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2018年8月31日

業界の巨人Amazonが2018年についにQRコード決済領域に進出してきたと言う話です







おはようございます。

2018年8月のITデジタル業界に関するトピックに関するニュースです。

今更なのですが、QRコード決済をご存知でしょうか。

Apple Payとか、アリペイ、ウィチャットペイといった、QRコードという二次元で示されたバーコード番号を読みこんで、そのまま料金を決済するというサービスです。

筆者は、二次元QRコード決済まではやったことがないのですが、同じバーコードを利用した決済は、例えばスターバックスカードのアプリを利用した決済でよく行なっていますし、QRコード自体の利用というならば、シェアリングエコノミーの自転車シェア「メルカリ」サービスにおいて、解錠のために使われているQRコードを利用して使っていたりします。

そんな中、すでに世界中の人が持っているのではないかと思われるオンラインショッピングサイトのAmazonが、QRコード決済事業に参入し、アプリで使える「Amazon Pay」サービスを導入したとのことです。

これは、オンライン専業であったAmazonが、実店舗におけるキャッシュレス決済に参入するということです。

具体的には、スマホアプリで入っているAmazonショッピングアプリの画面上で呼び出したQRコード(30秒ごとに別のものと入れ替わる)を店舗型のタブレット端末で読み取ることによって実現します。

この瞬間、Amazon会員で登録されているキャッシュカードに支払い情報が転送され、決済は完了するというわけです。

2018年8月から、福岡市や東京都新宿区の数十店で実際に使えるとのことです。

ユーザーには、Amazonショッピングサイトでの買い物履歴と同様、メールで支払い完了の通知も来ますし、AmazonPayの専用サイトでももちろん決済情報を確認することができます。

この、QRコード決済の安全性を極めて高くしている理由に、QRコードが30秒ごとに更新されて不正利用を防ぐものとなっているということがあります。

支払金額は、店舗側がタブレット端末で入力し、ユーザーはそれを確認してアプリを起動してQRコードを提示するという流れになります。

確かに、すでに日本国内はLINEや楽天、NTTドコモや各種クレジット会社やSuicaなどのFeliCaカードによるキャッシュレスサービスは展開されています。

しかしながら、まだまだキャッシュレスの決済自体が全く進んでおらず、相変わらずいつもにこにこ現金払いにとどまっている、中小規模の商店やサービス店舗に対する営業余地は、まだまだ存在すると言えます。

今回、インセンティブプランとして、アマゾンジャパンは、モバイル決済サービス事業を展開するNIPPON PAY(東京都中央区)と協業し、店舗向けに、NIPPON PAYが端末を無料で貸し出し、タブレット端末のレンタルとAmazon Payの利用を同時に申し込むと、2020年末まで決済手数料(通常3.5%)を0%にするキャンペーンを実施するという大判振る舞いです。

2020年まで手数料無料の支払い手段を得られるのであれば、2020年末までの限定対応として本件対応しておくことは、来るべきキャッシュレス社会における支払い手段の確保の為にも、中小商店の生き残りのためにも、導入してみるのも面白いと思います。

日本においては、いろいろこうした別のキャッシュレス決済手段がある中、相かわらず現金の利用がまだまだ減りません。

これは、キャッシュレス決済の信頼がまだ足りていないということであり、Amazonの強力なブランド力をもって、一瞬で決済を終わらせるという手段の市民権を得るための、壮大な実験となりそうです。

現金オンリーのお店で、全く現金の持ち合わせがなく、やむなく同乗者にお金を借りたまま忘れてしまったことのある筆者からの反省は以上です。

(平成30年8月31日 金曜日)

2018年8月30日

2018年8月筆者の仕事が少し変わって世界に遍在するという報告を致します







おはようございます。

2018年8月の、このブログの管理人の筆者の普段の仕事が少し変わったというご報告です。

最近急速に世界中で伸びている「コワーキングスペース」「シェアオフィス」という業態で世界で勝負しようと、国内では現在、福岡市の大型商業施設のキャナルシティ博多前と天神パルコ新館5階内でそれぞれ400坪ほどのマルチワークスペースを展開し、海外では2018年8月現在にてフィリピンのセブ、ハワイのホノルル、そしてタイのバンコクに展開している福岡市発のシェアオフィス会社に「出向」して参画し、同社の世界事業展開を図るということになりました。

1997年(平成9)年に社会人として仕事して給料もらう立場になってから、実に数えて9社目の「職場」ということになりますが(社名変更も含む)、世の中の動きに沿ったり逆らったり、いろいろと流木サラリーマンの人生を楽しみ、こうして今回はマルチロケーションで働く場を世界中に作るという、究極の不動産業の先の先までが見える業界にたどり着いたのも何かの縁と感じております。

まずは向こう3年間で、国内海外での総店舗数15以上を目指し、特に海外(東南アジアに海外本部を設立としたいと考えています)、東京、関西、福岡を軸に会員マルチロケーションのシェアオフィス会員の展開を図って行きたいと思います。

現在、世界中の不動産会社は、今後伸びていくであろうこうしたシェアオフィス型事業について、非常に注目しています。

これは筆者個人としても非常に大きな挑戦となりますが、自分自身の働き方としても、マルチロケーションのシェアオフィスでの働き方や振る舞い、営業と、仕事は好きな場所でチャットシステム等を利用して行うというやり方というのがかなり心地よくなってきておりますことからも、この業態は新しい不動産事業の発展系として全世界で伸びると確信しております。

そういうわけで、相変わらずネットでは毎日個人新聞の発行者なのですが、リアルにも世界中に点在するコワーキングスペースの拠点ネットワーク管理者というような、面白い立ち位置で動き回れるようになりましたので、改めてご報告いたします。

今後とも、読者のみなさんには、当職が取り組むこのシェアオフィス事業含め、さまざまな点にて倍旧のご指導、ご協力、一万円札など賜りますようお願い申し上げます。

東京にも、シンガポールにも、近々このようなシェアオフィスをオープンしたいと思っています。
セブ、ハワイ、バンコクには既に拠点を持っています。

京都大阪神戸、それからマニラ、クアラルンプールと、世界中で事業展開可能な、おそらくホテル宿泊業より爆発的に伸びそうな業態だと考えています。

そして、個人的には、大学のボート部の合宿所でかつて一緒に隣同士で寝ていた学友で大学院の研究者になったようなのが、自分の研究部屋以外に何か外の世界と交わることができる気軽なシェアスペースやネットワークを作れるような「場」を作ることが夢です。

そうすれば、彼のような真面目で研究熱心で優秀だった者が、ふとした人間関係のもつれ(本当はアカデミック・ハラスメント(大学などの学術機関において、教職員が教育・研究上の権力を濫用し、ほかの構成員に対して不適切で不当な言動を行うことにより、その者に対して修学・教育・研究ないし職務遂行上の不利益を与え、あるいはその修学・教育・研究ないし職務遂行に差し支えるような精神的・身体的損害を与えることを内容とする人格権侵害行為)に類するものと思っておりますがあくまで私見ですので公開のこの場ではかような「もつれ」などという「無難であり何を言っているのか全く分からない」物言いとさせていただきますことをお許しください)で自ら命を絶つようなことは減るだろうと思うのです。

大学院の研究室といった、教授会や教授が必要以上の権力を持ちすぎ、そのマネジメントスキルに期待する面が非常に限られるといった殺伐とした環境がまだまだ世界の組織の至る所で残っているとすれば(あくまで私見です)、そうした環境から少しずれた逃げ出せる逃避先、心理的シェルターやスペースといったものを提供すること、これもシェアオフィスやコワーキングスペースの持つ大きな可能性ではないかと思うのです。

穴蔵のような自分の部屋や研究室の自席以外に、もう少し他の世界を共有できる、他の人間と気軽に交われる「場」があれば、世界中に散らばるこうした天才たちを孤独にさせることも少しは避けられ、それは人類全体にとって大変有用なことではないのかと思うわけです。

天才を救うのは、天才をよく知る凡人しかない、と最近特に思うようになりました。

その辺まで運よく行けば、そこまで社会の根底に眠る真のニーズを掘り当てることができるならば、この業態は世界の評価を得られ、そしてこうした会社こそ「上場」「株式公開」といった名誉ある地位も含めて現実的なものとして近づいてくるものと思います。

ライバルは(相手はこちらを絶対知らないでしょうが)、米国発で日本ではソフトバンクと組んでいるWeWork、または三井不動産や三菱地所といった老舗不動産企業群です。

筆者は北九州八幡で生まれ、京都、東京から福岡に参りまして十数年経ちますが、ようやく一回りして読者の皆さんの近くにマルチロケーションでふらりとやって来ることになるかもしれません。

改めまして、よろしくお願いします。

本日のご挨拶とお知らせは以上です。

(平成30年8月30日 木曜日)

2018年8月29日

「高等専門学校(いわゆる高専)」という選択肢があるという大事な話をしておきます







おはようございます。

2018年8月の卒業を控えた中学生の学習進路に関する配信記事です。

進学を考えるとき、「高等学校(いわゆる高校)」という選択肢が一番先に浮かぶと思います。

そして、高校も、いわゆる全日制の高校だけではなく、ネットで授業を行う定時制高校でも、高校卒業資格を得られて大学入試等に挑戦できる、それからの進路も開けるという話を以前しましたが、いわゆる高校に行く以外にも、5年制の「高等専門学校(いわゆる高専)」があることを知っている人は実はあまりいないと思います。

高専は、高校でもなく、大学でもない、中学卒業時から5年制の教育機関を持つ高等専門学校です。

法律的には、後期中等教育段階を包含する5年制(商船に関する学科については5年6か月)の高等教育機関と位置付けられている日本の学校で、学校教育法には、特に「深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成する」ことを目的として掲げられている由緒と歴史のある教育機関制度です。

ですので、設置主体も、「国」である場合が圧倒的に多く、2018年8月現在で筆者が調べた限りにおいては、全国に高等専門学校は57校あり、設置者別の内訳は、国立51校、公立3校、私立3校となっております。

圧倒的に、「国立高専」が多いのです。

そして、自宅からの通学が困難な学生に対しては、食事付きで寮費が実に(一例で)月学37,000円で済むという、超絶コストパフォーマンスの良い教育機関であり、修業年限5年の間の後期と呼ばれる3年間において、エネルギー、応用化学、環境生命、メカニクス、情報システムや建築土木といった専門知識を思い切り吸収できる充実したカリキュラムが組まれているのです。

そして、こうした高専卒の学生の就職率は極めて高く、一例をあげると地元企業から大手の有名企業、世界的なグローバル企業まで求人が殺到し、求人倍率は25倍以上と、高専のOBOGは世界中の企業等から非常に高い評価を受けているのです。

研究開発に不可欠な基礎的な研究知識や振る舞いを身につけた、20歳の前途ある若者たちを放っておく企業は無く、メーカーや研究開発企業において高専卒業生を採用することは、必須の企業経営戦略上の人事政策となっているのです。

さて、高専はこのように5年で教育を一旦完成することを標榜してきた教育機関としての歴史から、課程を終えた卒業生の大部分(70%)は非常に高倍率の求人情報の中から自分の希望する進路を選び取り就職していきます。

しかし、ここであえて筆者がお勧めするのは、ここから大学の学部の3回生へ編入する、もしくは高専の専攻科(2年)への進学を検討することです。

そして、いずれにせよ大学学部の研究室並みの基礎研究素養を身につけたら、自らが長い期間をかけて定めた研究分野の大学院にチャレンジすれば良いのです。

もはや、世界の研究教育機関としては100位以内がかろうじて定位置となっている東大だろうが京大だろうが、さらには海外の有名研究開発型大学だろうが、その分野の深い興味と洞察と実力さえあれば学生の方から選びたい放題です。

こうすれば、自らの興味のある専門分野について、高専を利用することで中学卒業後から即入ることができ、専門知識と世界標準のネットワークが構築できます。

大学院としても、このような「使える」人材は喉から手が出るほど欲しいわけでして、また学生の側も、国立高専から国立大学の3年次編入から大学院というコースを辿れば、いわゆる高校受験、いわゆる大学受験といった、専門性とはあまり関係なく広い知識素養をはかるという名目のもと単なる日本語有職故実クイズとなっている嫌いもあるのではないかと思料する大部分の世界標準からは外れてしまったローカルトリビア(あくまで私見です)で時間を無駄にすることもないのではないかと思うわけです。

投資の世界でも、「人の行く裏に道あり花の山」という、株式投資の格言といえば、何をおいてもまず出てくる言葉があります。

投資家とは、自らの判断と言いながら、とかく群集心理で動きがちなのです。

これが、いわゆる付和雷同というものです。

しかしながら、それでは当然のようにどんぐりの背比べとなり、大きな成功など得られないのです。

ここは、リスクは一見多いかもしれないけれども、むしろ他人とは反対のことをやった方が、うまくいく場合が多いという至言です。

高専卒の優秀な知人友人を多く知る、大学入試という専門性とはあまり関係なく広い知識素養をはかるという名目のもと単なる日本語有職故実クイズとなっている嫌いもあるのではないかと思料する大部分の世界標準とは外れてしまったローカルトリビア(あくまで私見です)を経験したせいか、そこからの意識解放がなかなか進んでいない筆者からの「感想」は以上です。

(平成30年8月29日 水曜日)

2018年8月28日

問題は自分の中にあると気づいて向き合えることが一番難しいという話です







おはようございます。

2018年8月の自分自身のコントロールに関する配信記事です。

例えば木彫りの馬や象を作るとき、

「なあ、木彫りの象ってどうやって作るんだ?」
「そりゃあ簡単だ。象らしくないところを全部削ればいいんだよ。」
「じゃあ自分らしく生きるには?」
「同じだ。自分らしくないところを全部削ればいいんだよ。」

というたとえ話などを聞きますに、なるほど人間年を取っていろいろ勉強すればするほど、気を付けていないと自分らしくなるところを削れなくて家や部屋の中がゴミ屋敷同然に既に何があるのかわからないくらいのガラクタで埋め尽くされてしまっているということになりかねません。

そして、ガラクタやゴミについては、それもかなり厄介ですが、それは目に見えているという意味では対処も取れるのですが、心に溜まった澱(おり、よどみ)のような重い気持ちというのは、これに増して非常に厄介なものです。

ちなみに、このようなストレスからくる重い気持ちに苛まれてしまうと、ほとんどの人が、その問題点を自分の外側にあると認識(誤認)してしまい、外に向かって非常にきつい物言いになってしまい、人心が離れてしまうということがよく起こってしまいます。

外に存在する問題に対して、自分がどのように認識し、もしくは誤認して過剰に反応しているのかという問題こそ本当の問題だということです。

例えば、遅刻する社員が多いということで怒りを覚える社長がいたとして、確かに遅刻することは現行のルールではよくないことですが、遅刻してきて既に遅れている社員に怒りをぶつけたところで、失った時間が戻るわけでもなく、さらに怒る怒られるで消費されるエネルギーや時間のほうが膨大だったりします。

他の問題で鬱屈した悩みや怒りが、こうした現実の問題とリンクした場合に、こうした問題は顕在化します。

逆に言うと、社員が遅刻しなくても、他の問題(ごみを拾ってないとか、返事が遅いとか)に対しても同じように自分の気持ちを投影してしまうふるまいを続ける以上、外に存在するあらゆる問題点を「投影」し続けてしまうでしょう。

そうしないようにするには、対処療法ではなく、心の内面の問題の方に先にフォーカスすることです。

ここは、自分がしょぼいこと、情けないことに正面から向き合うということですから、あまり気の進むことではありません。

しかしながら、漢方薬と同じで根本治療ですから、無意識レベルでの澱みや抑圧された自己認識を解消することで、手当たり次第に外に(無限に)存在する問題点にそれを投影して怒り続けるということはなくなるわけです。

これは、わざわざ厄介ごとを自らに引き寄せるという引き寄せの法則ともいわれます。

この解消のためには、定期的な瞑想や断食や断情報といったワークセッションを自らに課して、自己の中の抑圧された感情を解消したり、解消せずとも一定程度折り合いをつけることができるようになれば、遅刻の問題など単に在宅ワークやフレックスタイムの制度運用でどうとでもなるということです。

ちなみに、悩みの多くが会社の業績がうまくいかない、不安だ心配だ、人心が離れるのが怖い、仕事がうまくいかないのが恐ろしいといった「行動する前の抑圧感情」であることが多いです。

なので、一旦童心に戻って「怖いよー」といって泣いてみるのをお奨めします。

小学校以来、特に泣いていないという人ほど、これまでいろいろと経験、勉強してきたことによる精神的な澱みも積みあがってきていますから、それを一旦解消することは、耳に溜まった耳垢を取るようにすっきりするものです。

ちなみに、内面の問題が解消された場合、頭がすっきりして、自然と前向きに「行動」することができるようになるものです。

そこは、これまで行っていた自学自習の「習慣」に任せて進めばいいだけです。

実は、ほとんどの人間は、本来まじめで自分の人生を豊かにしようと自然に振舞っていて、それを邪魔しているのが抑圧された感情である、ということなのです。

ですので、阻害要因となっていた精神的な足枷が取れると、元のようにずんずん前に進んでいけるようになるのです。

悪いことも悪いと避けるのではなく、徹底的に精神的に向き合って、「落ち込む」、「苦しむ」というのも悪くないと思うのです。

それらを避けようとするのではなく、不具合も人生、不都合も人生の一部ということを学べば、そうした気持ちとの折り合い方もうまくでき、かえって生き生きと過ごせるものです。

悲しみや苦しみが消えることはないけれども、折り合って乗り越えていくことはできる、ということです。

いい意味で、自分を客観視できることが大切だとも言えましょう。

今日は少し内省的な話になりました。

ほとんどのまじめな人たちに交じって、本当に心の底からさぼりたいと心底思っております筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月28日 火曜日)

2018年8月27日

「七つの海:Seven Seas」こと名倉七海選手が世界エアギター選手権が2度目の優勝を果たしました!







おはようございます。

2018年8月の配信記事です。

日本はエアギターの世界には強く、ここ数年で数人のチャンピオンを生んでいますが、今年も、フィンランドで2018年8月22日から3日間の日程で開催された「第23回エアギター世界選手権」で日本から乗り込んだ「セブンシーズ」こと名倉七海(なくらななみ)選手(23)が、見事優勝を果たしました。

なんと名倉選手は、3年ぶり2度目の優勝なのです。

そして、日本人の優勝は、2006年と2007年に2連覇したお笑いコンビ「ダイノジ」の大地洋輔さんを含めて4度目ということで、エアギターに強い日本の面目躍如というところでしょう。

さて、名倉選手のエアギターでの「演奏」は公式動画なりを見ていただくとして、この選手のプロモーションで使っている通り名「七つの海:セブンシーズ(Seven Seas)が秀逸です。

世界の誰もが知っている海、そして七つの海という通り名が、彼女の持つミステリアスと激しいビートのギャップをかき立てております。

絵とか歌とか動きといった芸術を、文章で伝えるのは難しいですが、この「セブンシーズ」という通り名は、こうしたアーティストを一言で伝えるとても良いネーミングだと感心したのです。

もともと、「ななみ」という名前は、歴史好き本好きの筆者のバイブルであります塩野七生(しおのななみ)先生が著した「ローマ人の物語」でよく知っていましたが、そのものズバリの「七海」で読むのは非常に強烈なインパクトです。

もちろんここには及びませんけれども同じようなものを、筆者も考えて見ますと、たとえば「久美子」という名前でしたら、さしずめ「Forever Beautiful Girl(FBG)」で行けそうですし、筆者の名前の「真也」だったら「Honest Man」といったところでしょうか。

全国の久美子さん、特に意味はありませんのでご放念ください。

服飾ブランドのForever21やオリエンタルラジオのPerfect Humanとは全く関係ありませんけど、これならオリジナル性も失われないでしょう。

エアギターという、演奏されない演奏を「聞く」という高度なエンターテインメントの世界、ここで世界トップを取るというのは並大抵の工夫では難しいです。

Seven Seas 名倉七海選手、本当におめでとうございます。

本日は名前はとても大切だというお話でした。

名前に真実の真が入っているけれども本当は嘘ばっかり書いている虚構新聞が大好きな筆者からの嘘っぽい記事は以上です。

(平成30年8月27日 月曜日)

2018年8月26日

労働者の賃金の国際比較から日本の長期的経済財政問題について一点だけ申し上げます








おはようございます。

2018年8月の日本のいわゆる労働者の賃金に関する配信記事です。

世界人口が現時点で75億人と言われますが、ようやく21世紀中には人口爆発がひと段落し、世界人口は90億人程度をピークにその後急速に減少するだろうと言われております。

つまり、世界中の国々が先進国の仲間入りをして、少子高齢化という時期を迎え、そこからどうやって出生率を再度上げて復活して行くかという長い長い道のりに、世界というか地球まるごと入るということを意味するのでしょう。

そんな中、子供を産み育てたいという欲求の一番の現実的なよりどころとなるべきは、日本の労働者の賃金ということになりますが、これも他の先進国と比べて高いと、なんとなく皆(筆者も)思っていたところ、どうもそうではないようなのです。

具体的に、各国の平均賃金を経済協力開発機構(OECD)が発表しているデータを元にし、購買力平価を加味して、米ドル換算すると、上記の写真のような状況になるということです(注:添付は川内事務所のWebサイト参照)。

これを見ますと、比較可能な35ヵ国の中で18位という日本の結果は、お世辞にも高い方とは言えないということです。

世界に先駆けて人口ボーナスの恩恵を受けて江戸時代から奇跡の開国から世界先進国に成り上がり、第二次世界大戦を経てもう一段の人口ボーナス(団塊の世代の登場)による高度経済成長を経験した日本は、いよいよ人口が逓減するというサイクルに入り長い長い黄昏の時を歩むことになります。

個々人の日本人としてはいくら頑張って経済活動をしたとしても、残念ながら若い労働力を集めきれない土壌では、どうしても生産性の高い活動ができなくなって来ているのかもしれません。

この大きな流れを根本的に解消するには、出生率と出生数を同時に上げて行く大幅な政策転換が必要で、それは待った無しの状況となっておりますが、ここまで現実を突きつけられても、どうしても旧来型の景気回復策としての大幅財政出動(借金)、金融政策(マイナス金利)といった対策しか取れない状況です。

もっとシンプルに、出生数といった簡単な指標で、国の政策の優先順位もつけていけばいいのではないでしょうか。

GDPといってもその算出方法はいろいろありまして、最近は研究開発費用といった明らかに費用として計上されるべきものを付加価値の合計に加えるといった「操作」が多く、本当の経済実態と発表されるGDPに乖離もあるのではないかと思うのです。

夜の消費行動にはそれなりの貢献をしております筆者からのコメントは以上です。

(2018年8月26日 日曜日)

2018年8月25日

ネットフリックスやマイクロソフトではいわゆる受動的な人事評価は行われていないという話です






おはようございます。

2018年8月の動画配信(番組)サービスに関する配信記事です。

ネットフリックスという、インターネットでの番組配信巨大メディアが世界中を席巻しています。

番組制作料に巨額の投資を行い、単なる事務所所属の芸人や司会者を出して内輪の話でお茶を濁す低予算番組(バラエティ番組とも言いますか)ばかりを、規制に守られた放送電波に乗っかり、昔から広告宣伝費を出してもらえる大手スポンサーからの宣伝収入を得て放映せざるを得ないTV配信システムと、スマホやタブレット、PCやその他なんでもデバイスに直接繋がるインターネットを介した動画や番組の配信では、その顧客との直接の繋がりが全く違うのは自明です。

現在は、あのアマゾンですら、既存の番組や映画を、アマゾンプライムの仕組みでインターネット動画で「配信」しているに過ぎませんが、ネットフリックスは、すでに日本の放送局を束ねてもそれよりも大きな「番組」メディアとして、巨額の番組制作料を使い、面白いコンテンツや番組を続々とリリースしていっています。

それから、見る視聴者に受信料を支払ってもらっているため、番組を求める視聴者以外の、例えば番組スポンサー(広告主)への「配慮」も不要です。

ただひたすら、ユーザーに配信して喜ばれる番組を作り続ければよい、というシンプルな事業構造を維持しているのです。

さて、このネットフィリックスにおいて働く人たちをどのようにマネジメントするかという方法論もかなりドラスティックです。

曰く、以下に集約されるそうです

・全てのポストに最優秀の人材を採用する
・業界最高水準の給与を支払う
・有給休暇は廃止し、(優秀な)従業員の裁量で適宜適切に休んだり働いたりする
・これからの未来の業務に適さない人にはお互いのため速やかに退職してもらう(適さないと判断したら仕事はアサインしない。ゴネて居座っても仕事はない)
・一定期間を区切った人事考課制度は時間と労力の無駄なのでやらない。仕事を進める中で行われる適宜適切な暗黙知の相互評価評判で自然と職位や職務(配属)が決まる

会社に入った瞬間、現在進行形で常に評価され、評価し、いい意味でも悪い意味でも評判が立ち、一定以上会社に適さないというマイナスの評判を積み上げてしまった人には速やかに仕事が取り上げられるという仕組みは、一見ドラスティックですが極めて能動的で、他人任せでなく合理的で効率的な人事評価システムです。

有給休暇にしても、労働者を守る対象として設計された労働基準法令に真っ向かっら異を唱え、労働者をチームの一員として大人扱いしています。

究極の、自律自走型組織を作り上げようとしているという意欲を感じます。

インターネット企業においては「老舗」の風格を持つマイクロソフトでも、最近の制度改正でいわゆるタームごとの人事評価というのは公式に廃止されたということを聞きました。

評価とはバッチ処理ではなくリアルタイム処理であり、常に手元にあって積み上がっていくものというイメージです。

これは、人事評価をやらないということではなく、人事とは常に経営判断と同様な高度な判断や評価であり手元にある共有情報であるという意識改革です。

いわゆる学校教育もそうですが、既に「学ぶこと」をインターネットを介して無限に選び取ることができるようになっているのが今の世の中です。

ですので、お仕着せの企業研修についても、知識やノウハウを教授するという比重はますます減る一方、教えるのではなく育てるという方向に、急速にシフトしていると思います。

よく考え動いて世界に良いサービスや商品を送り出して稼ぐ、という真っ当な経済社会における振る舞いをどのように高い熱量で実現し続けるか、こういった勝負の世の中になっているのではないかと思うのです。

自走する組織にぶらさがっていきたいという気持ちは人一倍強いフォロワー気質の筆者からの記事は以上です。

(平成30年8月25日 土曜日)

2018年8月24日

自分自身をコーチとし自分のことは自分でするという生活態度が強いチームを作るという話です






おはようございます。

2018年8月の企業や組織教育に関する配信記事です。

夏の高校野球も終わり、結果は大阪桐蔭高校の初夏連覇で終わったわけですが、この結果に限らず、別に野球に限らず義務教育期間を終えた後の高校や大学といった教育機関で何を教育したり研究したりして行くのかということについて、少し考えてみましたので共有したいと思います。

高校野球であり野球高校ではない、という同校を始めとする高校野球での生活は、非常にストイックなものに統一されています。

全てが寮生活をしており、朝5時半くらいから自主練習を行なってから、7時の朝礼、そして食事をとり8時10分のバスで学校に出発します。

授業を終えた午後4時には学校から戻り、そこから夜21時まで野球の練習をして、寮に戻って食事を取ってから就寝です。

睡眠も非常に大切な体づくりの練習なので、夜更かしは禁止、朝も自主練としていますが、ほとんどの選手が自らの課題を作って朝自発的に練習をしているということです。

こうした全寮制のため、高校の近くに実家があろうが、他県から来ようが関係なく、皆が生活を共にし、まさに同じ釜の飯を食う間柄となり濃い人間関係と切磋琢磨する環境が整うのです。

全部員一丸となって日本一という目標を追いかけ、日々練習に励む雰囲気が作り上げられる、これこそが単に野球がうまいということではない、もっと大きな人間的素養の育成であろうかと思います。

集団生活ですから、野球だけ頑張り他は適当に済ますということはできません。

皆に認められる、というのは自らも含めて360度で評価し評価されるということであり、日々の練習も生活態度も全て見られ、都度暗黙のうちに評価され評判がたって積み上がっていくということでもあります。

いちいち期間を区切って、そのタームごとに人事評価や評定、および野球の実力をテストする必要はなくなるのです。

生活を共にする寮における重要なルールは、「自分のことは自分でする」というものです。

洗濯掃除、身の回りの整理整頓、起きる、寝る、食事をするといった生活習慣の確立を自分自身で行い、例えば上級生の身の回りの世話を下級生がするといった風習は影を潜めました。

そうした徒弟制にも似たシステムで昭和の時代に頂点に立ったPL学園のような伝説的高校もありましたが、最近ではより高校生であっても大人として扱う、このような自主自立のルールのほうがよりしっくりくるのではないかと思います。

そして、例年4月に入学してくる15歳の生徒たちの、ほぼ全てが入寮してまもなく、自分がいかに実家において父親や母親に大事にされてきたか、野球に集中する環境をもらっていたのかを感じ取り、親への感謝の言葉を野球ノートに残すのだといいます。

これまでは、大阪桐蔭の野球部に入れるくらいの実力の持ち主ですから、野球漬けの毎日で、家に変えればご飯が並べられていて、食べ終わったら食器を下げて洗ってくれた、汚れたユニフォームや下着も、きっちり洗って干して畳んでくれていた、という状態だったわけですが、これからは食事は作ってもらえますが自分で配膳して洗って返して洗濯をして干して畳んで部屋の掃除もして布団も手入れして当然野球道具の手入れや勉強の準備まで全て自分でしなければならないのです。

人間、けっこう想像力が欠けているようで、実際に自分で自分のことをせざるを得ない状況になってからしか、このことに気づかず、ここに至ってようやく親への感謝の言葉があふれるということになるのです。

これを機に、目覚めた高校生たちはまもなく、1日24時間をいかに自らのために有効に使うべきか、無駄な時間をなくすか、隙間隙間の時間を見つけ出し大事にし野球の練習なり勉強なりよく考えて行動するようになります。

これが自己経営の萌芽です。

そして、これこそが、野球で日本一を目指すにせよ、社会に出て活躍するにせよ、いずれにせよ絶対に必要な振る舞いや態度と言えるのです。

自分の最良の教師は自分自身であると思います。

ぜひ自分の中のコーチや監督を大切にしてください。

残念ながらその点では夜更かしでラーメンといった反面教師に陥りがちな筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月24日 金曜日)

2018年8月23日

平成の30年間で何が起こったかを一瞬でわかる平成ジャンプな比較図を見てみるという話です






































































おはようございます。

2018年8月の平成30年間に起こったことを一秒で振り返ることのできる配信記事です。

平成とは30年間ありました、西暦で言いますと1989年から2019年までにかけての期間となりますけれども、実に平成10年頃、今から20年前、世界最強企業の最強経営者の名をほしいままにしていたGEのCEOジャック・ウェルチは「これから大事なこと、1位から7位までこれ全部インターネットだ」と言い切ったそうです。

しかし、そのGEですら圏外にいる今の世界株式時価総額の上位の面々を見るに、平成の30年間における日本経済連合勢の凋落ぶりに身が震える思いです。

筆者がかつて所属した日本の、今では滅びてしまった長期信用銀行は、何とかつて2位にランクインしていました。

平成の30年間において、いかに新しいものが生まれ、その変化が多様だったかが分かります。

時価総額16兆円が世界一位の日本のNTTだった時代から、世界一位が100兆円を軽く越えてくる米国のアップルになり変わった、そんな30年間だったわけです。

この経済戦争の状況を見て、日本が和の精神だ観光業は盛んになっただクールジャパンだなんと言っても、残念ながら経済金融の世界では30年戦争の結果二度目の敗戦を喰らった、と言わずして何でしょうか。

この30年間を、ほぼ日本の経済人として生きた筆者個人の責任も重大です。

銀行で外回りして稟議書の書き方を学ぶくらいならば、コンピューターやインターネットの構造に早く慣れて、そこから手のひらマシンを作り出して累計100億台売れば良かったのです。

またはインターネットモールを英語版で立ち上げて、全世界同時に配信して本から何からコンテンツと言えるものなら何でも売りさばく巨大な流通システムを作ってしまえば良かったのです。

もしくは、巨大な同窓会チャットサイトの構築でもいいし、何でも検索すればよいプログラムオタクの理想郷を作れば、勝手に広告収入が付いてくるビジネスモデルを極めれば良かったのです。

さてこのくらいで、過ぎてしまった30年を振り返って反省したら、次の30年に向けて舵を切りましょう。

すでに手のひらサイズのくせに1台15万円とかする電子デバイスの次の時代は確実にやってくるでしょう。

同窓会チャットサイトも、もっとオープンソースになるでしょう。

売上のほぼ全てが広告収入なんていう事業構造が、未来永劫続くとは思えません。

こうした先に予想される環境に即した動きが今取れるか、それが日本だけではなく全ての国の全ての人に開かれている、そんな時代がやってきたということだと思います。

GEの創業者、トーマス・エジソンが言った、失敗ではない、うまくいかないという結果を試しただけだ、という言葉が大好きで、負けたと思わなければ負けではないと言い聞かせて次の30年を前向きに生きようと思いました筆者からの決意は以上です。

(平成30年8月23日 木曜日)

2018年8月22日

プロフェッショナルとアマチュアリズムの本質的な違いと求めるものについて(雑感)







おはようございます。

2018年8月のプロとアマの違いに関する配信記事をお送りします。

プロというのはお金を貰ってなんぼという台詞があります。

どんなに称賛されても、どんなに素晴らしいと言ってもらっても、それで報酬や給料や給金がもらえなければ本当のプロではないという言葉です。

この言葉を、筆者は社会人になって初めての事務所の机で、当時の指導担当についてくれた先輩社員(銀行だったので課長代理の行員の先輩、というのが正確ですが)に言われて25年後の今でも覚えています。

学校はお金払って学びに行くところ

会社はお金貰って稼いで来るところ

といった言い方になりましょうか。

既に、その当時の課長代理の先輩の年を遥かに超えたわけでありますが、今でもその先輩とは年賀状のやりとりをさせてもらっています。

そして、近くで働いているわけではないですが、同じ地球の空の下、あのたった1年間に受けた指導を時々思い出し、ありがたいと思って、過ごしています。

このように、ありがたい指導を受けられるか否かというのは非常に重要です。

プロだろうが、ボランティアのようなアマチュアの極致のような活動でも、それは大切です。

タダでやるというボランティアの世界でも、「教育」「研修」「ノウハウ共有」といった活動は非常に大切です。

筆者が学生であった1995年に阪神淡路大震災が起こり、日本における災害ボランティアというものがだんだんと形作られてきました。

21世紀になって日本を未曽有の津波が襲った東日本大震災を経て、防災意識と災害ボランティアという行動が、ようやく一般市民にも認知されてきたように思います。

そして、アマチュアにとって一番大切なのは、その活動が一般市民に知られる、いい意味で認知されるようになるということであろうかと思うのです。

これは、対価や売り上げを求めるための企業の「広告」活動とは違います。

知ってもらうという行為そのものを対価として、アマチュアリズムは動くのです。

プロがその人の活動費の糧となる報酬を求めるというのはまっとうです。

それとは別に、お金を受け取らないという矜持で事を進めるアマチュアリズムというのも、非常に大切であるということなのではないでしょうか。

したがって、プロとアマとは相反するものではなく、それぞれが当面目指すものの違いということなりますが、究極のところは、「できる人を増やす」という大きな目標に対しては同じアプローチことなのではないかなどと思いました。

プロにはプロの矜持

アマにはアマの誇り

があるというところでしょうか。

プロの場面では、すぐ値引いてしまい、入札には負けてしまい、アマの場面ではすぐ報酬換算して動いてしまう癖がなかなか抜けない中途半端な筆者からは以上です。

(平成30年8月22日 水曜日)

2018年8月21日

2018年夏の甲子園第100回記念大会の決勝は大阪桐蔭高校(北大阪)と金足農業高校(秋田)の一戦です







おはようございます。

2018年8月の、夏の甲子園決勝戦直前に配信する期間限定の記事です。

今年の夏の甲子園は、記念の第100回大会ということで、参加高校数56チームを数え、日々熱戦が繰り広げられました。

素晴らしい試合たちでしたが、おそらく本日行われる決勝戦は球史に残る名勝負となること間違いありません。

史上初の2度目の春夏連覇を狙う大阪桐蔭高校と、秋田代表、公立高校および東北に初の大優勝旗を持ち帰るチャンスを得た金足農業高校。

この2校の決勝戦です。

この決勝戦まで、数ある好カードと名勝負を繰り広げられましたが、事実上の決勝戦などなく、明らかに、両校が降してきた名チームの名誉のためにも、これが真の意味での第100回大会の決勝戦にふさわしいカードであろうと思います。

片や無敗で全国の強豪に目標とされた大阪桐蔭と、雑草魂で勝ち上がって来た金足農業。

金足農業、スタメン9人と一人のエースピッチャーで勝ち上がって来た、まさに昭和から蘇ったような公立地元のチームです。

秋田の人たちはすでにお祭り騒ぎです。

街に人がいなくなり、パブリックビューイングでハイタッチする人の群れ、会社は休んでテレビ観戦、自動車で急遽15時間かけて秋田から兵庫県西宮市甲子園町の甲子園まで夜通しで観戦に来てしまい、そして決勝進出でそのままステイな人まで、まさにウルトラクイズかよw的状況に大騒ぎです。

大阪桐蔭も、単なる野球エリートというわけではなく、チームとしての態度も個々の選手の振る舞いも素晴らしい、本当の王者の風格と実力を兼ね備えた名チームです。

明日は忘れられない1日になるでしょう。

なぜこのような好対照なチームのカードが、夏の決勝戦で実現するのか、少し真面目に論じますと、中学でトップになっているという選手は実は成長ボーナスが早く来ているという「傾向」があるので、高校3年の夏時点で依然トップにいるというのも凄いことなのです。

つまり、ここに高校野球の大きな「課題」「問題点」が横たわっていると思うのです。

むしろ、選手としてのピークに向かっていく途上で他の選手との比較優位性がどの学年(中学、高校、大学や社会人、そしてプロ)で起こるのかを正確に見極める眼力があれば、その選手に即した長期的な指導ができるはずなであります。

この2高校の決勝というのは、そういう意味で非常に対照的であり、かつこの高校野球の2年3ヶ月でここまで勢力図が変わる、ほぼ素人が体躯がでかくなりわずか2年で先頭集団に挑めるところまで来れるという意味で非常に興味深いものがあります。

おそらく、中学軟式で鍛えている方が、身体の「ガタ」が来ていない可能性が高く、特にピッチャーの粘りはあるのではないか、とすら思われるのです。

その、「後ろから全力で追いかけてやってくるライバル」を蹴落とし続けて無敗でやってきた大阪桐蔭も凄いです。

中学王者だったからといって簡単に勝たせてくれるほど高校野球は甘いものではありません。

中学で144キロ投げるなど、明らかに成長が早いのですが、逆に高校では成長しきってしまったので後から抜かれた、なので記録員、とも言えるのです。

フジヤマのトビウオの古橋廣之進も、マラソンの瀬古利彦も、彼らのピーク時点でオリンピックに出れなかったため、残念ながらピークを過ぎての参加だったので、結果は厳しいものになりましたが、スポーツの世界はそういうものだと思います。

だからこそ、プロで長く活躍を続けた松井秀喜やイチロー、そして今日始球式をやった桑田真澄などは、伝説として語り継がれるのではないかと思います。

いずれにせよ、筋書きの全くないドラマが、本日1日日本列島を包むのは間違いありません。

高校野球の球児の味わう、この濃い日々に比べれば、自分はなんと薄い毎日を過ごしているのだと思ったりしますが、そこは置いておいて本日は両校の決勝の姿をしっかり焼き付けておこうと思いました。

野球はやっぱり面白いですね。

高校時代は山岳部で、真裏にあった野球部のピッチングマシーンの横で山行の準備をしていたことが懐かしい筆者からの回想は以上です。

(平成30年8月21日 火曜日)

2018年8月20日

洗濯機用液体洗剤容器の現時点での究極の形と思っているアリエールリビングドライについて述べておきます







おはようございます。

2018年8月の家事、特に洗濯に関する配信記事です。

ここ数年、ドラム式洗濯乾燥機を使い、どのような洗剤がいいかいろいろと試してきましたが、ようやくこの形が最もスッキリくるというものに出会いましたのでそのレポートをしておきたいと思います。

もちろん、将来に向かってはより良い洗濯機用洗剤が出て来ることもありましょうから、あくまで2018年8月時点での最新情報となりますが、iPhoneシリーズと同じく、この現時点からの革新的イノベーションというのはなかなか起こらないのではないかと勝手に思っているところから、記事にしておくものです。

早速紹介します。

プロクター・アンド・ギャンブルが提供する、ファブリーズなどを展開している会社の洗濯機用洗剤ブランド「アリエール」シリーズの最新作の、部屋干し用と銘打った「アリエール・リビングドライ」という商品です。

まず、この洗濯機用洗剤の「容器」が秀逸です。

内容量900mlという、詰め替えの手間といちいち使用時ごとにピックアップする際に重くなるという相反するニーズを見事に調和させた絶妙な容量と重量。

そして、次に先端のキャップに着目なのですが、蓋をじょうごの様に差し込んで回せば蓋が閉まる仕様になっているので、かなり適当に差し込んで回しても、意外に蓋が閉まるのです。

そして、これは開ける時にもテコの原理で手に持って回す部分の方が大きくなっているので、開ける時に余計な力を入れなくても簡単に開くのです。

要するに、開けやすく締めやすい蓋、というところです。

最後に、容器全体の「形状」も秀逸です。

洗濯乾燥機の周りにわずかしか用意できないスペースに、見事に省スペースで立って安定する細長くも十分な容量を提供する絶妙な形をしています。

形の中に、あると便利な「取っ手」も付いており、いちいち手に持って運ばなくてはならない取っ手なしボトル型のそれらと比べて、遥かに楽であり、また取っ手が飛び出してスペースを取ったり置けなくなってしまったり、下手をすると取っ手に間違って触れて落としてしまうといった危険もないユニバーサルデザインです。

このように、筆者のような洗濯のプロでもないライトユーザーですらすぐにも3点ほど良いと思える、洗濯性能以外の容器の形状や容量 で優位性を出すことができる、これぞデザインの持つ力なのではないかと思いました。

洗濯はできるのですが、干したり乾燥したり畳んでタンスやクローゼットに戻すことを非常に苦手にしている筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月20日 月曜日)

2018年8月19日

訪日外国人宿泊ニーズに対応する宿所サービスの日本の最前線をレポートします






おはようございます。

2018年8月の、昔学生時代下宿で過ごしました経験が懐かしい筆者からの配信記事です。

さて筆者が学生時代に観光客なんて中高生の修学旅行生「しか」いなかったと思われます、京都や奈良といった土地ですが、今は訪日観光客が必ず訪れると言っていいゴールデンルートと呼ばれているそうです。

筆者は、京都の平安神宮のすぐそばという、今では信じられないくらいの好立地に「下宿」しておりまして、その下宿といってももともとは日本旅館の離れのお部屋、というような佇まいで、家主の女将さんはお琴の先生をしているというような、ザ・京都と言って良い下宿でした。

しかし、その下宿にはほぼ週1回くらいしか戻って来ず、あとは琵琶湖のボート部の合宿小学校(艇庫ともいう)で過ごすことになってしまったわけですが、それでも下宿に帰って来る道すがら、よく女子中高生のグループに道を聞かれたりしておりました。

だいたい、中高生のグループ(班)行動において、男子3人女子3人といったグループになるようなのですが、決まって道を聞いて来るのはほぼ女子というような状況で、ここからも、いわゆる女性の旅好き好奇心旺盛なところは見て取れると思いました。

だいたいそんな時、男子中学生や男子高校生は、決まって後ろの方でもじもじしているだけだったのです。

まあ自分もそのような男子中高生であったなあと感じながら、平安神宮や清水寺の方向、南禅寺やら銀閣寺のルートなど教えてあげたものです。

あと、琵琶湖のある滋賀県から京都まで、いわゆる路面電車に乗って戻って来るのですが、決まって読んでいる本を眠りこけて取り落としたり、椅子に置いたままにして降りようとした時に拾ってくれるのも女性が多かったです。

その節は、みなさまお世話になりました。

さて最近その京都に行きましたら、いきなりもう外国人観光客だらけで驚きました。

日本語以上に多言語の坩堝です。

この人たちは、一体どこで宿泊しているのでしょうか。

京都には旅館は多いでしょうけど、この大量の数をさばくには、既存の旅館やホテルでは間に合わないなと一瞬で気づかされました。

そして民泊新法です。

2018年に施行された民泊新法ですが、年間180日しか営業できないなど、事業者にはかなり厳しい内容になっています。

そこで、やはり頭のいい人はいるものです、宿泊運営管理システム「m2m Systems」を展開するmatsuri technologiesというグループが2018年8月16日、Airbnb Japanとフジ・メディア・ホールディングス傘下のジープラスメディアとの業務提携を発表し、「民泊+マンスリー賃貸契約」という募集形態で、一年間フルに民泊物件を稼働することができるサービスを開始すると発表したのです。

主に訪日客によるインバウンド民泊・滞在需要に対応する目的ですが、これはかなり面白い合わせ技です。

民泊は2018年6月に施行された住宅宿泊事業法(民泊新法)においては、年間の民泊日数は180日までと定められており、1年のうち半分は住宅宿泊以外の用途が必要になるという宿命があります。

そして、この他の規制ハードルが高く、民泊から撤退する不動産オーナーが増加する一方、インバウンド需要については宿泊・滞在ともに高まっているという現状のギャップをうまく埋める方法を編み出したというわけです。

すなわち、民泊不動産オーナーに対し、180日までの民泊施設利用についてはAirbnbサービス、それ以上の滞在についてはジープラスメディアの提供する外国人向けマンスリー賃貸サービスを組み合わせて提案する、ということです。

これにより、不動産オーナーは民泊新法に適応した形で数日から数週間の短期滞在サービスをこれまでどおり提供できるほか、残りの185日についてもマンスリー契約の物件として運用が可能になります。

マンスリー契約は、月額ですから1ヵ月単位とはなりますが、最大6ヵ月分をマンスリー賃貸契約で回すことができれば、十分です。

matsuri technologiesはこれらの宿泊情報を管理するクラウドサービスを提供し、運営の一元化をはかるということです。

このように、いろいろな宿泊に関する規制に対応したサービスを生み出すことができるのが、インターネットやクラウドの力なのかもしれません。

繰り返しますが、かつてマンスリー賃貸契約ではなく、宿泊業法に定めのある「下宿」形態で学生時代を過ごした筆者からの紹介記事は以上です。

(平成30年8月19日 日曜日)

2018年8月18日

定年制を廃止するという究極の働き方改革を断行する会社が出現しているという話です







おはようございます。

かつて戦後の日本に、働きまくるモチベーションの塊のような一派が形成する、異色の企業体がありました。

名前は出光石油。

出光佐三という創業者が興した、一陣の風のような人間集団でした。

とにかく精魂込めて働く、出光の人や出光を取引先にしている銀行の担当者などから直接当職が聞かされた社是は「和(やわらぎ)」というものでした。

驚くのは、この最上位に位置する社是に従い、出光には定年がない、もちろん解雇もない、そして組合もない、という特異な労使関係であり、企業文化を誇っておりました。

大家族主義を標榜し、とにかく人間関係を大切にしておりました。

特殊なこの諸制度は、出光が各種の「妥協」のもと上場し他人資本を受け入れたところから「変容」していくことになりましたが、このような特異な会社があったということは記録しておきたいと思います。

さて時代は平成末期となり、労働環境はまた激変を迎えています。

人余りと言われた時代も久しく、少子高齢化によりとにかく人手不足にあえぐという状況になったのです。

こんな中、英国のコスメブランドLUSHの日本法人ラッシュジャパンは2018年8月8日、在職期間を問わず全契約社員とアルバイトスタッフの一部を、7月1日から正社員にしたと発表しました。

これは、契約期間にとらわれず長く働いてもらうことで、優秀な人材を獲得し、企業の成長につなげる狙いですが、さらに驚くことに、同年10月には、正社員を対象に、これまで65歳だった定年制も廃止するとのことです。

一瞬驚きましたが、少し冷静に考えたら、定年など世界のどこにも特にないのではないかと思い始めました。

日本における労働雇用要請、労働者の権利が非常に強い反対作用として、強制的に職を解く定年制とセットで運営された来たのが、日本の雇用環境の特殊性ではないかと思い至ったのです。

例えば、欧米での雇用慣行によれば、採用時の履歴書に年齢欄があるだけで大きな問題となるはずです。

「仕事」で人を雇う時は、意欲と体力と能力だけがグローバルな評価基準となります。

そして、それは人それぞれ千差万別で、その中に年齢が入り込む余地はほとんどない、ということになるのです。

20代でも半分墓場に足を突っ込んだような「薄い」生き方をしている人もあれば、先日紹介した78歳のボランティアの男性のように、日々精力的に活動し新しい価値を「創造」している人もいらっしゃいます。

そして、「特殊能力を用いた仕事」で人を必要とするときの面接については、できるだけ採用候補者個人を見せない、ブラインド・オーディションという方法に切り替えたほうが良いという話がありましたので紹介したいと思います。

例えば、大手の交響楽団が新しい団員を、例えばバイオリニストを採用したいとする場合、オーディションの時に、候補者はカーテンの向こうから演奏し、採用側は候補者の顔どころか、何も見ないということです。

実は、それまでは、オーディションでの採用では、どうしても白人の若い男性が重用され、たとえ同じレベルの旋律を弾いていても、これからの伸びしろがあるだの可能性があるだのといった、絶対的ではない希望的観測によってそのような人物が優先されていたという現実がありました。

しかし、このブラインド・オーディションにした場合は、テストで弾く曲の旋律しか判断基準がありません。

年齢も性別も皮膚の色も何もかもわからないのです。

そうすると、まず採用される女性が増え、そして有色人種の人が増えて、さらに高齢者も増えたといいます。

もちろん、楽団全体のレベルは断然上がりました。

それはもう、別の楽団というべき、本物の旋律を奏で分けるという仕事のプロ集団に変貌しました。

交響楽団全体と、その交響楽団の曲を楽しむ人たち双方にとって、とても素晴らしい結果になったというわけです。

そうして、オーディションに落ちた人たちも、どの技量を上げればよいかということを明確に示されることになるため、次へ切り替えやすいということになります。

肌を黒から白にしたり、女性を男性にしたり、いきなり若返ったり歳を取ったりするのは非常に困難ですし、何より良い旋律を奏でるという仕事の本質とはほとんど何の関係もないのです。

そして、こうした考え方の基礎になっているのは、例えば65歳になったら自動的に働く社会からは引退するといった、悪しき定年制といった考え方にあるのではないかと思うのです。

だいたいの日本人に限らず世界の人たちの平均は、20歳くらいまでは親や地域社会に食わせてもらっているわけです。

そうすると、自分で稼いで独り立ちして生計を立てる、という意味では20歳から平均寿命の80歳まで、60年間あるわけでして、働き始めて30年、すなわち50歳というのはちょうど働く人生では真ん中あたりと考えてみると、景色が変わってくるのではないかと思います。

人生50年でまだまだ働き半分。

人間、どうしても既存の考え方に固執してしまう傾向がありますが、こうした新しい尺度をもって人生を眺めてみるのも良いと思います。

そうは行っても、40歳で一攫千金でアーリーリタイヤの夢をいまだに捨てきれないまま、40代半ばになってしまってだらだら働いているところの筆者からの記事は以上です。

(平成30年8月18日 土曜日)

2018年8月17日

山中3日間を一人で待った2歳男児を78歳のボランティア男性が救い出したという凄い話です







おはようございます。

2018年8月の、この上ない、いい記事を配信させていただきます。

既に大手メディアも報じていますけれども、こうした素晴らしい生きざまを見せている人間がいるということを伝えるのは、どれだけ零細媒体であろうが正しく報道、紹介、記事にすることが責務と考えておりますので、できるだけありのままに率直に、後世に長く残るように記録しておきたいと思います。

ご覧ください。

山口県周防大島町で、2018年8月12日から行方不明になっていた2歳の男の子である藤本理稀(よしき)ちゃんが、同年8月15日の早朝に、無事に保護されたのです。

発見したのは、なんと捜索のために単身大分県日出町から軽自動車を駆ってやってきたボランティアの尾畠春夫(おばたはるお)さん(78歳)です。

尾畠さんは、家族に失踪当時の状況をヒアリングした後、警察の捜索が始まる午前7時を待たずに一人山中に入り、そしてたった20分ほどで本人を発見し、抱いて連れ帰り、家族に直接引き渡しました。

この捜索前に、尾畠さんから直接話を聞くことができていた大手メディアの記者とのやりとりによると、尾畠さんは、大分県から来たと聞いた記者から「なぜ大島に?」と質問されると「(男の子を)探しに来たんです。幼い子供の命を助けてあげたいなーと思って」と涙声になりました。

「大分県からわざわざ?」という問いかけにも「わざわざじゃないですよ。日本人だから。言葉が通じるから私は日本中どこでも行きます」と答えています。

リュックから新聞を取り出し、男の子はまだ見つかっていないというから、気になって、と答えています。

全て、公開資料から情報を得ています。

凄いことです。

まったく自然で、ひとつの無駄もありません。

改めて驚くことにこれは、見つける前の映像なのです。

筆者も見ましたが軽装リュックに必要な防災器具をきっちり詰め込んだ、本当に考えられた装備で驚きました。

そして、「人間、特に子供っていうのは、下に下りるよりも上に上がるほうが好きだから」と言い残し、ひとりで家の北側にある山を700メートルほど登っていき、20分ほどで男の子の発見にいたりました。

実に3日間にわたり、警察を中心とした160人体制での付近を捜索がなされている中、これまでのボランティアの現場での経験を生かし、ここだと定めて入っていくその姿と胆力そして保護の結果に、日本中が驚きました。

そんな物凄い成果をもってしても、尾畠さんの態度は発見前と何も変わらず、捜索や保護の様子を警察や報道各社に的確に伝えていました。

そして、2016年末に大分県で行方不明になった女児の捜索ボランティアにも参加しその時の発見の経験が今回の捜索で生かされたことを明らかにしたのです。

まさに、現場での経験が生きたのです。

そうして報道各社のインタビューに対しては簡単に「小さな命が助かったと思った。本当にうれしかった。助かってよかった、助かってよかった。ただそれだけ」と語ったのみでした。

ボランティアとは、寝るところも食べるものも、自分で用意するもので被災地や困っている現場には負担や迷惑をかけない、その態度と仕切りをきっちり守っている尾畠さんは、お礼に家の中でもてなそうとする救出男児の家族のたっての誘いにも、ボランティアという矜持からという理由できちんと断りを入れて、16時には急遽用意された警察からの感謝状の授与を受け、その日の夜には乗って来た軽自動車を駆って颯爽と帰って行きました。

男児を探しに山中に入った、その時と同じ防災リュック姿のままです。

一旦大分の自宅に戻って装備をまた整え、そして次の日からまた広島呉市の豪雨被災の現場でボランティアをやるそうです。

尾畠さんは大分の別府市で鮮魚店をやっていましたが、65歳の誕生日を機にすぱっと引退して、そして残りの人生を、お世話になった人への恩返しをしたいということでボランティアに定めて、全国各地を車中泊しながら各地の被災地を巡ってボランティア活動を行なっておられます。

大手メディアがこの尾畠さんのこうした軌跡を報道する中で、特に目立ったのが、全国各地の被災地の社会福祉協議会の事務局長といった人々が、尾畠さんといえば、というエピソードを、これでもかと話している様子でした。

まさに、記憶に残るお人です。

私、高校登山部出身だけどこの方の域には到底かなわないです。

しかし、同じ人間心構えさえあればここまでの高みに行けるものなのだと大きな衝撃を受けました。

行方不明になってから68時間、夜は真っ暗な山中で待ち続けた2歳児もよく頑張りました。

そういうわけで、このように記録ではなく記憶に残る人たちがいるということを、人間捨てたもんじゃないなと感じたことを、零細メディアですがきちんと記録に残しておきたいと思います。

こちらからは以上です。

(平成30年8月17日 金曜日)

2018年8月16日

徳島市の阿波踊りの運営について地元で対立している本質を勝手に想像して書いてみる話です







おはようございます。

2018年8月の祭りと家具に関して筆者が個人的意見を語る配信記事です。

さて、テレビ等でいろいろ場外戦が盛り上がっております徳島市の阿波踊りに関する記事ですが、筆者のような、まだ生涯一度も徳島県に足を踏み入れたことがないような部外ものにとっては、全くことの本質がわかっておりません。

わかっておりませんながら、なぜこのことを書こうと思ったのか、それは、筆者が多少調べて知っている(つもりになっているかもしれませんが)すでに経営が危機的状況に陥っているとみられる大塚家具と一緒で、ここには共通して「顧客および潜在的な顧客候補にいざこざがどう(悪いように)見えているか」という顧客視点が抜けていることが大きな問題ではないかと思ったからです。

阿波踊りに関しては、テレビにおいては特に問題の本質を掘り下げることなく、徳島市長が赤字を回避するために強権をもって阿波踊りのクライマックス「総踊り」の中止を通達したところ、それに反発した観光協会側が独自で総踊りを決行した、といった事象面の報道に終始しておりますが、それでは、なぜそんなことになったのか、なぜ市長が中止を強行しようとしたのかの背景が全くわからないわけです。

どうも、この阿波踊りのような強力すぎるコンテンツになると、運営側の赤字が累積し、そしてひとたび赤字補填のために、行政からの補助金という名のミルク注入や委託事業という名の果実をもらってしまったが最後、それがいつの間にか既得権となり当たり前となり、地域振興という錦の御旗の名の下、全ての異論(まともなものも当然含む)が封じられるというよくない順路を辿ることが多いようです。

すなわち、もともと祭りというのは、持続する地域のイベントとして、日々毎年、運営側は知恵を絞って運営費用やコンテンツ維持費用くらいは自前で稼ぐプログラムに進化させていかないといけないところ、何をやるにも地域にとっていいことだから、の補助金ありきの運営体制となり、いつしか補助金もらってやってやっているんだ、という精神構造に侵されてしまうのではないか、ということです。

結果、せっかく集客してもその関連するイベントや施設は巨大なプログラムを維持運営する以上の売上を立てることができず、勢い、このイベントを全国もしくは世界に配信するフリーライダーのテレビやインターネットコンテンツ組織のみが、この膨大な祭りコンテンツを消費しつくし、儲けもそちらに流れるばかりになってしまっている、というのが事の本質ではないかと思うのです。

言い換えますと、この阿波踊りという強力イベントを強烈に推進した事務局と地元は、補助金を投入しても大赤字となり、一方、集客された人たちを相手にする宿泊業や飲食店、そして既存の放送網とインターネットを利用したメディア事業者は大儲けするという、本丸の赤字構造と周辺のただ乗り構造が固定化されていることが、問題の本質ではないでしょうか。

ちなみに、今まで運営側の中心にあった観光協会は、それまでの赤字を補填できずに徳島市に泣きついて、そして今回から徳島市がテコ入れして運営側のこれまでのやり方を改革をいろいろと打ってきたようです。

しかし、赤字をどうやって解消するか、という手を打っている(ように見える)、税金の使い方に説明責任を負っている市長に対して、これまで赤字を垂れ流しながらその実なんの手も打ってこなかった(と筆者が勝手に思っている)観光協会側の「阿波踊り振興協会」というのは、市長が総踊りを中止してチケット販売を平均化して赤字補填を行うとした点に反対しました。

あまつさえ、これまで通りの総踊りと称してそれを決行し、「市長の弱いものいじめには負けない」だの「体制には屈しない」だの、市民の代表たる市長の代理である副市長や実行委員会の職員に対して「帰れ」だの、どうも英雄気取りと痛いクレーマーの狭間というか、かなり大きく後者寄りの立場にいらっしゃるのではないか、と思うわけです。

それで、筆者はまだ行った事ない徳島県で、さらにその県庁所在地の徳島市ですが、残念ながら、こんな揉めている土地柄のところに、わざわざ縁もゆかりもない筆者としては、あまり行くことはないだろうなあ、と少し残念な思い出で気持ちもそっと離れてしまいます。

祭りも、家具も、それの本質は縁起物であり、できれば自分の人生を前向きにしたいというかハレの日にわざわざ出向いて鑑賞したり家具を購入したりするものではないかと思うのです。

もし家具が縁起物ではないのであれば、単なる消費財なら、ニトリやイケアで捨てる前提で買うでしょう。

そのハレの日に、わざわざ地域で揉めていたり、親子で揉めていたりする会社の店に行って買おうとか観光しようとか、それはなかなかしないものではないか、と少しだけ思ったのでした。

ですので、全くその地域やサービスや商品を知らない人向けに対する最初の態度としては、できるだけ揉め事があってもきちんと当事者同士で解決した上で、どのように発信するか、という線を決めて発信すればよいのではないか、という学びがありました。

踊る阿呆に見る阿呆。

同じ見るなら踊らにゃ損損。

といいますが、それこそ自分たちは踊りたいから踊る、止める者は体制の回し者だ、借金なんか税金で帳消しにしろ、では徳政令を叫んで打ち壊し回ったかつての農民一揆以上にタチが悪いものになってしまいます。

なぜなら、現代立憲社会国家における税金は踊る人以外の国民から等しく徴収されている血税だからです。

それがわからないのであれば、そういう振る舞いを続けるのであれば、もはや全ての補助金ならびに公共施設(踊り場や道路自体も公共物)の利用を取りやめ、自らの発表の場で、自らのお金で、公共の福祉と法律に反しない限度で、思う存分やられたらいいのではないかと思うのです。

そんな逆効果な宣伝ばかりしていれば、盆踊りのチケットの販売状況も上がらないでしょうし、この問題は次の年もまた次の年も、結構長く尾を引きそうな気がするのです。

大塚家具については、親子喧嘩の店というイメージを最後まで振り切ることができずに、このまま一旦終焉を迎えそうな気配です(あくまで、筆者の個人的なイメージです)。

踊りについては小学校時のオクラホマミキサー以来は結婚式披露宴の汚めの芸事しかやっておりません筆者からの個人的見解は以上です。

(平成30年8月16日 木曜日)

2018年8月15日

トルコリラの暴落により法定通貨のボラティリティが仮想通貨のビットコインを超えた日が来たという話です







おはようございます。

2018年8月の国際金融情勢に関する配信記事です。

現在、トルコにおける経済事情の大きな変更から、トルコの通貨であるトルコリラが暴落している状況です。

このところ、トルコリラ/円は、ずっと下落傾向を続けてきていました。

それは、トルコの政局不安や、トルコ中銀が大胆な利上げに踏み切れないなどといったことが背景にあったと説明されています。

また、米国がトルコに対して経済制裁を発動し、トルコのエルドアン大統領が対抗措置を講じるといった、両国の関係が一段と悪化しそうなニュースがあったことも、トルコリラが売られる一因になっているというような報道もあります。

こうした思惑とあいまって、実際にトルコリラ/円は、2017年9月あたりからほぼ一本調子で下落し、史上最安値をたびたび更新してきました。

そして、2018年8月にいたって、改めて、欧州中央銀行(ECB)においても、同じユーロ圏の一部の金融機関で保有しているトルコ関連資産のリスクが一段と高まったというような懸念が高まっているといった報道で、またトルコリラは一段の暴落を見せており、トルコリラのボラティリティ(価格の変動のしやすさ)も歴史的高水準になっているというわけです。

さて、ここで注目なのは、暴落するにせよ、暴騰するにせよ、本来国民生活と密接な関係がある法定通貨の価格が急激に変化することは原則として避けなければならないのにそうなっていない、というところです。

各国の中央銀行は、それこそこうした価格の急激な変化(ボラティリティといってそれ自体をリスクと置き換えても考えても良いです)を嫌い、自国の通貨と物価の安定のために、自らが信ずる為替レートの範囲内に、何とかレートを抑えようとするのが常です。

それなのに、この、まさに中央銀行でも制御できない暴落局面となってしまった現状で、何とトルコリラのボラティリティが、仮想通貨の事実上の基軸通貨であるビットコインを超えてしまったのです。










これは、国家権力を後ろ盾に持つ通貨の信用力を、仮想通貨で仮想通貨を得たいがためにマイニングでビットコインのブロックチェーンを積み上げているビットコインコミュニティという通貨運営団体への信用の方が一時的に上回ったということに等しく、時代もここまで来たのかと非常に感慨深いものがありました。

いうまでもなく、トルコは結構な大国です。

正式名称はトルコ共和国(トルコ語: Türkiye Cumhuriyeti)、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国で首都はアナトリア中央部のアンカラ、人口は7,500万人を数える歴史と伝統に裏打ちされたイスラム教国です。

決して、おとぎ話で出てくるアレンデール王国やSF小説に出てくるアップフェルラント王国などではないのです。

そんな伝統的大国の通貨と実際には2008年頃からマイニングされて来たけれども信用ならないと世の中のメインストリームになりきれていなかった仮想通貨とのボラティリティの逆転が起こるという、世の中の変化のスピードに驚くばかりです。

そのうち、JPYとかいうアルトコインと呼ばれる時代もくるのかもしれません。

JPYにも仮想通貨にもあまり縁がありませんで、特にJPYマイニングのやり方はなかなか下手な筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月15日 水曜日)

2018年8月14日

人は他人の承認を求めて行動する生き物であるならその他人の中に自分を入れれば良いのではないかという話






おはようございます。

2018年8月のお盆の暑い中の記事です。

お盆では、ご先祖様に思いを馳せて、そのご先祖様が一生懸命いきてくれたからこそ自分の人生につながっているのだということを肌で感じるようにしたいものです。

それも、一つの承認要求を満たす行為なのでしょうが、すでにこの世にいないご先祖様ではなくて、その辺の、生きている他人に認められたいという欲求ばかりが強くなってしまうと、いろいろと生きにくくなるなと感じています。

誰かに認められるということは素晴らしいことだし、当然誰かに認められたいということを前向きなモチベーションにして、何にしろ取り組む、頑張るという姿勢もそれはいいことだと思います。

行動の原動力になるといって問題ありません。

しかしながら、あまりにも他人の承認行動を求めるあたり、他人の評価ばかりを気にして本当に自分のしたいことからずれてしまうという危険性も同時に感じています。

自分の人生なのに、その自分の行動の価値判断基準を自らの価値観ではなく、他人の価値観を「想像して」それに合わせようとする同調圧力がかかるということなのです。

ここで大切なのは、他人の価値観など実はそんなによくわからないと言うことなのです。

美人投票のアノマリーとして知られているのは、かの経済学者のジョン・メイナード・ケインズが、投資行動を美人投票に例えた以下の話が有名です。

玄人筋(投資をプロとして行なっている者)の行う投資は、投票者が100枚の写真の中から最も容貌の美しい6枚を選び、その選択が投票者全体の平均的な好みに最も近かった者に賞品が与えられるという新聞投票と同じようなものであると喝破したのです。

これは、各投票者は、「自身が最も美しいと思う写真」を選ぶのではなく、「他の投票者の好みに最もよく合うと思う写真」を選択しようとすることである、ということなのです。

筆者の下手な株式投資に関しても、市場参加者(=投票者)の多くが、値上がりするであろう(=容貌が美しいであろう)と判断する銘柄(=写真)を選ぶことが有効な投資方法であるということになっておりまして、その点でも、自らの判断だけで投資銘柄を選ぶのは危険だということになります。

あれ?違う話をしていたような。。。

そうでした。

株式投資のような他者の影響を考えなければならない経済事象と違って、自分がやりたいことや自分が満足することに、他者の(承認要求という)影響を入れすぎないようにしたい、ということが、ここで言いたいことでした。

こうするための方法論として、自分がおすすめするのは、自分で自分を承認するという方法です。

自分が自分のやることを承認していけば、ここに他者からの観点が入り込むというノイズが起こりにくくなります。

自分の承認要求を満たすために、自分の心の中の意思に背を向けて、その判断基準を他人に委ねるということがなくなります。

なくならないまでも、かなり減らすことができます。

そして、自分の側面はたくさんあるものの、全て自分自身であり、客観的に見た場合これ以上自分にとって最適な「他人」もいないのではないかと思うのです。

そして、その承認欲求を満たす承認については、非常に些細なもので全く構わないと思います。

何も火星旅行に行って帰ってきた、といった大それたことをしなければならないと気構える必要はありません。

例えば、今筆者はこの文章を書いていますが、これも毎日やることのリストをただ淡々とこなしているだけですが、それでも改めて、今自分はブログの記事を書いているなとか、
毎日がんばってるな、とかそういうことでも立派な承認行為となると思います。

そして、自分が真にやらされているなと感じることや違和感を感じることについてはだんだん自然と遠ざけていくこともできるのではないでしょうか。

付き合い残業とか、無駄な相槌とか、その他もろもろあるでしょう。

承認を自家発電しているようなものですから、これはとても効果的だと思います。

そして、自分の意思決定を自分のものとして再定義することができるというのは、非常に大きな推進力になるのではないかと思っています。

このあたり、どうも承認しすぎるとそのままたゆたってしまう傾向もある筆者にとってはこれからも研究課題となる点ですが、今のところの筆者の持論の感じは今述べた通りになります。

とりあえず、変えられるのは世界より他人よりまず自分から、でいきたいところです。

実は承認どころかずっと寝ていたい筆者からの記事は以上です。

(平成30年8月14日 火曜日)

2018年8月13日

女性の活用とかいう言葉を無くしたいと強く思っている話について書きます







おはようございます。

2018年8月の働き方改革に関する配信記事です。

いきなりですが、人手不足で外国人を採用するといった論調が起こっており、その受け入れる人に日本語能力のどの程度を求めるかといった各論も盛んに議論されています。

現に、建築現場や農業の現場、そして卑近な例ではコンビニエンスストアにおける外国人労働者の比率は増す一方です。

しかしながら、日本には、まだまだ活用されていない労働力はたくさんあります。

まずは共働き率が世の先進国に比べてはるかに低いこの状況においては、大人の男も家事をしなさすぎるし、大人の女も家事や育児を抱え込んでしまい、他に預けて仕事をするようにするというインセンティブをつけるようにするのが先だと思うのです。

女性の活用、とかいう言葉が横行すること自体、ナンセンスです。

言うなら、筆者も含むおっさんの(家事や育児や地域活動への)再活用、と置き換えた方が良いくらいです。

世の中、丸一日働くといった「働き方」ばかりが普通であるという形を変えないと、このマルチタスクの世の中に対応していくことは難しいでしょう。

これは、プライベートと仕事(ワーク)のバランスということではなく、普段の生活から、働くことと遊ぶことや学ぶことが渾然一体になってきている、ということからも、明らかなことです。

最近の企業研修でも、すでに決まったビジネスマナーやスキルを学ぶというより、所属する組織が持ち得ていない観点や視点、そして技術分野を積極的に求め、若手に会社を一気にブレイクさせるだけのパワーを求める、といった傾向の方が強くなってきていると思うのです。

実は、会社の幹部や経理担当、管理部門については、外からの採用が容易です。

管理者としての社長すら、それなりの報酬を示せば外から引っ張ってくることは可能です。

しかしながら、その会社が世の中に存在する本当の価値を体現するノウハウや技術や販売体制や社員そのものの存在やネットワーク、については、いくら管理者を代替しても得ることはできません。

それこそ、企業存続の本源的価値として、大事にしないといけないところなのです。

働き方改革とは、本当に人員が不足して多様な職場を選ぶようになった、というある意味望ましい労働者環境に戦後初めて置かれた我々が、本当に自分のこととして働くようになるようになるまたとない機会であるとも言えるのです。

それでもやっぱり1日くらいは朝からぐうたらしていたいと考えてしまう、向上心の少ない筆者からは以上です。

(平成30年8月13日 月曜日)

2018年8月12日

真夏の暑い中に冷蔵庫やクーラーがなぜ冷えるのかという仕組みを簡単に1分で解説します






おはようございます。

酷暑の夏の2018年8月のクーラーに関する配信記事です(メモ記事です)。

そもそも、冷蔵庫やクーラーがなぜ冷えるのか、明確に答えられますでしょうか。

冷蔵庫が冷える理論、それは、冷蔵庫やクーラーの中に巨大な氷があるわけではなくて(それは氷室といいますね)、液体が気体に変わる時に「周りから熱を強力に奪う」という現象を利用しているということは、意外に知られていないことかと思います。

小学校や中学校での理科の授業においても、このことはあまり触れられていません。

高校の理科の物理学の初歩である、熱学について学ばなければいけないので、少し理論的には難しいからです。

しかし、感覚的には、例えば道路に打ち水をすることで、涼しくなることを体感した人にとっては、わかりやすい話ではないでしょうか。

これも、打ち水をした水が蒸発するときに、周りの熱い空気から熱を奪うということをやるからです。

たとえば、ベランダに放置した温度計の気温を見ると、36度を差していたとします。

そこに、コップ一杯(200ml)の水を周りに打ち水して、10分間様子を見てからもう一度気温を測って見ますと、35度に(ほんの1度だけですが)下がっていました。

このように、その辺にある水(H2O)でも、十分に冷却機能を自然に持っているというわけです。

これを循環的に逆に言えば、気体になるためには熱を必要とし、逆に気体が液体に変化する際には周りに熱を放散する(熱を放り出す)という現象が起きます。

冷えると水(液体)になるのではなく、気体が冷えた結果、水(液体)になるというわけです。

さて、冷蔵庫やクーラーには、こうした気体←→液体の変化を繰り返すことによって、発生した熱を捨てたり、熱を周りから奪って冷風を流したりするということを、電気の力によって繰り返す冷媒機能が組み込まれています。

すなわち、冷蔵庫やクーラーには、気体から液体、液体から気体への変化を繰り返すたびに、熱を吸収したり熱を放出したりする媒体である「冷媒」と呼ばれる物質が機器の中のパイプに閉じ込められていて、この冷媒の作用こそ、冷却機能の本質ということになるのです。

まとめますと、液体から気体になるときに熱を奪う機能を利用して、そこに風を当てて冷風を放出し、気体になった冷媒を圧力をかけて液体にする時に発生する熱はそちらも風を当てて外気ファンを通じて外に出す、これが冷蔵庫やクーラーの基本的仕組みになるのです。

ですので、冷蔵庫が室内にあると、冷蔵庫の後ろから発生する「熱」で部屋は実は少し暖かくなります。

室内でクーラーをかけると、外の排熱ファンからは、暖かい(というか真夏は熱いくらいの)風が出てきます。

真夏のビル群の外が殊の外熱いのは、アスファルトでの放射熱作用と、さらに室内クーラーを聞かせていることからくる外への排熱という影響も無視できないのです。

この点、ドライヤーや湯沸かし器といった「暖房」器具については、単に電気やガスの力で熱を「発生」させれば済むだけなので、人間社会においても例えば今から50万年前の北京原人の時代から人類は火は使っていました。

しかし、冷蔵庫やクーラーというこの本来の循環する冷却機能という仕組みを使い出したのは、ほんの150年前、電気というものを人類が手に入れてからということになります。

以上まとめます。

冷蔵庫やクーラーは、気体から液体へ、液体から気体への状態変化時に起こる、「周囲から熱を奪う」・「奪った熱を発散する」というサイクルを繰り返しながら、庫内や室内を冷却する機能を持った家電製品です。

液体から急激に気体へする際に、気圧を下げるため、及び、気体から急速に気圧を高めて液体に戻す際に、必要となるのが電力です。

さらに、発生した冷気や熱気を、放出したり排出したりするためのファンを回すための電力も別に必要となります。

冷蔵庫やクーラーは、こうした現象を利用し、

1 冷却器で圧力を下げて、冷媒を液体から気体に急速に状態変化させる。
  このとき周囲から熱が奪われる。冷気発生(涼しい〜)。
2 発生した冷気をファン等で庫内へ流す。
3 気体となった冷媒が、圧縮機(コンプレッサー)に運ばれる。
4 冷媒(気体)を圧縮機(コンプレッサー)で圧縮して、高温、高圧の気体へ変える。
5 放熱器(コンデンサー)を通しながら、冷媒を気体から液体に変える。
  このとき周囲に熱を放出する。熱気発生(熱い〜)。
6 発生した熱気をファン等で外気へ流す。
7 再び液体となった冷媒を、冷却器に送る。(1へ戻る)

ということを繰り返しながら、一部を涼しく、一部を熱くするという、熱の移動を行いつづける機械ということになります。

ですので、地球上全てのクーラーを稼働させたところで、地球全体が冷えるということはありません。

むしろ使っている電気の分だけ、むしろ温度は上昇してしまうということになります。

2020年に迫った東京オリンピックで、暑さ対策でお店や事務所のクーラーを、窓全開で開放すればよいのではないか、などと組織委員会が言ったとかいう噂が流れていましたが、もしこれが本当ならば、クーラーの基本的仕組みすら理解していない方が、2020年オリンピックの組織委員会になぜ紛れ込むことになったのか、それこそ夏の怪談で肝の冷える話ではないかと思いました。

東京オリンピックの成功を切に祈る身としましては、単に競技時間を2時間か3時間前倒しにすれば、実はアメリカやヨーロッパの夜や夕方のゴールデンタイムに生中継で放映されることになりますし、状況は一気に好転するのではないかなどと思っています。

真夏の溶けてしまいそうな暑さの中、こちらからの意見記事は以上です。

(平成30年8月12日 日曜日)

2018年8月11日

日本国憲法の改憲議論の本質と自分自身の考えについて述べておきます







おはようございます。

2018年8月の日本国憲法に関する配信記事です。

戦後70余年を過ぎ、そして原爆や終戦といった慰霊の日々を過ごす季節になりました。

そして、刻々と変わりゆく国際情勢に対応した、憲法の改正議論というものが、盛り上がったり盛り下がったりしながら、進んでいっているのが今の政治の状況です。

それでは、憲法改正、本来最も議論になるべきはどこなのでしょう。

実は、戦争放棄と国の交戦権を否定した、日本国憲法第9条の存在だと思われるのですが、それでは一体、改憲派も護憲派も現状をどのように理解したうえでどう改正したいのか、どう(改正するのを)反対したいのか、あまり整理がされていないのではないかと思うのです。

それですので、筆者の一方的な解釈が入りますことはご容赦いただきながら、できるだけ簡潔に現在の問題点について論じていこうと思います。

論点は、ズバリ「タテマエとホンネ」です。

タテマエとして今の日本国憲法は、明確に戦争放棄、国の交戦権を否定しています。


(日本国憲法 第9条)
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

・・・このように、高らかにうたっております。

これは、明らかにタテマエ(建前)の話です。

現実には、日本国は、日本国民の生命財産権利を守るため、必要な武力、実力を保有し行使しています。

警察や消防より当然強い、国レベルの戦闘防衛ができる組織、それが自衛隊で、自衛権という国家が自らの存続を担保するために必要な行為や準備、組織体を保有することについてはこの第9条と反するものではない、という憲法解釈により、自衛隊法という法律に基づく組織体として自衛隊が組織され、災害救助や国際PKO活動、それから専守防衛を任務として全国に展開されております。

つまり、これまでの内閣法制局、の解釈により、こうした解釈が積みあがってきています。

第9条の1項と2項とは一見矛盾するものの両立を目指した、ホンネ(本音)の部分が下記のように事実上付記されるに至ったわけです。


(ホンネ部分、便宜上第3項から第5項まで付しましたが、当然憲法本文にはありません)
仮3 前項の規定は、自衛のための必要最小限度の実力組織の保持を妨げるものではない。
仮4 前項の実力組織は、国が武力による攻撃をうけたときに、これを排除するために必要な最小限度のものに限り、武力行使をすることができる。
仮5 前項の規定にかかわらず、第三項の実力組織は、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされる明白な危険がある場合には、その事態の速やかな終結を図るために必要な最小限度の武力行使をすることができる。

第3項(仮)に「自衛権」を保持する予定の組織の存在、第4項(仮)に個別的自衛権、第5項(仮)に集団的自衛権を示してみました。

いずれも、戦後70余年を経て、時の内閣によって決定し、または発議され、国会によって承認成立した法令等に基づいて行われています。

事実上、この日本国憲法は上記の3、4、5という法律上の「(ホンネの)憲法解釈」によって、戦後長い時間を経て整備されたこの事実上の解釈によって、曲がりなりにも自衛組織としての自衛隊を編成し、それを運用するということをやっているというわけです。

自衛隊は、映画シン・ゴジラなどを見るまでもなく、日本国民の生命財産権利に対する強力な守り、備えです。

日本国民の生命を守る最後の砦は、自衛隊しかありません。

それでは、この現状のホンネ部分を、憲法の条文に「格上げ」して記載することが必要なのかといいますと、筆者はそうではないと思うのです。

それでは、崇高な理念を持って国民が定めて公布した憲法としてはこのままで良いと思うのです。

いくらホンネが見え隠れしている世の中であっても、やはり人間「理想」「タテマエ」によって動かされる部分もあると思うからであり、そもそも自衛権など憲法条文にわざわざ書かなくても、国が本当に滅びようとするのであれば、為政者も国民もそんな垣根は取っ払って、自らたちのために立ち上がるでしょうから、為政者の権限を抑制する、という憲法の本来の意味からすれば、為政者側に都合が良いホンネの条文をわざわざ長たらしく記載して憲法条文に格上げするということはあまり意味のない、むしろそれを根拠に自衛隊という権限が際限なく増大してしまうことの不具合のほうが大きいと見ています。

あらゆる国家機構は全て国民の生命財産権利のために動いています。

その中で、非常に極端な例でありタテマエの話が最もききにくいところが、戦争や国同士の交戦、といった事象です。

それだから、タテマエも、ホンネも併記しましょうでは、結局みんなホンネしか見なくなります。

それは危険なのです。

あくまで、タテマエとして戦争を否定したうえで、現状の現実的な解を選択するということが望ましいと思っています。

もしかしたら、ジョン・レノンがイマジンという歌に込めて歌った、世界中の人が武器を捨てて手をつなぐ日が本当にやってくるのかもしれませんから。

その時にわざわざホンネ部分の条文を削除するために国民投票をする、これではあまりにもカッコ悪いではありませんか。

寝たいときに寝て、食べたいときに食べる、ホンネばかりでタテマエの勉強や学習や訓練がおろそかになりがちな弱い筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月11日 土曜日)

2018年8月10日

やっぱり地球は丸かった(Googleマップが球体表示を実現した)という話です






おはようございます。

2018年8月のやっぱり地球は丸かったということを語る配信記事です。

すでに全世界の「地図」の第一人者としてその地位を固めたと言えるGoogleマップが、ついに平面の世界を飛び出し地球を本来の球体表示にするという発表を行いました。

それを知った筆者も早速みてみました。

ひたすらズームアウトしますと、Google公式の広報でなされているように、「グリーンランドがアフリカ大陸並みの広さに表示される」というメルカトル図法上の問題点はかなり解消され、丸い地球の上に都市や山脈が載っている、いわゆる宇宙飛行士的な視点で見ることができました。

これはかなりの進歩です。

メルカトル図法上の「地図」では、緯度が高い箇所はそれだけ引き伸ばされて、実際の面積より大きく表示されます。

たとえば南極大陸は、地図の下部に巨大な塊として描かれてしまいますし、先に述べたグリーンランドやカナダの北部などの島々も、ありえない大きさで表示されてしまいます。

スカンジナビア半島も、巨大な佇まいを見せていますが、実際はもう少し小さいのです。

これは、自らの存在を誇示したい、北緯のある程度以上の緯度にある、ヨーロッパ各国の自己主張だったかどうかは置いておいて、本来地球儀で見る地球においては、アフリカ大陸や南アメリカ大陸は、普段過小評価されている分非常に大きく写りますし、ロシアなども、以外に平べったく小さいと思うのではないでしょうか。

さて、Googleマップに戻ります。

Googleは、正確には「Globe Mode(地球儀モード)」という新しいGoogleマップをリリースしており、普段の地図よりひたすらズームアウトしていくと、地球が本来の形である球体っぽく表示されます。

マウスやタッチパッドを使ってこの「地球」を回転させることもできます。

写真のように、実際に試してみたところ、なんと実際の衛星画像の台風の画像まで写っていて、これはほぼリアルタイムに「更新」されていることを確認しました。

現在、東京方面に向かっている2018年の台風13号の位置も気象庁提供の衛星写真とほぼ一致しています。

これは、Googleが保有するクラウド用サーバーの容量が拡大を続け、ついに地球の表面の状況を衛星写真等を利用して随時表示することが可能となったということを示しています。

恐ろしい処理量であり、おそらくこんなことが可能な企業は、(現時点では)世界中の情報を検索し尽くすということを企業理念にしているGoogle社以外にはないでしょう。

グリーンランドがアフリカ並みの大きさで投影されることが常識と化していた筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月10日 金曜日)

2018年8月9日

2004年から始まった日本の法科大学院制度がほぼ崩壊の危機に至ったという話です








おはようございます。

2018年8月の日本の法曹界(いわゆる裁判官・検察官・弁護士の法曹3者)の育成状況に関する配信記事です。

筆者は1997年に大学法学部を卒業しましたが、その最終年度に、旧司法試験の二次試験(いわゆる短答式試験)を就職活動の傍ら受けたことがあります。

受けてみて、そしてそれなりの手ごたえがあれば、2年程度「留年」するか大学院にでも進んで旧司法試験に挑戦する人生もあるかと考えて受けたのですが、結果は、かなりの(合格ラインにかなり遠い)惨敗でした。

ここで、心おきなく民間企業であるところの当時の長期信用銀行に就職し、社会人として第一歩を標すわけですが、並行して試験を最終合格して取得した「国会議員政策担当秘書資格」については、日の目を見ないまま現在に至っております。

受かるかどうかという気持ちがあった試験と、受かるとはあまり思っていなかった試験で、結果が全く分かれましたが、人生このようなことはままあると思い、挑戦した結果を受けて前に進めたのは後から考えても良かったと思います。

つまり、とっとと失敗して、その結果を受け入れて、次に進むというやつです。

そうして自分としては離脱した法曹界への道ですが、折しも、当時行われていた大幅な司法制度改革、その法曹従事者育成、選択面で大きな目玉だったのが、法科大学院を基軸とする制度変更でした。

しかしながら、法科大学院による新司法試験制度が始まってから20年、どうやらその制度設計は完全な失敗に終わったようです。

全国の志願者は、初年度の9分の1と減少の一途をたどり、すでに制度開始時に全国で74校を数えた法科大学院のうち、これまでにほぼ半数の35校が募集停止や撤退に追い込まれ、残った法科大学院のうちの多くが、定員割れを起こしているという状況で、すでに累積赤字は膨大なものとなっており、文部科学省による支援も限界です。

2018年度の法科大学院の入学者総数は1621人(昨年▲83人、4.9%減)となっており、法科大学院制度の創設時の2004年の7万2800人に比べれば隔世の感は否めません。

それでは、現在、真に法曹を目指す人材は、どのようなルートを利用して、新司法試験にチャレンジしているのでしょうか。

それは、法科大学院(日本版ロースクール)を卒業しなければ本来付与されない、新司法試験の受験資格を取得できる誰意外的な措置、「予備試験」の存在です。

つまり、例えば実質的な大学入試勉強が必要でない慶應義塾や早稲田の系列校の高校生たちは、高校2年生くらいから、そして東大や京大の法学部に進学した大学生は、入試の余韻も冷めやらぬ大学1回生の夏前から、すでにこの予備試験の資格勉強を開始します。

そして、進路としてはそのまま法科大学院に「入学」するというルートを辿るものの、法科大学院の修了を待たずして、それまでに、早いものは大学学部のうちからこの予備試験に通ってしまい、新司法試験への受験資格を得て最終試験も合格していく、というルートが、事実上一番の現在の法曹養成のトップエリートコースになってしまった、ということなのです。

大手法律事務所であればあるほど、この予備試験突破組の資格者を自事務所の弁護士にリクルート、採用しようとします。

明らかに、自分たちがよく知っている旧司法試験に近しい、地頭の出来が判定しうる試験として、かの業界では重宝されるのです。

弁護士、検察官、裁判官とは、日本語という不可解極まりない、それでいて簡潔に世の全てを表記することのできる超絶難解言語を駆使するという、社会科学的世界のトップが君臨している世界です。

こんなブログ記事を書いている筆者など、目じゃありません(それが社会経済の本当の意味での発展に寄与しているというかどうかという観点は除きますが)。

となれば、完全に受験資格をほぼ不問としていた、旧司法試験と同様の状況に逆戻りしているというわけで、やはり法科大学院とは所詮資格試験で筆記の実力一本で臨む試験対策以上の「効用」「世間の支持」が得られなかったのは残念なところでした。

事実、2011年に予備試験が導入されてから、この例外的な制度に事実上絞った新司法試験受験者が急増し、法科大学院の志願者はさらに減少の一途を辿りました。

法科大学院の志願者が減れば、輩出される法曹実務者の質の低下につながり、そのテコ入れのために旧司法試験を事実上一部復活させる予備試験を例外的に導入したところ、そちらの方に受験者が流れてしまい、さらに法科大学院の入学者が減ってしまうという悪循環により、ここまでの惨状となったわけです。

そして、結果2017年の司法試験合格の上位5つの出身大学は、慶応大、東京大、中央大、京都大、早稲田大という、これは筆者が大学生であった25年前とほぼ何も変わらない状況になってしまいました。

やはり、制度をどういじっても本質的なところでは変化は起きないものであるという、壮大な国家的社会実験の結果だったような気もします。

そんな20余年を経て、そろそろ筆者も、学生時代に挑戦し一度敗れた旧司法試験をほうふつとさせる、この予備試験にトライしてみようかと考えています。

年齢制限がなく、経済的な負担も少ない、試験一本で成り上がる「制度」というのも、これはこれである意味平等で、自由な競争による選抜ならばあってもいいのではないかと考えているのです。

年齢制限がなく、経済的な負担も少なくチャレンジできる、スポーツでも勉学でもかかわらずそのように世の中が進めば、よりよい社会に近づくのではないかと思っています。

法の本質はタテマエとホンネだと、かつてローマ法の大家であった柴田光蔵教授(当時)に教えてもらったことだけは鮮明に覚えております筆者からは以上です。

(平成30年8月9日 木曜日)

2018年8月8日

映画「シン・ゴジラ」を見ながら映画の漫画との垣根の喪失というテーゼについて考えた話です






おはようございます。

2018年8月の邦画に関する配信記事です。

2016年映画「シン・ゴジラ」を改めて見ました。

Amazonのプライム会員のサービスで見放題のラインナップに、ついにこの映画も含まれることになったのを偶然PC画面で見てしまったので、時間を作って視聴し堪能しました。

映画館で3回(うち1回は4DX)、DVDなどになってから数回、いずれも2016年~2017年に視聴しましたが、2018年の8月になって改めて見ても新しい気づきがありました。

一番の気づきは、この映画は漫画やテロップ付きバラエティ番組に慣れた現代日本人にとって、非常に心地よい理解が図られるものである映画であるという「説」です。

台詞を音声で話すより、文字を目で追う方が数倍の速度で頭に入ってきます、というのは周知の事実です。

しかしながら、それでも音声での演説がなくならないのは、それは、演説が身振り手振り、声の抑揚といった、「文字情報以外」で伝える部分が過半を占めており、例えばかのヒットラーのナチス党大会のニュルンベルク演説を動画サイトなりで見ることができますが、ドイツ語がそんなにわからなくてもなんとなく現場の熱気は伝わってくるということからもわかることだと思います。

しかしながら、単なる情報として処理を求める場合、台詞はより早口になり、登場人物の紹介や参照法令や自衛隊機や特殊車両や職位については、一瞬のテロップで済ますという「手法」が使われ、2時間という映画時間いっぱいいっぱいを使って、このシン・ゴジラ登場の背景や影響について、目いっぱいの情報を詰め込んだ映画に仕上がっています。

登場人物も非常に多く、エキストラ含めれば日本映画史上随一ではないでしょうか。

ゴジラ自体の動きも、能楽師(狂言師)の野村萬斎さん(この方は2020年東京オリンピックの総演出にこの度就任とのこと、おめでとうございます)のモーションキャプチャーだそうですが、ここまで細部にわたって作りこまれたゴジラ世界を「表現」するには、スターウォーズで採用されている、映画の最初にテロップ文字で「序章」「背景」を流すあのやり方と同じく、視聴者を引き付ける方法として有用だと思ったりしました。

これから、映画や動画のセリフも、目で追う時代になるような気がします。

そこで、このシン・ゴジラも、別途映画の全セリフを取り寄せて、それを横に見ながら再度視聴してみますと、非常に理解が深まりました。

これぞ求めていた映画の深読みなのかもしれません。

耳では今一つうまく何度聞いても聞き取れなかったセリフも、言語化しているので助かりました。

例を挙げると、一方主人公の「君の~~~には助けられた、例を言う」のどうしても聞きとれなかった~の部分が、「キャラ」という非常にスラングな普通の言葉だったことを知って、意外に安堵するといった具合です。

ストーリー漫画というものを生み出し、それを世界中に広め、そして映画の世界でも迫力の映像だけではなく、ストーリーを極限まで早口で語らせ物語の世界観に深みと現実感を出していく、こうした映画の取り組みの先に、全セリフの日本語字幕、というものがあるような気がしました。

そんな感じで夜中を過ごし、そして禁断のカップラーメンに手を付けてしまった積み深い筆者からの回顧録は以上です。

(2018年8月8日 水曜日)

2018年8月7日

働き方改革が求められるという本当の背景について少し考えてみたという話です






おはようございます。

2018年8月の社会人についての考察記事です。

働き方改革が叫ばれておりますが、これは別段、時の政府がいきなり言い出したわけではなく、もう随分前からわかっていたところの少子高齢化という社会現象が、ようやく実際のビジネス現場に否応無く押し寄せてきただけのことだと思っています。

すなわち、働き方改革なるものは、もはや若くて元気のいい奴を採用できるなど宝くじに当たるようなものであるという日本の状況にようやく気づいた官民全体が、これはいかんと躍起になって、あらゆる年齢層、あらゆる労働職位階層において生産性を高めるために聖域なく改革していかなければ日本は経済的に沈没するであろうという危機意識からきたものであると勝手に思っています。

そして、その働き方改革の中には、会社側事業者側で勝手に設定した週休二日制、平日週労働時間40時間、そして若干程度の残業、という労働時間のあり方も、一気に流動化するという要素も含まれていると強く考えています。

そういうわけで、筆者なんかも自分の会社のグループで始めたシェアオフィス事業の実際の現場に土日祝日にさらりと居たりすることもありますが、例えば土日の方が空いていて作業に集中できるといった利点がありまして、これなどはまさに働き方改革ではないかと思っています。

他にも、商業施設に勤めている人が、事務作業を同じ商業施設で同時に行うなど、販売、事務、営業、そして経理や経営判断についても、これからは分業ではなく一体とした業務判断がなされていくように思えてなりません。

ところで、なんでも計算できるというサイトで、年間の営業日というものを検索してみました。

土日祝日を休みとして、銀行や官公庁も休む年末年始も休みとするいわゆる標準的な営業日は、年間365日(うるう年ではない標準年)において、245日あるという結果が叩き出されました。

つまり、営業日245日に対して休日は120日あるという計算になります。

この120日の使い方一つで、社会人としてのスキルアップも能力向上も潜在顧客開拓も新規事業開拓も、英語も中国語もプログラミングだって、実は案外簡単なのではないかと思うのです。

もちろん、人には家庭や地域社会でも抜けられない役割があり、子育て介護に地域貢献といろいろとやらなければならないことは多いでしょう。

しかしながら、平日と休日、これも最初は政府や当局が決めた決め事であると考えれば、むしろ休日にこそより早起きして自分が真にやりたいことを突き詰めればよいわけです。

筆者のような者は、どうしても真にやりたいことの前に寝過ごしてしまうという醜態を晒してしまいますが、世のアントレプレナーたちや伝説的な企業経営者や何かを成した者たちは、おそらく平日の、他人に決められた業務時間以外の、自分で使える時間を殊の外大切にして大事にちびちび有意義に使っていったに違いないと思うのです。

たとえ、今どんなにきつい職場にいたとしても、今後は年間休日120日の世界にどうしても収斂していきます。

人手不足なのですから、労働環境が悪い「だけ」の職場は淘汰され、労働者は他社にいってしまうのは自明です。

筆者が新卒社会人になった頃の25年前くらいは、

「お前の代わりなどいくらでもいるんだ」

で通用した日本の職場は、大きくその姿を変えています。

労働者を雇用する事業者はもとより、労働する労働者も、自らの貴重な労働力をより強く認識し、会社に貢献しているか、会社に労働力を提供しているそれ以外の時間が年間120日ありそれはとても大きなものであるという認識を持って過ごせば、この少子化の世の中を少しだけ良いものにできる働き方改革になるような気がします。

それでも年間365日遊んで暮らしたい(せめて1年だけでも)と思ってしまう筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月7日 火曜日)

2018年8月6日

平成末期に昭和末期の30年前を振り返り常識というものが如何に変わるか確認したという話です







おはようございます。

2018年(平成30年)8月の常識を疑うべきという配信記事です。

常識に縛られるなとか常識を疑えといった言葉がよく聞かれるようになりましたが、そもそも常識なるものが平気で変遷するものであるということは、実は少し歴史の勉強をしたり、ほんの近い過去のことを振り返るだけでわかるものではないかと思います。

例えば、百年に一度の(金融)危機、などと2008年に起こった米国の金融機関であるリーマンブラザーズの破綻に端を発した世界的金融不安のことを言ったりする向きがございますが、たとえば我が国で百年遡れば、そこは日本が国家の存続をかけて当時の世界最強の陸軍国であるところのロシア帝国と朝鮮半島そして満州の荒野や日本海黄海をまたにかけて限界まで戦い通した、こちらから言えば日露戦争を戦っていたわけであり、数十万人の犠牲を強いて国の予算の数年分を使い果たしたこのような出来事に鑑みるに、簡単な気持ちで軽々しく百年に一度の〜などと申し上げるべきではない、ということであろうと思います。

当時は、日英は軍事同盟を結び、共に対抗してロシアの極東進出を阻もうとしていたのです。

まさに、現代の地政学で言われている通り、シーパワー(海洋国家)連合によるランドパワー(陸軍国家)の封じ込めであります。

今回、アメリカが離脱したTPP(環太平洋パートナーシップ協定)に、太平洋上にも領土(ピトケアン諸島)を持つイギリスが参加を前向きに検討している、というニュースに触れ、これこそ100年越しの日英同盟の復活かとひそかに心待ちにしている筆者です。

のちに太平洋戦争で互いに争うことになる両国が、この時点でここまで緊密な関係にあったということを見るだけで、常識なるものが簡単にその姿を変えることの何よりの証左であろうと思います。

百年というスパンから、もう少し近場の過去に目を転じてみましても、例えば平成末期からたかだが30年ほど前にすぎない昭和末期では、以下のようなことが「常識」でありました。

昭和末期
その1 保護者から教師へ「先生ウチの子言うこと聞かないなら殴って下さい」
その2 部活の顧問や先輩「練習中に水飲むな!」
その3 家には黒電話で路上には公衆電話
その4 会社は終身雇用制度

こうして並べてみますと、その時代を当然知っている我々のような中年世代を超える人以外には、一体何のことやらわからないこともあるのではないでしょうか。

1や2などは強烈すぎます。

3もびっくりですし、そもそも電話がなぜ黒いのか不明ですし、4などすでに歴史上の言葉のように思えます。

この1−4を、平成末期の「常識」で並べてみますと、以下のようになるでしょう。

平成末期
その1 学校での教師による体罰は即懲戒処分
その2 熱中症対策で常に水を飲むように
その3 スマホ/タブレット/インターネット
その4 派遣切り

こうしてみますと、たった30年で、人間の常識なるものは全くもって変化するものであり、1や2のように真反対になるものすら相当程度あるということです。

そうすると、いっ時の常識なるものに縛られていては、その後大いに生きにくくなると言うのは自明でして、当然その当時の世の中で大切にされているものである「常識」に対しては一定の尊重を見せつつも、常にそれは変わりうるものであるということを肝に銘じて、日々の変化に敏感に過ごした方がより幸せに過ごせるのではないかと思いました。

ところで、昭和生まれの小さい頃からドラゴンボールが好きで、今でもドラゴンボールをみているこの点では常識に変化のない筆者からの意見記事は以上です。

(平成30年8月6日 月曜日)

2018年8月5日

長崎県に限らない地方銀行の過当競争に関して個人的意見を述べておくという記事です








おはようございます。

2018年8月の地方銀行の過当競争に関する配信記事です。

公正取引委員会がずっとこの数年待ったをかけていた、長崎県の地方銀行2行(長崎市地盤の十八銀行と佐世保市地盤の親和銀行)の合併統合に関して、ようやく認められる方向になったようです。

非常に感慨深いです。

既に、2000年代には、狭い日本に全国展開している20行近くあった都市銀行、信託銀行、長期信用銀行たちは、それぞれの収益基盤の先細り感からこぞって集合統合を繰り返し、今の赤グループ(三菱)、緑グループ(三井住友)、青グループ(みずほ)というメガバンク3行体制に収斂してきたのに、場面を地方都道府県レベルに落とした時には、県内融資残高が突出するという論理で統合を頑として認めなかったのです。

これはかなり二重基準と言えまして、例えば長崎県、とひとくくりに申し上げましても大きな経済圏としては、長崎市を中心とした一帯と佐世保市を中心とした一帯に大きく分かれており、この二つの都市圏は歴史も違えば文化も違う、はっきり言って隣の県レベルに何もかも違うわけです。

当職は同じ話をかつて長野県の松本市に行ったときに痛切に感じまして、かの地においては、1998年長野オリンピック(当然長野市で行われますが)は驚くほど盛り上がっておらず、長野新幹線などどこ吹く風、東京からの始発特急あずさに乗って3時間、松本駅から北アルプス上高地、みたいな旅情がそのままたなびいておったわけです。

当時、1998年でしたが間違いなく長野オリンピックを松本城の真ん中で叫ぶことはなかったけれども、長野市の善光寺では、冬季オリンピック一色でありました。

ちなみに松本市の人にとっては、長野県など屈辱的な名前に過ぎず、今でも信州信濃、と呼ぶのがスタンダードのようです(県の歌は「信濃の国」)。

もちろん、学生あがりのペーペー社会人であった筆者の受けた感覚ですから大げさな部分も含まれているとは思いますが、それくらいのインパクトがあったのです。

さて話を長崎に戻します。

つまり、長崎市レベルで見れば十分独占と言える十八銀行の存在、片や佐世保市レベルにおいて見れば大いに独占と言える親和銀行の存在を見るに、それを長らく黙認し放置していた公正取引委員会が、その2行が合併すると長崎県レベルで独占が発生するからよくない、合併統合は認めないと言っているのであれば、一体公正取引委員会というのはどのレベルでの独占寡占を規制している行政当局なのか疑問だということになります。

それに、公正取引委員会が設置されている根拠法である、独占禁止法ですが、この適用対象として、全世界的に展開してほぼ電子商取引の世界で独占状態を続けて独走しているアマゾンや、SNS世界であらゆる新興サービスを吸収合併しながら貪欲に成長し続けるフェイスブックのほうがよほど独占による規制対象としてふさわしいと思うのですが、そうした会社についてはグローバルに展開しているので捕捉しようがないという風に見えるのも、少々二重基準が過ぎるようで面白いと思ってしまいます。

さて、こうしたわけですが、長崎県に限らず、全国津々浦々に存在する日本の地方銀行をめぐる経済環境は、そもそも厳しく過当競争で皆共倒れになるリスクの方が、独占による弊害よりはるかに高いと思います。

何しろ、「銀行」で仮に独占したとしても、顧客に高い貸出金利を要求すれば、顧客である借り手は容易に類似の金融機関、すなわち信組信金農協、それからクラウドファンディングに果てはサラ金、乗り込んでくる隣の県(例えば福岡県の福岡銀行とか西日本シティ銀行とか肥後銀行鹿児島銀行の九州フィナンシャルグループとか)の地銀にまるごと融資シェアを持っていかれ、そしてゼロ金利で全くお荷物となっている支店網の預金吸い上げ機能を抱えたまま、右往左往するしかなくなります。

その上、全世界的なフィンテック革命の嵐の中から、何たらペイを超える革命的フィンテックサービスが乗り込んでくれば、ひとたまりもありません。

ゼロ金利なのですから、わざわざ顧客(預金者)からお金を集めるのではなく、マーケットや他の地銀や他のメガバンクから、インターバンク市場でお金を必要分だけ「調達」してくればよいだけなのに、そうしないのは、地方経済にATMを設置して、顧客(預金者)の利便に現金を供与しなければならないという地銀の宿命でもあります。

合わせて預金部門を廃止してしまえば、例えば将来に金利が上昇してインターバンクでの調達が苦しくなった時(かつての支店網を持てない長期信用銀行が苦しんだ如く)、自前の預金部門があるのが経営安定のために必要であるからでもあります。

しかしながら、いつ金利が上がるのか全く分からない中、ずっと赤自店舗部門を抱えて維持し続けるコストは、本当につらいものであることは間違いありません。

いっそすべてコンビニATMへの「名義貸し」に特化して振り切ってしまう、というくらいの荒療治が必要なところまで来ているのです。

公正取引委員会の存在意義自体まで踏み込んだ、非常に奥深い壮大な問題に切り込もうといたしましたが、いかんせん浅学であるのでそのとば口で筆を置きたい筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月5日 日曜日)

2018年8月4日

プロ意識とは整理整頓から始まるということを学んだサッカーのジーコ選手の言葉について

サッカー日本代表がロシアワールドカップ2018で使用したあとの清掃されたロッカールーム





おはようございます。

2018年8月の日本のプロサッカーリーグに関する配信記事です。

J1のチームである、ヴィッセル神戸にスペインリーグのリーガ・エスパニョーラのビッククラブである前バルセロナFCの世界的名手、魔法使いとも呼ばれるアンドレス・イニエスタ選手、同じくサガン鳥栖には英国プレミアリーグで神の子とよばれたフェルナンド・トーレス選手が加入するなど、日本のサッカー界も、ついに欧州の超一流選手が移籍するようになってきたというのは大変喜ばしい限りです。

しかしながら、日本のプロサッカーリーグが生まれたばかりに、日本にプロ意識というものを注入した、ブラジルの英雄ジーコ選手のことを思い出さずにはいられません。

ジーコは、ブラジル代表の10番として君臨したまさにかの国の英雄でした。

そのジーコが、一旦引退してブラジルにスポーツ大臣に就任、その後日本のJリーグの求めに応じて引退を撤回して日本の地を踏んだのは、Jリーグ創成期の住友金属工業蹴球団(現在の鹿島アントラーズ)でした。

さて、この当時の田舎町の弱小プロチームは、ジーコ選手にとって弱小の名前にふさわしい振る舞いだったようです。

アマチュア意識が抜けず、たとえば練習後の夕食のあとに、夜な夜な寮を抜け出してスナック菓子などのジャンクフードやビールを買い込んでくる選手があとを絶たなかったそうです。

ジーコ選手は、こうした振る舞いを止めてプロサッカー選手としての意識を叩き込むため、なんと毎晩選手寮の出入りを見張って、彼らが買って来た菓子やビールを没収、プロ選手の体づくりに必要な食材ではないと当時、選手寮の玄関脇で買っていたヒメという名の雌犬にそれらを次々と食べさせ、丸々と太ってしまったヒメを見せて言い放ったそうです。

「お前らみたいなプロ意識のない選手のせいで、可愛かったヒメがこんな太った姿になってしまった」

と。

ジーコ選手は、選手のスパイクシューズやボール、そしてロッカールームの整理や使い方についても大いに幻滅し、嘆息します。

ジーコは滔々と述懐したそうです。

世界的名手である、「白いペレ」とまで呼ばれたブラジルの英雄が、日本の鹿島の片田舎で、世界的には無名の日本人の若い選手に向かって切々と説くのです。

「8歳の頃からサッカーに親しんできた私が、最初のスパイクを手にしたのは、13歳のときでした。自分のスパイクを持つなんていうのは夢でした。だから、スパイクを貰ったときは、本当に嬉しかった。真新しいスパイクを履いてみると、自分に不可能なプレーはないように思われました。私にとってスパイクは、魔法の靴だったのです。」
「しかし、私がサッカーの指導をするために辿り着いた異国ニッポンのロッカールームには、泥の付いたままのスパイクが、無造作に転がっているではありませんか。私は非常に悲しくなりました。そして、同時に怒りが込み上げてきたのです。」
「「来週までに、ここにあるスパイクを、みな磨いておきなさい」私はそう言った後、宝物のように大切に履きつづけてきた古いスパイクをカバンから取り出して、靴クリームで丁寧に磨き始めました。」

驚いたのは、周りの選手たちです。

ここまでされてしまっては、日本人も発奮しなければなりません。

お客さんとして物見遊山に来ただけではないかと思っていたブラジルの英雄は、一番サッカーをやりたがっている、そういうジーコ選手の本気に気づかされた住友金属工業蹴球団は変わっていきます。

じきに、選手たちも磨き抜かれたスパイクできっちりボックスに収納し、ロッカールームは輝くように見えるようんなりました。

選手寮のジャンクフードは消えました。

それだけの態度をもって、そして日本のチームにプロ意識を植えつけたジーコ選手は、1993年のJリーグの開催年、ファーストステージ優勝という成果を鹿島アントラーズにもたらすのです。

サッカーで名声を得ることはとても光栄です。

しかし、ジーコ選手は今なお、スパイクを履かせてもらったその日の感動と感謝の気持ちを忘れず、サッカーの心と思い、綺麗に磨いて整えておくのです。

このような先人たちの足跡を見るにつけ、プロ意識とはきちんと道具を整理する、心を整える、ということから始まるのだと思わずにはいられません。

そして、失敗に対する態度についても、ジーコ選手は非常に含蓄深い言葉を残しています。

「気にすることはありません。私はワールドカップでPKをはずしたことがあります」

物凄く強い言葉です。

Jリーグ発足時は既に40歳を迎えていても最前線で身体を張った、開幕戦でハットトリックを決めたジーコ選手がいたからこそ、今に続く日本のJリーグの隆盛と表紙の写真のようなロッカールームを綺麗に使う日本代表の振る舞いにつながったと断言できます。

綺麗に整えて、準備する。

感謝の心を忘れない。

大抵の失敗は、ワールドカップでPKを外すより気になるものではない。

夜な夜な誘惑に駆られますが、たまにはスナック菓子を自粛しようと思いました同じく現在40過ぎの筆者からの振り返りは以上です。

(平成30年8月4日 土曜日)

2018年8月3日

世紀末は少し過ぎてしまったけれどそういう背景で流行った漫画の有名な台詞について





おはようございます。

2018年8月の世紀末は少し過ぎてしまったけれどもそういう背景で描かれた昭和の漫画についての配信記事です。

「ヒャッハー!」というセリフ(歓喜の声)は、かの有名な「北斗の拳」という原作漫画・アニメ・映画にメディアミックスされた昭和末期の鉄板コンテンツであり、筆者のような団塊ジュニア世代の前後については強烈な記憶を呼び覚ます、鳥山明「ドラゴンボール」「Dr.スランプ」などに並ぶ一世を風靡した秀逸な作品です。

時は世紀末。

核兵器(熱核兵器)による全世界レベルの戦争(核の炎と形容)の後、恐怖と暴力が支配する荒廃した世界において、悪党どもがあげる歓喜の叫び声。

それがヒャッハー!と呼ばれます。

主に自分より弱い者を見つけた際に集団で使うと解説されています。

しかしながら、こうした歓喜の声もつかの間、たまたま居合わせてしまう、または出会ってしまう一子相伝超絶殺法(拳法)の使い手であります、ケンシロウや、たまにレイなどに、次のページでは痛いお仕置きをされてしまうという哀しいキャラクターたちでもあります。

そして、面白いのが、実は、この「ヒャッハー!」という台詞、原作の「北斗の拳」においては、実は一度も登場したことがないのです。

原作の中で、この描写に最も近いのは、

「ヒャッハッハッ水だ――っ!!」
「食料もタップリもってやがったぜ!!」

原典 ~『北斗の拳』第1話より抜粋~

という非常にこの漫画の世界観を表しているこの第1話の描写であることは間違いありませんが、それでも、筆者含め、こうした集団悪党の歓喜の声らを総称して

「ヒャッハー!」

と脳内変換して、いつしか

ヒャッハー
水だ水だ!

などとネットスラングなどで語るようになってしまったのです。

そして、たまにこの言葉そのものが、原典の漫画のどこにもないことに改めて驚くのです。

まさに、マレーシアのイスカンダル計画、もしくは宇宙戦艦ヤマトがコスモクリーナーDを受け取りに向かう惑星イスカンダルで有名な「イスカンダル」が、あの大王「アレクサンドロス」のペルシャ語訳から来ているという、驚きの音位変換が起こっていることと同じようなものなのかもしれません。

人間の記憶というものは曖昧で、しかも集団記憶となるともはや修正するのは不可能です。

アレクサンダーがイスカンダルになるくらいに時を経れば、ヒャッハー!も別の言葉として語られているのかもしれません。

世紀末199X年からやってきた筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月3日 金曜日)

2018年8月2日

昭和末期と平成末期の今との働き方の変遷と変わらないものを自分なりに整理してみたという話です






おはようございます。

2018年8月の人材教育に関する配信記事です。

時代は平成の末期となっておりまして、昭和生まれの我々筆者の世代が社会人になりたての頃に受けた「教育」ははるか昔となりました。

新人としてまずセッティングされたのは、花見のセッティングであり、配属された部署での一人一人の係員の先輩のみなさんとのサシ飲み会であり、最後は中ボスの課長、そして大ボスの部長とのサシ飲み(すべて奢り)が延々一ヶ月以上続き、この新人はどういうやつであるか、ということを頭の先から足の爪の先まで把握されたものでした。

そして、朝の早朝出勤です。

東京の丸の内のど真ん中に、今は物理的にも法人的にも消滅してしまった銀行の本館に新卒筆者の職場はありまして、地下鉄を3駅ほど乗り継いで帰れる至近の独身寮から、朝7時には出勤して、とりあえず何やっていいかわからないけれども新聞を読んだり、ありとあらゆる顧客ファイルを読み漁るところから1日は始まりました。

おそらく家を買ったばかりで片道一時間以上かかる埼玉の奥地や千葉の海沿い、湘南や鎌倉から、管理職や課長代理の先輩方もやってきていたのですが、彼らも7時15分には出社完了していました。

この人たちは一体何時に起きているのだろうか、衝撃を覚えたものです。

しかしながら、いちビジネスマンとして知力と体力と行動力のみを労働力として提供し、付加価値を出す、という気概は凄まじいものがありました。

労働環境は過酷で常時深夜労働、そして休日も通用口の警備門で「忘れ物」という理由での入館許可で入館している人がずらり、そんな職場が日本全国津々浦々、けっこう普通に繰り広げられていたのです。

むしろ、休日だと自家用車でくることができて早く来れる、ということで、入館理由「忘れ物」の入館簿の一番上の時刻が、午前5時台であることもあり、若い身ながら苦笑したことを覚えています。

しかし、時代は変わりました。

根性論は影を潜めました。

ですが、ビジネスにしろスポーツにしろ、本番の修羅場を経験しないことには真の成長は見込めません。

昭和のビジネスマンたちは、日々の自己研鑽と情報獲得競争において、それはヒリヒリするような本番の修羅場を日々経験していました。

たった一つの、重要な顧客ニーズという情報や重要な当局や世界情勢といった情報を得るために、さまざまな手段で動き回っていたのです。

今の時代、そのような物理的な「押さえつけ」や「長時間労働」を推奨することはできません。

しかしながら、時間を区切っても、その時間を濃いものにすることはできるはずです。

濃いものにするということは、準備や作業の時間を適切に取りつつ、節目節目でビジネスの最前線の修羅場に投入する、そしてできればとっとと失敗させるという経験を積ませる(大して練られていないから失敗するのは当たり前)、これしかないのではないかと最近とみに思うようになりました。

昔は怖い先輩や上司がいて、ちょっとしたミスや誤字や脱字も許されませんでした。

顧客に示すプレゼン資料のホチキス(ステープラー)の押し直しですら、それは激しく厳しく叱責されたものです。

しかし、魂は小さいところに宿る、というのは時代を超えて不変の価値だと思います。

上司が怒るのではなく、本当にそのような本番の席で、生煮えのプレゼン資料、自分も説明できない商品サービスの説明をしてしまって顧客の質問にほとんど答えられなかった、そんな恥ずかしい、失敗経験を踏んで、自分で気づいて自ら律していかなければなりません。

人に怒られる前に、いつも見ている自分自身を評価者とするのです。

こうした心構えを持って欲しいということをいつも伝え続けるのが、現代のビジネスパーソンにおける「教育」ではないかと思っています。

たまには真面目なことを書いたように見えますが、本当は上司管理職として楽をしたいだけの筆者からは以上です。

(平成30年8月2日 木曜日)

2018年8月1日

売り手の論理ではなく顧客の行列に並びたくないというニーズをとらえた無人店舗が凄いという話です








おはようございます。

2018年7月の行列に並んで決済するという手間に関する配信記事です。

シアトルに、AmazonGoという、店舗を商品持って出るだけで資金決済ができる無人コンビニエンスストアの店舗があります。

いろんな人がそこを訪れているのですが、何よりも、商品を持ってレジに並ばなくてよい、というのが最もこの「店」のサービスではないかと言っている人が多く、まだ行ったことがない筆者としても、もし並ばなくてよいお店があったら最高だろうなと思った次第です。

コンビニのレジに限らず、飛行場でのチェックインカウンターとか、ホテルでのチェックインとか、ディズニーランドの入場料チケット購入ともぎりのゲートをくぐるとか、映画館のチケット販売で並ぶとか、その他もろもろ、我々のサービスは、「行列」とは切っても切れない関係にあったのです。

いくら何とかペイやフェリカ端末を使えば一秒で現金いらずで決済できます、といっても、その決済端末に到達するまではやはり作られた行列に並んで、自分の番を待たなくてはならず、セルフレジが設定されているといっても、やはりそこは使い放題ではなく、セルフレジを使う行列に並ばなければならないという点では同じです。

これは、飲食サービスでも同じです。

世界で最も成功しているコーヒーチェーンであるスターバックスであろうとも、まず並んでコーヒーなりを注文して決済しなければ、望むコーヒーにはありつけないのです。

席に座り、あらかじめスマホで注文しておいたコーヒーが勝手に(待っていれば)届く、という状況にはなっていないわけです。

ここに、大きな意識とテクノロジーの壁があります。

それを、今まであるカメラや振動監視システムを駆使して、店に入った人を識別して、その人が持ち去った商品を購入したこととして事後的に課金するという仕組みは、とても新しく全く新しい無駄のない買い物体験として顧客にものすごいインパクトを与えているに違いありません。

何しろ、コンビニでは商品を選ぶその数倍、行列に並んでいるわけですから。

モノを買う、何らかのサービスを受ける、こうした行為に必ずついて回る「行列に並ぶ」という手間を一気に削減するというこのマーケディング手法、店づくりの手法は、単なる決済端末の電子化とは違ったイノベーションを感じざるを得ません。

これからもこうしたテクノロジーの進化によるビジネスや生活の変化について、研究していきたいと思います。

シアトルはもとより、アメリカ本土に足を踏み入れたこともございません筆者からの見てきたようなレポートは以上です。

(平成30年8月1日 水曜日)