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2019年9月13日

(2019/09/13)人生における決断の総数は決まっていると考えている「説」が深いと思う話です






おはようございます。

2019年9月の人生におけるアクティビティの総量には限りがあって、例えば決断ひとつとっても、その総量が決まっていると考える「説」が面白いという話をします。

問題になるのは、決断の多さで気疲れしてしまい、「いざ」というときに「楽だけど破滅的な」考えに偏ってしまいかねないということです。

例えば自殺願望者の多くは、他人にとってみれば非常に些細なこと(たとえば机が少しずれているとか、服の畳んだ隅っこが揃っていないとか、ケーキをうまく切り分けられなかったとか)を、非常に気にするからゆえに、普段から感情の総量をすり減らしてしまっており、「生きるか死ぬか」といった根源的な問いを突きつけられた時に、楽であるが破滅な方に寄ってしまう、そのような「傾向」についての話になります。

筆者としては、別段自分で自分に「断」を下さなくても、然るべき時がくれば、神様か仏様かキリスト様かアラー様か、はたまた宇宙の根源なのか虚無なのか大真理なのかはわかりませんが、とにかく、ええ、そりゃもう確実に、「死」がお迎えに来てくれることは不老不死を願って死んだ始皇帝のみならず何十億人という先例があるのでわかっていますので、わざわざ自分のマインドシェアを使う自死よりも、周りがそれなりに「泣いて」自分が笑って死にゆく、そのような終わりというか旅立ちを考えておりますので、その際はこの雑文でも拾い読みして、故人筆者(予定)を軽く偲んで忘れていただければ幸いでございます。

さて、死ぬ前までに「どう」生きるかについてでございますが、かように、仮に生きていたとしても決断疲れというのがありますと、よく生きることが難しくなってまいります。

例えば、遠くのスーパーで1円安い納豆3パックケースを買いに行くかどうか悩む、といっった些細な決断をしないといけないのは、貧すれば鈍する、というたとえのとおりでありまして、生活にある程度の余裕があるように準備しておけばば、そんな悩み(決断を要する)はないはずなのです。

貧困が、1円の差を大きく吟味させ、そして決断の回数を指数関数的に多くしてしまうのです。

1円単位で生きている、といえば究極の現場主義なのですが、それだけ決断の回数の多さに疲弊し、真に重要な決断が必要な場面において、間違った(無難な、というか雑で破滅的な)判断をしかねないわけです。

下町ロケットのモチーフになった宇宙開発会社の植松努(先生)は、100%稼働を目指すのは危うい、60%稼働くらいで利益が出るようにせよ、そうすれば残りの40%で変化に対応できるし、自社が安泰ならば他社の人助けや社会貢献ができて、それが更に会社の評判を高めるものだ、自分はこのような会社にしたい、60%稼働で利益を出す会社をつくりたい、とおっしゃっていて、まさにこの考え方こそ、ちまちました決断に自分のマインドシェアを取られることなく、大きく構えられる秘訣なのかなと考えました。

金持ちになってしまうのも手っ取り早い手段ですが、お金や名誉や部下に囲まれるのも、これまたマインドシェアを取られることであるということもありますので、より手頃な手段としましては、より重要なことだけに判断するエネルギーを絞る、という方法もありまして、例えば筆者が、この「人生における決断の総数が決まっている「説」」を掘り下げてみた結果、具体的にやってみた方法としましては、

頭を丸坊主にして髪型のセットをする手間と決断をなくす(卒髪)
同じく髪を洗う手間を極限まで削減する
同じく床屋に行かずに自分で購入したバリカン(メルカリで送料税金込みで2,700円)で風呂場で剃ることで、床屋を予約したり待ち合わせたりする時間と決断を削減する
スーツを黒一色にし、ワイシャツは6枚を、月曜日用火曜日用水曜日用木曜日用金曜日用土曜日日曜日用、に分けて吊るして押出しファイリング形式で自動的に選ぶ
普段着は下着短パン含めて3セットを回す

という風になりました。

これによって減らした決断の総量を、できれば前向きなマインドシェアに振り向けたいと思います。

しかしながら、移動の旅に、徒歩かメルチャリかバスか(タクシーか)で迷ってばかりの筆者からのコメントは以上です。

(2019年9月13日 金曜日)

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(2015/06/10)決断する習慣をつけることがよく生きる上で非常に大切だという話です