このブログを検索

ラベル 主張 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 主張 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年4月17日

昼食夕食と喫茶との中間の軽食をターゲットにした豆皿中華店がオープン(地域の話題)







おはようございます。

2018年4月の中華料理に関する配信記事です。

中華料理は筆者も大好きですが、例えば1人で中華料理屋に行きますと、青椒肉絲(チンジャオロースー)なりエビチリなりチャーハン(炒飯)といったメニューにいろいろと舌鼓を打ちたいところですが、残念ながら1品か2品で断念しなければなりません。

これは、中華料理が大皿で複数人で取り分けて食べるということを割と前提としていることから生じる葛藤なのかもしれません。

そこで、次は皿うどんを食べようかな、と思って今回その店を出たとしても、また時間をおいてその店に来た時には、やっぱり定番のチャーハンか餃子、という感じで、いつ同じシングルループの同じところを回っているということになりかねません。

したがって、このような一般の中華料理屋でメニューの冒険をしてみたいと思った場合、筆者としては勇気を振り絞ってたくさんの人を飲み会なりに誘って、大人数で乗り込めば、かなりメニューの幅が広がります。

しかしながら、いろいろな中華料理を食べたかったから大勢の口(人)を呼んだということでは、手間もかかるしそもそも人それぞれメニューの思考も千差万別なわけですので、これが最適なる解ではありません。

そんな問題点をうっすら認識したところで、ちょうど良さげな店が近所にオープンしたのでご紹介します。




福岡市の六本松に「豆皿中華Q」がオープン




筆者の地元の福岡市中央区六本松(六本木ではありません、ろっぽんまつです)にできた「豆皿中華Q」というお店です。

中華料理はいろいろな種類があるのに、普通のお店は大皿だから一品くらいしか食べられない、もっとちょこちょこいろいろな食材やメニューを楽しみたいよね、というコンセプトから生まれたこのお店、大皿から小皿を通り越しての豆皿メニューです。

まるで駄菓子屋のように、ちょこちょこした単価のメニューが並びます。

頼むのが面倒な人向けには、最初にとりあえず頼んだらいい豆皿9種が1プレートに載った「Qセット」をオススメします。

店長をやっているという、通称Qちゃんである「Q」と「9」を掛けてるんだろうと思うのですが、これで、9品の中華料理を小鉢で食べる感覚で楽しめます。

日本料理屋で出てくる付け出しが9種類、そんな感じですが、料理はいずれも小ポーションで安価ながら、味はしっかり研究されています。

この店ではお酒も量り売りで出しておりまして、小さいワイングラスになみなみと、ロゼワインなんかを注いでくれます。

文字通り、豆皿を下に敷いて、なみなみとついでわざと下の皿にこぼす、日本酒を升に入れたグラスに注ぐような感じで、なんだかお得な感じがするのは筆者だけでしょうか。

さて、オープン間もないところでしたので、追加でチャーハンの豆皿と、あとトマトと卵をざっと炒めたやつをいただいて、今回は早々に退散しました。

思えば、外食どころというのはランチやディナーを提供するところ、深夜までやっている飲み屋に加えては、それ以外の時間帯での喫茶という業態しかなかったところ、ちょっとした本当の意味での軽食、というジャンルはなかなかなかったなあと思い、飽和していると勝手に思っていた外食業界にもどうして進化の余地はあったのだなあなどと思った夜でした。

巷の喫茶店には軽食コーナーもありますが、これは、軽食というより朝食もしくは昼食を食べそびれた人が少し口にするといった性格のもの、もしくはランチそのものの場合であることも多く、本当の意味での小腹が空いたので少しつまむ、という外食業態は、この豆皿中華のような形として結構流行ってくるのではないかと思います。

バルウォーク、といういろんな店のいろんなメニューを少しずつ楽しむという食のイベントも、そこかしこで行われるようになりました。

我々の社会はまだまだ進化していく余地がありそうで楽しみです。

一緒に食べにいく友達が少ない筆者からの論考は以上です。

(平成30年4月17日 火曜日)

2018年4月15日

ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます






おはようございます。

国際派とは到底言えない筆者からの2018年4月の国際関係に関する教養的配信記事です。

ドイツと日本、先の第二次世界大戦で日独伊軍事同盟を結び共に敗戦国として辛酸をなめたという近現代史を持っておりますが、それ以外にも、共に勤勉な国民性といったところや経済活動がうまい、または組織で動くと力を発揮するといった似たような国民性を持っているように感じます。

こうした類似性がどこに由来するのか、それはもしかしたら両国の歴史的背景が意外に似たようなものであるからかもしれないと思いまして筆をとりました。

ドイツは、かつて神聖ローマ帝国が支配した国でした。

しかし国土は森に覆われ、あまり領土内での人の行き来がしにくい土地柄であったことから、どうしても地方政権たる「領主」の力が強いままで推移したという歴史があります。

隣のイギリスやフランスが、早くから統一王朝をもって相互に大きな政治的パワーでぶつかった、といったような歴史を持たなかったのです。

そうして、神聖ローマ帝国の皇帝位のハプスブルグ家による事実上の「世襲」が始まると、オーストリアを地盤とするハプスブルグ家になびき、これまでの旧教(カトリック)を奉じる取り巻きの領主たちと、ルターによる宗教革命を経て新教(プロテスタント)を奉じる独立した領主たちによる領地がそれぞれに、独立した領主による宗教的政治的支配を高める一方になっていきます。

こうして、事実上神聖ローマ帝国はただのお飾りとなり、まさに日本における戦国時代、室町将軍の地位がほぼ名目上のものとなってしまったことと同じような状況になっていくのです。

しかも、日本の戦国時代においては、まだ宗教対立というものは世界的レベルで言えばそんなでもなかったところ、ドイツにおいては、同じキリスト教でも旧教と新教という、お互い異端としていがみ合う間柄でありますことから、より先鋭的に、おのおのの領主は、まさに他国の国王並みの権力(政治的にも宗教的にも)を事実上保持することとなっていくのです。

こうした作用が働き、さらに神聖ローマ帝国(神聖ローマ皇帝)は実のない、名目だけのものとなっていくのです。

そんな中、なんと神聖ローマ帝国に皇帝が立てられなかったという大空位時代といった時代も出現し、最終的に、この新教旧教の対立の局地として、ヨーロッパ最大かつ最後の宗教戦争である三十年戦争というのが起こります。

そうしてその三十年戦争の講和条約が締結されます。

ウェストファリア条約といいます。

世界最初の近代的な国際条約とされておりまして、ウェストファリアは、ネーデルラントに接したドイツ西部の地方の名前です。

神聖ローマ皇帝、ドイツの66の諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどの代表が参加した、世界で最初であると言える大規模な国際会議を経て、1648年にようやくウェストファリア条約が締結され、三十年戦争は終結したのです。

これにより、ドイツの66にも及ぶ諸侯は、ほぼ「国」としての存在と同一視できる程度の宗教的政治的力を認められることとなり、神聖ローマ帝国はこれをもって事実上終焉するということになります。

こうして、領主とか諸侯と呼ばれたドイツのこれらの「国々」は、以後名実ともに「領邦国家」と呼ばれることとなり、それからさらに200年以上、それぞれ「独立国」としての事実上の体裁を保つことになるのです。

日本においては、ちょうど明治維新による国家統一(1868年)の前、それまでで最強の徳川幕府による事実上の全国支配が始まったものの、あくまで日本全国は諸藩による政治裁判権に服しており、統一国家とはみなせなかったわけですが、ドイツにおいては、ウエストファリア条約によって、より領邦国家の地位が強固に「確認」されたことから、戦国時代を経て幕藩体制に取り込まれていった日本の三百諸侯(藩)よりもより先鋭的に、各地方の独立色が強く、近代統一国民国家の成立には、それから共に200余年を必要としたという意味で、非常に似通った近代史を持っているのです。

ドイツの近代国民国家としての統一は、日本より遅れて1871年、ドイツ人がホーエンツォレルン朝プロイセン王国の国王ヴィルヘルム1世を「全ドイツ帝国の皇帝」として戴くことを決め、ドイツ人の統一国家を成立させるまで待たなければなりませんでした。

その後の、近代国民国家を後発ながら成立させた両国は、これまた同じような国家発展と対外主義を持ち、そうして第二次世界大戦のヨーロッパおよび極東のそれぞれの枢軸国の盟主として、世界の連合軍相手に戦い、そしてアメリカイギリスフランスといった西側諸国に加えて、ソヴィエト・ロシアによる侵攻(ドイツにとっては一旦ロシアに攻め入っているので逆襲)を経験し戦後を迎えてその後の経済発展を行ったというざっくりとした歴史認識になるわけです。

非常に面白い観点であろうと思います。

さらに遠い昔、そもそもドイツのゲルマン民族を最初に民族移動に駆り立てたのは、遠く東アジアの北方からシルクロードやステップロードを超えてきたこちら側の騎馬民族の動きであることからも、日本とドイツには何かと縁深いものがありそうな気がします。

ここまで延々と書きましたが、ドイツはもとよりヨーロッパには行ったことがございませんので、知っているドイツ人(超人?)といえばブロッケンJr.とカール・ハインツ・シュナイダーくらいという、そんな程度の筆者からのつぶやきは以上です。

(平成30年4月15日 日曜日)

2018年2月9日

米国株式市場の1,000ドル超の下落が断続的に2回も起こって流石の相場素人も驚いた話






おはようございます。

2018年2月の市場ニュースです。

朝起きてみて、米国市場の急落に驚いてお茶をとりこぼしてしまった筆者です。

2018年2月8日(木曜日)の米国株式市場で、ダウ工業株30種平均は急落し、前日比1,032ドル89セント(4.1%)安の2万3,860ドル46セントという水準でした。

これで、ダウ平均は過去最大の下げ幅となった5日に次ぐ過去2番目の下げ幅となったとのことです。

そして、直近の2018年1月26日に付けた過去最高値(2万6,616ドル)からの下落率は10%を超えたということで、相場は明らかな「調整局面」に入ったと言われます。

なぜこんな1,000ドルもの下落を演じるのでしょうか。

しかも断続的に2回も、です。

筆者が覚えているのは、2008年9月のリーマン・ショックと呼ばれる世界同時金融不安が起こっていた頃のことですが、それでも下落幅は大きいものの、1,000ドル下げというの見たことがありませんでした。




米国長期金利の上昇が原因ではないと思う




教科書的には、米国国債の10年ものの金利が上昇して、3%弱まで一気に上昇したのが原因などと言われますが、景気が良いから金利が上がって行くのは市場関係者ならば当然の結果であり、それで相場が過熱するのを防ぐ自動調整機能が市場には備わっている、というのがおおかたのコンセンサスであるはずです。

しかしながら、米国金利の正常な上昇すら、下落の原因にしないといけないくらい、この下落についての説明材料はないのでしょうか。

筆者は、そういった教科書的な理屈を論じることはできませんが、一つだけ感覚的にあげられるとしたら、そもそも市場の自由競争主義は、ずっと続くゼロ金利政策や過剰流動性供給、政府機関や日銀による株式買い切りオペなど、どうも自由経済と言いながら規制だらけの、おんぶに抱っこの官製相場に成り果てていたことが原因ではないかと思うわけです。

日銀始め世界の中央銀行は際限なく紙幣を刷りまくりマネーを吐き出し続け、各国政府(特に日本)は際限ない国債発行で人口減が現実となっている中借金につぐ借金を重ねて目の前の、今だけ金だけ自分だけ自国だけ、といった痛みを先延ばししてきたところのツケがようやく来ただけではないのか、という感触です。

相場は荒れておりまして、例えば米株の変動性指数(VIX)は8日に33.46と前日比21%上昇しました。

もちろん、2008年9月のリーマンショックほどの水準にはほど遠いですが、真綿で首を締め付けられるような不安心理が今後高まっていくのをどう防いだらいいのか、経済各指標は良いとされる状態であるだけかえって不気味であります。

いよいよ、世界的な景気後退、とは違ったいわば世界的な信用収縮というものが、好調な企業業績や経済指標から起こってくるという、不思議かつ人類未体験の経験が始まるのかもしれません。

日本の株式市場にも注目しましょう。

そんな相場の海の中を、情報求めて右往左往しております零細投資家の筆者のつぶやきは以上です(ツイッターは数少ない上昇銘柄でした)。

(平成30年2月9日 金曜日)

2017年9月5日

映画でも小説でも物語でも契約書でも原典に当たるのは大切だと思う話






おはようございます。

2017年9月の記事です。

今までブログを始めて4年超、いつも自分で書きたいことを書いて来たのですが、実はあの話を書いてくれ、あの話についてのコメントをお願いする、といった依頼がくるようになっておりまして、その要望に沿ってネタを整理して書いたこともございます。

今後は、読者(少ないですが)との双方向のコミュニケーションツールとして本ブログを発展していくのも面白いかと思いまして、まだどのような形で記事投稿の要望を受け付けるかそういった具体策は何も決めていませんが、本日時点でそのようなことを考えていると言うことはお知らせしていこうと考えております。

さて、今日の記事ですが、まだ自分自身しか記事要望を出す者はいないので、やはり自分の書きたいことを書かせていただきたいと思います。




原作にこだわる姿勢を大切にしたい





世の中には、原作中毒というべき、原作原理主義者がいるものです。

実を言いますと筆者もその口でして、各種メディアコラボというのがどうしても好きになれないのです。

例えば、ある「漫画」で非常に感銘を受けたものがあるとして、それをアニメ化するまでは良いとして、どうしても実写化するのを見るのは躊躇する、といった具合です。

また一方、原作が「映画」で非常に感銘を受けたものがあるとして、それを小説版にするといったことについては、やはり動画が原作だから文字表現だと迂遠だ、となってしまいますし、原作が「小説」のものをアニメ化しても、どうしても感情移入できない、例えば俺の中のラインハルトやヤン・ウェンリーは違う(銀河英雄伝説)ということになってしまうのです。

さて、そんな世界中にあまたある各コンテンツの中でも、筆者がもっとも原作原理主義者だと申し上げてはばからないのが、「風の谷のナウシカ」であります。

ナウシカ?あの映画でしょ?というそれしか知らない人に対してこれ以上申し上げる気はないのですが、少なくとも一言だけ言わせていただくと、強烈に原作を推し進めます。

原作を買え、ポチれ、というか貸してやるから読め、と申し上げます。

そもそも映画版ナウシカ(今後映画版と記す)は、全7巻構成でバイブルと化した原作において、2巻執筆時点で製作されたものなのです(1984年)。

そのため、映画版製作当時には存在していないお話が、その後大量に驚くべき質感を持って迫ってくるのであります。

原作において、ナウシカ世界は、トルメキア王国と土鬼(ドルク)諸侯連合という二大勢力の狭間に生きる周辺勢力でどちらかというとトルメキアに従って土鬼諸侯連合に侵攻をしかける先兵としての役割を背負わされているわけで、ペジテ市その他の小都市群と一緒に、要するに辺境諸国として使い捨てにされるという立ち位置なわけです。

それが、映画版ではペジテ市がトルメキアと同格になるほど格上げされ、善悪二元論の中で風の谷の地位も向上しています。

原作ではそんなことはありません。

多種多様の主人公たちがそれぞれ泥臭く生きていく群像劇なのです。

そして、映画版の主人公ナウシカほど、原作版ナウシカはかっこよくなく、ちょっといっちゃってるあちらの人になってしまっていて少しばかり敬遠される感じになってしまう一方、ナウシカ以外のキャラクターは、概ね全て原作のほうが超カッコよく描かれています。

最も違いが際立つのは、トルメキアの皇女で第三軍指揮官のクシャナ殿下です。

原作ではナウシカより好きだと言うファンも多い、もう一人の主人公となります。

その配下のクロトワさんも、映画版より数段格上のいいキャラクターとなります。

あまり書くとそれこそ原作を読んでほしいという筆者の願いに逆に反することになりますのでこの辺にいたしますが、とにかく、宮崎駿という一人の個性が、構想二十年以上をかけたこの原作をまずじっくり反芻していただきたいと考えておるわけでございます。

つまり、コンテンツ全般、それからビジネスの世界においても原典たる契約書に立ち戻っていろいろ考えることが必要なのだと改めて感じたということです。

以上まとまりが全くありませんが終わりたいと思います。

ナウシカ読みたい方は、筆者もしくはアマゾンにてお求めください。

こちらからは以上です。

(平成29年9月5日 火曜日)

2017年8月19日

いかなる個人でもその個人を含む「チーム」には勝たないと思っています






おはようございます。

2017年8月の記事です。

いかなる個人でも、その個人を含む「チーム」には勝たない。

これが、筆者が組織とか共同体とか社会的集まりに参画する大きな理由の一つになります。

勝つ、負けるという概念をはるかに超えた「家族」というカテゴリもありますが、ここではできるだけ仕事をして「稼ぐ」組織体をどのように作って行くかということにフォーカスしますが、改めて、いかなる組織体の個人個人だけでは、その個人を含む「チーム」のパフォーマンスを上回ることはできないと思っています。

つまり、チームになるというのは、個人の潜在能力を、他者との共有共感コミュニケーションにより拡張発展させていく作用を自動的に含むものであり、学ぶとか能力を向上するとかという「教育」の効果を包含しつつ、よりよい業務成果を上げることにつながる魔法のような作用になるのです。

しかし、単に個人が集まっただけではチームにはなりません。

単に、集まった個人が持っている知識技能を広げたところでも効果は得られません。

集まった個々人がそれぞれオリジナルに持っている知識経験技能を披瀝し、そして他者がそれを尊重して自分の中にあるそれらと照らし合わせようとする「面倒臭い」作業がどうしても必要になります。

それがコミュニケーションやディベートです。

ですので、議論においての目的は、相手の人格にストレスを与えることではありません。

相手の持っているものについては素直に尊重することが大切です。

そうすると、自分の持っているものが他者に承認されるというのは気持ちいいもので、自分の承認欲求も満たされていきます。

ここまでくれば、チームになるまではあと少しです。

人格ではなく違いを尊重して建設的なやりとりが始まれば、チームビルディングという個々の能力を超えた創造的なチーム運営の始まりです。

コツさえつかめれば、ラケットのスポットゾーンに当たったテニスボールのように、バットの芯を食って飛んだ野球のボールのように、気持ちいい当たりを連発できるようになります。




チームを維持して行くのは大変でチームは脆いものでもある





そうしたチームになれたらしめたものです。

周りからは、なんとなく羨ましく参加したいということで仲間が増えてきます。

ここで、既存のチームメンバーが排他的な選民的な態度を取らないように気をつけなければなりません。

チームに参加した時期や先後にかかわらず、参画したチームメンバー全員が大切なメンバーです。

メンバー同士が、相互牽制的になりお互い自分の立場を守ろうという方向に働くと、チームはやがて崩壊していきます。

慣れ、表層的な理解、思い込みや決めつけといった相互作用の欠如により、崩壊していくチームもこれまた多いものです。

チームとは、非常に脆く弱いものなのです。

などと書いてまいりましたが、さてさて、夜の飲み会の即席チームの作り方はうまいのですが、どうも仕事や業務にそれが生かせずもどかしい筆者からは以上です。

(平成29年8月19日 土曜日)

2017年5月9日

日本の金融業界はもっと情報でお金をもらうようにした方が良いと思う





おはようございます。

2017年5月の金融業界に関する配信記事です。

金融庁長官の金融改革の音頭によって、さまざまな業界からの反応がなされておりますが、日本の金融機関が作って売っている金融商品がいまひとつのように思えるのは、そもそも、その金融商品や金融サービスについて付随する情報について、対価をびた一文支払うことがないという日本独特の文化が根源的問題として横たわっているように思うのです。

例えば外資系銀行において、預金口座を開設した時は、口座維持管理手数料を徴収するのが普通です。

預金口座を維持するシステムコストもかかれば、ロックを破られないように安全性を担保したり、口座を管理するための要員を充てないといけませんから当然のことなのです。

預金口座という、金融商品(もしくはサービス)を売っているわけですから、当然こうなるのが海外の常識です。

しかるに日本ではそうではありません。

無料であることは大前提で、さらに預金や投資信託、住宅ローンを積めば積むほど、時間外ATM手数料が無料になったり、送金手数料が月7回まで無料になったりするというサービス過剰ぶりなのです。

本来金子を徴収してしかるべきサービスや情報の対価を他の(高額)商品の販売単価にこっそり忍ばせ織り込んで設定していることで、その(高額)商品の優位性が損なわれるという事例がそこかしこで起こっているわけです。

例えば、手数料や信託報酬が非常に高く見える投資信託などがあります。

パフォーマンスを上げるためには手間をかけなければならず、例えばプログラムによる機械的高速売買を繰り返すようなファンドの場合、その自動売買AIの開発運用コストが乗っかってきますので、その点ではわかるのですが、逆に高い手数料を得るべく推奨ファンドとして売りあるくといった話にも繋がってくるのです。

さらに、こうした手数料や信託報酬の高い金融商品を売りあるくことで得られた釣果収益を、NISAといったいわゆる低額で儲からない商品の管理コストに流れているという点は見逃せません。

不採算で小口な事業を当局が事実上義務付けてしまうことにより、結果的に高額手数料金融商品の推奨助長に繋がっているようにも思えてしまうのです。

やはり、それなりの情報や手間のかかるサービスには、そのサービス部分のみでも手数料やフィーを都度支払うという方式、いわゆるアンバンドリング(業務執行と情報サービスの提供をあえて分けて、それぞれのサービス価格を明示するやり方)が積極的に進められておりますが、どんぶり勘定の好きな日本人の特性なのか、なかなかそうした取り組みは積極的に進められていないようです。




サービスにはチップで対応するのがマナー




海外にいっても、気持ちのよいおもてなしを受けることも可能です。

しかし、きちんとしたおもてなしやサービスを受けたら必ずチップでお返しするというのが基本でして、これをもってサービス部分の分離独立が図られているのです。

いくらいいサーブを受けても、食べるものは一緒とばかりウエイターやウエイトレスに対して冷淡な態度を取れば、回り回って日本国民全体の不人気になりかねないので注意が必要だと思います。

自分で情報を取れる人は投資信託など買わずに個別株でポートフォリオを組めばいいし、それだけ自前の運用になりますのでリスクも高く、売りぬけるタイミングを逃すとずるずる下がることになるわけです。

とにかく、日本の金融機関(特に銀行)に対し、こういった合理的な価格形成による商品設計が広がることを期待したいと思います。

こちらからは以上です。

(平成29年5月9日 火曜日)

2017年3月16日

サウジアラビアの「国王」が訪日され桁外れの豪奢さで日本を驚かせた




おはようございます。

2017年3月の国王陛下に関する配信記事です。

アラビアのサルマン国王の訪日が注目されています。

アラビア国王としては、実に46年ぶりの日本訪問ということで、それだけで我々はびっくりですが、さらに、日本では考えつかない豪奢な行列や高級ハイヤー数百台貸し切りなど、国民の度肝を抜きました。

同行者は王子や閣僚、企業幹部ら1千人を超えたとのことで、空港はすでにサウジアラビア専用空港の様相を呈しました。

極めつけのサルマン国王の専用機でのご到着時には、専用のエスカレーター式タラップを予め空輸(この空輸する飛行機も貨物機とは思えないほど豪華)しておき、一緒にお出迎えするという念の入りようです。

まさに現代の大名行列です。

大名行列ではないですね、国王行列です。

ついでに重要なことですが、この方に対して、「国王」という表現を当のサウジアラビア側は使いません。

Kingなどと呼ぶと怒られてしまいます。

イスラム盟主のサウジアラビアの「(日本語での)国王」に当たるのは、正確には「二大聖モスクの守護者(Guardian of the Two Holy Mosques)」ということになります。

二大聖モスクとは、一つは、ムスリム最高の聖地である、メッカのマスジド・ハラームのことです。

中には黒いカアバという神殿があって、これを守るためのモスクがマスジド・ハラームで、このモスクには、唯一カアバの方向を示す壁のくぼみがない、ということのようです。

黒い立方体の塊のまわりを、無数の人たちがぐるぐる回っている動画や画像や写真を見たことがある人は多いと思いますが、あれです。

もう一つは、マディーナにある預言者のモスクで、これはイスラム教をひらいた預言者ムハンマドが最初に建てたモスクであり、かつムハンマドの霊廟でもあります。

この2つの聖モスクを頂点にしたイスラム教社会全体の守護者として、サウジアラビアのトップは自らを任じているわけです。

ものすごい責任が「守護者」の双肩にかかっています。



サウジアラビアの建国事情




ところで、サウジアラビアの建国はどういう経緯だったのでしょうか。

初代の国王は、度重なる内紛と内戦(日本でいうところの群雄割拠の戦国時代のようなもの)を押さえて1902年に22歳の若さで帝位についたアブドゥルアズィーズ・サウード国王です。

つまり、日英同盟が締結された年に、改めて建国された比較的若い国とも言えます。

そして、現在のアブドゥルアズィーズ・サルマン国王は、第7代の国王になります。

しかしながら、第2代国王から2017年3月現在の第7代の国王に至るまで、すべて初代のサウード国王の息子であるということに驚きです。

第二世代の国王と言われるのですが、自らの息子が2代から7代まで続くというのは、やはり建国者の威光が非常に影響しているのだと思います。

今のサルマン国王は、初代サウード国王の25番目の息子ということで、こちらの方もびっくりです。

ここまで継承権を持つ子供が多いと、さすがに孫の代までの継承はなかなか進まないのではないかと思います。

初代国王が最も寵愛したスデイリー家出身の女性ハッサ妃との間に生まれた7人の王子は、スデイリー・セブンと呼ばれ、その中でも最も高貴な家系として権威を保持しているようです。

王族もいろいろ大変なんだと思います。

サウジアラビアと言っても、アラビアンナイトくらいしか思いつかない筆者からは以上です。

(平成29年3月16日 木曜日)

2017年1月21日

終末期医療を考える(これからの世代にそのお金を回せないかという議論)





おはようございます。


2017年1月の配信記事です。 これは、なかなか文字に出して簡単に言える話ではないものなのですが、あえて申し上げます。

いいかげん高齢化社会で医療費がたくさん掛かるのに、今のままでは良くないのも分かりきっているのに、やるべき高齢者医療負担の通常化を選挙の都合で進められないというのを止めて貰いたい、ということです。

健康で長生きして頂きたい、長生きしたいというのは国民皆の心からの願いです。

筆者だって長生きしたいです。

しかし終末期の過剰医療はもう止めにしたいと思うのです。

長生きはして欲しいし、したいと思っています。

でもチューブだらけで寝たきり意識も無い状態を生きているといえるのでしょうか。

それはただ死んでないだけの状態ではないでしょうか。

私は心の冷たい人間かもしれません。

しかし人生の最後の3日間くらい、子や孫や後輩たちの人生のために捧げても良いのではないでしょうか。

元気なころの3日間ではなく、チューブ入れられて意識も朦朧としてほぼ何も考えられないであろう3日間ならば。







医療は必要とする世代に公平に




病院は高齢者の公民館ではありません。


健康保険料を最高額払っても健康診断だけやっている現役世代の方々の身にもなってほしいと考えています。

隗より始めよと言いますので、私は終末期医療はできるだけ受けないことにしたいと考えています。

むしろ、その時がくるまで、悔いなく精一杯生きてやろうと思っています。

世界的にみても、高齢者だけによる高齢者だけに偏った政治になっているのは国民全体として悲しいことです。


若者や現役世代が選挙に行かないことにも原因の一部はあります。

しかしながら、そもそも、生まれてこなかった若い世代を野放しにしてきた結果、新生児年間100万人割れという抜き差しならない状況に今の我が国は来ているということも直視しなければなりません。

皆さん払っている税金や社会保険料がどう使われるか、その意思を示すため選挙に行くなり声をあげるなり、少しづつ考えていってほしいと思います。

ピンピン長生きして、死ぬときはコロリとはい左様なら、といきたい筆者からは以上です。

(平成29年1月21日 土曜日)

2017年1月5日

初詣に参ろうとしたら「ベビーカー自粛」を呼びかける神社が現れた!どうする?





おはようございます。

2017年1月の年明けの記事です。

初詣でごった返すある神社か寺だかに、「ベビーカーご利用自粛のお願い」なる看板が立っていたということで論争になっているようです。

確かに、残り364日は全く混んでいなくて全く並ばなくてお参りし放題の筆者の近くの神社においても、元旦は早朝から初詣のお参り客が長蛇の列をなしておりました。

このように、日本においては、「とりあえず行っとく」といった行動様式が多く、対応する側が時にトンチンカンな対応をしてしまうことがあるようです。

ベビーカーは小さい子供を持つ親には必携のアイテムです。

私も遠い昔、小さい頃がありまして、間違いなくベビーカーに乗っていました。

私にも子供がおりまして(今もいますが)、小さい時分にはベビーカーに乗せていました。

おそらく、ベビーカーに乗らないままに大人になる子供は皆無ではないでしょうか。

子供は、見た目より重いです。

暴れまわる5kgか10kgの米袋(かつ繊細)のようなものです。

また、この米袋は暴れまくったと思いきや、急に寄生獣ミギーもびっくりな睡眠に入ります。

こんな物体をいつも担いで、またはおんぶして家を出てから帰り着くまで数時間抱え続けるというのは、外出するなということに等しいです。

ちなみに、同じことは車椅子を必要とする人にも言えます。

社会的に弱いものに対して心を向けるということが、初詣に行く時に必要な最低限のマナーではないかと思うのです。

ごった返していてベビーカーや車椅子が邪魔だと感じるのであれば(感じることは人間の自然な思考であるのでそう思うなと強制することはできません)、わざわざ1年365日の中で最も混み合う元日や正月三が日でははく、例えば2月中旬の世の中がチョコレートやバレンタインデーと浮かれている日などに詣れば、心の底から参拝を満喫できると思うのです。

どうも、子供づれでこんな混み合ったところに連れてくるなんて、という「批判」は、すでに子育てを経験した女性に多いようで、これも問題を複雑にしています。

代表的なものとして、「人混みがあるとわかっていて、ベビーカーで子どもを連れてくるなんて非常識だ!」というような厳しくも一見正しそうな意見です。

そのほか、

「子どもの安全を第一に考えたら、人混みは自発的に避けるべき」
「抱っこひもで十分に代用が可能」
「必要不可欠な行事ではないのだから、子どもが小さいうちくらい我慢しろ」

といったご意見です。

全て、ご意見としてはごもっともで拝聴いたします。

しかしながら、これは、「俺たちの若い頃は深夜残業なんて当たり前だYO」「宴会芸でラーメン鼻から食った」的昭和なおっさん(筆者含む)の発想に非常に似ているような気がします。

こんな不寛容な世の中であるからこそ、新生児数が1年で100万人を割るような世の中になってしまったのではないかと思うのです。

ラーメン鼻から食うくらいでは、人は死にませんが、初詣も行けないとわかってわざわざ子供を産もうとするでしょうか。

生まれてこなかった子供の数は数えることはできません。

しかしながら、厳然たる事実としまして、ラーメン鼻から食った筆者の同級生は、実に200万人を超えておりましたが、こんな結果で子供は半分に減ったわけです。

ものすごい負のスパイラルです。

かの初詣の看板についても、例えば筆者なら「正月の初詣は混雑しておりますので皆さん道を譲り合ってお参りください」的なものにしておけばよいですし、つけくわえていうならば、「初詣だけじゃなくて、朔日(ついたち)参りとか、そんなのもおつですよ」「神社は年中無休です」「2月のお参りには巫女さんのありがたい言葉つき」などと書いておけば、お客の平準化が図れてより双方ハッピーではないかと思うのです。

もちろん、初詣の看板一つで少子化問題が全て解決するわけではありませんが、日本国に強く漂うこうした「雰囲気」についてはより掘り下げて考えていきたいと思います。

かつては、「雰囲気」で取り返しのつかない大戦争に突入してしまい、なぜそうしたか、当の政府の最高首脳や軍部幹部もなんとなく始めてしまったと戦後述懐しているくらい、日本の社会において、雰囲気やその場の空気というものの力は大きいのです。

ベビーカーひとつとっても、究極的には価値観の問題ですから、何が絶対に正しいということはないわけですが、こうしたことが取りざたされる根底には、日本社会に深く根ざす、子育て世代や弱者といったマイノリティに対する不寛容さというか、不自由さというか、無用な我慢を知らず知らずのうちに強制するといった点です。

障害者にも、子育て世代にも、「普通に」接すればよいのです。

障がい者、といったり子ども、といったり、言葉尻を変えてもなんの解決にもなりません。

「普通な」人たちが「普通」と思うように、普通な人たちも歩いて参拝するわけですが、例えば歩くのなどけしからん、秒速5メートルで走れとか、階段でなくて垂直に壁を攀じ登れとかいわれたら困ります、という程度の話なのです。

話を大きく戻しますと、筆者は少子化の最大の温床は、我が国の社会構造が、子供を持てば持つほどいろいろと不自由になる社会であるということです。

子供を持つと、仕事のキャリアが途絶える、学費も高い、そもそも世間の目が気になる、不登校になったらどうしよう、親がリストラされたら?といった不安ばかりが先に立つわけです。

あらゆる行動が制約される袋小路に、わざわざ突っ込んで行く合理的な人間がいなくなった結果、とってもすっきりとした街並みに、子供の声は消えてセレモニーホールとビジネスホテルと全国チェーンの居酒屋ばかりが立ち並ぶ日本の中堅都市駅前の風景が重なります。

「子どもを産んだら、しばらくは〜くらい我慢しろ」

と、「普通の」行動を平然と制限してくるような社会では、だれも積極的に子どもを産みませんし育てたりしないのではないかと思います。

ということで、筆者は子育てしている家庭を見たら、できるだけあたたかく見守るようにしたいと思います。

昔はラーメン鼻から食いましたが、本当は永遠の17歳の筆者からは以上です。

(平成29年1月5日 木曜日)

2016年12月14日

講演や授業やセミナーやプレゼンを「早めに切り上げる」ことの効能について



おはようございます。

2016年12月の記事です。

講演会やセミナーなどで、終了時間になっても延々と話が続いていく場合がままあります。

これは聴衆個々の時間を大切にしていないということで主催者側は厳に慎まなければならないと思っています。

さらに、お誘いするお客に対して、例えば「講演会:◯◯時~」と記したような案内を配るのもいかがなものかと思います。

内容や演壇に立つ人や時間が最後まで決まらない(差し替えの可能性がある)という事情もわかりますが、せめて「終わりの時間」は記載してもらいたいと思います。

主催者側は時間を決めて、その始まりから最後までの時間を聴衆から頂くという覚悟を持って、その内容をしっかり準備するようにすべきだと思います。

そして実際の講演ですが、最初の挨拶や趣旨説明、講師紹介はできるだけ簡単にしてできるだけ早く本題に入りたいものです。

そして、予定時間より少し早く終了するというスマートさが欲しいものです。

講演の内容より、少し早く切り上げたという記憶自体が「あの講演よかったね」と評価されることになります。

私の大学時代の経験からも、時間より早く終わる講義の教授の人気は高く、いくら高名でも講義時間をオーバーしてしゃべり続ける教授の授業は人気がなかったように思います。

そもそもあまり授業自体に出ておりませんでしたが...。

しゃべりすぎる嫌いのあります筆者の反省点は以上です。

(平成28年12月14日 水曜日)

2016年11月16日

出向者に捧ぐ(2016年11月版)

おはようございます。

出向先でいつもの出勤を迎えた筆者です。

昨今、さる銀行員のテレビドラマで極端な一面が強調されたように思われる出向者という存在ですが、外部ノウハウの吸収や新しいネットワークの開拓や精神修養、多様な視点の獲得など有用な側面も実は多いです。


筆者も出向者でありますが、かのスティーブ・ジョブズが自らが創業したアップル社を追われて、そして復権して戻ってから語った言葉を噛み締めて、日々の糧にしたいと思っていますので共有したいと思います。

「その時は分からなかったが、アップル社に解雇されたことは、私の人生で起こった
最良の出来事だったと後に分かった」

「成功者であることの重さが、再び創始者になることの身軽さに置き換わったのだ」

「何事につけても不確かさは増したが、私は解放され、人生の中で最も創造的な時期を迎えた」

さらに、こう続けます。

「そうして、自分がじきに死ぬということを自覚しておくことは、これまで私が出会ってきた中で、人生で大きな決断を下す手助けになる最も重要な道具だと思った」


「ほぼすべてのこと、すべての外部からの期待、あらゆるプライド、恥や失敗に対するいかなる恐れも、死の恐怖を前にすれば消え去り本当に重要なものだけが残るからだ」

外の世界を知ることで世界が広がったという教訓を、このように明快で力強く語ってくれたのです。

確かに、何事につけても不確かさは増しますし、不安にもなりますが...。

ジョブズ自身は入学も卒業もしていない、スタンフォード大学での卒業式でのスピーチからというのも面白いと思います。

自ら作った会社に解雇されても、恨みを恩に変えて頑張り、再び復帰したこの人の話に比べれば窓際だろうが出向だろうがそんなの関係ねぇと思いました。

どこでも現場は一緒、住めば都の筆者からは以上です。

(2016年11月16日 水曜日)



2016年11月5日

お金で時間と経験を買うということ

お金を借りるということは、大企業のM&Aだけの話ではありません。

お金を借りて「動く」というのも時には大事です。

人生において勝負の時というのは間違いなくあります。

上場企業の社長が臨時ニュースで何兆円規模の会社を買収したりするニュースを見るとお金を借りて買い物するということは「時間を買うこと」なのであるということです。

ただそれは無駄な買い物であってはならないのです。

そこは買い物の共通点です。

真に必要なものであれば、少々高くても仕方ありません。

無駄なものを買ってはいけませんが、その時間の金利分を乗っけて買ったと思えば安いものです。

そういった人生の勝負の分岐点は結構多々あるものです。

ですがほとんどの普通の人はそういった勝負を意識的に避けています。


学生の頃はお金がないが時間はある、新卒になって働き始めて小金は出来たが覚えることややりたいことが多すぎて結局何もできずに過ごしてしまう。


私も、お金を借りてでもをしておけばよかったなと思うことがあります。


学生の頃、もっと旅行に行っておくべきだったということです。

若い時の旅は買ってでもせよ、若い時分に行く事にこそ効果があったのではないかと思うのです。

学生であれば少々の粗相も優しく許されたかもしれません。

このブログでもよく海外のどこにも行ったことがないと自虐的に書くこともありますが、色々な経験を積んでいればよかったと少し後悔しているのです。


お金をいざ使うべきときに使うのだというわけではなく、ただなんとなく本当にちょっとした遊興費や生活費といったあまり記憶にないことばかりにいつの間にか使ってしまうのです。

そんな、無駄遣いをして足りなくなってお金を借りてしまうのは寂しいことです。


できればやりたいことを先に出して借りて行きたいと思います。

ニューヨークに行きたいか〜というクイズ番組が大好きだった筆者からは以上です。

(平成28年11月5日 土曜日)


2016年10月30日

ボブ・ディラン、ノーベル文学賞「受け入れ」@2016年10月

毎年いろいろと物議をかもす感じもあります「ノーベル文学賞」ですが、2016年は米国のシンガー・ソングライターであるボブ・ディラン(Bob Dylan)氏(75)に授与されることが「発表」されました。

しかしながら、「発表」を受けたディラン氏側からの反応はずっと無いという状態が続いていました。

ディラン氏は2016年10月13日に音楽家としては初となるノーベル文学賞の受賞決定が発表されましたが、同賞の選考委員会であるスウェーデン・アカデミー(Swedish Academy)は、ディラン氏とまだ連絡がついていないことを明かしました。

ノーベル賞を、「辞退」すらせず「無視」となれば、それはロックを標榜するボブ・ディランらしいそりゃもう最高の態度だと好意的に見る向きもあれば、

無視は失礼だ、何にせよ反応するのが礼儀である、電話くらいとれよ、その上で辞退せよといった声までさまざまな意見が世界中で飛び交いました。

その「沈黙の騒動」の最中、ノーベル賞選考委員サイドから、「(賞について何もコメントしない)彼は無礼で失礼だ」といったコメントがなされたといった記事も配信されたようですが、

これについては、もう少し全体の意図を含んで配信した他のメディアにおいては、「無礼で無礼で傲慢だ。でもそれが彼(ボブ・ディラン)ってもんだ」と後に続く文が省略されずにきちんと引用されています。

この点、世間はより「面白く」「センセーショナルな」ものを「消費」したがるので、オリジナルのスウェーデン語を英語に訳して日本語にさらに訳すという作業の中で、いろいろと段階の中で面白いことだけが切り取られていったという可能性が強くあります。

さてようやくボブ・ディラン本人の声として、受賞を受け入れるというコメントがなされたということで、本件については、本人がそう思うのならそれが最も良いと考え筆を置きたいと思います。

家庭の平和も守れない筆者からは以上です。

(平成28年10月30日 日曜日)

家庭の平和を守ります

2016年10月25日

脳の老化を防ぐという健康法

まわりの景色が変わらなくても、それを解釈する脳の方が老いてしまえば見え方は変わってきます。

脳が老けるとはどういうことでしょうか。

特に最近の記憶減退が激しく、昨日の昼ごはんも思い出せないようになったならば、あなたも立派な脳の老化組です。


年齢を重ねるとともに物忘れが多くなったり、アイデアが浮かばなくなったりして行きます。

もちろん加齢のせいもありますが、どうもその劣化が激しいと心配になっていることはありませんでしょうか。

特に仕事を責任をもって進めなければならない30代40代50代60代のサラリーマンや自営業者のみなさんにとっては他人事では済まされない話です。

脳と体は密接につながっています。

脳も身体の一部ですから当然ですが、仕事をばりばりこなしつづけるために生活習慣の見直しを行なってみては如何でしょうか。

脳を老けさせる習慣をストップして、イキイキした脳とカラダを取り戻しましょう。

まず第一に一番良くないのが、夜の21時以降に食事を取ることです。

これは肥満防止にも大敵で、良い睡眠を妨げる一番よくない要因です。


確かに、夜中のラーメンやビールなど、ついつい口に運んでしまうものですが、21時以降は脳や体が休息を欲する時間なのです。

食べることによって、脳を始めとする内臓がひっきりなしに働くことになり、良質な睡眠休息を妨げます。

胃腸に消化しろと命ずるのも脳なのです。

ですから、ほぼ確実に脳を始めとする内蔵は休むことができずに朝にはげっそり、そして朝食も満足に取れずに体は寝たままで出社してまた夜にドカ食いするという、メタボ一直線の生活習慣となってしまいます。


これでは胃も肝臓も、もちろん脳も50歳まで持ちません。

それから、悪口を言うのもやめたほうがよいようです。


悪口は、否定的な言葉でそれを発した時にそれを最も聞くのは残念ながら自分の耳と脳です

そして、ネガティブな言葉は知らず知らずのうちに、前向きな気持ちを減退させます。それはとりもなおさず神経系を司る脳の働きに影響するのです。

脳を新鮮に保ちたいのならば、ループになりやすい怒りモードを抑えて、普段とは違う思考回路で物事を前向きに考えるようにとらえてみては如何でしょうか。


このような結果、肥満などの生活習慣病の防止にもつながり、余計な脂肪やストレスが脳にかからなくなることから、脳は健康に毎日を過ごすことができるでしょう。


さあ今晩、今日からチャレンジです。


どうしても夜中にラーメンが食べたくなってしまったら、一旦寝て早起きして食べるようにすればよいのです。

頑張りましょう。

夜中にカップラーメンとポテトチップスという黄金のコンビを食しながら、このような記事を書いた罪深い筆者からは以上です。

(2016年10月25日 火曜日未明)



2016年10月8日

コンプライアンス重視の影で(基本的なサービス提供の話)

コンプライアンス重視の影で、昨今、基本的なサービスが後ろに追いやられているように感じてならない出来事がありました。

コンビニエンスストアでお酒やタバコなどを購入する際に、店員から「年齢確認お願いします」とレジ横のタッチパネルに表示された「20歳以上ですか?」という確認ボタンを押すことを要求される、あのお約束のお作法です。

例えば、20歳未満に見えるわけもない、苦みばしった、加齢臭もしますよ的な、いわゆるいい年した管理人筆者のようなおじさんを捕まえてわざわざ20歳以上だと押せとは過剰な要求ではないのかということです。

しかし、コンビニエンスストア側のコンプライアンス重視の姿勢としては、購入しようとするお客自身に押させることで責任の所在を明らかにするというところに意味があるいうことらしいのです。

この点、あくまでお客自身に遵法意識を持って判断してもらっているので、売り手が仮に18歳の高校生にタバコを売ってしまっても、客が自分で詐欺を働いた、と責任を回避する余地があるわけです。

余地といいますか、このように客側にリスクを転嫁して余計な負担を回避するという手法は、その手間の削減分を商品単価の値下げとして還元していますという建前を聞いてもなんだか釈然としないような気がするのは筆者が昭和な時代の古い人間だからでしょうか。

この点を個別にただしたとしても、コンビニエンスストアでレジを打っている側としても、20歳以上認証キーを押してもらわないとレジが使えないようにプログラムされているので、要するに押してもらわないと次に進めないということらしいです。

そういう仕様なんです。

だから文句を言っても仕方がないのかということなのですが、では押してもらわないための対処としてコンビニ店員が「明らかに大人」とわかる場合にスキップする操作を入れたらどうなのか、という議論に対しては、「明らかに大人」という客観的な判断基準が明確でない為にその解釈でまたトラブルとなるということが懸念されるので、難しいところだという現在のコンビニエンスストア側の回答となるのでありましょう。

なるほと画一的に答えを出すことが難しく、結局すっきりする解決策が見当たらない事案ですが、ただ、コンプライアンス重視が「自ら判断しないことの推奨」、につながっていくのは少々恐ろしいことだと思いましてここに言及する次第でした。

煙草は吸わない筆者からは以上です。

(平成28年10月8日 土曜日)


2016年10月6日

新卒者は組織文化の体現者

相次ぐリストラで中高年がつらい思いをしていますが、そもそもその前提としての採用抑制で若い人材の就職の門戸も冷え切っています。

彼らにはリストラされるだけの前提環境すら与えられないのです。社会的にはみ出した状態です。国民経済的に非常に憂慮すべき問題です。

ではこの状況に個別の企業はどう対応するべきでしょうか。


ピンチはチャンスです。

今こそ優秀な新人を採用するのです。

ソニーの創業者の盛田さんも言ってました。

「不況の時は社員教育を行う」

自社のDNAを浸透させるために真っ白な新人に経営者のビジョン、社風を浸透させ、自社の「共鳴者」「推進者」へと育てていくのです。

中途に比べてすれてなく帰属意識が非常に高く転職癖がありません。


また、人を育てる風土と制度が社内に出来てきます。

即戦力の中途採用に比べて育成への責任があるため、育てていくぞという風土が中途に比べて社内に根付いていきます。

加えて社内年齢構成のいびつさも解決でき長期的な経営計画が立てやすくなります。

消費者の観点からも新卒者は時代のトレンド代弁者なのです。


いつの時代も世の中に新しい価値・商品を運んでくるのは若者であり、その若者の発想を社内に絶やさない状態にすることは、商品開発や新サービスを生み出していくには非常に重要だと捉え直すのです。

東芝の元会長の土光さんも言っていたそうです。

「採用で不採用の通知を行う方ほど丁寧に接する」

会社の評判を作るのは外部の人であるということを忘れてはいけないでしょう。

世の中は、評価より評判で回っている、と言われて育った筆者からは以上です。

(平成28年10月6日 木曜日)


2016年10月2日

仕事の実力を上げるために気をつけることを一つだけ挙げる

仕事の実力を上げるにはどうしたら良いのでしょうか。

永遠の課題のようで、実は簡単なことなのかもしれません。

確かに経験の差が仕事成果に与える影響は無視できないものがありますし、仕事の実力を図ることは難しいですが、本来年齢とは直接関係のないはずです。

ただ漫然と仕事を続けるのではなく、意識づけが大切だということになります。

特に若いと言われてしまう20代のビジネスパーソン(社会人の世界は下は10代から上は80歳くらいまでが平気で同居する世界)の場合、まだ実務経験が少ないことでしょう。

そこで、先輩社員に後れを取ってしまう場合もあると思います。

その差を埋めていくには先輩や同僚とは違った視点の小さな努力が必要となります。

一番は仕事を貰ったら小さなことほどすぐ取り組んで、締切り期日時間より早く仕事を仕上げてしまうことです。

スピードや経験で不足していても、いつから仕事を始めるかは自らで決められます。


いくらでも先行スタートすればいいのです。

すぐとりかかる癖をつけましょう。

いつまでにやってほしいと言われた期限より自らの中で決めた期限で完了し仕上げて持っていけば、間違いなく「仕事が早い」と言われるようになります。


本当は「仕事を早く始めただけ」かもしれないのですが、人はどれだけの時間をかけたのではなくいつ仕上げたのかを評価の対象にします。

締切を意識するのではなくいつ始めるのかを意識しましょう。

締め切りは変えられませんが、いつ始めるかは自分で決められます。

できるだけ、自身の意思や行動とは関係ないことでいちいち悩まない、気にせず自分のできることにフォーカスして全力を投入するほうが人生うまくいくようです。

そして、仕上げに至るプロセスやストーリーを大事にするのです。

細かい作業まできっちりと完了しているという進捗報告を入れておくことで、上司同僚からの評価は格段に違ってきます。

進捗しているということで上司も安心します。

やってますというアピールではなく、やったことの完了を簡潔にスマートに決めたいものです。

つまり、仕事が来たらすぐとりかかってみる、ということに尽きると思います。

すぐ飲んでしまう筆者からは以上です。

(平成28年10月2日 日曜日)


エベレスト

2016年9月25日

「落ちてくるナイフに手を出すな」という投資の有名な格言について




おはようございます。

2016年9月の記事です。

相場の格言で、最も有名なものの一つだと思います。

落ちてくるナイフに手を出すな、と言います。

下落相場で戒められる相場格言です。

特にアメリカのウォール街にはこうした格言がたくさんあります。

暴落相場を頻繁に経験している国民性から、そういった相場のときにはむやみに手を出すなということだと思います。

しかし、落ちたナイフは拾うな、とは言っていません。

むしろ、下げきった相場で買いを入れることができるのが本当のプロです。

逆にその時までに、変に投資してしまっており含み損を抱えて身動き取れない状況になっているのが筆者を含めた素人投資家の行動パターンです。

プロはじっと手を出さず、手持ちのキャッシュを大事に待っています。

落ちてくるナイフに対しては、切れて怪我するリスクを犯さず手を出さず、落ちてしまったナイフを床から拾い上げるようにこっそりしっかりと買いを入れる。これが投資の極意です。

証券会社の片隅で、長期的な投資家がそろそろと大金を運び込み、買い場を慎重に見極めているようでもあります。

今の状況、特に日本株については潰れなければ割安と映る向きは非常に多いです。ファンダメンタルズ(経済条件)も、チャート(相場の動き)も、すべては投資する人の解釈次第。

拾い食い状態だと感じるか、まだまだ落ちていくナイフだと思うか、すべて自由です。

自らのリスク許容範囲をしっかり認識して、さあ投資の世界に乗りだそうではありませんか。

特にタンス預金に溜め込んでいるご高齢者の皆さん、資金は経済の表舞台に出して、消費と雇用をアップさせましょう。

それが日本経済再生の、最高の処方箋です。

零細投資家からの主張は以上です。

(平成28年9月25日 日曜日)

2016年9月24日

組織内が3:20:50:27に分かれるという法則があるということで書いてみた雑談です




おはようございます。

2016年9月の記事です。

組織における「3:20:50:27の法則」というのがあります。

これは法則ですから、価値判断は横に置いておいて、全ての集団の構成員のある尺度の優劣は自然にこの割合に収斂されていくというものです。

もともと、働きアリのうち、一部しかよく働かず他にはぶらぶらしているだけのアリも多くいるという動物集団学から出てきた概念ですが、人間社会にも実に応用が効くものです。

面白いのは、例えば1,000匹のアリで、超よく働く30匹、よく働く200匹、適当に流す500匹、ぶらぶらしているだけで何にも働いていない270匹に分類される場合、その超よく働く30匹だけを選定しても、結局その集団の中では3:20:50:27の法則に分かれていってしまうということなのです。

つまり、30匹の中でさらに続けて超よく働くのは1匹いるかいないかということになります。

実に半分の15匹が、そのカテゴリの中では適当に流す部類になるのです。

例えば、高校野球や社会人野球、大学野球からの超エリートをドラフトで取っていくプロ野球にしても、年俸1億円超えの一流選手を仮に3%圏内とするならば、かなりの数が(27%程度は)毎年戦力外通告もしくは育成契約もしくは引退、自由契約として、その業界カテゴリから外れていきます。

一流の3%をさらに細かく見ても、その中の更に一流どころはメジャーリーグに行ったり最多勝や最高打率をたたき出し、年俸5億円を超えたり、投打二刀流で連覇中の日本一チームをペナント首位から叩き落としたりします。

サッカーでも、海外のメジャー系(ヨーロッパ強豪国の国内リーグ)に移籍するポテンシャルを持つものを3%とすると、国内Jリーグでの一流選手として20%、といった具合です。

繰り返しますが、これは法則ですから、あるカテゴリでの自分の今現在の位置を責めよ、というわけではないのです。

大事なのは、自分がそこからどう行きたいか、カテゴリを変えるのか同カテゴリで上を目指して努力するのか、そういったストーリー性をもった自分自身の挑戦を続けてほしいということなのです。

J1だけではなくJ2もありますし、J3もできました。

このサッカーのディビジョン制度は、上記法則を肌でよくわかっている人たちが作ったシステムだと改めて思うのです。

その点、野球のNPBは遅れています。

誰だって年も取るし競技上の衰えも来るし若い時にはプレーに荒削りな部分もあるでしょう。

こうした伸びしろや経験のある選手を、一気に自由契約にするしか策がないという日本のプロ野球界の硬直性は、(育成制度はあるにせよ)もう少し解消できないものでしょうかと思います。

そして、サッカーでも10部以上あるイングランドやブラジルといった社会の奥の深さを見るにつけ、日本のスポーツ文化はまだまだだと思うのです。

社会人10部で適当に流している筆者からは以上です。

(平成28年9月24日 土曜日)

2016年9月19日

評価より評判を大切にしたいと思うようになってきたという話です







おはようございます。

2017年9月の記事です。

「評価より評判を大事にしたい」

これが楽しく仕事を続けるコツだと最近よく思います。

評価とはシンドイものです。

される方もしんどいですが、する方がよりしんどいです。

なので、できるだけその評価タイミングを粗くしようとします。

半年に1回よりは1年に1回。

1年に1回、昇進昇格の評定会議は非常に大変なものです。

会社の昇進されることのできる人員予算は最初から決まっており、その予定(予算)に向かって何人を上げるか推薦し、他を蹴落とし評価するという性格をどうしても持つものだからです。

1年に1回のアピールの場。

このように「評価」というものは、自分ではどうしようもない部分にかなりの自分の人生を預けることにつながるので、少しだけ距離をおいても良いと思います。





評判は日々付いて回る





一方、評判は違います。

評判は常に、どんな小さいことでも、人に見られて生成していきます。

評価がある一定の期間をまとめてなされるのに対し、評判は常に、〜ing形で進行していきます。

評判は、上司や経営者といった、その人の待遇や地位を決めないといけない人しかできない類のものではありません。

だれでも無意識に、そして意識的に評判を作り出していきますし、その評判から逃れることもできません。

誰も見ていないところで、自らの信ずるところによって行動しているか、この一点に評判はかかっていると言ってもよいでしょう。

考えてもみてください。

誰がABCD昇進降格どの評価なのかなどといったことに、実は他人はあまり興味を持ちません。

評価は一時のものなのです。

しかし、評判は常にその人の人格としてついて回るのです。

評価されなかった、という不満は持っても、評判が悪くなった、ということを人のせいにはできないのです。

評判が上がるのも、下がるのも、全てはその人の意思と行動次第であるからです。

全ては自分次第。

評価より評判です。

働き者だと評判だったおばあちゃんから昔聞いた話は以上です。

(平成28年9月19日 月曜日 敬老の日)