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2018年9月23日

日本の歴史で最初に名前が出てきた個人名「帥升等」という人に想いを馳せてみる記事です







おはようございます。

2018年9月の歴史に関する配信記事です。

時々書きたくなる日本古代史の話です。

日本の歴史の中で、初めて出てくる固有名詞の人である「倭国王帥升等」について、書いてみようと思います。

後漢書東夷伝、という中国の史書に曰く、

「建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以ってす。」

「安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し歴年主なし。」

とありまして、これを適当に訳しますと、

建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国が朝貢してきた。使者は自分のことを大夫と名乗った。奴国は倭国の南端である。光武帝は、印綬(金印と組紐)を与えた。

安帝の時代である永初元年(西暦107年)、倭国王と名乗る帥升などが生口(奴隷のこと)160人を献上し、安帝に謁見(お目通り)をお願いした。桓帝、霊帝の時代(西暦146~189年)の間、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も王がいなかった。

という感じになりましょう。

で、第一段落のほうは、有名な「金印」が出土した博多湾志賀島のことを持ち出すまでもなく、有名な話でありますが、残念ながら「奴国」というクニが中国に朝貢してきた、という事実だけで人名まではありません。

そして、第二段落において出てくる、「倭国王帥升等」というのが、日本史上初めて出てくる個人名ということになるわけです。

有名な、卑弥呼じゃないのです。

魏志倭人伝ではなくて、その前の、後漢書東夷伝の第二段落に出てくる、この人「倭国王帥升等」こそ、日本史で最初のリアルな登場人物なのです。

そこんところ、ぜひ認識を改めていただきたいところなのです。

さて、本来ならばここでこの記事は終わってもいいのですが、「倭国王帥升等」、これをどう読むのかがさらに問題です。

通説、といいますか筆者も、「倭国の王」である「帥升」等(など)が、生口(奴隷)160人を献上した、と読んでいたのですが、よく考えれば、等を「など」とここだけ現代読みをする必要は全くないわけです。

ですので、国王たちが何人かで謁見した、という意味ではなくて、「倭国王帥升等」で一つの固有名詞だという理解にして話を先に進めたいと思います。

そうしますと、国王が単体(複数形ではない)で自ら奴隷を献上した、というのはあまりにも野蛮過ぎ、また、帥升等という人は倭国王として書かれている、ということは、すでにその地位を中国側にも認められていた、という仮説にさらに立つことにしますと、生口(奴隷)と言っても実質は、中国の技術を導入しようと倭国側から派遣された技術者や技能修習生といった人たちではなかったかと想像するわけです。

のちの日本の、あの最澄や空海も行った、遣隋使や遣唐使のはしりのようなことが行われたのではないかと思うわけです。

でないと、それまで奴隷を献上していたところからいきなり聖徳太子なりが、対等外交やって技術者や僧侶を派遣しようと思ったという苦しい説明になってしまいます。

そんなわけで、この「倭国王帥升等」とは,いったい誰かというところを改めて日本側の歴史も見ながら考えてみたいと思うわけです。

大和朝廷が成立していたとしても、成立していなかったとしても、160人もの人々を中国まで運ぶのは,並大抵のことでできるものではありません。

そして、倭国王という以上、少なくとも倭国を代表する程度の勢力をもった王のはずであり、奴国といった小国レベルでラッキーにも金印もらえたレベルではないと思うわけです(筆者は、かつての「奴国」推定地らへんに住んでいますので、一応謙遜して言います)。

そして、このレベルの倭国王として考えられる最右翼の存在といえば、やはり天皇以外を考えることは難しかろうということになってしまいます。

先の話のように、「帥升」では日本人らしい名前にもならないので,その次の「等」も人名の一部と考え、読み方を古代日本風に読みしてみると、「スシト」という風にも読め、そして、スシトに近い読み方での天皇を探すと、第四代の懿徳天皇(大日本彦鍬友命・スキトモ)といったところと一致するのではないか、といった「想像」もできるわけです。

そうすれば、日本の初期の天皇が、単に人間160人もわざわざ連れてくるということは、それなりの覚悟と目的があったわけで、やはりこの160人は、この後の日本(じゃなかった倭国)を背負って立つ若い技術者や技能者、教師や神職者といった人たちであったと考える方が「自然」ではないでしょうか。

戻ってきた技術者たちは、その大和朝廷の意を受け、また自らの使命感に燃え、貪欲に中国の技術を学び、そしてそれを持ち帰り、「日本」じゃなかった「倭国」各地に伝えて行ったのでしょう。

何も分かっていなかった当時の「日本」じゃなかった「倭国」の朝廷の人たちは、とりあえず統一国家らしいものができあがったところではありながら、その国家をどのように運営したら良いか、そのノウハウを海外に学びに行こうと計画したのでしょう。

この点では、鎖国から開国、徳川幕府打倒からの明治新政府の私たちのご先祖たちがやったことと、全く同じであります。

日本人、昔から行動様式があまり変わりません。

でもそれだから、日本の歴史開闢以来、諸外国とできるだけ対等に、誇りある地位を保って過ごして来れたのではないかと思っています。

2018年の現在においては、西の大陸の大国中国、北からのロシアの圧力、太平洋を隔てた「同盟国」米国およびシンパシーと尊敬をある程度受けながらもなかなか具体的連携が取れない台湾から南の東南アジア諸国との関係で、神経を使う状況が続いておりますが、こうした歴史の中で我々のご先祖様が辿った苦難と挑戦の歴史を見れば、少しばかり光明も見えた気もいたします。

遠いご先祖様の「倭国王帥升等」さん、あなたには教えられること多かったです。

どうぞ遠い空の上から、私たち子孫の活躍をお祈りください。

2,000年後の日本国の西のほうに住んでいる、おそらく奴国の民の子孫でありましょう筆者からの非常に長い記事は以上です。

(平成30年9月23日 日曜日)