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2019年8月14日

(2019/08/14)表現の自由というのはなんでも忖度しておけば達成されるというものではないと強く思う話をします






おはようございます。

2019年8月の令和の時代の世間に対する忖度に関する筆者個人の意見を述べるという日刊配信記事です。

「炎炎の消防隊」(えんえんのしょうぼうたい)という最近人気が出てきた漫画がアニメーション化されて、いよいよ第一話から放映されていたところ、折しも京都アニメーション放火事件という戦後最悪の放火殺人事件が起こってしまい、やむなくこの「火災現場」がたくさん出てくるアニメ、という理由でこのアニメーションの放映が一回スキップされた上、この回の放映は永遠にお蔵入りになってしまったという事案がございました。

ちなみに筆者は、「炎炎」をえんえんと読まずに、「ほのお」という文字を二文字で重ねて強調して読ませているものだと、ちょうど轟の文字のように勝手に解釈して、「炎炎の消防隊」を(ほのおのしょうぼうたい)と読んでいたのですが、こちらの読ませかたのほうがよほど訓音が聞いていてかっこいいと自画自賛しております。

脱線がすぎましたが、本論に戻りますと、放映するテレビ局の判断だといえばそこまでですが、アニメ製作陣の徹夜の努力も、かような「(誰に対して行なっているのか不明な)忖度」によって日の目を見なくなる、いわばモスクワオリンピックの男子マラソン瀬古利彦さんのような悲劇が起こってしまったわけです。

さて、どうしてこのような凄惨かつ悲惨な事件が起こった場合に、漫画やアニメーションという表現手法ばかりが自粛の矢襖(やぶすま)に晒されなければならないのでしょうか。

連続少女誘拐殺人犯の自宅に、大量のヲタク好みのアニメ作品が、他の環境を上回る程度に密集していた、それだけをもって、アニメは悪と言われた数十年前の昭和末期から平成初期にかけてのあの時代から、あまり日本は表現という分野では進化していないのではないかと思うのです。

こんなことを申し上げますと非常に不謹慎かもしれませんが、例えば昭和の大作家(と誰しもが認めるであろう)三島由紀夫先生の代表作品である小説「金閣寺」は、金閣寺に魅入られてそれを独り占めしたいと願った僧侶が、そのまま金閣寺に放火して灰燼に帰してしまう、といういわば狂った放火犯の様子を活写している文学作品であり、中学や高校の国語の教科書にも採用されている文部科学省も推薦の一作となっておりまして当然筆者も読んでおりますが、だったらこの作品こそ、放火描写の最たるものであり、さらに舞台も京都市北区の金閣寺、という、京都アニメーション事件の宇治とほぼ同一といっていい都市内にあることを考えますに、筆者の心はなぜ特定のアニメ作品ばかりが自粛の対象となるのか疑問でいっぱいになるのです。

時は太陽暦佰九拾八年、東京皇国。

『炎炎ノ消防隊』(えんえんのしょうぼうたい)は、大久保篤を作者とし、『週刊少年マガジン』(講談社)2015年43号(2015年9月23日発売)から連載されておりますもちろんフィクションの漫画作品です。

突然始まった、「人体自然発火現象」によって全身が炎に包まれ変異し暴れ出すようになった「焔ビト」と呼ばれる怪物や、引き起こされる脅威と戦い、それを「消火」「鎮火」する「特殊消防隊」の活躍を描いた消防士SF漫画作品です。

どうして、このような消防士の活躍が、炎を「消す」側が自粛で消されなければならないのでしょうか。

金閣寺は、三島由紀夫のの最も成功した代表作というだけでなく、近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされ、海外でも評価が高い作品となっております

金閣寺の美に憑りつかれた学僧が、それに放火するまでの経緯を一人称告白体の形で綴ってゆく物語で、戦中戦後の時代を背景に、重度の吃音症の宿命、人生との間に立ちはだかる金閣の美への呪詛と執着のアンビバレントな心理や観念が、硬質で精緻な文体で綴られているらしいです(筆者も読みましたが、そこまでの文学的論評はできませんが)。

このように、明らかに、金閣寺の方が、京アニ事件の放火事件という事象に近く、この文学作品こそ、学校教育の場はもちろん、文学作品の場からしばらく「自粛」していただかなければならないのではないでしょうか。

文学作品なら公開OKで、アニメ作品なら公開NGで自粛。

これが、今の令和の日本のリアルな姿なのです。

これは、アニメーションの業界の社会的立場や社会的地位、それから経済的地位についても、未だ非常に「低い」ことから来ているといって間違いないと思っています。

そもそも表現について、その表現手法について優劣などあるわけもなく、自粛も含めて規制してよい表現と規制してはいけない表現手法に殊更に差をつけることは、そもそも表現の自由を履き違えた非常に危険な振る舞いであると考えております。

人の世は、不条理に塗(まみ)れたものであり、厳しく辛いものであります。

しかしながら、そのような残酷な人の世の中であるからこそ、そこに生きる市井の人々の愛情や努力や生きざまが光り輝く、そのような世の中でもあるわけです。

どうか、一律に、残酷な事件が起こったからそれを連想させるようなものを一切排除するといった「愚行」に陥ることのないように、気をつけていきたいものです。

かつて海軍に召集されて太平洋戦争に従軍し、行きたかった大学で学ぶことができなかった私の祖父は、それでもよく本を読み、批判的な精神というものを孫の筆者に教えてくれました。

祖父によると、その時代時代において、「最も触れられると困るもの」については、どうしても批判がしにくくなるという時代の空気というものがあるようです。

今の時代、例えば、ロシアが不法占拠している我が国の北方領土の問題とか、日本の領土である尖閣諸島に「来訪」してくる中国の公船とか、日本の主権の及ぶ竹島の韓国による不法占拠とか、そういった日本国民をあまり刺激したくない「空気」が広がっているような気がしてなりません。

国際協調をはかる、というのと、自国の立場を毅然として明らかにする、というのは、全く相反するものではなく、そうでなければ日本国憲法に高らかに謳っているところの「国際社会に名誉ある地位を占める」ことなど到底無理ではないかと思っています。

同じく、日本国憲法には、「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする(各)国の責務」であると謳っています。

自国の主権を維持するというのは、自国の立場を高らかに明らかにするということであり、そうでないと他国と真の対等関係など築けない、と日本国憲法は、戦後74年間の長きにわたり、喝破しそして国民を鼓舞し続けてもいるのです。

戦後74年が経過しようとしています。

対等という関係は非常に難しいものですが、基本的なところを明らかにし、譲ってはいけないところを毅然として対する、このような振る舞いができれば大丈夫でしょう。

京都アニメーションの事件についても、事を興味本位でほじくり出すことも、それに蓋をするように仕向けることも、同じく卑しい振る舞いであろうと思うのです。

今を生きる我々も、戦中戦後を行きた我々のご先祖様を見習って、後の世の子孫や後輩たちに、こういった基本的なところで笑われないような生き方をしたいものです。

こちらからは以上です。

(2019年8月14日 水曜日)

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