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2018年8月16日

徳島市の阿波踊りの運営について地元で対立している本質を勝手に想像して書いてみる話です







おはようございます。

2018年8月の祭りと家具に関して筆者が個人的意見を語る配信記事です。

さて、テレビ等でいろいろ場外戦が盛り上がっております徳島市の阿波踊りに関する記事ですが、筆者のような、まだ生涯一度も徳島県に足を踏み入れたことがないような部外ものにとっては、全くことの本質がわかっておりません。

わかっておりませんながら、なぜこのことを書こうと思ったのか、それは、筆者が多少調べて知っている(つもりになっているかもしれませんが)すでに経営が危機的状況に陥っているとみられる大塚家具と一緒で、ここには共通して「顧客および潜在的な顧客候補にいざこざがどう(悪いように)見えているか」という顧客視点が抜けていることが大きな問題ではないかと思ったからです。

阿波踊りに関しては、テレビにおいては特に問題の本質を掘り下げることなく、徳島市長が赤字を回避するために強権をもって阿波踊りのクライマックス「総踊り」の中止を通達したところ、それに反発した観光協会側が独自で総踊りを決行した、といった事象面の報道に終始しておりますが、それでは、なぜそんなことになったのか、なぜ市長が中止を強行しようとしたのかの背景が全くわからないわけです。

どうも、この阿波踊りのような強力すぎるコンテンツになると、運営側の赤字が累積し、そしてひとたび赤字補填のために、行政からの補助金という名のミルク注入や委託事業という名の果実をもらってしまったが最後、それがいつの間にか既得権となり当たり前となり、地域振興という錦の御旗の名の下、全ての異論(まともなものも当然含む)が封じられるというよくない順路を辿ることが多いようです。

すなわち、もともと祭りというのは、持続する地域のイベントとして、日々毎年、運営側は知恵を絞って運営費用やコンテンツ維持費用くらいは自前で稼ぐプログラムに進化させていかないといけないところ、何をやるにも地域にとっていいことだから、の補助金ありきの運営体制となり、いつしか補助金もらってやってやっているんだ、という精神構造に侵されてしまうのではないか、ということです。

結果、せっかく集客してもその関連するイベントや施設は巨大なプログラムを維持運営する以上の売上を立てることができず、勢い、このイベントを全国もしくは世界に配信するフリーライダーのテレビやインターネットコンテンツ組織のみが、この膨大な祭りコンテンツを消費しつくし、儲けもそちらに流れるばかりになってしまっている、というのが事の本質ではないかと思うのです。

言い換えますと、この阿波踊りという強力イベントを強烈に推進した事務局と地元は、補助金を投入しても大赤字となり、一方、集客された人たちを相手にする宿泊業や飲食店、そして既存の放送網とインターネットを利用したメディア事業者は大儲けするという、本丸の赤字構造と周辺のただ乗り構造が固定化されていることが、問題の本質ではないでしょうか。

ちなみに、今まで運営側の中心にあった観光協会は、それまでの赤字を補填できずに徳島市に泣きついて、そして今回から徳島市がテコ入れして運営側のこれまでのやり方を改革をいろいろと打ってきたようです。

しかし、赤字をどうやって解消するか、という手を打っている(ように見える)、税金の使い方に説明責任を負っている市長に対して、これまで赤字を垂れ流しながらその実なんの手も打ってこなかった(と筆者が勝手に思っている)観光協会側の「阿波踊り振興協会」というのは、市長が総踊りを中止してチケット販売を平均化して赤字補填を行うとした点に反対しました。

あまつさえ、これまで通りの総踊りと称してそれを決行し、「市長の弱いものいじめには負けない」だの「体制には屈しない」だの、市民の代表たる市長の代理である副市長や実行委員会の職員に対して「帰れ」だの、どうも英雄気取りと痛いクレーマーの狭間というか、かなり大きく後者寄りの立場にいらっしゃるのではないか、と思うわけです。

それで、筆者はまだ行った事ない徳島県で、さらにその県庁所在地の徳島市ですが、残念ながら、こんな揉めている土地柄のところに、わざわざ縁もゆかりもない筆者としては、あまり行くことはないだろうなあ、と少し残念な思い出で気持ちもそっと離れてしまいます。

祭りも、家具も、それの本質は縁起物であり、できれば自分の人生を前向きにしたいというかハレの日にわざわざ出向いて鑑賞したり家具を購入したりするものではないかと思うのです。

もし家具が縁起物ではないのであれば、単なる消費財なら、ニトリやイケアで捨てる前提で買うでしょう。

そのハレの日に、わざわざ地域で揉めていたり、親子で揉めていたりする会社の店に行って買おうとか観光しようとか、それはなかなかしないものではないか、と少しだけ思ったのでした。

ですので、全くその地域やサービスや商品を知らない人向けに対する最初の態度としては、できるだけ揉め事があってもきちんと当事者同士で解決した上で、どのように発信するか、という線を決めて発信すればよいのではないか、という学びがありました。

踊る阿呆に見る阿呆。

同じ見るなら踊らにゃ損損。

といいますが、それこそ自分たちは踊りたいから踊る、止める者は体制の回し者だ、借金なんか税金で帳消しにしろ、では徳政令を叫んで打ち壊し回ったかつての農民一揆以上にタチが悪いものになってしまいます。

なぜなら、現代立憲社会国家における税金は踊る人以外の国民から等しく徴収されている血税だからです。

それがわからないのであれば、そういう振る舞いを続けるのであれば、もはや全ての補助金ならびに公共施設(踊り場や道路自体も公共物)の利用を取りやめ、自らの発表の場で、自らのお金で、公共の福祉と法律に反しない限度で、思う存分やられたらいいのではないかと思うのです。

そんな逆効果な宣伝ばかりしていれば、盆踊りのチケットの販売状況も上がらないでしょうし、この問題は次の年もまた次の年も、結構長く尾を引きそうな気がするのです。

大塚家具については、親子喧嘩の店というイメージを最後まで振り切ることができずに、このまま一旦終焉を迎えそうな気配です(あくまで、筆者の個人的なイメージです)。

踊りについては小学校時のオクラホマミキサー以来は結婚式披露宴の汚めの芸事しかやっておりません筆者からの個人的見解は以上です。

(平成30年8月16日 木曜日)

2018年8月15日

トルコリラの暴落により法定通貨のボラティリティが仮想通貨のビットコインを超えた日が来たという話です







おはようございます。

2018年8月の国際金融情勢に関する配信記事です。

現在、トルコにおける経済事情の大きな変更から、トルコの通貨であるトルコリラが暴落している状況です。

このところ、トルコリラ/円は、ずっと下落傾向を続けてきていました。

それは、トルコの政局不安や、トルコ中銀が大胆な利上げに踏み切れないなどといったことが背景にあったと説明されています。

また、米国がトルコに対して経済制裁を発動し、トルコのエルドアン大統領が対抗措置を講じるといった、両国の関係が一段と悪化しそうなニュースがあったことも、トルコリラが売られる一因になっているというような報道もあります。

こうした思惑とあいまって、実際にトルコリラ/円は、2017年9月あたりからほぼ一本調子で下落し、史上最安値をたびたび更新してきました。

そして、2018年8月にいたって、改めて、欧州中央銀行(ECB)においても、同じユーロ圏の一部の金融機関で保有しているトルコ関連資産のリスクが一段と高まったというような懸念が高まっているといった報道で、またトルコリラは一段の暴落を見せており、トルコリラのボラティリティ(価格の変動のしやすさ)も歴史的高水準になっているというわけです。

さて、ここで注目なのは、暴落するにせよ、暴騰するにせよ、本来国民生活と密接な関係がある法定通貨の価格が急激に変化することは原則として避けなければならないのにそうなっていない、というところです。

各国の中央銀行は、それこそこうした価格の急激な変化(ボラティリティといってそれ自体をリスクと置き換えても考えても良いです)を嫌い、自国の通貨と物価の安定のために、自らが信ずる為替レートの範囲内に、何とかレートを抑えようとするのが常です。

それなのに、この、まさに中央銀行でも制御できない暴落局面となってしまった現状で、何とトルコリラのボラティリティが、仮想通貨の事実上の基軸通貨であるビットコインを超えてしまったのです。










これは、国家権力を後ろ盾に持つ通貨の信用力を、仮想通貨で仮想通貨を得たいがためにマイニングでビットコインのブロックチェーンを積み上げているビットコインコミュニティという通貨運営団体への信用の方が一時的に上回ったということに等しく、時代もここまで来たのかと非常に感慨深いものがありました。

いうまでもなく、トルコは結構な大国です。

正式名称はトルコ共和国(トルコ語: Türkiye Cumhuriyeti)、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国で首都はアナトリア中央部のアンカラ、人口は7,500万人を数える歴史と伝統に裏打ちされたイスラム教国です。

決して、おとぎ話で出てくるアレンデール王国やSF小説に出てくるアップフェルラント王国などではないのです。

そんな伝統的大国の通貨と実際には2008年頃からマイニングされて来たけれども信用ならないと世の中のメインストリームになりきれていなかった仮想通貨とのボラティリティの逆転が起こるという、世の中の変化のスピードに驚くばかりです。

そのうち、JPYとかいうアルトコインと呼ばれる時代もくるのかもしれません。

JPYにも仮想通貨にもあまり縁がありませんで、特にJPYマイニングのやり方はなかなか下手な筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月15日 水曜日)

2018年8月14日

人は他人の承認を求めて行動する生き物であるならその他人の中に自分を入れれば良いのではないかという話






おはようございます。

2018年8月のお盆の暑い中の記事です。

お盆では、ご先祖様に思いを馳せて、そのご先祖様が一生懸命いきてくれたからこそ自分の人生につながっているのだということを肌で感じるようにしたいものです。

それも、一つの承認要求を満たす行為なのでしょうが、すでにこの世にいないご先祖様ではなくて、その辺の、生きている他人に認められたいという欲求ばかりが強くなってしまうと、いろいろと生きにくくなるなと感じています。

誰かに認められるということは素晴らしいことだし、当然誰かに認められたいということを前向きなモチベーションにして、何にしろ取り組む、頑張るという姿勢もそれはいいことだと思います。

行動の原動力になるといって問題ありません。

しかしながら、あまりにも他人の承認行動を求めるあたり、他人の評価ばかりを気にして本当に自分のしたいことからずれてしまうという危険性も同時に感じています。

自分の人生なのに、その自分の行動の価値判断基準を自らの価値観ではなく、他人の価値観を「想像して」それに合わせようとする同調圧力がかかるということなのです。

ここで大切なのは、他人の価値観など実はそんなによくわからないと言うことなのです。

美人投票のアノマリーとして知られているのは、かの経済学者のジョン・メイナード・ケインズが、投資行動を美人投票に例えた以下の話が有名です。

玄人筋(投資をプロとして行なっている者)の行う投資は、投票者が100枚の写真の中から最も容貌の美しい6枚を選び、その選択が投票者全体の平均的な好みに最も近かった者に賞品が与えられるという新聞投票と同じようなものであると喝破したのです。

これは、各投票者は、「自身が最も美しいと思う写真」を選ぶのではなく、「他の投票者の好みに最もよく合うと思う写真」を選択しようとすることである、ということなのです。

筆者の下手な株式投資に関しても、市場参加者(=投票者)の多くが、値上がりするであろう(=容貌が美しいであろう)と判断する銘柄(=写真)を選ぶことが有効な投資方法であるということになっておりまして、その点でも、自らの判断だけで投資銘柄を選ぶのは危険だということになります。

あれ?違う話をしていたような。。。

そうでした。

株式投資のような他者の影響を考えなければならない経済事象と違って、自分がやりたいことや自分が満足することに、他者の(承認要求という)影響を入れすぎないようにしたい、ということが、ここで言いたいことでした。

こうするための方法論として、自分がおすすめするのは、自分で自分を承認するという方法です。

自分が自分のやることを承認していけば、ここに他者からの観点が入り込むというノイズが起こりにくくなります。

自分の承認要求を満たすために、自分の心の中の意思に背を向けて、その判断基準を他人に委ねるということがなくなります。

なくならないまでも、かなり減らすことができます。

そして、自分の側面はたくさんあるものの、全て自分自身であり、客観的に見た場合これ以上自分にとって最適な「他人」もいないのではないかと思うのです。

そして、その承認欲求を満たす承認については、非常に些細なもので全く構わないと思います。

何も火星旅行に行って帰ってきた、といった大それたことをしなければならないと気構える必要はありません。

例えば、今筆者はこの文章を書いていますが、これも毎日やることのリストをただ淡々とこなしているだけですが、それでも改めて、今自分はブログの記事を書いているなとか、
毎日がんばってるな、とかそういうことでも立派な承認行為となると思います。

そして、自分が真にやらされているなと感じることや違和感を感じることについてはだんだん自然と遠ざけていくこともできるのではないでしょうか。

付き合い残業とか、無駄な相槌とか、その他もろもろあるでしょう。

承認を自家発電しているようなものですから、これはとても効果的だと思います。

そして、自分の意思決定を自分のものとして再定義することができるというのは、非常に大きな推進力になるのではないかと思っています。

このあたり、どうも承認しすぎるとそのままたゆたってしまう傾向もある筆者にとってはこれからも研究課題となる点ですが、今のところの筆者の持論の感じは今述べた通りになります。

とりあえず、変えられるのは世界より他人よりまず自分から、でいきたいところです。

実は承認どころかずっと寝ていたい筆者からの記事は以上です。

(平成30年8月14日 火曜日)

2018年8月13日

女性の活用とかいう言葉を無くしたいと強く思っている話について書きます







おはようございます。

2018年8月の働き方改革に関する配信記事です。

いきなりですが、人手不足で外国人を採用するといった論調が起こっており、その受け入れる人に日本語能力のどの程度を求めるかといった各論も盛んに議論されています。

現に、建築現場や農業の現場、そして卑近な例ではコンビニエンスストアにおける外国人労働者の比率は増す一方です。

しかしながら、日本には、まだまだ活用されていない労働力はたくさんあります。

まずは共働き率が世の先進国に比べてはるかに低いこの状況においては、大人の男も家事をしなさすぎるし、大人の女も家事や育児を抱え込んでしまい、他に預けて仕事をするようにするというインセンティブをつけるようにするのが先だと思うのです。

女性の活用、とかいう言葉が横行すること自体、ナンセンスです。

言うなら、筆者も含むおっさんの(家事や育児や地域活動への)再活用、と置き換えた方が良いくらいです。

世の中、丸一日働くといった「働き方」ばかりが普通であるという形を変えないと、このマルチタスクの世の中に対応していくことは難しいでしょう。

これは、プライベートと仕事(ワーク)のバランスということではなく、普段の生活から、働くことと遊ぶことや学ぶことが渾然一体になってきている、ということからも、明らかなことです。

最近の企業研修でも、すでに決まったビジネスマナーやスキルを学ぶというより、所属する組織が持ち得ていない観点や視点、そして技術分野を積極的に求め、若手に会社を一気にブレイクさせるだけのパワーを求める、といった傾向の方が強くなってきていると思うのです。

実は、会社の幹部や経理担当、管理部門については、外からの採用が容易です。

管理者としての社長すら、それなりの報酬を示せば外から引っ張ってくることは可能です。

しかしながら、その会社が世の中に存在する本当の価値を体現するノウハウや技術や販売体制や社員そのものの存在やネットワーク、については、いくら管理者を代替しても得ることはできません。

それこそ、企業存続の本源的価値として、大事にしないといけないところなのです。

働き方改革とは、本当に人員が不足して多様な職場を選ぶようになった、というある意味望ましい労働者環境に戦後初めて置かれた我々が、本当に自分のこととして働くようになるようになるまたとない機会であるとも言えるのです。

それでもやっぱり1日くらいは朝からぐうたらしていたいと考えてしまう、向上心の少ない筆者からは以上です。

(平成30年8月13日 月曜日)

2018年8月12日

真夏の暑い中に冷蔵庫やクーラーがなぜ冷えるのかという仕組みを簡単に1分で解説します






おはようございます。

酷暑の夏の2018年8月のクーラーに関する配信記事です(メモ記事です)。

そもそも、冷蔵庫やクーラーがなぜ冷えるのか、明確に答えられますでしょうか。

冷蔵庫が冷える理論、それは、冷蔵庫やクーラーの中に巨大な氷があるわけではなくて(それは氷室といいますね)、液体が気体に変わる時に「周りから熱を強力に奪う」という現象を利用しているということは、意外に知られていないことかと思います。

小学校や中学校での理科の授業においても、このことはあまり触れられていません。

高校の理科の物理学の初歩である、熱学について学ばなければいけないので、少し理論的には難しいからです。

しかし、感覚的には、例えば道路に打ち水をすることで、涼しくなることを体感した人にとっては、わかりやすい話ではないでしょうか。

これも、打ち水をした水が蒸発するときに、周りの熱い空気から熱を奪うということをやるからです。

たとえば、ベランダに放置した温度計の気温を見ると、36度を差していたとします。

そこに、コップ一杯(200ml)の水を周りに打ち水して、10分間様子を見てからもう一度気温を測って見ますと、35度に(ほんの1度だけですが)下がっていました。

このように、その辺にある水(H2O)でも、十分に冷却機能を自然に持っているというわけです。

これを循環的に逆に言えば、気体になるためには熱を必要とし、逆に気体が液体に変化する際には周りに熱を放散する(熱を放り出す)という現象が起きます。

冷えると水(液体)になるのではなく、気体が冷えた結果、水(液体)になるというわけです。

さて、冷蔵庫やクーラーには、こうした気体←→液体の変化を繰り返すことによって、発生した熱を捨てたり、熱を周りから奪って冷風を流したりするということを、電気の力によって繰り返す冷媒機能が組み込まれています。

すなわち、冷蔵庫やクーラーには、気体から液体、液体から気体への変化を繰り返すたびに、熱を吸収したり熱を放出したりする媒体である「冷媒」と呼ばれる物質が機器の中のパイプに閉じ込められていて、この冷媒の作用こそ、冷却機能の本質ということになるのです。

まとめますと、液体から気体になるときに熱を奪う機能を利用して、そこに風を当てて冷風を放出し、気体になった冷媒を圧力をかけて液体にする時に発生する熱はそちらも風を当てて外気ファンを通じて外に出す、これが冷蔵庫やクーラーの基本的仕組みになるのです。

ですので、冷蔵庫が室内にあると、冷蔵庫の後ろから発生する「熱」で部屋は実は少し暖かくなります。

室内でクーラーをかけると、外の排熱ファンからは、暖かい(というか真夏は熱いくらいの)風が出てきます。

真夏のビル群の外が殊の外熱いのは、アスファルトでの放射熱作用と、さらに室内クーラーを聞かせていることからくる外への排熱という影響も無視できないのです。

この点、ドライヤーや湯沸かし器といった「暖房」器具については、単に電気やガスの力で熱を「発生」させれば済むだけなので、人間社会においても例えば今から50万年前の北京原人の時代から人類は火は使っていました。

しかし、冷蔵庫やクーラーというこの本来の循環する冷却機能という仕組みを使い出したのは、ほんの150年前、電気というものを人類が手に入れてからということになります。

以上まとめます。

冷蔵庫やクーラーは、気体から液体へ、液体から気体への状態変化時に起こる、「周囲から熱を奪う」・「奪った熱を発散する」というサイクルを繰り返しながら、庫内や室内を冷却する機能を持った家電製品です。

液体から急激に気体へする際に、気圧を下げるため、及び、気体から急速に気圧を高めて液体に戻す際に、必要となるのが電力です。

さらに、発生した冷気や熱気を、放出したり排出したりするためのファンを回すための電力も別に必要となります。

冷蔵庫やクーラーは、こうした現象を利用し、

1 冷却器で圧力を下げて、冷媒を液体から気体に急速に状態変化させる。
  このとき周囲から熱が奪われる。冷気発生(涼しい〜)。
2 発生した冷気をファン等で庫内へ流す。
3 気体となった冷媒が、圧縮機(コンプレッサー)に運ばれる。
4 冷媒(気体)を圧縮機(コンプレッサー)で圧縮して、高温、高圧の気体へ変える。
5 放熱器(コンデンサー)を通しながら、冷媒を気体から液体に変える。
  このとき周囲に熱を放出する。熱気発生(熱い〜)。
6 発生した熱気をファン等で外気へ流す。
7 再び液体となった冷媒を、冷却器に送る。(1へ戻る)

ということを繰り返しながら、一部を涼しく、一部を熱くするという、熱の移動を行いつづける機械ということになります。

ですので、地球上全てのクーラーを稼働させたところで、地球全体が冷えるということはありません。

むしろ使っている電気の分だけ、むしろ温度は上昇してしまうということになります。

2020年に迫った東京オリンピックで、暑さ対策でお店や事務所のクーラーを、窓全開で開放すればよいのではないか、などと組織委員会が言ったとかいう噂が流れていましたが、もしこれが本当ならば、クーラーの基本的仕組みすら理解していない方が、2020年オリンピックの組織委員会になぜ紛れ込むことになったのか、それこそ夏の怪談で肝の冷える話ではないかと思いました。

東京オリンピックの成功を切に祈る身としましては、単に競技時間を2時間か3時間前倒しにすれば、実はアメリカやヨーロッパの夜や夕方のゴールデンタイムに生中継で放映されることになりますし、状況は一気に好転するのではないかなどと思っています。

真夏の溶けてしまいそうな暑さの中、こちらからの意見記事は以上です。

(平成30年8月12日 日曜日)

2018年8月11日

日本国憲法の改憲議論の本質と自分自身の考えについて述べておきます







おはようございます。

2018年8月の日本国憲法に関する配信記事です。

戦後70余年を過ぎ、そして原爆や終戦といった慰霊の日々を過ごす季節になりました。

そして、刻々と変わりゆく国際情勢に対応した、憲法の改正議論というものが、盛り上がったり盛り下がったりしながら、進んでいっているのが今の政治の状況です。

それでは、憲法改正、本来最も議論になるべきはどこなのでしょう。

実は、戦争放棄と国の交戦権を否定した、日本国憲法第9条の存在だと思われるのですが、それでは一体、改憲派も護憲派も現状をどのように理解したうえでどう改正したいのか、どう(改正するのを)反対したいのか、あまり整理がされていないのではないかと思うのです。

それですので、筆者の一方的な解釈が入りますことはご容赦いただきながら、できるだけ簡潔に現在の問題点について論じていこうと思います。

論点は、ズバリ「タテマエとホンネ」です。

タテマエとして今の日本国憲法は、明確に戦争放棄、国の交戦権を否定しています。


(日本国憲法 第9条)
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

・・・このように、高らかにうたっております。

これは、明らかにタテマエ(建前)の話です。

現実には、日本国は、日本国民の生命財産権利を守るため、必要な武力、実力を保有し行使しています。

警察や消防より当然強い、国レベルの戦闘防衛ができる組織、それが自衛隊で、自衛権という国家が自らの存続を担保するために必要な行為や準備、組織体を保有することについてはこの第9条と反するものではない、という憲法解釈により、自衛隊法という法律に基づく組織体として自衛隊が組織され、災害救助や国際PKO活動、それから専守防衛を任務として全国に展開されております。

つまり、これまでの内閣法制局、の解釈により、こうした解釈が積みあがってきています。

第9条の1項と2項とは一見矛盾するものの両立を目指した、ホンネ(本音)の部分が下記のように事実上付記されるに至ったわけです。


(ホンネ部分、便宜上第3項から第5項まで付しましたが、当然憲法本文にはありません)
仮3 前項の規定は、自衛のための必要最小限度の実力組織の保持を妨げるものではない。
仮4 前項の実力組織は、国が武力による攻撃をうけたときに、これを排除するために必要な最小限度のものに限り、武力行使をすることができる。
仮5 前項の規定にかかわらず、第三項の実力組織は、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされる明白な危険がある場合には、その事態の速やかな終結を図るために必要な最小限度の武力行使をすることができる。

第3項(仮)に「自衛権」を保持する予定の組織の存在、第4項(仮)に個別的自衛権、第5項(仮)に集団的自衛権を示してみました。

いずれも、戦後70余年を経て、時の内閣によって決定し、または発議され、国会によって承認成立した法令等に基づいて行われています。

事実上、この日本国憲法は上記の3、4、5という法律上の「(ホンネの)憲法解釈」によって、戦後長い時間を経て整備されたこの事実上の解釈によって、曲がりなりにも自衛組織としての自衛隊を編成し、それを運用するということをやっているというわけです。

自衛隊は、映画シン・ゴジラなどを見るまでもなく、日本国民の生命財産権利に対する強力な守り、備えです。

日本国民の生命を守る最後の砦は、自衛隊しかありません。

それでは、この現状のホンネ部分を、憲法の条文に「格上げ」して記載することが必要なのかといいますと、筆者はそうではないと思うのです。

それでは、崇高な理念を持って国民が定めて公布した憲法としてはこのままで良いと思うのです。

いくらホンネが見え隠れしている世の中であっても、やはり人間「理想」「タテマエ」によって動かされる部分もあると思うからであり、そもそも自衛権など憲法条文にわざわざ書かなくても、国が本当に滅びようとするのであれば、為政者も国民もそんな垣根は取っ払って、自らたちのために立ち上がるでしょうから、為政者の権限を抑制する、という憲法の本来の意味からすれば、為政者側に都合が良いホンネの条文をわざわざ長たらしく記載して憲法条文に格上げするということはあまり意味のない、むしろそれを根拠に自衛隊という権限が際限なく増大してしまうことの不具合のほうが大きいと見ています。

あらゆる国家機構は全て国民の生命財産権利のために動いています。

その中で、非常に極端な例でありタテマエの話が最もききにくいところが、戦争や国同士の交戦、といった事象です。

それだから、タテマエも、ホンネも併記しましょうでは、結局みんなホンネしか見なくなります。

それは危険なのです。

あくまで、タテマエとして戦争を否定したうえで、現状の現実的な解を選択するということが望ましいと思っています。

もしかしたら、ジョン・レノンがイマジンという歌に込めて歌った、世界中の人が武器を捨てて手をつなぐ日が本当にやってくるのかもしれませんから。

その時にわざわざホンネ部分の条文を削除するために国民投票をする、これではあまりにもカッコ悪いではありませんか。

寝たいときに寝て、食べたいときに食べる、ホンネばかりでタテマエの勉強や学習や訓練がおろそかになりがちな弱い筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月11日 土曜日)

2018年8月10日

やっぱり地球は丸かった(Googleマップが球体表示を実現した)という話です






おはようございます。

2018年8月のやっぱり地球は丸かったということを語る配信記事です。

すでに全世界の「地図」の第一人者としてその地位を固めたと言えるGoogleマップが、ついに平面の世界を飛び出し地球を本来の球体表示にするという発表を行いました。

それを知った筆者も早速みてみました。

ひたすらズームアウトしますと、Google公式の広報でなされているように、「グリーンランドがアフリカ大陸並みの広さに表示される」というメルカトル図法上の問題点はかなり解消され、丸い地球の上に都市や山脈が載っている、いわゆる宇宙飛行士的な視点で見ることができました。

これはかなりの進歩です。

メルカトル図法上の「地図」では、緯度が高い箇所はそれだけ引き伸ばされて、実際の面積より大きく表示されます。

たとえば南極大陸は、地図の下部に巨大な塊として描かれてしまいますし、先に述べたグリーンランドやカナダの北部などの島々も、ありえない大きさで表示されてしまいます。

スカンジナビア半島も、巨大な佇まいを見せていますが、実際はもう少し小さいのです。

これは、自らの存在を誇示したい、北緯のある程度以上の緯度にある、ヨーロッパ各国の自己主張だったかどうかは置いておいて、本来地球儀で見る地球においては、アフリカ大陸や南アメリカ大陸は、普段過小評価されている分非常に大きく写りますし、ロシアなども、以外に平べったく小さいと思うのではないでしょうか。

さて、Googleマップに戻ります。

Googleは、正確には「Globe Mode(地球儀モード)」という新しいGoogleマップをリリースしており、普段の地図よりひたすらズームアウトしていくと、地球が本来の形である球体っぽく表示されます。

マウスやタッチパッドを使ってこの「地球」を回転させることもできます。

写真のように、実際に試してみたところ、なんと実際の衛星画像の台風の画像まで写っていて、これはほぼリアルタイムに「更新」されていることを確認しました。

現在、東京方面に向かっている2018年の台風13号の位置も気象庁提供の衛星写真とほぼ一致しています。

これは、Googleが保有するクラウド用サーバーの容量が拡大を続け、ついに地球の表面の状況を衛星写真等を利用して随時表示することが可能となったということを示しています。

恐ろしい処理量であり、おそらくこんなことが可能な企業は、(現時点では)世界中の情報を検索し尽くすということを企業理念にしているGoogle社以外にはないでしょう。

グリーンランドがアフリカ並みの大きさで投影されることが常識と化していた筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月10日 金曜日)

2018年8月9日

2004年から始まった日本の法科大学院制度がほぼ崩壊の危機に至ったという話です








おはようございます。

2018年8月の日本の法曹界(いわゆる裁判官・検察官・弁護士の法曹3者)の育成状況に関する配信記事です。

筆者は1997年に大学法学部を卒業しましたが、その最終年度に、旧司法試験の二次試験(いわゆる短答式試験)を就職活動の傍ら受けたことがあります。

受けてみて、そしてそれなりの手ごたえがあれば、2年程度「留年」するか大学院にでも進んで旧司法試験に挑戦する人生もあるかと考えて受けたのですが、結果は、かなりの(合格ラインにかなり遠い)惨敗でした。

ここで、心おきなく民間企業であるところの当時の長期信用銀行に就職し、社会人として第一歩を標すわけですが、並行して試験を最終合格して取得した「国会議員政策担当秘書資格」については、日の目を見ないまま現在に至っております。

受かるかどうかという気持ちがあった試験と、受かるとはあまり思っていなかった試験で、結果が全く分かれましたが、人生このようなことはままあると思い、挑戦した結果を受けて前に進めたのは後から考えても良かったと思います。

つまり、とっとと失敗して、その結果を受け入れて、次に進むというやつです。

そうして自分としては離脱した法曹界への道ですが、折しも、当時行われていた大幅な司法制度改革、その法曹従事者育成、選択面で大きな目玉だったのが、法科大学院を基軸とする制度変更でした。

しかしながら、法科大学院による新司法試験制度が始まってから20年、どうやらその制度設計は完全な失敗に終わったようです。

全国の志願者は、初年度の9分の1と減少の一途をたどり、すでに制度開始時に全国で74校を数えた法科大学院のうち、これまでにほぼ半数の35校が募集停止や撤退に追い込まれ、残った法科大学院のうちの多くが、定員割れを起こしているという状況で、すでに累積赤字は膨大なものとなっており、文部科学省による支援も限界です。

2018年度の法科大学院の入学者総数は1621人(昨年▲83人、4.9%減)となっており、法科大学院制度の創設時の2004年の7万2800人に比べれば隔世の感は否めません。

それでは、現在、真に法曹を目指す人材は、どのようなルートを利用して、新司法試験にチャレンジしているのでしょうか。

それは、法科大学院(日本版ロースクール)を卒業しなければ本来付与されない、新司法試験の受験資格を取得できる誰意外的な措置、「予備試験」の存在です。

つまり、例えば実質的な大学入試勉強が必要でない慶應義塾や早稲田の系列校の高校生たちは、高校2年生くらいから、そして東大や京大の法学部に進学した大学生は、入試の余韻も冷めやらぬ大学1回生の夏前から、すでにこの予備試験の資格勉強を開始します。

そして、進路としてはそのまま法科大学院に「入学」するというルートを辿るものの、法科大学院の修了を待たずして、それまでに、早いものは大学学部のうちからこの予備試験に通ってしまい、新司法試験への受験資格を得て最終試験も合格していく、というルートが、事実上一番の現在の法曹養成のトップエリートコースになってしまった、ということなのです。

大手法律事務所であればあるほど、この予備試験突破組の資格者を自事務所の弁護士にリクルート、採用しようとします。

明らかに、自分たちがよく知っている旧司法試験に近しい、地頭の出来が判定しうる試験として、かの業界では重宝されるのです。

弁護士、検察官、裁判官とは、日本語という不可解極まりない、それでいて簡潔に世の全てを表記することのできる超絶難解言語を駆使するという、社会科学的世界のトップが君臨している世界です。

こんなブログ記事を書いている筆者など、目じゃありません(それが社会経済の本当の意味での発展に寄与しているというかどうかという観点は除きますが)。

となれば、完全に受験資格をほぼ不問としていた、旧司法試験と同様の状況に逆戻りしているというわけで、やはり法科大学院とは所詮資格試験で筆記の実力一本で臨む試験対策以上の「効用」「世間の支持」が得られなかったのは残念なところでした。

事実、2011年に予備試験が導入されてから、この例外的な制度に事実上絞った新司法試験受験者が急増し、法科大学院の志願者はさらに減少の一途を辿りました。

法科大学院の志願者が減れば、輩出される法曹実務者の質の低下につながり、そのテコ入れのために旧司法試験を事実上一部復活させる予備試験を例外的に導入したところ、そちらの方に受験者が流れてしまい、さらに法科大学院の入学者が減ってしまうという悪循環により、ここまでの惨状となったわけです。

そして、結果2017年の司法試験合格の上位5つの出身大学は、慶応大、東京大、中央大、京都大、早稲田大という、これは筆者が大学生であった25年前とほぼ何も変わらない状況になってしまいました。

やはり、制度をどういじっても本質的なところでは変化は起きないものであるという、壮大な国家的社会実験の結果だったような気もします。

そんな20余年を経て、そろそろ筆者も、学生時代に挑戦し一度敗れた旧司法試験をほうふつとさせる、この予備試験にトライしてみようかと考えています。

年齢制限がなく、経済的な負担も少ない、試験一本で成り上がる「制度」というのも、これはこれである意味平等で、自由な競争による選抜ならばあってもいいのではないかと考えているのです。

年齢制限がなく、経済的な負担も少なくチャレンジできる、スポーツでも勉学でもかかわらずそのように世の中が進めば、よりよい社会に近づくのではないかと思っています。

法の本質はタテマエとホンネだと、かつてローマ法の大家であった柴田光蔵教授(当時)に教えてもらったことだけは鮮明に覚えております筆者からは以上です。

(平成30年8月9日 木曜日)

2018年8月8日

映画「シン・ゴジラ」を見ながら映画の漫画との垣根の喪失というテーゼについて考えた話です






おはようございます。

2018年8月の邦画に関する配信記事です。

2016年映画「シン・ゴジラ」を改めて見ました。

Amazonのプライム会員のサービスで見放題のラインナップに、ついにこの映画も含まれることになったのを偶然PC画面で見てしまったので、時間を作って視聴し堪能しました。

映画館で3回(うち1回は4DX)、DVDなどになってから数回、いずれも2016年~2017年に視聴しましたが、2018年の8月になって改めて見ても新しい気づきがありました。

一番の気づきは、この映画は漫画やテロップ付きバラエティ番組に慣れた現代日本人にとって、非常に心地よい理解が図られるものである映画であるという「説」です。

台詞を音声で話すより、文字を目で追う方が数倍の速度で頭に入ってきます、というのは周知の事実です。

しかしながら、それでも音声での演説がなくならないのは、それは、演説が身振り手振り、声の抑揚といった、「文字情報以外」で伝える部分が過半を占めており、例えばかのヒットラーのナチス党大会のニュルンベルク演説を動画サイトなりで見ることができますが、ドイツ語がそんなにわからなくてもなんとなく現場の熱気は伝わってくるということからもわかることだと思います。

しかしながら、単なる情報として処理を求める場合、台詞はより早口になり、登場人物の紹介や参照法令や自衛隊機や特殊車両や職位については、一瞬のテロップで済ますという「手法」が使われ、2時間という映画時間いっぱいいっぱいを使って、このシン・ゴジラ登場の背景や影響について、目いっぱいの情報を詰め込んだ映画に仕上がっています。

登場人物も非常に多く、エキストラ含めれば日本映画史上随一ではないでしょうか。

ゴジラ自体の動きも、能楽師(狂言師)の野村萬斎さん(この方は2020年東京オリンピックの総演出にこの度就任とのこと、おめでとうございます)のモーションキャプチャーだそうですが、ここまで細部にわたって作りこまれたゴジラ世界を「表現」するには、スターウォーズで採用されている、映画の最初にテロップ文字で「序章」「背景」を流すあのやり方と同じく、視聴者を引き付ける方法として有用だと思ったりしました。

これから、映画や動画のセリフも、目で追う時代になるような気がします。

そこで、このシン・ゴジラも、別途映画の全セリフを取り寄せて、それを横に見ながら再度視聴してみますと、非常に理解が深まりました。

これぞ求めていた映画の深読みなのかもしれません。

耳では今一つうまく何度聞いても聞き取れなかったセリフも、言語化しているので助かりました。

例を挙げると、一方主人公の「君の~~~には助けられた、例を言う」のどうしても聞きとれなかった~の部分が、「キャラ」という非常にスラングな普通の言葉だったことを知って、意外に安堵するといった具合です。

ストーリー漫画というものを生み出し、それを世界中に広め、そして映画の世界でも迫力の映像だけではなく、ストーリーを極限まで早口で語らせ物語の世界観に深みと現実感を出していく、こうした映画の取り組みの先に、全セリフの日本語字幕、というものがあるような気がしました。

そんな感じで夜中を過ごし、そして禁断のカップラーメンに手を付けてしまった積み深い筆者からの回顧録は以上です。

(2018年8月8日 水曜日)

2018年8月7日

働き方改革が求められるという本当の背景について少し考えてみたという話です






おはようございます。

2018年8月の社会人についての考察記事です。

働き方改革が叫ばれておりますが、これは別段、時の政府がいきなり言い出したわけではなく、もう随分前からわかっていたところの少子高齢化という社会現象が、ようやく実際のビジネス現場に否応無く押し寄せてきただけのことだと思っています。

すなわち、働き方改革なるものは、もはや若くて元気のいい奴を採用できるなど宝くじに当たるようなものであるという日本の状況にようやく気づいた官民全体が、これはいかんと躍起になって、あらゆる年齢層、あらゆる労働職位階層において生産性を高めるために聖域なく改革していかなければ日本は経済的に沈没するであろうという危機意識からきたものであると勝手に思っています。

そして、その働き方改革の中には、会社側事業者側で勝手に設定した週休二日制、平日週労働時間40時間、そして若干程度の残業、という労働時間のあり方も、一気に流動化するという要素も含まれていると強く考えています。

そういうわけで、筆者なんかも自分の会社のグループで始めたシェアオフィス事業の実際の現場に土日祝日にさらりと居たりすることもありますが、例えば土日の方が空いていて作業に集中できるといった利点がありまして、これなどはまさに働き方改革ではないかと思っています。

他にも、商業施設に勤めている人が、事務作業を同じ商業施設で同時に行うなど、販売、事務、営業、そして経理や経営判断についても、これからは分業ではなく一体とした業務判断がなされていくように思えてなりません。

ところで、なんでも計算できるというサイトで、年間の営業日というものを検索してみました。

土日祝日を休みとして、銀行や官公庁も休む年末年始も休みとするいわゆる標準的な営業日は、年間365日(うるう年ではない標準年)において、245日あるという結果が叩き出されました。

つまり、営業日245日に対して休日は120日あるという計算になります。

この120日の使い方一つで、社会人としてのスキルアップも能力向上も潜在顧客開拓も新規事業開拓も、英語も中国語もプログラミングだって、実は案外簡単なのではないかと思うのです。

もちろん、人には家庭や地域社会でも抜けられない役割があり、子育て介護に地域貢献といろいろとやらなければならないことは多いでしょう。

しかしながら、平日と休日、これも最初は政府や当局が決めた決め事であると考えれば、むしろ休日にこそより早起きして自分が真にやりたいことを突き詰めればよいわけです。

筆者のような者は、どうしても真にやりたいことの前に寝過ごしてしまうという醜態を晒してしまいますが、世のアントレプレナーたちや伝説的な企業経営者や何かを成した者たちは、おそらく平日の、他人に決められた業務時間以外の、自分で使える時間を殊の外大切にして大事にちびちび有意義に使っていったに違いないと思うのです。

たとえ、今どんなにきつい職場にいたとしても、今後は年間休日120日の世界にどうしても収斂していきます。

人手不足なのですから、労働環境が悪い「だけ」の職場は淘汰され、労働者は他社にいってしまうのは自明です。

筆者が新卒社会人になった頃の25年前くらいは、

「お前の代わりなどいくらでもいるんだ」

で通用した日本の職場は、大きくその姿を変えています。

労働者を雇用する事業者はもとより、労働する労働者も、自らの貴重な労働力をより強く認識し、会社に貢献しているか、会社に労働力を提供しているそれ以外の時間が年間120日ありそれはとても大きなものであるという認識を持って過ごせば、この少子化の世の中を少しだけ良いものにできる働き方改革になるような気がします。

それでも年間365日遊んで暮らしたい(せめて1年だけでも)と思ってしまう筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月7日 火曜日)

2018年8月6日

平成末期に昭和末期の30年前を振り返り常識というものが如何に変わるか確認したという話です







おはようございます。

2018年(平成30年)8月の常識を疑うべきという配信記事です。

常識に縛られるなとか常識を疑えといった言葉がよく聞かれるようになりましたが、そもそも常識なるものが平気で変遷するものであるということは、実は少し歴史の勉強をしたり、ほんの近い過去のことを振り返るだけでわかるものではないかと思います。

例えば、百年に一度の(金融)危機、などと2008年に起こった米国の金融機関であるリーマンブラザーズの破綻に端を発した世界的金融不安のことを言ったりする向きがございますが、たとえば我が国で百年遡れば、そこは日本が国家の存続をかけて当時の世界最強の陸軍国であるところのロシア帝国と朝鮮半島そして満州の荒野や日本海黄海をまたにかけて限界まで戦い通した、こちらから言えば日露戦争を戦っていたわけであり、数十万人の犠牲を強いて国の予算の数年分を使い果たしたこのような出来事に鑑みるに、簡単な気持ちで軽々しく百年に一度の〜などと申し上げるべきではない、ということであろうと思います。

当時は、日英は軍事同盟を結び、共に対抗してロシアの極東進出を阻もうとしていたのです。

まさに、現代の地政学で言われている通り、シーパワー(海洋国家)連合によるランドパワー(陸軍国家)の封じ込めであります。

今回、アメリカが離脱したTPP(環太平洋パートナーシップ協定)に、太平洋上にも領土(ピトケアン諸島)を持つイギリスが参加を前向きに検討している、というニュースに触れ、これこそ100年越しの日英同盟の復活かとひそかに心待ちにしている筆者です。

のちに太平洋戦争で互いに争うことになる両国が、この時点でここまで緊密な関係にあったということを見るだけで、常識なるものが簡単にその姿を変えることの何よりの証左であろうと思います。

百年というスパンから、もう少し近場の過去に目を転じてみましても、例えば平成末期からたかだが30年ほど前にすぎない昭和末期では、以下のようなことが「常識」でありました。

昭和末期
その1 保護者から教師へ「先生ウチの子言うこと聞かないなら殴って下さい」
その2 部活の顧問や先輩「練習中に水飲むな!」
その3 家には黒電話で路上には公衆電話
その4 会社は終身雇用制度

こうして並べてみますと、その時代を当然知っている我々のような中年世代を超える人以外には、一体何のことやらわからないこともあるのではないでしょうか。

1や2などは強烈すぎます。

3もびっくりですし、そもそも電話がなぜ黒いのか不明ですし、4などすでに歴史上の言葉のように思えます。

この1−4を、平成末期の「常識」で並べてみますと、以下のようになるでしょう。

平成末期
その1 学校での教師による体罰は即懲戒処分
その2 熱中症対策で常に水を飲むように
その3 スマホ/タブレット/インターネット
その4 派遣切り

こうしてみますと、たった30年で、人間の常識なるものは全くもって変化するものであり、1や2のように真反対になるものすら相当程度あるということです。

そうすると、いっ時の常識なるものに縛られていては、その後大いに生きにくくなると言うのは自明でして、当然その当時の世の中で大切にされているものである「常識」に対しては一定の尊重を見せつつも、常にそれは変わりうるものであるということを肝に銘じて、日々の変化に敏感に過ごした方がより幸せに過ごせるのではないかと思いました。

ところで、昭和生まれの小さい頃からドラゴンボールが好きで、今でもドラゴンボールをみているこの点では常識に変化のない筆者からの意見記事は以上です。

(平成30年8月6日 月曜日)

2018年8月5日

長崎県に限らない地方銀行の過当競争に関して個人的意見を述べておくという記事です








おはようございます。

2018年8月の地方銀行の過当競争に関する配信記事です。

公正取引委員会がずっとこの数年待ったをかけていた、長崎県の地方銀行2行(長崎市地盤の十八銀行と佐世保市地盤の親和銀行)の合併統合に関して、ようやく認められる方向になったようです。

非常に感慨深いです。

既に、2000年代には、狭い日本に全国展開している20行近くあった都市銀行、信託銀行、長期信用銀行たちは、それぞれの収益基盤の先細り感からこぞって集合統合を繰り返し、今の赤グループ(三菱)、緑グループ(三井住友)、青グループ(みずほ)というメガバンク3行体制に収斂してきたのに、場面を地方都道府県レベルに落とした時には、県内融資残高が突出するという論理で統合を頑として認めなかったのです。

これはかなり二重基準と言えまして、例えば長崎県、とひとくくりに申し上げましても大きな経済圏としては、長崎市を中心とした一帯と佐世保市を中心とした一帯に大きく分かれており、この二つの都市圏は歴史も違えば文化も違う、はっきり言って隣の県レベルに何もかも違うわけです。

当職は同じ話をかつて長野県の松本市に行ったときに痛切に感じまして、かの地においては、1998年長野オリンピック(当然長野市で行われますが)は驚くほど盛り上がっておらず、長野新幹線などどこ吹く風、東京からの始発特急あずさに乗って3時間、松本駅から北アルプス上高地、みたいな旅情がそのままたなびいておったわけです。

当時、1998年でしたが間違いなく長野オリンピックを松本城の真ん中で叫ぶことはなかったけれども、長野市の善光寺では、冬季オリンピック一色でありました。

ちなみに松本市の人にとっては、長野県など屈辱的な名前に過ぎず、今でも信州信濃、と呼ぶのがスタンダードのようです(県の歌は「信濃の国」)。

もちろん、学生あがりのペーペー社会人であった筆者の受けた感覚ですから大げさな部分も含まれているとは思いますが、それくらいのインパクトがあったのです。

さて話を長崎に戻します。

つまり、長崎市レベルで見れば十分独占と言える十八銀行の存在、片や佐世保市レベルにおいて見れば大いに独占と言える親和銀行の存在を見るに、それを長らく黙認し放置していた公正取引委員会が、その2行が合併すると長崎県レベルで独占が発生するからよくない、合併統合は認めないと言っているのであれば、一体公正取引委員会というのはどのレベルでの独占寡占を規制している行政当局なのか疑問だということになります。

それに、公正取引委員会が設置されている根拠法である、独占禁止法ですが、この適用対象として、全世界的に展開してほぼ電子商取引の世界で独占状態を続けて独走しているアマゾンや、SNS世界であらゆる新興サービスを吸収合併しながら貪欲に成長し続けるフェイスブックのほうがよほど独占による規制対象としてふさわしいと思うのですが、そうした会社についてはグローバルに展開しているので捕捉しようがないという風に見えるのも、少々二重基準が過ぎるようで面白いと思ってしまいます。

さて、こうしたわけですが、長崎県に限らず、全国津々浦々に存在する日本の地方銀行をめぐる経済環境は、そもそも厳しく過当競争で皆共倒れになるリスクの方が、独占による弊害よりはるかに高いと思います。

何しろ、「銀行」で仮に独占したとしても、顧客に高い貸出金利を要求すれば、顧客である借り手は容易に類似の金融機関、すなわち信組信金農協、それからクラウドファンディングに果てはサラ金、乗り込んでくる隣の県(例えば福岡県の福岡銀行とか西日本シティ銀行とか肥後銀行鹿児島銀行の九州フィナンシャルグループとか)の地銀にまるごと融資シェアを持っていかれ、そしてゼロ金利で全くお荷物となっている支店網の預金吸い上げ機能を抱えたまま、右往左往するしかなくなります。

その上、全世界的なフィンテック革命の嵐の中から、何たらペイを超える革命的フィンテックサービスが乗り込んでくれば、ひとたまりもありません。

ゼロ金利なのですから、わざわざ顧客(預金者)からお金を集めるのではなく、マーケットや他の地銀や他のメガバンクから、インターバンク市場でお金を必要分だけ「調達」してくればよいだけなのに、そうしないのは、地方経済にATMを設置して、顧客(預金者)の利便に現金を供与しなければならないという地銀の宿命でもあります。

合わせて預金部門を廃止してしまえば、例えば将来に金利が上昇してインターバンクでの調達が苦しくなった時(かつての支店網を持てない長期信用銀行が苦しんだ如く)、自前の預金部門があるのが経営安定のために必要であるからでもあります。

しかしながら、いつ金利が上がるのか全く分からない中、ずっと赤自店舗部門を抱えて維持し続けるコストは、本当につらいものであることは間違いありません。

いっそすべてコンビニATMへの「名義貸し」に特化して振り切ってしまう、というくらいの荒療治が必要なところまで来ているのです。

公正取引委員会の存在意義自体まで踏み込んだ、非常に奥深い壮大な問題に切り込もうといたしましたが、いかんせん浅学であるのでそのとば口で筆を置きたい筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月5日 日曜日)

2018年8月4日

プロ意識とは整理整頓から始まるということを学んだサッカーのジーコ選手の言葉について

サッカー日本代表がロシアワールドカップ2018で使用したあとの清掃されたロッカールーム





おはようございます。

2018年8月の日本のプロサッカーリーグに関する配信記事です。

J1のチームである、ヴィッセル神戸にスペインリーグのリーガ・エスパニョーラのビッククラブである前バルセロナFCの世界的名手、魔法使いとも呼ばれるアンドレス・イニエスタ選手、同じくサガン鳥栖には英国プレミアリーグで神の子とよばれたフェルナンド・トーレス選手が加入するなど、日本のサッカー界も、ついに欧州の超一流選手が移籍するようになってきたというのは大変喜ばしい限りです。

しかしながら、日本のプロサッカーリーグが生まれたばかりに、日本にプロ意識というものを注入した、ブラジルの英雄ジーコ選手のことを思い出さずにはいられません。

ジーコは、ブラジル代表の10番として君臨したまさにかの国の英雄でした。

そのジーコが、一旦引退してブラジルにスポーツ大臣に就任、その後日本のJリーグの求めに応じて引退を撤回して日本の地を踏んだのは、Jリーグ創成期の住友金属工業蹴球団(現在の鹿島アントラーズ)でした。

さて、この当時の田舎町の弱小プロチームは、ジーコ選手にとって弱小の名前にふさわしい振る舞いだったようです。

アマチュア意識が抜けず、たとえば練習後の夕食のあとに、夜な夜な寮を抜け出してスナック菓子などのジャンクフードやビールを買い込んでくる選手があとを絶たなかったそうです。

ジーコ選手は、こうした振る舞いを止めてプロサッカー選手としての意識を叩き込むため、なんと毎晩選手寮の出入りを見張って、彼らが買って来た菓子やビールを没収、プロ選手の体づくりに必要な食材ではないと当時、選手寮の玄関脇で買っていたヒメという名の雌犬にそれらを次々と食べさせ、丸々と太ってしまったヒメを見せて言い放ったそうです。

「お前らみたいなプロ意識のない選手のせいで、可愛かったヒメがこんな太った姿になってしまった」

と。

ジーコ選手は、選手のスパイクシューズやボール、そしてロッカールームの整理や使い方についても大いに幻滅し、嘆息します。

ジーコは滔々と述懐したそうです。

世界的名手である、「白いペレ」とまで呼ばれたブラジルの英雄が、日本の鹿島の片田舎で、世界的には無名の日本人の若い選手に向かって切々と説くのです。

「8歳の頃からサッカーに親しんできた私が、最初のスパイクを手にしたのは、13歳のときでした。自分のスパイクを持つなんていうのは夢でした。だから、スパイクを貰ったときは、本当に嬉しかった。真新しいスパイクを履いてみると、自分に不可能なプレーはないように思われました。私にとってスパイクは、魔法の靴だったのです。」
「しかし、私がサッカーの指導をするために辿り着いた異国ニッポンのロッカールームには、泥の付いたままのスパイクが、無造作に転がっているではありませんか。私は非常に悲しくなりました。そして、同時に怒りが込み上げてきたのです。」
「「来週までに、ここにあるスパイクを、みな磨いておきなさい」私はそう言った後、宝物のように大切に履きつづけてきた古いスパイクをカバンから取り出して、靴クリームで丁寧に磨き始めました。」

驚いたのは、周りの選手たちです。

ここまでされてしまっては、日本人も発奮しなければなりません。

お客さんとして物見遊山に来ただけではないかと思っていたブラジルの英雄は、一番サッカーをやりたがっている、そういうジーコ選手の本気に気づかされた住友金属工業蹴球団は変わっていきます。

じきに、選手たちも磨き抜かれたスパイクできっちりボックスに収納し、ロッカールームは輝くように見えるようんなりました。

選手寮のジャンクフードは消えました。

それだけの態度をもって、そして日本のチームにプロ意識を植えつけたジーコ選手は、1993年のJリーグの開催年、ファーストステージ優勝という成果を鹿島アントラーズにもたらすのです。

サッカーで名声を得ることはとても光栄です。

しかし、ジーコ選手は今なお、スパイクを履かせてもらったその日の感動と感謝の気持ちを忘れず、サッカーの心と思い、綺麗に磨いて整えておくのです。

このような先人たちの足跡を見るにつけ、プロ意識とはきちんと道具を整理する、心を整える、ということから始まるのだと思わずにはいられません。

そして、失敗に対する態度についても、ジーコ選手は非常に含蓄深い言葉を残しています。

「気にすることはありません。私はワールドカップでPKをはずしたことがあります」

物凄く強い言葉です。

Jリーグ発足時は既に40歳を迎えていても最前線で身体を張った、開幕戦でハットトリックを決めたジーコ選手がいたからこそ、今に続く日本のJリーグの隆盛と表紙の写真のようなロッカールームを綺麗に使う日本代表の振る舞いにつながったと断言できます。

綺麗に整えて、準備する。

感謝の心を忘れない。

大抵の失敗は、ワールドカップでPKを外すより気になるものではない。

夜な夜な誘惑に駆られますが、たまにはスナック菓子を自粛しようと思いました同じく現在40過ぎの筆者からの振り返りは以上です。

(平成30年8月4日 土曜日)

2018年8月3日

世紀末は少し過ぎてしまったけれどそういう背景で流行った漫画の有名な台詞について





おはようございます。

2018年8月の世紀末は少し過ぎてしまったけれどもそういう背景で描かれた昭和の漫画についての配信記事です。

「ヒャッハー!」というセリフ(歓喜の声)は、かの有名な「北斗の拳」という原作漫画・アニメ・映画にメディアミックスされた昭和末期の鉄板コンテンツであり、筆者のような団塊ジュニア世代の前後については強烈な記憶を呼び覚ます、鳥山明「ドラゴンボール」「Dr.スランプ」などに並ぶ一世を風靡した秀逸な作品です。

時は世紀末。

核兵器(熱核兵器)による全世界レベルの戦争(核の炎と形容)の後、恐怖と暴力が支配する荒廃した世界において、悪党どもがあげる歓喜の叫び声。

それがヒャッハー!と呼ばれます。

主に自分より弱い者を見つけた際に集団で使うと解説されています。

しかしながら、こうした歓喜の声もつかの間、たまたま居合わせてしまう、または出会ってしまう一子相伝超絶殺法(拳法)の使い手であります、ケンシロウや、たまにレイなどに、次のページでは痛いお仕置きをされてしまうという哀しいキャラクターたちでもあります。

そして、面白いのが、実は、この「ヒャッハー!」という台詞、原作の「北斗の拳」においては、実は一度も登場したことがないのです。

原作の中で、この描写に最も近いのは、

「ヒャッハッハッ水だ――っ!!」
「食料もタップリもってやがったぜ!!」

原典 ~『北斗の拳』第1話より抜粋~

という非常にこの漫画の世界観を表しているこの第1話の描写であることは間違いありませんが、それでも、筆者含め、こうした集団悪党の歓喜の声らを総称して

「ヒャッハー!」

と脳内変換して、いつしか

ヒャッハー
水だ水だ!

などとネットスラングなどで語るようになってしまったのです。

そして、たまにこの言葉そのものが、原典の漫画のどこにもないことに改めて驚くのです。

まさに、マレーシアのイスカンダル計画、もしくは宇宙戦艦ヤマトがコスモクリーナーDを受け取りに向かう惑星イスカンダルで有名な「イスカンダル」が、あの大王「アレクサンドロス」のペルシャ語訳から来ているという、驚きの音位変換が起こっていることと同じようなものなのかもしれません。

人間の記憶というものは曖昧で、しかも集団記憶となるともはや修正するのは不可能です。

アレクサンダーがイスカンダルになるくらいに時を経れば、ヒャッハー!も別の言葉として語られているのかもしれません。

世紀末199X年からやってきた筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月3日 金曜日)

2018年8月2日

昭和末期と平成末期の今との働き方の変遷と変わらないものを自分なりに整理してみたという話です






おはようございます。

2018年8月の人材教育に関する配信記事です。

時代は平成の末期となっておりまして、昭和生まれの我々筆者の世代が社会人になりたての頃に受けた「教育」ははるか昔となりました。

新人としてまずセッティングされたのは、花見のセッティングであり、配属された部署での一人一人の係員の先輩のみなさんとのサシ飲み会であり、最後は中ボスの課長、そして大ボスの部長とのサシ飲み(すべて奢り)が延々一ヶ月以上続き、この新人はどういうやつであるか、ということを頭の先から足の爪の先まで把握されたものでした。

そして、朝の早朝出勤です。

東京の丸の内のど真ん中に、今は物理的にも法人的にも消滅してしまった銀行の本館に新卒筆者の職場はありまして、地下鉄を3駅ほど乗り継いで帰れる至近の独身寮から、朝7時には出勤して、とりあえず何やっていいかわからないけれども新聞を読んだり、ありとあらゆる顧客ファイルを読み漁るところから1日は始まりました。

おそらく家を買ったばかりで片道一時間以上かかる埼玉の奥地や千葉の海沿い、湘南や鎌倉から、管理職や課長代理の先輩方もやってきていたのですが、彼らも7時15分には出社完了していました。

この人たちは一体何時に起きているのだろうか、衝撃を覚えたものです。

しかしながら、いちビジネスマンとして知力と体力と行動力のみを労働力として提供し、付加価値を出す、という気概は凄まじいものがありました。

労働環境は過酷で常時深夜労働、そして休日も通用口の警備門で「忘れ物」という理由での入館許可で入館している人がずらり、そんな職場が日本全国津々浦々、けっこう普通に繰り広げられていたのです。

むしろ、休日だと自家用車でくることができて早く来れる、ということで、入館理由「忘れ物」の入館簿の一番上の時刻が、午前5時台であることもあり、若い身ながら苦笑したことを覚えています。

しかし、時代は変わりました。

根性論は影を潜めました。

ですが、ビジネスにしろスポーツにしろ、本番の修羅場を経験しないことには真の成長は見込めません。

昭和のビジネスマンたちは、日々の自己研鑽と情報獲得競争において、それはヒリヒリするような本番の修羅場を日々経験していました。

たった一つの、重要な顧客ニーズという情報や重要な当局や世界情勢といった情報を得るために、さまざまな手段で動き回っていたのです。

今の時代、そのような物理的な「押さえつけ」や「長時間労働」を推奨することはできません。

しかしながら、時間を区切っても、その時間を濃いものにすることはできるはずです。

濃いものにするということは、準備や作業の時間を適切に取りつつ、節目節目でビジネスの最前線の修羅場に投入する、そしてできればとっとと失敗させるという経験を積ませる(大して練られていないから失敗するのは当たり前)、これしかないのではないかと最近とみに思うようになりました。

昔は怖い先輩や上司がいて、ちょっとしたミスや誤字や脱字も許されませんでした。

顧客に示すプレゼン資料のホチキス(ステープラー)の押し直しですら、それは激しく厳しく叱責されたものです。

しかし、魂は小さいところに宿る、というのは時代を超えて不変の価値だと思います。

上司が怒るのではなく、本当にそのような本番の席で、生煮えのプレゼン資料、自分も説明できない商品サービスの説明をしてしまって顧客の質問にほとんど答えられなかった、そんな恥ずかしい、失敗経験を踏んで、自分で気づいて自ら律していかなければなりません。

人に怒られる前に、いつも見ている自分自身を評価者とするのです。

こうした心構えを持って欲しいということをいつも伝え続けるのが、現代のビジネスパーソンにおける「教育」ではないかと思っています。

たまには真面目なことを書いたように見えますが、本当は上司管理職として楽をしたいだけの筆者からは以上です。

(平成30年8月2日 木曜日)

2018年8月1日

売り手の論理ではなく顧客の行列に並びたくないというニーズをとらえた無人店舗が凄いという話です








おはようございます。

2018年7月の行列に並んで決済するという手間に関する配信記事です。

シアトルに、AmazonGoという、店舗を商品持って出るだけで資金決済ができる無人コンビニエンスストアの店舗があります。

いろんな人がそこを訪れているのですが、何よりも、商品を持ってレジに並ばなくてよい、というのが最もこの「店」のサービスではないかと言っている人が多く、まだ行ったことがない筆者としても、もし並ばなくてよいお店があったら最高だろうなと思った次第です。

コンビニのレジに限らず、飛行場でのチェックインカウンターとか、ホテルでのチェックインとか、ディズニーランドの入場料チケット購入ともぎりのゲートをくぐるとか、映画館のチケット販売で並ぶとか、その他もろもろ、我々のサービスは、「行列」とは切っても切れない関係にあったのです。

いくら何とかペイやフェリカ端末を使えば一秒で現金いらずで決済できます、といっても、その決済端末に到達するまではやはり作られた行列に並んで、自分の番を待たなくてはならず、セルフレジが設定されているといっても、やはりそこは使い放題ではなく、セルフレジを使う行列に並ばなければならないという点では同じです。

これは、飲食サービスでも同じです。

世界で最も成功しているコーヒーチェーンであるスターバックスであろうとも、まず並んでコーヒーなりを注文して決済しなければ、望むコーヒーにはありつけないのです。

席に座り、あらかじめスマホで注文しておいたコーヒーが勝手に(待っていれば)届く、という状況にはなっていないわけです。

ここに、大きな意識とテクノロジーの壁があります。

それを、今まであるカメラや振動監視システムを駆使して、店に入った人を識別して、その人が持ち去った商品を購入したこととして事後的に課金するという仕組みは、とても新しく全く新しい無駄のない買い物体験として顧客にものすごいインパクトを与えているに違いありません。

何しろ、コンビニでは商品を選ぶその数倍、行列に並んでいるわけですから。

モノを買う、何らかのサービスを受ける、こうした行為に必ずついて回る「行列に並ぶ」という手間を一気に削減するというこのマーケディング手法、店づくりの手法は、単なる決済端末の電子化とは違ったイノベーションを感じざるを得ません。

これからもこうしたテクノロジーの進化によるビジネスや生活の変化について、研究していきたいと思います。

シアトルはもとより、アメリカ本土に足を踏み入れたこともございません筆者からの見てきたようなレポートは以上です。

(平成30年8月1日 水曜日)