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2019年9月11日

(2019/09/11)日本列島の中で初めて日本のことを記載した文字は何であったか推定する楽しい古代史の話です







おはようございます。

2019年9月の(長い)記事です。

今日は、筆者の好きな古代史の記事です。

日本のことを文字で示した最古の書物は、当時の漢帝国(前漢)であった漢王朝が編纂した歴史書「漢書地理志」の、わずか漢字20文字で、紀元前1世紀ころの日本列島の様子が記録されています。

中国前漢の正史「漢書」地理志に、倭人に関するわずか漢字20字の記載があります。

これが現在のところ、中国から見て朝鮮半島の先にあった日本列島にいた人々のことを最初に記録したものとなっています。

紀元前1世紀ころの日本列島の様子です。

夫楽浪海中有倭人分為百余国以歳時来献見云」(20字)

曰く、

「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」

[適当訳:朝鮮半島の楽浪郡の海の向こうに倭人といわれる人々がいて、百余りの小さな国に分かれている。定期的に中国に来朝し皇帝や名代に献見朝貢する形で各種水産物などの交易をしたという。

それでは、日本列島の中で、この国のことを最初に文字で記した「文章」は何になるのでしょうか。

710年に成立した「古事記」と言いたいところですが、古事記は、確かに膨大な文章で日本の古来からの成り立ちを教えてくれる大切な書物ですが、それよりも前に成立していることが確実な、最近(と言っても筆者が生まれる前ですが)発見された日本古代歴史上の重大発見であるところの「稲荷山古墳鉄剣銘」について触れておきたいと思います。

埼玉県の「稲荷山古墳」から出てきた「金錯銘鉄剣(国宝)」に金象嵌の銘文として記されている115文字の「文章」です。

1968年(昭和43年)、埼玉県行田市にある稲荷山古墳から鉄剣が出土しました。

全長73.5センチメートル、中央の身幅3.15センチメートルの見事な副葬品です。

そうして、錆びきった鉄剣にX線を当てててみますと、なんと、鉄剣の表裏に金象嵌の115字の銘文、表に57字、裏に58字が記されているのが発見されたのです。

タガネで鉄剣の表裏に文字を刻み、そこに金線を埋め込むという、当時最高の優れた技術者による貴重な作品であることは間違いありません。

表の銘文は、

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比(57字)

裏の銘文は、

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也(58字)

<表の訓読>

辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。

<裏の訓読>

其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

(以上、稲荷山古墳サイトおよびウィキペディアから転載)

さて、この合計115文字の「漢字」をどう読みどう解釈するか、これが大切になってくるのですが、多くの歴史学者や考古学者が首っぴきで検証した結果、現在(2019年10月)時点の通説は、最初に出てくる「辛亥の年」を471年と比定し、この鉄剣の主である「ヲワケ」が仕えた「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」とは、大長谷若建(おおはつせわかたける)命・大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)、つまり漢風諡号「雄略天皇」であり、そして、中国側の同時代を記した『宋書』倭国伝にみえる「倭王武」であると推定されています。

で、筆者がいろいろ見た中で適当だと思う訳文は、

(銘文の適当訳)

(表面)辛亥の年七月中に書きます。(私の名前は)ヲワケの臣。遠い先祖の名前はオホヒコ、その子(の名前)はタカリのスクネ、その子の名前はテヨカリワケ、その子の名前はタカヒシワケ、その子の名前はタサキワケ、その子の名前はハテヒ、
(裏面)その子の名前はカサヒヨ、その子の名前はオワケの臣(ここで最初の私に戻る)です。先祖代々杖刀人首(大王の親衛隊長)として今に至るまでお仕えしてきました。ワカタケル大王の朝廷(住まい)が、シキの宮におがれている時に、私は大王が天下を治めるのを助けました。何回もたたいて鍛えあげたよく切れる刀を作らせて、私と一族のこれまでの大王にお仕えした由緒を書き残しておくものです。

ということで、「臣」が単純に臣下という意味なのか、「大臣」的な役職名(肩書き)だったのかは判明しませんが、ヲワケ(オワケ)さんの一族は、代々ワカタケル大王の朝廷に仕えて親衛隊長として武功を上げた、という輝かしい由緒を記録したいというところだったのでしょう。

しかし、令和元年の現代まで、この「大臣」という称号が残っている(古代に比べて、今の大臣は内閣府特命大臣、とかでやたら数がかさ上げされている気がしないでもないですが)ことを考えれば、案外、「ヲワケ(オワケ)さん一族」は、かつて大臣(おおおみ)として権勢をふるったかの蘇我氏や内臣(うちつおみ)、さらには右大臣、左大臣として朝廷内部に食い込んだ藤原氏の向こうを張った、大いなる先輩格にあたる氏族の長だったのかもしれません。

完璧にこれが確定したわけではありませんが、この導かれた通説によりますと、日本「大王」という称号が5世紀から、少なくとも関東地方まで使われたことの確実な証拠といえます。

日本の5世紀は、かなりアクティブに統一王朝を急速に形作ってきた時代だったというわけです。

さて、この日本で作られたと考えられる古墳時代の他の銘文について字数が多い例は、熊本県江田船山古墳出土の大刀銘75字、和歌山県橋本市隅田八幡神社所蔵の鏡銘48字などがありますが、紙面の都合、というか筆者の体力の限界…でもありますので一旦ここで筆を置かせていただきたいと思います。

通説で言われる「辛亥の年」、つまり471年に遡った古い時代の出来事を伝える日本列島の自前の文章資料をこの目で(X線を通じて)見ることができるというのは、大変ありがたく、筆者のような歴史学徒にとっては垂涎ものなのですが、実は実際の鉄剣をこの目で見たことがまだないので、死ぬまでには一度お目にかかりたいと思っています。

471年に遡り、亡くなった埼玉県在住の武人「ヲワケ(オワケ)」さん(おそらく男で年齢不詳)、ワカタケル大王に親衛隊長として仕えた人生、いろいろ大変なこともあったでしょう。

現代に生きる宮仕えのサラリーマンの筆者としては、その武功より、日々の気遣いや一族の統制や先祖の宗廟の管理とかいった、いわゆる総合マネジメントといった平時の振る舞いの方が、胃の痛い日々だったのかもしれないと思いを寄せる次第でございます。

しかし、彼の思い(自慢)は、この鉄剣というまたとない「台紙」に記された文字をもって、1,500年の時を経て、こうして後輩である我々の目に触れることになったわけです。

これこそが、素晴らしいことだと思います。

ところで、年号についても平成までは漢籍由来のものでしたが、現在(2019年)の令和については、初めて和籍由来のものとなりました。

令和の時代に、日本という国の成り立ちにかかわる研究が進むことを期待しています。

ヲワケならぬ歴史ヲタクのこちらからは以上です。

(2019年9月11日 水曜日)

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