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2018年9月27日

日本の歴史に根深く浸透している怨霊(祟り神)という考え方について軽く述べるお話です






おはようございます。

2018年9月の日本の歴史を軽く考察してみるという記事です。

東京(少し前まで江戸)に行っているという若い友人が、関西に帰るまでの高速バスまでの時間が空いたので、誰かお茶でもしませんかーとフェイスブックのメッセージ昨日などのSNSを使って呼びかけてきました。

便利な世の中になったものです。

地球にいて通信回線を通してインターネットに接続すれば、クラウドシステムを通じて同じ情報が瞬時に同報されるという、少し前では考えられなかった恩恵に我々はあずかっています。

しかしながら、実際に足で訪れて目で見て耳で聞く、これが旅の醍醐味です。

いくら写真や動画で見たとしても、それ以上の臨場感を感じるには、現場に足を運ぶ、これに勝るものはありません。

そういうわけで、例えば東京の丸の内にいて少しだけ時間があるのであれば、筆者ならば三井物産の本社ビル(現在建て替え中ですが)のそばに立っている平将門の首塚に参ることをオススメしましたが、ここで、何で世界都市の東京の一等地に、こんな古い塚が立っているのか、撤去されないのか不思議に思う若い人もいるかと思います。

実際、その若い友人も、将門塚のことを知りませんでした。

しかしこれは、数々の呪いの伝説に彩られたパワースポットであり、日本史上最大の怨霊を封じ込める大切な装置なのです。

平将門といえば、坂東武士を糾合して朝廷に反旗を翻し、関東八州を実質的に支配下に入れて、「新皇」として君臨した日本古代史上の英雄にして梟雄(きょうゆう)です。

普通、歴史上の大きな騒乱や事件を名付ける場合、その時代の元号をとって、例えば大化の改新とか応仁の乱などといった名称をつけることが普通です。

文永の役、弘安の役(いわゆる元寇)もそうです。

それなのに、日本の歴史において、その主人公、しかも反乱側が名前になるというのは異例中の異例であるということなのです。

それだけ、平将門という人物が謀反人であるけれども一方の地方に名声を得た大人物、英雄であって、朝廷はその鎮圧に苦慮した、とも言えるのです。

平安の覇王という存在であった、桓武天皇の直系の子孫にして臣下に降っても一級の名門であった平将門ですが、だんだんと中央政府(朝廷)との折り合いが悪くなってしまい、東国の不満分子の棟梁として反旗を翻さざるを得ない状況に追い込まれてしまいます。

こうして、平安時代中期、関八州を一気に手に入れ、新皇として独立するまでの勢いをもった大反乱が勃発します。

残念ながら、この時代においては、職業軍人としての武士階級が出来上がっていたわけではなく、あくまで武力による反乱も農閑期である秋から冬にかけては可能であったものの、農繁期である春から夏にかけては専用の兵団を確保することができず、乱は鎮圧され、そして将門の首は晒されることになりましたが、この首が突如として生まれ故郷の坂東に飛んで行った、その首がたどり着いたところが今の東京都の大手町の将門塚ということになるのです。

そうしたわけで、この日本史上最大手の怨霊を封じ込めるべく、将門の反乱は時代の要請にあったもので地元の熱心な支持があったことに経緯を評して、英雄将門の首を丁重に葬り、そうして今に至るまでこの場を清めて保存してきたというわけです。

このように、日本には怨霊を封じ込めるパワースポットがたくさんありまして、素人の筆者の知る限りでも、

・讃岐の崇徳院の金毘羅さん
・太宰府の菅原道眞公

といった、当人は無実かそれに近いところながら、時代に翻弄されて無実の、もしくは過度の罰を受けこの世を恨んで死に、そうして後の世に災厄を振り掛けるという怨霊(祟り神)になってしまった貴人の霊があって、それを封じ込め、その災厄をも防止しようとする試みがいたるところでなされてきたと思うわけであります。

祟りが怖い、というのは少し前の日本人までは持っていた普通の感情だったのです。

ここでいう祟りとは、無実の罪を着せられ非業の死を遂げ、その無念の思いが強くて後世の政治社会に生きる人間たちに大きなマイナスの影響を残す、そういうものです。

つまり、怨霊と認定された貴人たちは、実際は全くの無罪であったということがいみじくも証明されたことになるのです。

このあたり、かなり西洋の「聖人」といったカテゴリイメージとは異なっているので、注意しておきたいところです。

古くは大国主(オオクニヌシ)を祀っている出雲大社からして、これこそが日本史上最大の怨霊封じ込め装置であると唱える研究者もいます。

確かに、日本のあらゆる神社の礼拝手法が、2拍手であるところ、この出雲大社と大分の宇佐神宮のみ、4拍手となっているのです。

筆者は幸運にも両方ともお参りしたことがあるのですが、両方とも、ざっと二千年くらい前のこの日本列島に渦巻いた、陰謀と戦乱と混乱といった、さまざまな国づくりのダイナミズムを感じざるを得ませんでした。

本日はいつにも増してとりとめのない記事となりました。

鎌倉幕府末期、鎮西探題を攻めましたが敗死した菊池武時の動きが九州における鎌倉幕府討幕運動の契機となり、この2ヶ月後の1333年5月22日に鎌倉幕府は滅亡するに至ります。

その菊池武時公(後に朝廷より従一位を追贈)の首を祀った菊池霊社というパワースポットのすぐそばに実は住んでおります歴史好きの筆者からの記事は以上です。

(平成30年9月27日 木曜日)