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2019年6月29日

(2019/06/29)かつて世界に雄飛し日本の外国為替を一手に担った東京銀行という凄い銀行があったという話をします

旧横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)





おはようございます。

かつて日本の外国為替を一手に担った「東京銀行」という凄い銀行があったという話をします。

東京大学ではなくて、東京銀行です。

その前に、隣の中国の話ですが、香港でのデモ活動により、中国本土の犯罪者への引き渡しを可能にする法令が阻止された格好になりました。

そもそも、1997年に香港が、イギリスの99年間の租借から中華人民共和国に「返還」された時に、時の中国の最高指導者鄧小平氏は香港の中継貿易拠点、経済都市国家の利点に着目して、本国での開放路線の先駆けとして「一国二制度」という画期的な考え方を導入し、とりあえず、香港についてはこのイギリス統治時代の仕組みを当面50年間は残すとされました。

しかしながら、時は流れ、「返還」から22年経過した2019年になって、現在の習近平政権は、香港の本格的取り込みを開始し、諸外国からの反対意見は内政干渉と突っぱねて、犯罪者本国移送法案を強引に通そうといたしました。

もちろん、犯罪者なんだから本国に移送されても仕方ない、というのは、犯罪者であっても権利がある程度保証されている場合に適切に作動するものでありまして、かの中華人民共和国における「犯罪者」の定義は非常に広く、ありていに申し上げれば、中国共産党への批判やシニカルな批評や反対意見の表明も、(彼らがいうところの)立派かつ重大な犯罪構成要件に該当する違法有責な行為、ということになりますので、たとえ外国人旅行者であっても、香港にふらりとやってきたところを香港当局に「いわれのない罪」で拘束されたが最後、そのまま中国本国に「移送」されてしまって、さまざまな不利益を受ける(要は出られない)というようなことになってくるわけであります。

あくまで中華人民共和国の中の話でありますが、いち外国人といたしましては、少なくとも50年間現在の制度を保証すると言明している以上、その中身をすり替えるようなことは、まだ時期尚早ではないかと思っています。

そして、願わくば、「中国本土」の制度慣習の方が、もう少し大人になって「香港」に近づくようになってもらえれば、こんな幸せなことはございません。

さて、筆者がこの話を聞きながら唐突に思い出したのは、日本の経済界、銀行界において、130年以上の歴史を渡り、ついに2018年4月、その名前を日本の銀行界、産業界から消した「東京銀行」のことです。

もともと、東京銀行の前身は横浜正金銀行と言いまして、戦前は、日本の大蔵省直轄の外貨専門銀行として、日本の外貨取引の実に4割以上を独占しておりました(残りが三井三菱といった財閥系商社とその銀行部門)。

あまりに独占しましたので、戦後のGHQにより財閥解体で横浜正金銀行は解体されましたが、その後民間銀行「東京銀行」として復活しました。

産業誘致のための国策銀行であった、筆者も統合システム担当として、その最後を看取った「日本興業銀行」が長期信用銀行として戦後復活するのと同じように、大蔵省直轄の事実上の国策外為専門銀行として、世界中にその営業網を広げました。

当時の日本人は全く知らなかったでしょうが、日本以外の「世界」で知られる日本の銀行は、日本銀行=Bank of Japan(BOJ)ではなく、

(一番手)東京銀行=Bank of Tokyo(BOT)
(二番手)日本興業銀行=Industrial Bank of Japan(IBJ)

の二つであり、中でもBOTといえば、バンクオブトーキョーとして、金融に関わるほとんどの世界の人々に知られた存在なのでありました。

その東京銀行も、外貨規制の規制緩和により、三井三菱住友といった日本の貿易系財閥系商社をかかえる国内商業銀行にだんだんその牙城を食われていくことになります。

そうして、金融ビッグバンという、あの日本の大手銀行20行以上を、一気に4つ以下にまとめてしまって国際競争力をつけるという荒療治が行われ、頼みの大蔵省も財務省と金融庁という分離政策により力を削がれた結果、東京銀行は、自らの海外ネットワークという何よりも国内商業銀行が求めた海外へのネットワークを餌に、世紀の大合併を決めるのです。

それは、国内最大財閥三菱の金庫番、三菱銀行との「対等合併」でした。

1996年4月に登場したその当時日本最大の都市銀行の名前、それは「三菱東京銀行」ではなく、「東京三菱銀行」。

英名「The Bank of Tokyo-Mitsubishi」。

当時、日本という世界経済上の田舎しか知らなかった三菱銀行、グループの三菱商事に国際業務が素人で使い勝手が悪すぎるとの内弁慶の評価を受けていたその銀行が、ついに海外支店とネットワークを手に入れたのです。

三菱の名前の前に「東京」を持ってくる、これは海外で知られていたBOT、Tokyoの名前を活かすためであり、国内においては、東京銀行に最大限配慮している、という腰の低い態度で臨んだのです。

スリーダイヤのエンブレムも捨てました。

そうして、1996年4月から22年の時が流れました。

日本の金融再編はほぼ「完了」し、UFJグループとも合併し文字通り日本最大のメガバンク・金融グループになったMUFG(三菱フィナンシャルグループ)の傘下銀行である「三菱東京UFJ銀行」から、ついに「東京」の文字が外れることになったのは2018年4月。

22年の歳月が流れていました。

合併当時に東京銀行から東京三菱銀行に参画した行員や従業員もほぼ引退し、粛清は完了したというわけです。

しかし、同時に行名を消すのに22年もかかった、ということも、特筆しておきたいと思います。

横浜正金銀行から数えて138年、庇護を受けた大蔵省も今はなく、それでも意地で生き続けた、その東京銀行のスピリットは、筆者のような隣の長期信用銀行で見ていた者にも、強烈な印象を与えました。

「組織の」三菱銀行からすれば、これほどかかるとは思わなかったはずです。

東京銀行の最後の意地を、見せてもらいました。

そうして、三菱側としても、東京の名前を残し続けたのは、東京の名前に利用価値があったからであり、単なる同情や対外的体裁でそうやったわけではなく、要するに東京銀行が強かったということなのです。

横浜正金銀行、そして東京銀行。

明治政府により誕生、明治維新、日清日露戦争、大正デモクラシー、昭和恐慌、支那事変、大東亜戦争、終戦、そして戦後東京銀行として再興、高度経済成長を対外外貨の世界から支え、幾多の対外債務危機(メキシコ危機)を大蔵省との二人三脚で乗り切り、そうして1996年4月に三菱銀行と結婚、そこから22年間もの長きにわたり命脈を保った東京銀行、本当にお疲れ様でした。

天に昇ってこれからの我々を見守っていただきたいです。

日本の外国為替専門業務という、経済成長途上の国家に必要不可欠なこうした機能が、一定の役割を終えた、そのように思えてなりません。

1996年初夏の、誕生間もない東京三菱銀行の入社面接に落ちた(日本銀行にも落ちた)筆者からの感想記事でした。

東京銀行(BOT)、日本興業銀行(IBJ)をいつの日か復興させたいと願う筆者の配信記事は以上です。

(2019年6月29日 土曜日)

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長期信用銀行という特殊な銀行があった時代を振り返りたいと思います(日本興業銀行のはなし)