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2019年8月17日

(2019/08/17)日本という国は歴史的に左右に大きく振れる民族性を持った国民性を持っていると思っている根拠を述べてみます

日本の歴史的な人口推移(推計)





おはようございます。

2019年8月の歴史好きによります筆者からの配信考察です。

日本という国は、紀元前1世紀ごろの様子として、隣の大陸にあった超大国であるところの前漢に書かれた「漢書地理志」に初めて文字として紹介されることにより有史として始まるわけですが、この中の一文「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」[筆者の適当訳:朝鮮半島の楽浪郡の向こうの海に倭人といわれる人々がいて、百余りの小さな国に分かれている。定期的に中国に来朝し皇帝や名代に献見朝貢する形で各種水産物などの交易をしたという。]と、出土している同時期の環濠集落などの様子を見るに、日本全国は当時まさに百余国が入り乱れて争っていた戦国の世であり、それは応仁の乱後に出現した「元祖」戦国時代などはるかに凌駕した、それこそ血で血を争う、盟主なき戦い、まさに旧約聖書に登場する海の怪物、悪魔であり英国のトマス・ホッブスが喝破したヴァイアサン的状況だったと強く推測されるわけです。

ちょうと、中国三千年の歴史において、「三国志」の時代よりも、その前の「項羽と劉邦」の楚漢戦争の時代よりも、はるかに血で血を洗う戦国時代の度合いが高かったのが、2019年8月現在でも多くの日本のファンを魅了している「キングダム」すなわち元祖戦史本場中国の春秋戦国時代のフィナーレであり、西方の強国である秦一国が、他の六国を瞬く間に平らげて統一王朝となり、そして三皇五帝の成り代わりとして「皇帝」なる称号を初めて用いて、秦王嬴政(しんおうえいせい)は始皇帝(この際ですから原文で覚えておきましょう、Qín Shǐ Huángdì、チンシーフアンディー)となって、中国全土に文字通り君臨したわけです。

日本にも、秦(はた)という氏でやってきた渡来人系の一族が、大和朝廷で大きな力をふるった、という形跡がありまして、実際に秦さんという姓の方々も今の日本にたくさんおられること、また京都太秦(きょうとうずまさ)などという明らかに日本古来の名とは違った地名が残っていることを考えると、この秦という国が持ちえて他の国を併呑しきったパワーというか勢いというか、人間社会の飽くなき拡大志向、成長志向というか、そういうものに身震いがいたします。

そうして、そんな中国の統一王朝の出現という、秦から漢という王朝交代はあったものの、大陸における大事業を目の当たりにして、日本列島の諸国たちも、ようやく目覚めて小国同士は合併連行し、そうして大きくなった国々同士でいつしか列島を三分する程度の集まりになってきたと推定されるのです。

その中で、おそらく、大量の大陸からの「移民(渡来人と言われる)」の継続的な流入もあったことでしょう。

その三つとは、畿内(大和)勢力と出雲勢力と、北九州(宗像)勢力ではなかったかと勝手に想像しているのです。

そうして、日本神話に出てくる天照御大神(アマテラス:女神)、月讀命(ツクヨミ:男女不明)、須佐之男命(スサノオ:男神)は、日本国を実質的に創った伊邪那岐命(イザナギ)より生み出された「三柱の貴き子」として、別格の存在となっているのですが、そのうち、ツクヨミとスサノオについては、天照大御神(アマテラス)を祀る伊勢神宮をトップとする神宮の一派と別れて「大社」と呼ばれ、神話上もあまり本論扱いされずにフェードアウトされてしまいます。

つまり、日本列島上で覇権を最後に争った、事実上天下取りの最終決戦、決勝戦において、出雲王朝(ツクヨミ)や宗像王朝(スサノオ)は、畿内大和王朝(アマテラス)に敗れ、そうして彼らの神話ごと、畿内大和王朝は取り込んで、ここに日本列島の統一が完成した、とこのように見るわけです。

このように、数百年以上はかかった最初の日本列島の「統一」という大事業に比べれば、その後の平家源氏の源平合戦も、元寇の襲来も太平記で描かれた室町幕府の成立も応仁の乱以降の日本史上最高度の軍事技術が花開いた戦国時代をもってきても、霞んでしまいます。

日本国は、それこそ百余国に分かれた戦時状態を数百年続けて、海の向こうの超大国の出現という「事案」に学んでようやく「統一」されたというわけです。

そうして、親魏倭王という印綬を授かる栄誉を受けた女王卑弥呼の時代を経て、白村江での敗戦を経て、ようやく奈良の平城京、京都の平安京というパーマネントな都を持つに至るのです。

ここでも、中国の隋の洛陽、唐の長安といった都の作り方に学びました。

ここから、少なくとも国内の内戦状態はひと段落をつけ、墾田永年私財法なる、民間活力を利用した農地開墾政策(現代でいうPFI事業のようなもの)で爆発的に日本は農業生産力を向上させ、多くの人口を養えるようになったというわけです。

平安時代の日本列島の人口は、だいたい500万人程度という推計があります。

農業生産を向上させたと言っても、班田収授制が崩壊し荘園制によって維持できる人口はこの程度だったのでしょう。

時代が下り、江戸時代という鎖国体制下での泰平の世においても、人口は3,000万人程度で推移します。

そして、明治維新において一気に海外領土の拡張に走った日本国は、その人口を、太平洋戦争前夜においては9,000万人(キリのいい数字で1億人火の玉と称しました)まで上昇させます。

敗戦により、実に300万人超の犠牲を出しますが、それでも、高度経済成長によって、2015年にピークアウトするまで、実に1億3,000万人まで人口を増やした我が国、2,000年かけてここまで上り詰めたのは見上げたものだと思います。

これから、これまでに積み上げた人口爆発から比較すると「ゆっくりした」人口減少の長い下り坂をたどることが確実な日本社会ですが、この先の歴史において、日本国の適正人口がいったいどのくらいで落ち着くのか、筆者の興味も尽きないところです。

願わくば、緩やかに人口減少が収まり、そうして我が国の歴史がつつがなく続いていってもらうことを祈りつつ、とりとめのないこの記事は一旦終わりたいと思います。

こちらからは以上です。

(2019年8月17日 土曜日)

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