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2019年6月8日

「自分のことは自分でする」という当たり前のことを言うと炎上する不思議な「あたらしい」世の中について





おはようございます。

2019年(令和元年)6月の、「自分のことは自分でしなさい」と言われて育って、自らの子供達にも「自分のことは自分でしなさい」と教えている流木サラリーマンことビルメン王(@shinya_ueda)からのブログ配信記事です。

最近、しみじみと思うことがあります。

「自主自立」「自由」ということとほぼ同義な「自助」「自律」という言葉を使って発信すると、いきなり炎上する不思議な「あたらしい」この世の中の風潮についてです。

日本の金融当局の司令塔でもあります金融庁が、人生100年時代を考える上で、生活の質を落とさずに過ごすには、いわゆる「生活防衛資金」であるところの公的年金や公的扶助(生活保護など)だけに頼らず、できるだけ自立して個人レベルでの蓄財を若い時からやっておきましょうといった極めてまともな話をアップ(発信)したところ、国は国民を見捨てるのかといった批判で炎上したと言う香しい事例がございました。

国民年金制度は崩壊している、とか、年金は詐欺、といったような極端な話にどうしてなるのか筆者のような者にはわからないのですが、ろくに子供も産み育てず見守らず、自らの仕事(快楽?)に邁進した世代に対しまして、多産社会であったかつての時代の名残である年金制度が永久に続くはずがないことなど、小学生でも2秒でわかる理屈ですし、正論を示されてなんとなくお怒りなのはわかるのですが、それで炎上させたところで国民自らが選挙で選んだ国会議員で構成される国会で決められたことを粛々と執行する行政部門の金融庁にその怒りの矛先を向けたところで、特に具体的な解決策があるものでもなく、むしろ、見たくない現実をしっかり見せていただいた行政府の対応には、筆者としては大いに賛成するところもございます。

なにせ、2018年の1年間に日本で生まれた新生児は、たった91万人なのです。

厚生労働省が2019年6月7日(金)に発表した基礎的統計資料である「人口動態統計」によると、2018年に生まれた子どもの数(出生数)は91万8397人で過去最低を更新しています。

3年連続で100万人を割っており過去最低です。

1人の女性が生涯に産む子どもの数にあたる合計特殊出生率は1.42と、2017年から0.01ポイント下がりました。

低下の方は3年連続です。

筆者は1974年(昭和49年)生まれですが、私の「同期」は200万人以上いたのです。

1973年(昭和48年)生まれの新生児は、209万人です。

昭和のこの時代の、45%の子供しかいない、これが令和のこの国の、今のリアルです。

さて、国民が定めた日本国憲法の第25条には、国は国民が最低限度の生活を送ることを保証する、いわゆる生存権条項がありますので、どうしても公的年金だけでは生活できないという場合には最後の手段としての生活保護制度もあり、とりあえず生きていくことはできる世の中になっております。

もちろん、この「最低限度の生活を保証」するためのコスト負担は、広く国民全体で行うというのがコンセンサスです。

ただし、最低限度の生活では物足りず、やっぱり外食したいとか、温泉旅行に行きたいとか、ちょっとした小物や家電も買いたい、自宅でインターネットで課金ゲームもしたい、ということであれば、その分は公的年金では到底もちろん足りませんので、個人で貯蓄や資産運用を行なってそういうことには当てていただきたい、もしくは働くことでそうした楽しみを見出してください(そして消費経済に貢献して下さい)という至極当然な、まっとうな「自分のことは自分でせよ」という議論です。

ここでの問題は、日本はほっとけば地下から石油が湧いて出てくるような、そういう意味での豊かな国ではないので、今の日本国民に提供できるのは、そのような「お金」ではなく、働いて稼ぐ「機会」の方であり、子供ができても子供は可愛いけれども保育園に預けて夫婦共働きで回していかなければ家庭の家計や貯蓄は回っていかない世の中になっているというところにあります。

それって、奈良時代平安時代鎌倉時代…、それから江戸時代明治時代大正時代、くらいまではごく「普通」のことであり、専業「夫」サラリーマンが転勤残業をものともせず、すり減るまで働いて家庭のことは顧みず、代わりに専業主婦なる歴史的には面妖な社会的存在がこのいびつな家庭不在の夫の代わりに家庭と地域コミュニティを支えた、そんな昭和や平成前期の世の中の名残からの「真っ当な」時代の転換だと筆者は思っております。

しかし、自分のことは自分でするという真っ当な話に口を塞ぐと、国民が自分たちで成立させている議会や政府を通じてどのように生活を作っていくのかという根本的な議論にならずに、要するに「くれくれ」族の無気力批判層だけに世の中が牛耳られてしまうという危険があるのです。

彼らは言うでしょう。

大企業や大組織、既得権益層から財産をひっぺ返して移転(分配)すれば良い。

しかし、大企業も既得権益層と言われている「存在」がそれほどの悪の権化で利得を独り占めしているのかといえば全くそんなことはありません。

爪に火を灯して原価圧縮、コスト削減、リストラして、働き方改革で上がり続ける人件費の高騰に怯え、人手不足と販売不振の悪夢に苛まれて、必死に汗を流して笑顔で営業して生産して、ようやっと給料や仕入れの支払いを済ませて、自らの社業に必要な設備投資や教育資金を、コツコツ内部留保しているのです。

そのような、健全で健気な会社がほとんどです。

逆に、大企業や大組織、既得権益層、というところに、例えば労働組合の連合会とか、生活保護団体とか、既存政党や政治団体とか大規模宗教団体とか、そういった当然含まれて良いはずの存在はさらりと除外されているように見えるところが、筆者としては基準が不明確で変な感じがいたします。

農協や漁協、といった存在も、十分ここで批判されるべき「大組織」ではないのでしょうか。

このように、内輪で経済を回すことで権益を守ろうとするあらゆる規制の動きが進み過ぎていった結果、日本は普通に子供を産み育てて将来世代にバトンをつなぐ、当たり前の振る舞いが極めてできにくくなってしまっているのではないかと思います。

長生き、例えば100歳超えた人は公的機関から表彰される敬老の制度があります。

これと同じように、例えば、「4人以上産んだ女性を表彰」する制度があっても、筆者は全く問題だとは思いません。

しかるに、人の生き死にに関するもっともセンシティブな内容について、敬老の日は存在するのに、生まれてくる子供への貢献、について深い議論がなされず表面的な話に終始するのは本当におかしい話だと思うのです。

老人ホームを取材するのであれば、同様に7人子供がいる家庭のルポタージュも放映すべきでしょう。

子供3人以上産んだ家庭(母親)には、報奨制度を創設すべきでしょう。

国民が、自分たちの将来の生活を守るためにどう「自立」して「自助」するか、という根本的な最低限の話をどう社会的に広めてコンセンサスを得るのか、これこそが政治家の、政治家たる役目の一丁目一番地であると思うのです。

この「耳の痛い」議論をすっぽかして、よくある批判層が飛びつくのが、「移民いれましょう」という話なのですが、そもそも移民が日本国内に定着して、日本で子どもを産んで、その子が日本語喋れないのでどう教育するんだろうかとか、そのコストは誰が払うのか、職場はあるのか、その教育コストを企業側に払わせるのは論外だ、人種の多様化やダイバーシティって簡単に言うけど本当にその覚悟が国民の基礎的レベルの意識層にあるのか、といったさらに複雑かつ深遠な社会的な諸問題を抱えることになり、世界中にその手の事例は豊富にあるのですが(フランスやドイツ、イギリスやアメリカの事例を垣間見るだけでお腹いっぱい)のですが、これこそよほど耳の痛い話らしく、そのような話は真剣になされているところを寡聞にして聞かないです。

これから死んでいくのが早い人のために、限りあるお金をたくさん使ってこれから生まれてくる子どもたちにツケを払わせる、というようなことを続けていると、そもそも子供たちが生まれてこなくなってきてしまった、このような長期的なツケが回ってきている昨今の世の中であります。

今日は、かなり深遠な話になりました。

少なくとも、街で赤ちゃんや子連れにで会ったら道や席を譲り、できれば笑いかけて彼らが気持ちよく生活できる雰囲気作りに努めたいと願います昭和の第二次ベビーブーム世代の筆者(同級生200万人)からの配信記事は以上です。

(2019年6月8日 土曜日)

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公僕といって其の地位の者に何でも言い放っていいわけでは決してないという当たり前の話をします