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2019年8月9日

(2019/08/09)学校の「相対化」は社会が前に進んだ証拠だと感じるという前向きな教育についてのお話です





おはようございます。

2019年7月の学校教育に関する課題や問題について、私見を述べる配信記事です。

繰り返しを習慣化して進める学習という作業を通じて、深い見識や考えに至るという人類数千年の歴史を持っている「教育」「指導」という作業ですが、この「作業」はこれまでは、主に学校や寺子屋といった「教育機関」において行われているもの、というのが主流だったと考えています。

そして、現在はこの「学校」というものに「教育」というものを丸投げするのではなくて、家庭でも、学習者自身でも「自学」するという態度が極めて重要になってきていると感じています。

キーワードと言われている「脱学校化」「脱学校論」という言葉がありますが、正確には、別に学校を否定しているというわけではなくて、教育を、「良い学校に行かせる」ということに丸投げしていて別段OKだったこれまでの時代とは違って、少子化が進む社会を健全に維持発展させていくために、それよりも個々人の人生を豊かにするためには、「良い学校」という他人基準、世間基準の尺度「だけ」ではない、「自分基準」の教育機関やシステムを持っておくというのが決定的に重要であるということです。

「良い学校」に行けるのは当然全員ではなく、競争試験である入学試験をくぐらなければならないし、その入試のための準備で余計な体力を使ったり、もっと悪いことに心の方が怪我をする(ダメージを受ける)こともままありまして、「勉強」「学習」というものが全能的に素晴らしいことなわけではないことを痛感しています。

また、「良い学校」にラッキーにも入学できたとしても、現代、学校で提供されているカリキュラムなどではとても足りないことだらけであり、能動的に、どのように動くべきかということを習慣づけなければ、自発的に様々なことに興味を持って自分で学習していかなければとても苦しいわけです。

ですので、「学校」だけに教育の専売特許を与える、ということはできません。

ということで、これまでは、例えば東京大学理科三類、といった「良い学校に子供を入れた」親がマスメディアで取り上げられることがあっても、「脱学校」で例えばホームスクーリングの環境を整えて素晴らしい成果をあげた親や塾講師や地域の人たち、というのにスポットが当たることはほとんどありませんでした。

しかし、実はこうした個々の家庭や、田舎の地域社会における「教育」こそ、本質的であり、汎用性があり、世界の津々浦々に希望を与えるはずのことなのです。

ということで、そのような「地域の」「田舎の」スターとなる生徒や保護者が出てきたら、時代は変わると思うわけです。

いつも漫画やアニメ、映画コンテンツでの例え話になりますけれども、昔読んだ「奈緒子」という長距離陸上競技の漫画がありまして(注釈:『奈緒子』(なおこ)は、坂田信弘原作・中原裕作画による漫画。小学館発行の「ビッグコミックスピリッツ」にて1994年から2003年まで連載された。以上ウィキペディア該当ページより)、このスポーツ漫画の舞台は波切島、要するに九州北部の壱岐島なわけですが、そこの漁師の息子である壱岐雄介(主人公の苗字に壱岐の名前を持ってくるという憎い演出)が、日本陸上競技界に旋風を巻き起こし、オリンピックで金メダルを取って親の家業の漁師に戻っていく、という姿を描いています。

そして、この壱岐雄介の兄の壱岐大介さんといい、ヒロインの奈緒子さんといい、文武両道で勉強の方も頑張り、大介さんは九大医学部、奈緒子さんは東大法学部に現役合格する、ということがさらりと書いてあります。

一体この人たちは、どうやってこの「文武両道(大学に進むとか仕事としての漁師で生計を立てるとか)」をなし得たのか、というところだと思いますが、こうした人たちは目標を設定し、そこに向かう絶対的な距離を自らではかり、その差分を毎日の習慣で着実に埋めていくその振る舞いが「自分で」できる、非常に限られた、けれども誰でもできる能力(特性)を持っていると言えそうです。

このような、自学自走できる若人たちの育成の方が、実は教育の王道であり本質であり、そのような実例の「スター」が実際の田舎からバンバン輩出されるようになったら、時代は、国は明らかに変わっていくでしょう。

いわば、全国津々浦々において、萩の私塾松下村塾や会津の藩校日新館みたいな、特徴的な教育機関が一斉蜂起するような、そんな未来像です。

教育を「与える」教師という立ち位置ではなく、教育の「場」「環境」を整えるファシリテーターや保護者や地域社会の輪の方が、ずっと重要であるということにもう少し我々は気づくべきなのかもしれません。

学校に丸投げして教育が済んだ時代はとっくの昔に終わっていまして、というかそんな時代は本当はなかったのですが、改めてこの令和という新しい時代を迎え、「脱学校化」で何を学ぶかを競い合う時代になっていきます。

教育研究機関たる大学も同じで、ティールズのように大学不要論を唱える人もいるくらいです。

繰り返しますがいわゆる「良い大学」に行くことに学びを丸投げしていれば済んだ時代は、とっくの昔に終わった、というか「始まってもいなかった」のかもしれません。

さて、ここまで書いた以上、学校は不要なのか、というところまで行ってしまいそうですが、筆者はそうは考えておりません。

むしろ、学校も教育の場の一つとして、当然他の教育コンテンツや教育メニューとの間で「相対化」されていきますが、それでも、スクール形式のクラス授業形式、もしくはクラス単位での社会単位の運営経験や部活動といった課外活動、文化祭運動会といった行事を通じていろいろな体験ができる全日制学校という場は、それはそれで優れたシステムあることは論を待ちません。

脱学校化というのは、学校に依存しないでも学習ができる、ということで、「学校」というものを排除したり、否定したりすることではないと思います。

つまり、学校に行くかどうかは相対的な一つの前向きな、自律的な「選択肢」であり、行ったらいったなりの学びがあるし、行かなくても学ぶことができる、そんな自由な教育のあり方がのぞましいのではないでしょうか。

学校に限らず、教育の一つの役割は「コミュニティ」だと思います。

いろいろな人との出会い、支え合いがある。

それが学校というコミュニティのすばらしいところですが、逆に言えば、学校に行かなくてもそのようなコミュニティがつくれる、そのようなあり方がのぞましいのではないかと思います。

塾も地域社会もサークル活動も、コミケもネットのFBグループもブログ活動も、そのような意味で立派なコミュニティだと思います。

このブログを通じたコミュニティの発展と教育への貢献を、大いに期待したい筆者からの真面目な呟きは以上です。

(2019年8月9日 金曜日)

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