことであると思っています。

一生懸命受験勉強して入った高校や大学で、もしくは一生懸命面接対策やセミナーをこなして入った憧れの会社で、その中でその者が輝くのかどうか、それは本気で自分自身のことを考えてきたか、それによるところが大きいと思います。

国語という科目の話を超えた、人格形成の話になりましたが、ここで終わります。

こちらからは以上です。

(平成30年6月28日