このブログを検索

2019年2月11日

リモートワークを突き詰めて見えてきたのは昔ながらのベタベタしい営業スタイルこそ最強だという真理だったという話です






おはようございます。

2019年2月の日曜日に書いた、働き方一般に関する配信記事です。

ネット環境が整備され、いつでもどこでもWifiなりSIMを通じたモバイルデータ通信環境を通じて、PCやタブレットやスマホを使って作業をするスペースさえあれば、基本どこでも「自分で作業が完結する仕事」についてはできるようになってきたように感じます。

例えば資料を作るとか、ネットに一般的に転がっていたり、与えられた資料を元に自分の考えをまとめて、例えばこの投資や事業プランについてはゴーサインを出したり修正や見直しを依頼したり、そこまでの自らの作業と自らの内省による考えの醸成みたいなことについては、これは昔も、例えば行きつけの高級バーとか、自宅の書斎とか、会社の役員室とか、そういった一人になれる場所で「決断」してきたように思いますので、たとえリモートワークがこれ以上進んだと言っても、これだけで、昔と違って仕事全体の一連のサイクルやエコシステムが、格段に回るようになったというわけではない、ということを言いたいのです。

昭和の昔であっても、こうした「一人で作業する」「一人で決断する」ための場所とスペースと時間の確保については、雇用側の会社もよく考えておりまして、それゆえに、昭和のオフィスにおいては執務スペースや会議室はふんだんに取られていましたし、自宅には年配サラリーマンになると書斎があったものですし、行きつけのバーカウンターの一番奥で、1時間程度ひとりで好みのカクテルやウィスキーを燻らせながら、大企業を背負った社長や上級幹部の役員たちは、心の平静を取り戻し、時に重要な決断をしていたはずなのです。

それが、ネット環境でどこでもリモートワーク、ということに置き換わったとしても、人を巻き込む大きな意味での仕事というものは、単純な作業の集積ではなく、一人で完結するものでもありません。

必ず、他者、なかんずく顧客や自社内の他部門やラインと言われる決裁権を持つ上司や組織の承認や、顧客への宣伝や営業、社内社外の協力者の協力を取り付けなければ、そうした真の仕事は一歩も進まないのです。

リモートワークができるようになったから、全ての仕事が早く進むようになるというのは幻想です。

あくまで、一人で作業したり考えたり決断できる「場」が、会社や自宅以外に通信環境の進化によって大きく広がった、という程度のものでしかないわけです。

そして、対外的な語り合い、なかんずく営業や調整、については、これは平成も終わりになってもやはり直接会って身振り手振りも踏まえて熱っぽく話す、という非常にベタベタしい訪問という手段にかなう手段が見つかっていないのです。

社内的に、どうしてもこの困難な案件を通したい、そのような場合は、会社の経営会議のような重厚な、重々しい場で案件を説明し、メリットとリスクを説明し、それでもやりたいという意思を、それこそプレゼン資料に数倍する身振り手振りと目の力で訴えなければいけません。

最終的に、「こいつが言うならやらせてみるか」というところまで届かない限り、いくら数字がいいように見えても、組織としてのゴーサインは出せないものなのです。

これは、全てのものが合理的に進むようになる、というAI万能論に対する重大なアンチテーゼになり得ます。

全ての人間が、全ての過去から未来の記憶を一瞬で記憶し、常に合理的な行動を取る世の中になったらそうなるのかもしれまんが、世の森羅万象を理解し尽くすのに人生はあまりに短く、また人間自体が無力な赤ちゃんから他との関わりで成長していく動物であることを考えれば、人間に残された、他とリアルに関わることによる学びやネットワークは、それ自体が価値を持つものとして今後も認知されるでしょう。

会って話してわかりあい、そしてその人を見て、その人となら、なんらかの取引をしようということになるわけです。

人工知能万能論的に申し上げれば、こんなランダムな「営業」など、非合理的な意思決定そのものです。

しかしながら、実際の世の中では、この人からだから物を買う、この人だから取引する、というのは現実の社会人生活の場面では多々出てきます。

人は、生きている以上、何か自分のやることに意味だのストーリーだのを求めるのかもしれません。

どうせ、休日に昼食をどこかで食べる、ということであれば、最も手間のかからない手頃な店でいいわけですが、わざわざ自社が運営している商業施設に出向いて、ついでに管理事務所で知り合いに会って油を売って、そしてその知り合いに食べていってくださいよ、と言われるままに最も単価の高い同じモールの焼肉店で食べながらこれを書いている、筆者が言うのですから間違いありません(福岡市の木の葉モールの管理事務所のみなさん、当職は約束を果たしましたよ!)。

人間らしい、というのは非合理の塊であり、有限の人生をどのように振る舞い使い切るか、それは個々人に委ねられていて、決して「合理的」なAI教祖に委ねてはいけない、それは盲目的と言う意味で、中世の魔女狩り裁判を行なった人々と大して変わりなはない、と言えるのかもしれません。

営業の極意は非合理性であり、合理的な営業や宣伝などあり得ない、というのが今回の考察の結論でした。

学習の世界でも、インプットにおいては、スクール型統一授業スタイルに一線を画し、スマホやタブレットを多用して、最も効率的な動画講義や演習課題を最適タイミングで投入宇すべきだ、という持論を筆者は持っておりますが、無論その前提として、空いた時間でぜひリアルに相互関与が図られる、運動なりスポーツなり討論ディベートなり、なんなら雑談なり課外活動や部活動、といった、リアルな場所でしか追求できないさまざまな体験価値を、思い切り吸収してほしいと思うわけです。

日々学ぶことが多いです。

焼肉もちょうど食べ終えましたので、本日の考察はここまでにいたします。

こちらからの意見は以上です。

(2019年2月11日 月曜日(建国記念の日))

▷▷次の記事は

商業施設のお店やテナントに勤めるスタッフのみなさんが自然に交流できるところを作りたい