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2019年1月27日

(2019/01/27)間組の大先輩の間さんに関西電力の黒四ダムのことなど大学ボート部時代にいろいろ教えてもらったこと

黒四ダム殉職者慰霊碑(黒部ダム公式ページより)





おはようございます。

2019年1月の大学の先輩を偲ぶ配信記事です。

筆者は、今を去ること四半世紀前の大学時代、京都の、大学キャンパスにはあまりおりませんで、実際は、滋賀県瀬田の琵琶湖河畔のボート部の合宿所(がっしゅくしょ、関東の某大学では埼玉県戸田の荒川沿いの同様のものを「艇庫(ていこ)」と呼んだものです)に居ることが多かったのです。

理系の、例えば工学部とか農学部とか理学部とか医学部とか、そんな実験や演習のある真面目な学部に所属している部員と違い、筆者のような、文系の、法学部とか経済学部とか文学部とかいった、「大学に行く必要の(こちらの論理では)なかった」「行ったとしても生協の学食で唐揚げ弁当を食べるだけでキャンパスは退散して下宿に潜伏する」「後期試験の際に初めて当該教授の顔を見る」「北白川の天下一品本店のラーメンが病み付き」といった劣等学生だった筆者にとりまして、滋賀県大津市瀬田の端艇部の合宿所は、文字通り、週に1回か2回帰る京都の下宿よりもはるかに暮らし慣れた場所だったのです。

そんな、滋賀県琵琶湖河畔の合宿所に、ボート部(当時は端艇部といった)の門を叩いたのは平成5年、1993年のことでありますが、その大学ボート部の大先輩であります昭和20年台後半卒業という、間さんはその頃もよく合宿所におられました。

本来ならば、(自宅は別にあるはずですから)よく来られました、と書くべきところですが、間さんに関しては、よくおられた、という印象しかなく、やって来られる、というイメージがありません。

それくらい、よくボート部の風景に馴染んでおられました。

その間さんより少し下の代の大先輩たち、いわゆる当時の日本代表オリンピック代表レースを一尺(30㎝)で慶應義塾大学に攫(さら)われたような経歴を持っております大先輩たちには、あくまでも学生であったこちらからのイメージにすぎませんが、こわもての人が多く、なんとなく近寄りがたい雰囲気で、話すにしても何か挨拶がなっていない的な(無論こちらがいろいろと悪かったり気が利かなかったりしたのでありましょうが)怒られる話が多かったのでありますが、間さんに関しては、そのようなことは一切ありせんでした。

いつも柔和で、暖かい目線で、かつ好奇心旺盛であられました。

間組は、ダム建設で日本をその名を轟かせた、技術屋集団にして先進集団でありました。

最も有名なのが、あの黒部第四ダムの建設です。

関西産業界の電力が枯渇する、と言われ工期7年で、あの人外魔境の奥立山に、2,000メートルクラスの急峻の谷間に、巨大なダムを建造するという大プロジェクトです。

間組は、ダム屋の誇りをかけて、この一大工事に取り組みました。

総工費は建設当時の費用で513億円といいまして、これは当時の関西電力資本金の5倍という膨大な金額です。

金額だけではありません。

1956年(昭和31年)着工、完成時、25万kWを生み出し当時の関西産業界の電力の半分を賄ったと言われた黒四ダムの建設工事は、延べ作業人数1,000万人、そして、171人もの殉職者を出した壮絶な工事でした。

壮絶な戦いに勝ち、工期7年は守られ、171人という尊い犠牲と数多くの負傷者という代償を払い、ついに黒四ダムは完成しました。

人が行くこと自体が当時命がけだった秘境の黒部峡谷での巨大ダム建設、厳冬期に資材を運び入れるルート開拓のため越冬した部隊、立山連峰をブルドーザーが登る道を開拓し、峠から資材をソリに乗せて谷まで下ろすなど、およそブラック企業などという2019年の現代では考えも及ばない、説明ももはや不可能な施主の関西電力の不退転の決意と、請け負った間組ほかのダム業界の誇りをかけた壮絶な戦いでした。

当時、黒部峡谷のダム建設現場では「黒部にケガはない」と言われていました。

すなわち、工事のミスは即、死を意味したのです。

昔はよかった、などと言うつもりはありません。

しかしながら、それだけ人生を燃やし尽くした、突撃した、そんな生命を惜しげも無く使い切る、そんな生き方があった、というだけのことです。

今に生きる我々は、もしかしたら、生命を大事にするあまり使い惜しみをするだけで、その実本当の人生を生きていない、のかもしれません。

そんな伝説を作った、関西産業界の救世主であり大恩人である間組の創業家に連なる間さんは、そんな伝説とは違った温和な、そして好奇心いっぱいの目で、当時学生の筆者などにいろいろな話をしてくれました。

間組には、当然ボート部のOBの方々もたくさんいらっしゃって、間さんはいつも、行くところなかったら間組に来なさいと言ってリクルート活動にも余念がありませんでした。

その頃は、日本も高度成長が終わり、バブルが弾け、そして間組は目を海外に転じて、クアラルンプールで当時世界一のタワービルを建てている、といった時代でした。

実は、数年前、そのクアラルンプールのタワービルをこの目で見る僥倖に恵まれました。

間さん、間さんの会社の後輩たちがまたすごいことやらかしましたよ、そう思って目頭が熱くなったものです。

かの黒部ダムを作るために、標高2,000メートルの立山連峰の峠をブルトーザーで超えて行った、日本の誇るダム屋、トンネル屋だった間組。

間さんはそんな話を時折交えながら、それでも昔話だけではなく、私の同級生の理系の工学部や理学部の面々には(筆者は繰り返しますが司法試験に落ちた法学部です)、「インターネットで何ができるか」といったことを問いかけ、学生の意見や見解を、ふむふむ、という好奇心いっぱいの目で聞いておられました。

間さんが、合宿所に寄られて話した部員は数知れませんが、当時の、はるか上の、それも気さくなよき先輩として、端艇部を見つめるものとして、そこにいなくてはならない
風景のようなお方でありました。

あれから20年以上が経過しました。

インターネットで何ができるか、私もときどき考えるようにいたします。

間さんは、少し前にお亡くなりになりました。

こうして、貴重なご縁をいただき、そしてとりとめのない話をさせていただき、一緒に過ごさせていただく時間を持つことができ、本当にありがとうございました。


こちらからは以上です。