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2018年9月2日

外側に責任を求める他責思考と内側に責任を求める自責思考について書いておきます






おはようございます。

2018年9月の困難と自己啓発に関する配信記事です。

昔あった松下電器という会社の創始者の松下幸之助と言う人は、経営の神様などと呼ばれましたが、もっとも優れていたのはその人心掌握術であったろうと思うのです。

もうだいぶ前の話になりますが、当時大阪に本拠を構える松下電器のグループ会社に松下伝送というファクシミリを開発し始めた会社が東京にありました。

その松下電送の当時の社長であった、木野親之氏が松下幸之助氏から突然呼ばれて、

「すわ何事か?」と大阪の松下電器本社をたずねました。

幸之助氏は、何か困ったことがあるのかという質問をされましたが、その言いたかったこととして、外部環境でいくら困っても、自分の心が困ってはいかんよ、という意味を込めて、「困っても困ったらあかんで」と短く伝えたそうです。

松下電送の木野社長は(この人は、松下電器を参考にした漫画「島耕作」シリーズでも前社長として描かれています)、それを聞いて、どんなに開発の環境が厳しくても、他人や環境が厳しいのは外の話で、それを進める自分の気持ちが曇ってはいけない、と思い直し、心晴れ晴れと困難なファクシミリ開発に打ち込んだそうです。

部下にもグループ総帥である幸之助氏のこの教えを伝え、そうして木野さんはこのことを自著で紹介して、こうして筆者のような時代が下ったものであってもこうしたエピソードを語ることができるというわけです。

「他人や環境のせいにしない」

というのは非常に大切な心構えです。

「他人や環境という外の現象面と自分の心は別物であり、いかにしんどい環境に置かれたとしても、それに振りまわされたらあかん」

ということなのです。

困ると思えばますます八方塞がりになりますが、よし困らないぞと腹をくくれば、実際そこから解決していくための道もなんとなく見えてくるものです。

死ぬこと以外はかすり傷、という言葉もありますように、むしろ生きている実感を味わえるまたとない機会と捉えて、苦闘を機会に、ピンチをチャンスに変えて行きたいものです。

わざわざ東京から大阪に来るように、と伝えて直接会って短く成功者の真髄を教えた松下幸之助氏、そしてこれに応えた木野社長、これこそ、机上のお勉強だけではなく人の心を読み切った彼ら一流の経営哲学と実践の姿でありましょう。

困っても困らないようにしたいです。

いろいろと、困ってしまって八方塞がりの筆者からの自責の記事は以上です。

(平成30年9月2日 日曜日)

2018年8月17日

山中3日間を一人で待った2歳男児を78歳のボランティア男性が救い出したという凄い話です







おはようございます。

2018年8月の、この上ない、いい記事を配信させていただきます。

既に大手メディアも報じていますけれども、こうした素晴らしい生きざまを見せている人間がいるということを伝えるのは、どれだけ零細媒体であろうが正しく報道、紹介、記事にすることが責務と考えておりますので、できるだけありのままに率直に、後世に長く残るように記録しておきたいと思います。

ご覧ください。

山口県周防大島町で、2018年8月12日から行方不明になっていた2歳の男の子である藤本理稀(よしき)ちゃんが、同年8月15日の早朝に、無事に保護されたのです。

発見したのは、なんと捜索のために単身大分県日出町から軽自動車を駆ってやってきたボランティアの尾畠春夫(おばたはるお)さん(78歳)です。

尾畠さんは、家族に失踪当時の状況をヒアリングした後、警察の捜索が始まる午前7時を待たずに一人山中に入り、そしてたった20分ほどで本人を発見し、抱いて連れ帰り、家族に直接引き渡しました。

この捜索前に、尾畠さんから直接話を聞くことができていた大手メディアの記者とのやりとりによると、尾畠さんは、大分県から来たと聞いた記者から「なぜ大島に?」と質問されると「(男の子を)探しに来たんです。幼い子供の命を助けてあげたいなーと思って」と涙声になりました。

「大分県からわざわざ?」という問いかけにも「わざわざじゃないですよ。日本人だから。言葉が通じるから私は日本中どこでも行きます」と答えています。

リュックから新聞を取り出し、男の子はまだ見つかっていないというから、気になって、と答えています。

全て、公開資料から情報を得ています。

凄いことです。

まったく自然で、ひとつの無駄もありません。

改めて驚くことにこれは、見つける前の映像なのです。

筆者も見ましたが軽装リュックに必要な防災器具をきっちり詰め込んだ、本当に考えられた装備で驚きました。

そして、「人間、特に子供っていうのは、下に下りるよりも上に上がるほうが好きだから」と言い残し、ひとりで家の北側にある山を700メートルほど登っていき、20分ほどで男の子の発見にいたりました。

実に3日間にわたり、警察を中心とした160人体制での付近を捜索がなされている中、これまでのボランティアの現場での経験を生かし、ここだと定めて入っていくその姿と胆力そして保護の結果に、日本中が驚きました。

そんな物凄い成果をもってしても、尾畠さんの態度は発見前と何も変わらず、捜索や保護の様子を警察や報道各社に的確に伝えていました。

そして、2016年末に大分県で行方不明になった女児の捜索ボランティアにも参加しその時の発見の経験が今回の捜索で生かされたことを明らかにしたのです。

まさに、現場での経験が生きたのです。

そうして報道各社のインタビューに対しては簡単に「小さな命が助かったと思った。本当にうれしかった。助かってよかった、助かってよかった。ただそれだけ」と語ったのみでした。

ボランティアとは、寝るところも食べるものも、自分で用意するもので被災地や困っている現場には負担や迷惑をかけない、その態度と仕切りをきっちり守っている尾畠さんは、お礼に家の中でもてなそうとする救出男児の家族のたっての誘いにも、ボランティアという矜持からという理由できちんと断りを入れて、16時には急遽用意された警察からの感謝状の授与を受け、その日の夜には乗って来た軽自動車を駆って颯爽と帰って行きました。

男児を探しに山中に入った、その時と同じ防災リュック姿のままです。

一旦大分の自宅に戻って装備をまた整え、そして次の日からまた広島呉市の豪雨被災の現場でボランティアをやるそうです。

尾畠さんは大分の別府市で鮮魚店をやっていましたが、65歳の誕生日を機にすぱっと引退して、そして残りの人生を、お世話になった人への恩返しをしたいということでボランティアに定めて、全国各地を車中泊しながら各地の被災地を巡ってボランティア活動を行なっておられます。

大手メディアがこの尾畠さんのこうした軌跡を報道する中で、特に目立ったのが、全国各地の被災地の社会福祉協議会の事務局長といった人々が、尾畠さんといえば、というエピソードを、これでもかと話している様子でした。

まさに、記憶に残るお人です。

私、高校登山部出身だけどこの方の域には到底かなわないです。

しかし、同じ人間心構えさえあればここまでの高みに行けるものなのだと大きな衝撃を受けました。

行方不明になってから68時間、夜は真っ暗な山中で待ち続けた2歳児もよく頑張りました。

そういうわけで、このように記録ではなく記憶に残る人たちがいるということを、人間捨てたもんじゃないなと感じたことを、零細メディアですがきちんと記録に残しておきたいと思います。

こちらからは以上です。

(平成30年8月17日 金曜日)

2018年7月21日

トップはソリューションを提示するのではなく未来の話をしなければならないと思う








おはようございます。

2018年7月の暑い暑い日本列島に対して暑苦しいことを語る配信記事です。

エアコン(冷房機)がなければ、日中は集中して勉強するどころの話ではないようになってきた気がします。

さて、小中学校に早くエアコンを導入してもらいたいというところについてはもちろん同意いただいたのですが、それで教育長が自分の部屋のエアコン止めて、さらになり変わった筆者が校庭で青空勤務(スーツにネクタイ)をしたところで、それが実際に何になるのか、または教育長自体が同様に暑さに苦しめば、教育行政自体の効率が下がってしまうのではないかという至極真っ当なご質問を賜りましたので、その返答というか自らの考えを述べておこうと思って筆を取りました。

もちろん、当該教育行政遂行に責任を持つ行政組織の長として、行政判断の「正統性」を担保するには、短期的に業務効率を下げてでも民衆と一緒に苦しみを分かち合うことがやはり必要なのか、といった議論が成り立つ余地もございますが、ここは筆者はより達観した、というか諦念のような感情を持っています。

筆者のような昭和生まれの無駄な40数年間を生きてきました者の観点から申し上げますのは、甚だ僭越ではございますが、現在の硬直した行政組織において、本当に市長や教育長のイニシアチブが発揮されるような場面は極めて少なくなっているのではないのかと「達観」しており、その点においては(私は先に申し上げた通りもはや立派な昭和生まれのおっさんですので)「諦念」に近いものも持っております。

なぜかと申しますと、一例を挙げますれば、国会議員削減しますとあれだけ大見得を切って、当の国会で公党の長として「宣言」しておきながら、なぜか人口減少が顕著になってきた数年後には逆に参議院議員が増えてしまうという面白い国になっているこの世の中、いくら民主主義で平等を標榜しても、どうしても選挙に行く暇のあるシニア層に寄った政策しかなされない、さらに言えば選挙権のない子供を本当の意味で顧みる政治家や行政官が、そのトップ層にどれだけいるか、はなはだ疑問であります。

そんなことを続けているので、人は子供を作らなくなり、子供は減り続け、生まれてこなかった国民にはもちろん選挙権も、請願も要求もできずに年だけ食うおっさんおばさん達が過去の蓄積をくいちらかすだけの国に実際になってきているようで悲しいです。

生まれてこなかった国民は、何も言うことができないのです。

そこは、かなり強く許せないなと思っているのです。

トップにとって大切なのは、姿勢を見せて、方針を示し、そして起こった結果に責任を負う、ということです。

自ら動いて何か作業をする、ということはもはやできない、その意味では大変不自由な存在であり、その極致におられるのが、日本においては、世界で最も権威の高い(ローマ法王と同格か高いくらい)天皇陛下、ということになります、というのが私の考えです。

だから、庶民に対してその姿勢だけでも見せろといいたい、というのが私の意見です。

加えて、教育行政に業務効率を求める、というのは何だかな、と思ってしまいます。

もし効率をきちんと求めるのであれば、速攻議会はオンラインになっているはずだし、選挙は電子選挙になっているはずではありませんでしょうか。

電子政府で運営されているエストニアのような国を見れば、それができない理由はないことは明白だと私は思っています。

議論はチャットで十分で、かつその議論の履歴が検索できるようになっていれば全く問題ないと思うのに、そうなっていない、授業も同じ内容であるならば多くを有名講師のタブレット配信動画授業にすれば良いはずなのに、その方が教育の衡平に資すると考えることもできるのに、受験産業以外がなかなかそうなっていないのは、そうなったら困る人が多く政治の世界や官僚組織におられるからではないでしょうか。

そうした、本当の意味で効率化を考えていない組織が、自らの組織防衛のために、業務効率化だの働き方改革だと叫ぶのは、たいへん面白く聞こえますし、こうした本当は業務効率化などやる気のないのではないかという「予断」を持って読む人にとっては、これも別の受け止め方がされるのではないかと思っています。

以上、行間のお話でした。

また、例えば、日本の教育行政のトップにいる人が、そのまま自分のご子息を、全国に数少ない大学医学部に裏口入学させるとか、そのまんまギャグ漫画に出てきそうなことが明るみになる世の中になっております。

人の上に立つ者は、その力をどのように使うか高い倫理性が求められますが、なかなか難しいようです。

筆者は大した人間ではないと自負していますが、ここまで心を堕としたくはないなと激しく思うものです。

トップがソリューションを提示する時代は終わったと思っています。

そういうのはチャットやSNSなどで簡単に集まる皆の集合知とAI(人工知能)が「考える」というか「提示する」という世の中になります。

トップは、未来の話をしなければなりません。

自分が死んだ後の世界の話を。

暑い季節に暑苦しい話で失礼いたしました。

こちらからは以上です。

(平成30年7月21日 土曜日)

2018年6月28日

国語というものを初等教育から高等教育まで教えるのはなぜかという話をします







おはようございます。

2018年6月の教育に関する国語という科目に関する配信記事です。

最近旗色が悪いように感じる、文系の筆者です。

国語の指導や勉強方法について、悩むことが多いです。

自分自身は本をよく読む方ですし、このような形で駄文を書くのも好きなので、国語は得意になりましたが、どうも他人に国語を教えるとはどういうことか、実のところよくわかっていないのです。

しかし、国語とは、母国語を駆使し、算数や理科、数学や物理化学といったいわゆる専門専攻知識を身につけるための大きな土台になるものであることは間違いありません。

物事を、頭ではなくて身体全体で感じることができる感受性や、他者との関わりの中で自分の立ち位置と自分のやりたいことを定めることができる決断力や、他人を尊重する共感力といった「感覚」を養う、学問の前の人格形成に大変大切な基本の科目なのかもしれません。

計算問題をときまくったり、漢字の書き取りをひたすらこなすというような、数をこなすというアプローチではだめです。

合理的に、定理を定めて演繹的に考えるという、数学的思考でも難しいです。

それが、国語という根源的な人間の疑問に向き合う、非常に原理的な学問であるゆえんだと思います。

国語力が人格力であると考えられる以上、国語力を高めるとは、教える側が心を込めてその想いを注ぎ込むだけです。

これは、甘やかすということではありません。

心ないことをしたり放り出そうものなら本気で怒る、叱る、そしてがんばった時は手放しで褒める、そしていろいろな対話や体験を一緒にやる、まさに松下村塾のような心のやり取りを行うことで、国語という科目の力は急激に伸びます。

そして、そんな誰でもできることで、誰もが続けてできないこと、その心の入った指導ができる指導者に出会えたら、それは学習者として大変幸運であると言えましょう。

情熱を持って接する、これは社会人になっても大学生になってもとても大切なファクターで、結局人は人によってしか動かされないということなのです。

ビッグデータや人工知能によって人個人個人が動かされることではなく、心を添わせてどれだけ共感したか、そういうところに教育の真髄があるような気がします。

こうした教育に触れて自己啓発できている生徒の答案は、他とは全く違ったものに仕上がり、読む者を感動させます。

時々、新聞の懸賞作文にそのような文章が載ることがありますが、かつて見た、小学生の作文で、病院から戻ったお母さんが作る料理の味がおかしくなってしまった(おそらく抗がん剤のような強い薬の投与から来ている味覚障害)から自分がお母さんの舌の代わりを申し出て一緒にご飯をつくる、という作文がありまして、このような泣ける、素晴らしい、熱量のこもった文章を作れる人間はきっと深い洞察ができるはすであると刮目したものです。

これが、国語という科目がある理由であり、この科目の特異なところであって、独自なところで、代えのきかないところだと思います。

しかしながら、必要以上におだててしまうのは逆効果です。

いわゆる学習者が、なんかご褒美や、砂糖を舐めさせてくれないと頑張れない、といった、いわば心の虫歯にならないようにしなければなりません。

学ぶ理由は自分自身で見つけ出す、定めることができる。

これが、生徒や児童それぞれに、オリジナルな大切な価値観が芽生えるために非常に大切なプロセスだと思います。

他人(の成績)との比較ではなく、自分基準で自己評価して、前に進むことができる。

こうして自ら立った人間を、大いに認めることが、真の自立心を育てることになると、本当に自分を大切にすることにつながるのであるということを伝えることが、国語という科目を教えるにあたって最も大切なことであると思っています。

一生懸命受験勉強して入った高校や大学で、もしくは一生懸命面接対策やセミナーをこなして入った憧れの会社で、その中でその者が輝くのかどうか、それは本気で自分自身のことを考えてきたか、それによるところが大きいと思います。

国語という科目の話を超えた、人格形成の話になりましたが、ここで終わります。

こちらからは以上です。

(平成30年6月28日

2018年5月5日

何はさておき目標設定と心構えが大切だという話を改めてしておきます






おはようございます。

2018年5月の勉強に関する配信記事です。

例えば身近な大学入試という試験に対する心構えを例に話します。

毎年東大合格者を輩出している塾や予備校があるとします。

しかしながら、別に自分には東大とか医学部とか関係ないし、レベルが違いすぎて関係ないとか、都会の高校と地方の高校とでは講義のレベルも生徒の練度も違うから、一緒くたにするのは間違っているといった意見が聞こえてきます。

これは、生徒それぞれの実情に寄り添って考えてあげているようで、全くそうではない御都合主義の考え方であると筆者などは思うのです。

確かに、東大や医学部に現役合格を目指す場合と、いわゆる中堅どころの大学とを目指す場合とで、勉強する「内容自体」が異なることは当然だと思います。

しかしながら、その勉強する「内容」を別にして、その勉強に向かう前向きな「心構え」や「目標設定」、「勉強する内容」についてはほぼ全く変わりはないと断言できます。

これは、勉学ではない例えば野球で甲子園を目指す、ラグビーで花園を目指す、サッカーで国立競技場を目指すといった場合においても、それぞれの高校において目指すところが、全国制覇であったり甲子園出場であったり県大会出場であったり一回戦突破であったりすることはありましょうが、こうして設定された目標に対する心構えや具体的練習にはほとんど差がないということと一緒だと思うのです。

これまで地区大会で一勝もできていなかった野球部が、地区予選一勝を目指す、そのための練習や心構えと、全国制覇(もしかしたら二連覇かも)を目指す野球部のそれでは、やる内容は段違いかもしれませんが、やるときの心構えや具体的練習メニューについて、それほどの違いはないということです。

つまり、自ら設定した「高い」目標に対して本気に取り組むことが大切なのであって、志望や目標を自ら下げて安心しようとするような連中は、その下げた目標達成すら、死に物狂いで頑張って目指している大勢のライバルに飲み込まれることは目に見えていると思うのです。

昔、商業高校しかなかった地方の島から、商業高校出て東京の大学に行きたいと希望した子供がいたそうです。

子沢山だったその家庭では、親がその学費を出せなかったので、兄や姉(当然大学出てない)がお金を工面して、その子を東京の大学に行かせてあげたそうです。

その行った大学が、偏差値的に東大に遥かに達しない場合であったとしても、田舎の島の商業高校卒の受験生がどれだけ頑張ったか、それは東大や医学部が第一志望の生徒と同じくらい、いやそれ以上に、必死に頑張ったはずなのです。

自分は行っていない大学の学費を、兄や姉が稼いで弟に出してあげる。

そんな大切なお金を出してもらった弟が、必死に勉強しないはずはないでしょう。

このような本気で取り組む姿勢を見せているライバルの横で、「このくらいの目標なら大丈夫だろう」などとナメてかかる者が勝てると思う方がおかしいと思うわけです。

自分の定めた目標は、自分にとっての東大でありましょう。

どんな目標でも、安易な姿勢で合格できるほど、世間は甘くないということです。

勉強に限らず、仕事やそのほかの本気な世界においてはなおさら、そういった内に秘めた強い姿勢を持って当たって欲しいと思います。

自分の父親は偉かった、という話を回りくどく書いてみました筆者からのコラムは以上です。

(平成30年5月5日 こどもの日 土曜日)

2018年3月18日

コミュニケーションに障害を設けないようにしないと事業が進まないという話です





おはようございます。

2018年3月の火星旅行を夢見る事業家に見る企業経営の考え方に関する配信記事です。

「できることなら、火星で死にたいね」

と公言する世界的企業家であるイーロン・マスク氏が、電気自動車や自動運転車を展開しているテスラグループの社内向けに出した書簡がとても興味深かったので紹介します。

ちなみに、イーロン・マスク氏は、電子決済の先駆けであるPayPalの創立者で、宇宙ロケットの推進部分を再利用することで打ち上げコストを画期的に下げたスペースXや、最近の世界的なEV・自動運転のブームを作り出したテスラの創業者です。

それでも、次々に新しい事業領域を破壊的に開拓して、突き進む企業家であることをやめていません。

むしろ加速しています。

そうして、今は、人工知能の会社を立ち上げて、ついでに火星に行くことを公言しています。

そんなイーロン・マスク氏は言います。

企業内での情報の流れには大きく2つあると思う。

で、これまでのところ最も一般的なやり方は、すでにある指揮命令系統に従う方法です。

つまりこうです。

あなたは常に上司に指示を仰ぎます。

上司から伝達された業務命令を遂行します。

判断が必要な状況になったら、また上司の指示を仰ぐのです。

はい、この方法の問題点は、上司の力を強化するだけで、会社のためにならないということです。

問題が発生した場合はその部門の人が関係部門の人と話し、正しい行動を起こして迅速に解決するのが一番早いです。

にもかかわらず、指揮命令系統の下では、人々はまず上司に報告せねばならず、その上司がそのまた上司に報告して、その上司の上司が他部署の管理職に相談し、その管理職が部下に相談するといった回りくどい流れをとります。

その後、もう一度同じ経路を逆流し情報が伝えられます。

こんなバカなことがあるか、即刻やめろ。

当社ではこうです。

誰にメールしても会話しても構わないし、すべきです。

企業全体と自身の利益(自分の昇給とか評価とかキャリアップとか名誉とかなんでも)のために、自分が考える最速の解決方法をとるべきです。

上司の許可なく上司の上司に相談しても全く構わないし、別の部門のトップに直接相談してもいいし、イーロン・マスクCEOに相談してもらっても問題ありません。

誰かと話すことに誰かの許可は要らないのです。

さらに、課題解決のために、自分にその義務が常にあると考えるべきだ、ということです。

これは、どの企業や組織体についても当てはまることです。

本来、案件を高速で確実に成果に結びつけるために企画された組織が、組織自身の自己保身のために情報を統制しだすと、ろくなことはおころないのです。

いつも、問題を解決するのは新鮮で機微にとんだ、知性であることは間違いなく、組織の管理職と言われる人々が一番に注意しなければならないのは、このように企業は縦割り組織の弊害に常に晒されており、常に巻き起こる精神的な壁を壊し続けて、率直なコミュニケーションを続けていかなければならないということなのです。

ということで、率直なコミュニケーションを続けていかないといけないという話でした。

「できることなら、稼いで死にたい」ところですが、なかなか稼げない筆者からは以上です。

(平成30年3月18日 日曜日)

2018年3月13日

手作りでICO(トークンイベントによる地域通貨発行)をやってみようという話です





おはようございます。

2018年3月の仮想通貨界隈に関する配信記事です。

記事に入る前に、筆者もコインチェックからの連絡通り、奪われた仮想通貨XEM(ネム)をJPY(日本円)に兌換した代わり金を受領いたしましたので、ここに謹んでご報告いたします。

何事も、理論より実践ということで買ってみた仮想通貨ですが、いきなりの電子強盗事件、そしてコインチェック等の仮想通貨取扱業者への一斉行政処分といった激しい動きを経て、どうやって調達したのかは不明ながら一応代わり金の現金(日本円)が戻ってきたということで非常に面白い経験となりました。

これで、一旦全損したと思ったお金が戻ってきたので、周囲の人と一緒に飲みにでも行ってこようと思います。

さて、このように、既存の法定通貨(JPYとかUSDとか)に兌換できる仕組みにした場合、そのような仮想通貨を取り扱う業者は、仮想通貨業者として当局(金融庁)の監督を受けるということになりますが、保育園幼稚園町内会バザーの紙のお金や、家で親に渡す肩たたき券といった法定通貨に紐つかないトークン(厳密には通貨ではないのでコインとか呼ばない)については、物々交換の一形態なので特に問題になることはなく、発行もしやすかろうという話になります。

具体的には、例えば千円単位で払い込んでもらい、その対価としてかまぼこ板のようなものを1枚渡します(通常の1枚千円の売買契約です)。

一般のかまぼこ板とは違って、一応発行体の「刻印」のようなものを付しておきます。

これで、単なる木札とは違った立派なトークン(いわゆる地域通貨)となります。

この木札、何に使えるかというのはオープンリソースですからその時点(発行時点)では何も決まっていません。

決まっていないけれども、その後その木札面白いね、と考える複数の人々がそれを媒介とした財・サービスを後から考えていきます。

例えば、

・会議室を借りるには1木札
・焼肉食べさせてあげるから3木札くれ
・マッサージしてあげるから3木札で支払って

といったサービスが付いてきた場合、木札でしか支払わない、となればどこかしらから木札を調達しないといけないわけです。

木札の調達手段は大きく2つです。

・持っている人から買うなり自分でサービス提供して引き取る
・発行体のトークンセールに参加して木札をもらう

ということになります。

この場合、最初の1枚1,000円というレートはしばらくは固定でしょうが、だんだん市場参加者が増えてくると、変動してくるでしょう。

しかし、この木札システムの管理にはコストがかかります。

ある一定期間ごとに、木札を誰が持っているかといった元帳管理を誰かが(もしくはみんなで)行わないといけないのが面倒なわけです。

でも、このトークンエコノミーを「面白い」と感じて、わざわざ効率化の極地にあるJPY(日本円)での決済を「あえて」やらずに面倒な木札決済という、決済コストも管理コストもかかることをわざわざやるという経済圏が小さいながら確立すれば、これはもう自立経済圏としての明らかな息吹なわけです。

とても、面白いと思いませんか。

ということで、木札エコノミーが始まったら、1,000円くらいは図書カードかクオカードで投げ銭してみようかと考えております、昔はビックリマンシールを元気一杯集めていた筆者からの妄想は以上です。

(平成30年3月13日 火曜日)

2018年3月6日

満足感や達成感は努力のプロセスそのものにあり結果にあるのではないという話





おはようございます。

2018年3月の納得感に関する配信記事です。

満足感や達成感、納得感は、努力のプロセスそのものにあるのであって、決して結果にあるのではないという話をします。

充足感は努力そのものの中にあるということは、かのインドという多民族多階級の複雑社会であるインドの光となった偉大な政治家マハトマ・ガンジーも言った言葉です。

ちなみに、マハトマとは、サンスクリット語(南アジアおよび東南アジアにおいて用いられた古代語であるが、文学、哲学、学術、宗教などの分野で広く用いられ、ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語でもあり、現在もその権威は大きく、現代インド公用語22のうちの一つでもある)で、「偉大」を意味する「マハー」と「魂」を意味する「アートマン」を合わせた、「偉大な魂」を意味する尊称です。

最初から、マハトマ・ガンジーさんという人がいたわけではありません。

ガンジーさん(こちらは本名)が、インド独立の運動を粘り強く行ったプロセスに感嘆したインドの人々が、彼にこの尊称を贈ったわけです。

努力することが成功することそのものであるということでしょう。

結果を求めるための目標を設定することは大変重要です。

しかし、一旦定めた目標に向かって具体的なアクションを行わなければ、目標はただの絵に描いた餅となってそのままです。

ただ、その目標に向かって行った具体的な努力や過程や実践は、目標それ自体が達成に至らなくても、その人の血となり肉となり経験となり、その後の人生において非常に重要な指針やよりどころとなるのです。

そうしたよりどころのようなものを言い換えて、達成感とか納得感とか満足感と呼ぶのかもしれません。

究極的には、達成されない目標であっても、そこに向かって努力した軌跡は残る。

ただし、努力を始めるには目標(望ましい結果)を定めなければならない。

こういったところでしょうか。

結果が結果として成就するか成就しないかはさほど重要ではないが、結果(目標)を定めてそこに向かった具体的なアクションを始めることは超重要、と言い換えることもできます。

プロスポーツ(アマチュアスポーツであるオリンピックもここでは含む)やビジネスといった世界では、よく結果が全てといった言われ方がなされます。

しかしながら、この結果に向かった個々のアスリートやビジネスパーソンの努力のプロセスは、それぞれの人生にかけがえのない糧となってその人たちとその人たちの周りの人生を豊かにするのでしょう。

正しいプロセスを積み重ねるということが大切です。

たとえ、競技で金メダルに輝いたとしても、ドーピングというプロセスを経ていた場合は剥奪されるように、そのプロセスは誰もが納得できる公明正大であることが求められます。

試験ならばカンニングはしない。

競技ならドーピングはしない。

結果にこだわる姿勢は、「より目標をクリアにイメージして、これから踏み出す具体的な努力の一歩を明確にするため」に使いたいものです。

日本銀行、日本開発銀行、日本郵船、東京三菱銀行(当時)、三和銀行(当時)…。

かつて、当職が就職面接に落ちた会社たちです。

どう社会人として働くのか、何を目指すのかといったことを考えるためにも、こうした機会は大変重要でありました。

これが、結果それ自体がそんなに重要ではないという筆者なりの根拠です。

ここまで書いてもなお、楽してお金を稼ぐ結果が欲しいと思ってしまう煩悩な筆者からは以上です。

(平成30年3月6日 火曜日)

2017年11月5日

修羅場や本番をくぐるからこそ人は本当の意味で成長するものだという話




おはようございます。

2017年11月の記事です。

弱い野球チームがあったとして、一番強くしようとする方法はなんでしょうか。

やっぱり本番の試合に出すということだと思うのです。

本番でテストするというのは相手チームにとっても失礼かもしれないのですが、やはり、野球というゲームがどういうことを目的にしているゲームで、どのように振る舞えば得点し、失点を防いで勝つことができるのかというのが本番を通じればよくわかるというものです。

甲子園での高校野球のチームが、一戦一戦強くなり、決勝に至っては大人顔負けのプレイを見せてくれるのは、これが単にもともと強かったということ以上に、本番における経験を通じてどうやったら強くなるのか、勝てるのかという形や型を強烈なスピードで吸収し、すぐさま実地に応用できるようになるということもあると思うのです。

したがいまして、企業や会社において、社員が戦力となってくれるということにおいても同じようなものだと思うのです。

新人だから、その職位について間もないから、といった余計は配慮はむしろ成長の阻害要因になります。

したがって、いきなりだろうが突然だろうが、すぐさま本番に投入し、修羅場をくぐらせるというのが最も当人の当事者意識を刺激し自ら主体的に律して育つための何よりの方策だと思います。

客商売をやっている夜のスナックにおいても、客に対してどのように振る舞うか、いくら事前に言って聞かせても、それはまるで陸上で水泳の泳ぎ方をシミュレーションするような、結構無駄な時間であることが多く、客商売ならとにかく客の前に出すしかスキルアップの方法はないと思います。

とっとと本番に投入し、修羅場をくぐらせる、試験勉強においてもそうです。

いくら問題集やワークを解かせても、本番の試験問題が何か、そうした緊張感の中で正答への正しい解法に沿って規定時間内に答案を作るというゲームの本番を多く経験しないと、バッティングセンターにしか行ったことがない野球部の生徒の如く、ゲーム全体を俯瞰できる真の戦力となる人材になることはできません。

しかしながら、本番に投入することは、非常な勇気が伴います。

できることなら、本番に投入される人の側で「支援」したり「応援」したり、そういったサブ的立場にとどまろうとするのが人情です。

しかし、サブはサブ、サブをいつまでやってもレギュラーにはなれません。

会社においても、上司を立てることと、自らが主体として仕事を進めて切り拓いて行くというのは全く別の振る舞いです。

上司など立てなくていいから、とにかく自らが主体的に仕事に責任を持ち、進める。

自らの直感にしたがって、必要な報告相談を行う、それも本番で培われる能力の一つです。

上司をうまく使って案件を仕込む、案件を進める、そして成果を出す、そうした一連の流れの中で、いつしか新人は立派な、どこに出しても恥ずかしくない「うちの担当」としての地位を確立してゆくのです。

そんな自立した社会人や学生にたくさん会えるように振る舞い、できるだけ楽をしたいと考えておりますよからぬ筆者からは以上です。

(平成29年11月5日 日曜日)

2017年9月12日

なぜやりたいのかを常に問い続ける姿勢が共感を呼ぶという話をします




おはようございます。

2017年9月の記事です。

節目節目でまた同じような話をいたしますが、何事も、趣味でも仕事でも子育てでも介護でもデートでも勉強でも部活動でもレクリエーションであっても飲み会であっても会社経営であっても、それをなぜやりたいのかを常に問い続けることが大切ではないかということを強調したいと思います。

人は、何をやっているかを説明することは結構容易です。

さらに、やっていることは紙やパワーポイントなどに「記載」しておくことができます。

だいたい、プレゼン上手と自分自身で信じている人などは、こうしたパワーポイント材料をたくさん持っておりまして、何をやっているかによって魔法のようにパワポを使い分け、実に流暢に「やっていること」を教えてくれます。

しかしながら、何をやっているかを知ったところで、聞いている側にあまり感動は生まれないのです。

それよりも、効果的なプレゼンをしたいと思うならば、言いたいことは資料に記載せずに、やりたいイメージや写真のみを載せて、言いたいことは口で言うようにする、という風にプレゼンも変わってきているようです。

つまり、何をやっているかは言語化できるのですが、何をやりたい、という主体的な意思やなぜやりたいのか、というその人オリジナルのストーリーについては、なかなか言語化できない、パワポ資料には落としにくいということなのです。

会社の理念や行動指針、といったものも、なかなか言語化できません。

リクルートの有名な社訓「変化を自ら起こし、変化によって自らを変えよ」というものも、その意味するところは受け取る社員個人個人で違うようですし、その社訓によって奮い立った自らの意思を自分の言葉や(言語化できないものの)行動で示す時、人は感動を覚えるもののようなのです。



やりたいことの提示から始めること



したがって、何をやるかをプレゼンするときには、何、から説明を始めるのではなく、やりたいことや向かうべき方向をまず述べて(ビジョンの提示)、それを具体的な方法論(何をやるか)で補強し共有してもらう、と言う風に論を進めて、最後にはこれによって向かうべきビジョンが実現に向かうという同じところに立ち止まっての締めで終わるのが最も読後感の良い、良いプレゼンであるといえましょう。

筆者も短くない社会人生活を送っておりますが、自分にとって人生に数度のエポックメイクな転換期となったときのプレゼンは、お世辞にも綺麗なパワポスライド数十枚に彩られたものではありませんでした。

わずかパワポ刷りだし3枚、うち1枚は表紙という、そんな適当な資料です。

しかし、資料を提示してやろうとしていたビジョンが面白そうで壮大で誇大妄想的だったので、自分もやってみようかと引き込まれたというわけです。

なぜやりたいのかを常に問い、作業結果としてのプレゼン資料の説明に逃げないこと、いろいろ準備して臨むプレゼンや発表の場においてこそ、心に命じておきたい人生のポイント、キモである気がしています。

いつも準備不足でいきなり本番の筆者からは以上です。

(平成29年9月12日 火曜日)

2016年9月12日

長期で株に投資する場合にふまえておきたい考え方や戦略について







おはようございます。

2016年9月の記事です。

前回、私の投資判断基準ということで、2点(モノ・サービスと会社自体の魅力)申し上げましたが、これは短期間(長くても1年程度)の投資期間に限った話で申し上げております。

もっと長いスパン、例えば5年10年といった長期投資には、上記理論はあまり当てはまりません。

なぜでしょうか?たとえば現在は平成28年、2016年ですがその10年ちょっと前まではユーザー登録時に13歳以上であることを宣言すれば誰でも会員になれて、登録ユーザー数(注:「実人数」とは異なる)が15億人を超えた世界最大のソーシャル・ネットワーク・サービスの会社はありませんでした。

かの会社の一般サービス開始は2006年です。

日本でも少し昔、会員制サイトの会社やインターネットを研究するという名前の会社が、新興市場で上場し、いわゆるITバブルと言われたころもありました。

あのころが2002年です。

今やドッグイヤーの時代、10年経てば一昔であり、その当時の投資判断をいくら贔屓目で見ても、あまり誉められたものではなかったと思います。

すなわち、現在のモノ・サービスのままで10年後も見るというのが大間違いなのです。




結局は生み出す人を見るしかない





それならば何に着目するか、それはモノ・サービスを生み出す「人」を見極めるしかありません。

人は社長だけではなく、その会社に人生を預けている従業員も当然含みます。

その経営者や社員が働く指針にしている企業文化、企業理念に注目しましょう。

今は影も形もない商品やサービスを一歩前に踏み出して生み出すことのできる力をもった人間集団であるか否か、ここが決定的に重要なポイントです。

自らの目と耳と足で、情報を取りましょう。

アナリストや銀行家の二次情報に惑わされないようにしたいものです。

他の人の、儲け話についていくだけの筆者からは以上です。

(平成28年9月12日 月曜日)

2015年9月4日

宇宙エレベーターという夢の発想が現実になる日が来るのではないかという話

人工衛星





おはようございます。

2015年9月の記事です。

いよいよ宇宙を舞台にしたアニメ「機動戦士ガンダム」の世界が現実になるところまで来たようです。

宇宙エレベーターというものをご存知でしょうか。

これは、宇宙空間への大規模輸送を可能にした夢の、でも現実的な機関です。

漫画好きの方には、漫画「ドラゴンボール」のカリン塔のようなものをイメージしてくだされば結構です。

地上から天空に伸びる塔のようなものですが、塔だと自重で壊れてしまうので、空から一本のカーボンナノチューブを垂らします。お釈迦様の手から伸びる蜘蛛の糸のようなものです。

さて、お釈迦様の手は地上36,000キロメートルの高度で地球の自転と同じ時速10,800キロメートルの速度で回る静止衛星のことになります。

この静止衛星から、上下に糸のようにカーボンナノチューブを伸ばしていきます。

下にだけチューブを伸ばすと、チューブの重力と抵抗で、静止衛星がいずれ地球に墜落してしまいますので、常に静止衛星を中心に重心を変えないように、両方にチューブを伸ばし続けていきます。

そうすれば、いつか下に降ろした側のチューブが地上のどこか(想定では海上か砂漠か)に届いてエレベーターが完成するというわけです。

さてこれが実現しますと、我々は宇宙に行くために強烈なG(重力)を受けながらロケットで「放出」される必要はなくなります。

墜落や爆発の危険も無視できません。

ロケットの打ち上げは更に物凄い化石燃料を使うので、エネルギー効率も良くありません。




非効率でリスクも高い打ち出し方式





事故のリスクも大きいです。

核燃料の廃棄物を、ロケットに積んで太陽(核融合反応を常時行っている)に打ち込めばいいではないかという主張もありますが、確かにそれだと文字どおりの最終処理となりますが、打ち上げ失敗したり打ち落とされたりした場合、世界が核の灰に包まれてしまいます。

そんなリスクは取れません。

その点、宇宙エレベーターははるか頭上の静止衛星の太陽光パネルで供給される電気がその動力源となりますので、非常にエコになります。

みんなでこの概念を広めれば、みんなで宇宙に行ける時代がきっとやってくると思います。

宇宙飛行士になる夢を捨てずに大事に取っております筆者からは以上です。

(平成27年9月4日 金曜日)