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2019年8月18日

(2019/08/18)日本の長い歴史においては動と静の波動を正確に理解しなければ正しい解釈が進まないと思っている話について





おはようございます。

世界史の中でも特殊な輝きを放つ日本の歴史を理解しこれからの我々の生活や仕事、生き方に活かすことにおいては、動と静、右と左、戦争と平和、こういった変化の波動が波のように寄せては引いていく、そのような特異な歴史を持っているという「前提」を持っておくことが正確に自国の歴史を把握するために非常に必要であるとますます思うようになりました筆者からお送りいたします歴史記事です。

例えば、現代日本において毎年8月になりますと終戦記念日として戦争の惨禍を繰り返さないようにという戦没者への慰霊の式典が行われ、天皇皇后両陛下のありがたいお言葉が述べられるように、明らかに戦後の日本は平和国家として振る舞ってきたのですが、これが明治維新後の太平洋戦争終結までは、血気盛んな後発組の19世紀型帝国主義覇権国家として、東亜新秩序/大東亜共栄圏を掲げてその国威をアジア全体に波及させようとしておりまして、国民こぞってその国策を信奉する風潮が大半だったのです。

あの朝日新聞だって、「正露丸」を「征露丸」として売り出す広告をバンバン載せていたし、ロシア撃滅!みたいな論調で社説も書いておりました。

アジア諸外国も、非白人国家において近代化にほぼ唯一成功した国として、日本を非常な羨望の目で見ており、各国の政治指導者や革命家たちは、こぞって日本に「留学」しその息吹を感じ取ったものなのです。

その中で、随一の国家指導者に育ったのが、かの孫文であり、この人は中華民国の国父・政治家・革命家であり初代中華民国臨時大総統/中国国民党総理/「中国革命の父」国父(国家の父)と呼ばれる大人物となりました。

「中国」という統一国家を初めて作り上げたのは、古くは始皇帝でしょうが、その次の本当の中華「国民」国家をかの大領土においてなし得た人物、それこそ孫文です。

毛沢東でも周恩来でもありません。

ましてや(最近調子こいてる)習近平などでもないのです。

その孫文さんは、若き日に日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企画しますが、味方の密告で頓挫し、日本に亡命しています。

そして1897年、宮崎滔天の紹介によって鎮西の政治団体玄洋社の「巨頭」頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から当時で破格の東京での活動費と生活費の援助を受けました。

そして、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋したといいます。

日本の歴史上、バンバン出てくる有名人がこぞって支援した、この孫文という人物について、あまりにも紙面が少なく、日本の歴史の授業ではどうも一国鎖国主義的歴史観で教えるので筆者などは物足りなく感じております。

このように、日本は、世界主義(大アジア主義)の拠点として、確かに世界史上足跡を残した時期が節目節目にありまして、例えば日本国成立時のヤマト王権成立の際には大量の渡来人が朝鮮半島から渡り国家建設の新知識や漢字仮名交じり文といった「文化」「手段」を導入しましたし、少し時代は降りますが戦国時代から織田信長による天下統一事業において、キリシタン(イエズス会)を擁するポルトガルやスペインの世界戦略に日本(ジパング)が非常に重要な役割を果たした、そして意のままにならなくなった信長を、こうしたグローバル植民地勢力である、(ポルトガルを吸収統合した)統一スペイン側が、日本の彼らの出先である「キリシタン大名ら」を暗躍させて彼を滅ぼし、その後継者として最も懐柔しやすい秀吉を立てた、といった話まで、日本は今の日本人が考えるより、よっぽど、歴史の節目節目において「グローバル」であったと、これだけは自信を持って言えるのです。

どうも、長く続いた平安の世(平安時代)の京都御所や内裏のイメージ、それから最も長く続いた将軍による幕藩体制(江戸幕府)のイメージによる「平和で内向き」な時代のイメージが強く出すぎており、筆者としては衡平をいささか欠いているのではないかと考えているのです。

平安時代、それから江戸時代、または戦後から現代までの日本の歴史においては、確かに戦乱は遠く平和な時代であったのは間違いないのですが、それとは正反対の、膨張主義に満たされていた時代や内乱に明け暮れ、そのパワーがいつしか国内では消化しきれず対外膨張(朝鮮出兵)にまで至った時代もまた同様にある、というのが日本の歴史学徒としてしっかり認識しておかなければならないと考えております。

「ベンチャー企業として創業し、仕組み化して官僚制を敷き前例踏襲で組織を維持し、ゆっくり衰退してはじめに戻る」

みたいな感じでしょうか。

日本人の気質として、非常に真面目な面があるのは確かですから、結構極端から極端に振れることが多いと思います。

泰平の世を満喫しながら、たった4隻の外国船の来航に驚き開国「させられた」日本は、そのたった50年後(半世紀後)には、世界最強の陸軍国であるロシア帝国相手に、満州の荒野で大会戦を行い、奉天にてロシア軍を食い止め、かの恐ろしい国の南下を防ぎました。

日本海においては、ロンドン市場で国家予算の数倍もの戦時債券を発行して調達した最新鋭戦艦群で、ロシアのバルチック艦隊を撃滅しました。

孤高の孤立主義を掲げていた英国をもって、初めて「日英同盟」に傾けた日本人の進取の気質。

これは世界に誇って良い「事象」であったと、日本国の舵取りとしては間違いなかったと思うのです。

その時の戦費調達の実動部隊として国策銀行として作られた日本興業銀行(1902年–2002年)という組織には、わずか5年だけですが筆者も在籍して、そういった日本国の「動」の歴史についてさまざまな話を聞けたのは幸運でした。

歴史における解釈は様々です。

しかしながら、「こうあってほしい」という希望と、事実として起こったことの峻別はつけるようにして、起こった事実についての「評価」、特に「倫理的な」評価については一旦離れて取り下げて事実をありのままに見る、というのが歴史を学ぶ者として最も大切な徳目ではないかと考えております。

今日もとりとめのない話になりました。

こうした歴史の話を、地元福岡の歴史学徒のサロン「COTENラジオ」というのでやっていますので、のぞいてみてください。

ここの方々は、筆者などよりはるかに過呼吸で、過集中の、変態的歴史オタクにしてリアル社会の悪魔の実の能力者であることは筆者が保証します。

いつか、このサロンに「参画」できるような日を楽しみに、これからも学習に励みたいと思います。

こちらからは以上です。

(2019年8月18日 日曜日)

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