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2018年7月9日

睡眠禁止帯とも言うべき寝るには効率の悪い時間帯を誰でも持っているという話です






おはようございます。

2018年7月の眠くなる配信記事です。

こんな文章を書いているとやっぱり眠くなってしまうこともありますが、筆者として最も筆が進むのは、寝る前の20時から22時の間であるというのはなんとなく感覚としてわかっておりました。

しかしながら、その時間はどうしても別の作業や行為(飲み会や食事会や飲酒やネットサーチなどなど)に費やしてしまうことが多く、この時間に眠くならないのは、ウェイウェイ飲んでいるから、というのが社会人になってからずーっとなんとなく考えていたのが筆者の貧相なイメージになります。

しかいながら、どうも楽しい飲み会ばっかりやっているから眠くならない、というわけではなさそうなのです。

むしろ、眠くならないように身体が瞼を調整してくれているから、ついつい飲みすぎてしまうというのが真相のようなのです。

説明しましょう。

起きてから、人間いろいろな活動をします。

朝起きたとして、午前中はそんなでもないのですが、14:00〜16:00の時間帯に、人間急に眠くなります(個体差があるので傾向として)。

そして、それが通り過ぎた18:00過ぎから、夕食を食べて寝る直前まで、大体の人が、ほぼ全く眠くならない睡眠禁止帯、ゴールデンゾーンというべき時間を迎えるのです。

人間不思議なもので、昼間に疲れたはずのところ、寝る前の安全を確保するためなのか、一定の時間を、思い切り覚醒させることで身辺整理を行うように仕向けているようなのです。

つまり、もちろん個人差はありますが、起きてから自然光を浴びて、14時間程度経過したところで、この睡眠禁止帯、ゴールデンタイムを迎えるように人間の身体ができているようなのです。

ですので、早寝早起きにおける一番の敵は、週末の寝坊ということになるのです。

もちろん、土日の休日も朝5時に起きろというのは厳しいところではありますが、これは漁業や八百屋やボート競技や競輪競馬に登山といった、朝早く活動を始める競技や生業に従事したことがある人なら、間違いなくわかる話ではないかと思うのです。

もちろん、昼間の寝不足感も強くなりますが、これは15分程度の昼寝を挟めば意外なほど軽減するものですし、逆に週末に寝坊してしまった時の、夜の眠れなさからくるストレスほどきついものはなく、月曜日の朝の辛さと相まって、体調を崩してしまう人も多いと聞きます。

寝坊、遅起きしてしまった結果、無理やり「睡眠禁止ゾーン」で必死に寝よう寝ようとしても効率が悪いだけですし、逆に神経が高ぶって眠れません。

ですので、睡眠リズムの問題と割り切って、とりあえず眠くなるまで待つ、という手段対処で十分だと思います。

やたらと早寝を強いられて夜間徘徊が悪化している認知症の高齢者や、不眠や眠気に悩む早出遅出深夜勤務者などなど、こういった世界の方々にも意外に「睡眠禁止ゾーン」を知らないことによる不具合は多いような気がしています。

もちろん、個人差がありますが、自分が最も寝にくく目が冴えている時間帯というものをコントロールできるとすれば、それは素晴らしいことだと思うのです。

といいながら今日は午前中10時に起きてしまった夜間徘徊真っしぐらのダメな筆者からは以上です。

(平成30年7月9日 月曜日)

2018年5月20日

「働き方改革」によって待遇が上がるのも下がるのもあるという功罪について






おはようございます。

2018年5月の働き方改革に関する配信記事です。

日本全国、少子化に伴う人手不足が加速するのに合わせて、無駄を極力削減しようとする働き方改革が叫ばれています。

当初は、ブラック企業といった一部の極端な企業統治や企業慣行にその焦点が当てられていましたが、すでにこの動きは日本全国津々浦々、あらゆる事業所にあっという間に広まり、そしてその功罪も急速に明らかになってきていると言えましょう。

まず、この働き方改革の第一の眼目は、「同一労働同一賃金」という原則です。

しかし、一見目に見えない、具体的な労務や労働という中では見えにくい、企業で働く人の職位による「責任」というものが見えにくくなるという点もあるのです。

政府与党が2018年4月に国会に提出した「働き方改革関連法案」が審議入りしておりますが、この法案のポイントは、大きくは下記2つです。

(1)「罰則付きの時間外労働の上限規制」を導入すること

(2)正社員・非正社員の格差是正を目的とする「同一労働同一賃金」を実現すること

そして、時を同じくして毎年の春闘と呼ばれる労使間の待遇交渉のなかで、組合側(労働者側)が当然のように非正規社員の待遇の改善を求めて、正社員だけに認められている住居手当や扶養手当といった各種手当の対象拡充を求めたところ、会社側(経営者側)は、企業収益も厳しくない袖は触れない、同一労働同一賃金というならば、こういった不明瞭な「手当」こそ全廃すべきと組合側に逆提案してきたというわけです。

これは驚きの結果ですが、そもそもが同一賃金、ということであればその絶対額は関係ないわけで、いわばこれは当然に予想されていたことです。

非正社員の賃金を上げないかわりに、正社員の処遇を下げることで、同一賃金を達成するというわけです。

一見、血も涙もない会社側(経営者側)の決定だと思いますが、そうではない面もあると言えます。

この、働き方改革によって、各社企業側は、非正規社員の夏冬のボーナス(賞与)の正社員並みへの引き上げなども約束させられているのです。

そして、その原資を企業収入だけに求めることはできないので、やむを得ず、批判を承知で正社員がこれまで享受してきた各種手当というものを削ることによって賄おうと考えているわけです。

もちろん、そんなことは正社員側としては晴天の霹靂かもしれませんが、人件費を増やすにしても、結局企業が、それに見合った収益を上げないといけないわけであり、業績が向上しないかぎり、それまで相対的に優位な地位や事実上の報酬を得ていた正社員の賃金体系が下方的に見直されるのは、やむを得ないということになってしまうのです。

何しろ、会社側としては人件費の総額を削ったわけではない、ということなのですから。

むしろ、基準が曖昧かつ不平等のそしりを免れない各種手当こそ、同一労働同一賃金(パートタイム・有期雇用労働法)の罰則付き法制化に伴うリスクを回避するためには廃止するべきであるとすら言えるのです。

今後の方針として、対応は大きく二つに分かれていくと思います。

一つは、目に見える作業や業務については完全に同一賃金としていくという方向です。

そして、もう一つは、目に見える作業や業務とは別の、責任や監督、マネジメントといった目に見えにくいけれども企業経営統治には非常に重要なリーダーシップといった業務(急な残業やシフト入り、上限を過ぎた時間外労働の受容も含む)については、別に定義してその業務貢献に報いる別枠の給与テーブルを設ける、という方向です。

こうすれば、従業員である限りは業務遂行責任、役員(取締役や執行役員)になった瞬間結果責任(業績責任)といった杓子定規な粗い判定ではなく、どの社員(従業員)も役員も、目に見える作業業務のテーブルと、目に見えにくいリーダーシップやマネジメント業務のテーブルという2つのテーブルを持つことができ、その按分割合はだんだんとキャリアアップして変わっていくことで、深度が深くて納得感のある評価体系になるのではないかと考える次第です。

作業は遅く、管理(マネジメント)もあまりできない、きわめつけは勝負にも出れないしために出たところでもすぐに日和って負けが込む、というなかなか浮上のきっかけがつかめていない、いち従業員筆者からの考察は以上です。

(平成30年5月20日 日曜日)

2018年5月17日

働くものとしては遅刻とかそんなレベルのダサいことしないことから始めたいというお話





おはようございます。

全国津々浦々で今年度から社会人として働き始めた100万人の新人のみなさんに向けた配信記事です。

会話調になりますがご了承ください。

新入社員のみなさん

ハロー
おはようございます
こんにちは
こんばんは

成人式は2回迎えています昭和なおっさんの筆者ですよー

もう来年の今日は「平成」じゃないから、3世代になりますねー

さて、みなさん会社には慣れたかな?

会社としては、皆さんにはいろいろやってほしいことは多いのだけど、

まずは

「遅刻とかそんなレベルのダサいことはしない」

ということから始めましょうか

自らを商品として会社に日々売り込んでいる労働者となった身分では、
自分のことは自分でする、ということが求められます

学生時代は、金払って学校に行っていた、と思うのですが、
社会人(労働者)というのは、

「金もらって会社に労力を提供する」

ということですから、自分の手入れをするのはまず自分です

とりあえず、定時に会社にいなけりゃ話にならんというのはわかりますよねー

会社の方は、休日や業務時間外に貴職らを引きずり出すわけにはいかないのです

遅刻しないようにしましょうー

って小学生じゃないのですから、自分のことは自分でする、ということで、

朝起きるのが苦手なら、好きなゲームやネットやドラマは早朝やったり見たりすることにして、
先に前の夜は19時でも20時でも寝るようにしたらいいだけですよねー

納期って品質以上に大事でしてね

例えば結婚披露宴のウェディングケーキやウェディングドレスが、
結婚式の翌日届きました、
じゃ話にならないわけですねー

自分の労働力こそが一番の、唯一の商品なんですから、
そのために自分を大事にして、できれば好きなゲームやネットサーフィンの前に、
十分な睡眠をとる
みたいな優先順位をつけるだけで
だいぶ変わると思いますー

遅刻の原因、いつも寝過ごしが不動の一位ですから

とにかく、貴職らの活躍に期待していますから
こんな、試合の前にユニフォーム着てない、みたいなことに
ならないよう、できる準備はしておきたいものですね

グラウンド整備してなきゃ、試合はできないじゃん

ちなみに、野球の世界でのグラウンド整備は、
縮めて「グラセン」といいますが、

甲子園の高校野球では阪神園芸という会社が試合の合間に整備していて、
この会社のグラセンは芸術の域とも言われています

特に最後の仕上げの水まきの際にかかる虹は甲子園の名物とも言われるもので、
こうしたことからも、物事における準備というものが如何に大切かがわかると思います

準備や片付け、こういうものもすべて含んで一つの仕事です

こう考えると、雑用や雑務といったものはない、ということに気づくでしょう

これは、小言なんかではなく
筆者自身も、はるか20年前に新卒社員だった時に
指導担当についてくれた先輩社員から、一番に言われたことです

これを20年経っても鮮明に覚えているということは、
それなりに普遍的意味があることだと思います

では、明日からまたよろしくー
じゃあねー

実は、昨日飲みすぎで今日の出社はギリギリセーフだったことは伏せたい
筆者からのコメントは以上です。

(平成30年5月17日 木曜日)

2018年5月16日

日本の労働規制によって役員も経営者も従業員も会社自体も大きな損失を被っているのではないかという話







おはようございます。

なかなか給料が上がらないのに消費税や社会保険料は上がってやっぱりきついなと日々感じている筆者からの労働慣例に関する配信記事です。

日本企業の給料が低いというのは、もはや世界的な常識となっているようです。

中国企業のファーウェイの新卒のエンジニアの月給が40万円だったり、アメリカのフェイスブックの社員の給料の平均(中央値)が2,600万円であったというような、景気の良い話が世界にはあふれています。

しかも、フェイスブックにおいては、この数字はパートタイムの労働者も含んだ数字であるということで、いわゆる社員の平均年収はさらに高いといわれております。

しかるに、日本企業において、このような景気の良い話はなかなか聞かれません。

業績絶好調な会社においてもそうなのです。

なぜなのでしょう。

筆者の私見を申し上げれば、大きく理由は二つあります。

一つは、新卒業種無差別採用、もう一つは超絶厳しい解雇制限制度です。

順番に説明したいと思います。

まず、新卒業種無差別採用、いわゆる「総合職」とか「基幹職」といったどんぶり採用形態で、しかも大学卒業を中心とした「新卒」採用に絞って日本の大手企業は採用を行います。

中途採用を通年で積極的にやっているという会社はまだまだ少ないのです。

新卒といっても、すでにそれまで高校や大学といった専攻や教育やもともとの志向や考え方により、どのような職種につくかどうか、かなり明確になっているのにもかかわらず、企業は、新卒一括採用というどんぶり勘定を続けています。

これでは、例えば、天才プログラマーとか天才ITアーキテクチャ、建築士や弁理士や弁護士、医者や研究者、暗号解読者やデジタルゲーム技術者といった特異な才能を持つ社員を、普通の会社は市場価値で遇することができません。

先に触れた、中国ITのファーウェイの新卒社員についても、まさか全員が営業一般事務ということで採用されているわけではないでしょうし、おそらく職種により、細かく決められた職能と給与体系により、明らかに事務と営業とエンジニアでは違った給与提示がなされているはずです。

同じ金融機関でも、営業事務と、神経と身体をすり減らしてITを駆使するリサーチャーやトレーダー、アナリストやクオンツ、フィナンシャルテクノロジーといった職種では、全く違った待遇体系になるはずなのですが、なぜかそのような個別の役職員の待遇をすり合わせることを日本企業は(大企業になるほど)嫌います。

変でやたら細かいだけのだた広い薄皮ミルクレープのような、ちまちました階層別人事給与テーブルを作って、定期昇給何千円、といった程度の給与改定しかできないのです。

ここの職能や職種を細かく査定しない、もしくは査定できないため、一律の(低い)給与体系となってしまうというのが第一の論点です。

では、第二の論点である、解雇規制が厳しすぎるという点に移ります。

こちらのほうがより問題です。

解雇規制があるということは、解雇してコストを削減するのがふさわしい人をわざわざ雇い続け、そしてその間、ずっと会社の利益が減殺されるという効果を生むのです。

会社は事業をやって、利潤を上げることを命題にしていろいろ活動しますが、人を雇うという原価は非常に重くのしかかってきます。

原価をかけながら、ろくな成果や結果が出ない場合、例えば工場やお店だったらたたんだり売却したりするのが普通です。

それが、こと「雇用(あえて「人」とはいいません、人は雇用を失っても死ぬわけではなく、別の「雇用」を得ればいいだけだし自ら「事業主」になってもよいわけですので)」に関してはできないのです。

これは考えようによってはむちゃくちゃです。

解雇できないコストを、ほかの社員と役員と会社(の持ち主である株主)みんなで払っているということになります。

たとえばコンビニチェーンがあるとして、売り上げが全く上がらないお店があったとしたら、即撤退しなければチェーン全体が傾いてしまいます。

そこへの出店は間違いだった、間違いは修正しないと会社自体が潰れます。

それが「雇用」の場合はできないのです。

守るべきは「人」であり、「雇用」そのものではない、と声を大きくして言いたいわけです。

「雇用」を失う「人」にフォーカスしすぎると、その「雇用」による余計なコストを支払わされている他の従業員である「人」や経営者の「人」、会社の株主である「人」の権利はどうなるのか?という問題なのです。

そろそろ気づいてほしいですね。

解雇するというのは悪い話ではなくて、その人に別のチャンスを与えるという前向きな意味もあるのです。

プロ野球の自由契約みたいなものです。

野球、もしくは仕事をやりたいのならば、雇用されやすい環境を整えて飼い殺しにしない、これは社会経済全体にとって善いことのはずです。

それなのに、明治以来の日本の労働基準法令は、強い解雇規制一辺倒です。

解雇=悪いことという一般観点があると「信じて」いるから、このように解雇しないようにという方向で規制がかかっているのです。

しかしながら、暴行や障害、セクハラやパワハラといった「不法行為」並みに解雇を捉えるのは本来おかしく、普通の私人間の契約である「雇用契約」の解除行為の一類型のものを、これだけ後生大事に保有しようとする規制や先入観が、この100年間の日本の成長を著しく阻害したと思っているのは筆者だけでしょうか。

当たり前ですが、「人」にフォーカスするのであれば、「解雇」を過剰に禁じることでコストを広く負担している多くの「人」に対しての提案として、一定の解雇手当と失業保険によるカバーで必要十分であると思います。

筆者も会社の従業員でありますが、解雇されず給料が高くて仕事が楽、というのを望んでもそれはかなり難しいことくらいわかっています。

企業の事業収益は、そんな一社員の思惑とは別に、実に様々な環境や事情により激変します。

そんな中、「雇用」だけ独立して安定させるというのは難しい、というより不可能です。

会社自体がなくなってしまいます。

乗っている船が揺れまくっている中、中の乗員だけ全く揺れない仕組みを作れ、といわれても無理です。

揺れまくっているうちに、沈没します。

企業とは、そのようにか弱い存在なのです。

現在の世界最強企業の一角であるアマゾンだって、1994年の創業、世界最大のデータ保有会社にして検索最強企業のグーグルだって、1998年の創業で、天地創造の時から未来永劫強い企業があったわけではないし、ありつづけるわけはないのです。

「人」に対するセーフティーネットというのは、断じて「雇用」そのものではなく、そのようなか弱くいつ消えてもおかしくない企業というものに負わせる義務ではなく、雇用保険などの「公的社会保険サービス」で担保すべきものだと思っています。

これであれば、個々の従業員が毎月の給料から支払っている保険料から支弁されるものですので、平等だし企業側も負担しているので、真に平等なシステムだと思います。

労働市場というように、雇用という原価、仕入れもマーケットによる需給原則にその価格は影響されます。

株や外国為替、不動産や債券を購入する人は、それらが売れる場を知っているからこそ、期間というリスクをとって投資を行います。

それなのに、22才で買ったら最低定年の65才までの43年間売れません、という状況で株や債券を買う人はいないでしょう。

労働市場は、このような「出口なき」閉じた市場という異常な状態なのです。

22才の若人も、65才のおっさんになります。

しかし、この経過する時間で何を生み出せるのか、そこが会社と従業員個々のおもしろきコラボレーションなのです。

しかるに流動性の全くないマーケット。

これは、市場とはいえません。

結果的に雇用における「最初の取引」である新卒採用の価値や手間やコストが「異常過剰なまでに」上昇します。

エントリーシートを何百社も出して、全く同じ黒いスーツを来て、女も男も予定調和の面接対応を行なっている日本の新卒対応を見ていると、就職側も採用側も、極めて無駄なコストを支払っていると本当に思います。

それよりも、2社目3社目でうちに来てね、と囁いておいた方が結果的によい採用、雇用ができそうです。

新卒一括採用は、就活の失敗で自殺者が出るような状況を生んでいます。

過剰な解雇規制の裏返しでもありましょう。

日本はいい国ですが、そろそろ変えるべきところは変えるべきだと強く思います。

さて、フェイスブックには能力不足で転職できなさそうな筆者からのコメントは以上です。

(平成30年5月16日 水曜日)

2018年5月6日

新しい時代の組織マネジメントスタイルについて考えてみたという話です

部長






おはようございます。

2018年5月のマネジメントスタイルに関する配信記事です。

平成という時代があと1年となってきている現代においても、未だ組織のマネジメントスタイルはあまり変わっていないように思います。

すなわち、組織の力は数の力、率いる部下の数が多いのが良くて、その階層がきっちり分かれていて、新卒、ヒラ、主任、課長代理、課長そして次長がいての部長、みたいな組織がかつては理想とされたようです。

そんな昭和の組織は、例えば銀行の営業部隊、ゼネコンの受注部隊などがそうであったように、営業本部は営業本部長に役員が就任し、そして営業部長にその会社の帰趨を握るバリバリの叩き上げ、そしてその下に複数の第一課、第二課、、と続き、課ごとに地域別業種別取引先区分がなされて各課長は激しく相互に競争させられ、そして営業部長は営業成績全体の責任を、ときに管理部門の役員より多く負い、プレッシャーに耐えながら夜毎の接待や打ち合わせに消えて行ったのです。

筆者もそんな営業第何部、というような組織に属して夜な夜な接待に繰り出したり早朝から特急あずさに乗って遠く信州松本や清水の次郎長の清水港まで、取引先を訪問しに行った経験を持っています。

さて時代は平成となり、バブル経済が弾け、そのような重厚長大営業スタイルはだいぶ遠くなりました。

しかも平成も末期になると、日本社会を覆う少子化の波は、労働人口の急減という形で各職場を直撃し、かような末広がりの若手がたくさんいるという組織スタイルを全く許さなくなりました。

ここにきて、部長や課長といったマネジメントスタイルも大きく意識変化をしなければなりません。

すなわち、自ら動くプレイングマネジメントスタイルへの変容であり、これまでの、組織の上にデンと座って全体に睨みを聞かせる「ボス」型ではなく、係員一人一人と目標設定で折り合える「リーダー」型であることがより求められるのではないかと思うのです。

そうして、これまでは一般に上位の職位にあるものの方が社会経験が多い=年上であった場合が多かったですが、そのような年功や年上優遇といった形はだんだん溶け出し、仕事をする組織として企業は洗練されていきます。

年齢序列の逆転も普通に起こります。

女性や(日本人にとっての)外国人の社長、女性の会長、役員、部長に本部長、課長に課長代理も普通になってきます。

すなわり、仕事、業務の遂行能力によって企業は各従業員を格付けし、その組織の利潤向上に最も資するようにバランスをとって従業員の職位配置、人員配置を行い、そこに一切の忖度や妥協はなくなっていくということになります。

なんとなく若い時は横並びということはなくて、その都度その都度、若手が少なくなっていることから余計にシビアに、どのような環境におけば個々の従業員の能力開発が図られ、ひいては会社の利益になるのか、会社は冷徹にそこを見極めようとするのです。

社長や役員も、これまでのように多くの部門、多くの部下を直接に率いていることで権力の源泉にしたという時代も終わりました。

重要なのは、会社を次のステージに持っていくことができるかというビジョンであり、それを実行できるだけの覚悟やマインドセットができるかということの方になったのです。

ですから、これまでは「部長がそんな仕事をしなくてよいでしょうに」といったことは通用しませんで、例えばライドシェアサービスを展開したければ、社長自らが一日街に出て、実際に15分100円のシェア自転車を街中で実際にアプリ起動して乗ってみて移動してみて、そして使い勝手(使えない勝手)なりなんなりを一利用者の立場として感得しなければならないのです。

大変な時代になりましたが、それはそれで考え方によっては面白い時代になりました。

あまり仕事はしたくありませんので、仕事はできる方々にお任せしてうまいこと逃げ回れないかなとひそかに思っている筆者からは以上です。

(平成30年5月6日 日曜日)

2018年4月27日

民法第770条に定める裁判上の離婚事由に関して今更ながら物申したい件






おはようございます。

2018年4月の裁判上の離婚制度に関する意見配信記事です。

筆者も法学士の端くれですので、民法などは知っていなければいけないのですが、この年になりまして今更ながら気づいた重大な論点がありますので、特に書かせていただきます。

民法第770条に、裁判上の離婚を定めた条文があります。

(裁判上の離婚)

第770条
夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
一 配偶者に不貞な行為があったとき。
二 配偶者から悪意で遺棄されたとき。
三 配偶者の生死が三年以上明らかでないとき。
四 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。
五 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。
裁判所は、前項第一号から第四号までに掲げる事由がある場合であっても、一切の事情を考慮して婚姻の継続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。

一見してさらりとした条文です。

しかし、民法は単に口語化されたに過ぎない、中身は明治の法律ですから、ここに、現在の社会においては重大な人権侵害となっているものが潜んでいると思われるわけです。

ズバリ、その文言は、同条第1項第4号です。

四 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。

に裁判上離婚ができる、つまり正当な離婚事由として法律が認めちゃっているわけです。

こういう法律上の文言は、例示列挙ではなくて、限定列挙であることが「常識」ですから、精神病、すなわち統合失調症等の患者になれば、有無を言わせず捨ててよいし、なった側は捨てられるということです。

他の病気は、限定列挙されていませんから、

たとえ、

「あ」から始まる

悪性リンパ腫
アトピー性皮膚炎
アレルギー疾患



から



メタボリックシンドローム
腰痛
緑内障
ロコモティブシンドローム(運動器症候群)


に至るまで、他のほとんどすべての病気では別れられないのに、統合失調症(精神病)のみ離婚事由として法的に認められているのです。

こんな意味不明な条文はありません。

誰もが統合失調症(精神病)になる可能性を秘めています。

なりたくてなるものではありません。

不貞行為、悪意の遺棄、そして生死3年不明。

それと同列に単なる病気の一種が扱われるとは、こんなにバカにした話はないでしょう。

さらに、「精神病」という定義もあいまいです。

脳の病気、であるに過ぎない一連の疾患に対して、民法という国民の根本法令がこれほどまで執拗に取り上げることに対する違和感です。

もちろん、病気が原因で夫婦生活が維持できないことはままありましょう。

しかし、そういう個々の事情のために、バスケット条項である五号「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」という条文があるのではないかと思うのです。

脳も、体の臓器の一部でありまして、それはそれは繊細な器官ですから、そこに何らかの疾患が起こることは、他の臓器器官と同様いやそれ以上の可能性があるわけです。

誰にだって起こりえることに対して、この無作法の極み、無礼千万な誰も幸せにしない条文、明治以来の項目であることが更に不快感を増大させます。

昨今あれだけ些細なことで膨大な国会審議の時間をお使いになられておられる国会議員各位におかれましては、このような些末なお仕事などお手のものでしょうから、軽くさっくりとなくしてもらいたいものです。

昔から、頭はだいぶいかれております筆者からの意見は異常です。

(平成30年4月27日 金曜日)

2018年4月24日

「国民の敵」などという言葉は慎んで使わないようにしたほうがよいと思う話をします







おはようございます。

2018年4月の国民世論に関する配信記事です。

東京都千代田区にある国会議事堂の近くの路上で、2018年(平成30年)4月16日の夜、一人の公務員(自衛官)が、通りかかった国会議員に対して「お前は国民の敵である」云々(うんぬん)と繰り返しののしったとされる、という事案がありました。

なお、暴言を受けたのは、野党の小西洋之参議院議員であり、自身が明らかにしており、これを受けた防衛省では、詳細を調査中という状況です。

また、国民の敵という暴言は発していないという当該対象となっている自衛官の弁明もあったと言われていますので、そのあたりの事実関係は今後の調査を待つとして、現時点では「国民の敵」という言葉がどのように使われてきたのか少し振り返ってみたいと思います。

我が国においては、歴史の授業で習う5.15事件というのがありまして、これは1932年、海軍の青年将校が文書で日本国民に向けて「国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!」と主張しながら総理官邸を襲撃して、時の首相である犬養毅総理大臣を殺害するという、現代では最底辺の政情不安国でもなかなか起こりえない事件がありました。

また、1930年代後半に当時の15の共和国を統べる、ソヴィエト社会主義共和国連邦の事実上の絶対独裁者の地位に就いたスターリンは、独裁者としての権限を史上最悪クラスまで高め、そして少なく見積もって数百万人、控えめに言って2,000万人もの反対派に連なる国民を「人民の敵」として殺害したり収容所に送って強制労働をさせたあげくに見殺しにしたり、それはもう悲惨な状況がありました。

この問題は、社会にじわじわひろがるこうしたヘイトな排除論理がもたらしているものと言えましょう。

自衛官の発言が事実だとすると、これは非常に危険なことでありますが、逆に、例えば基地訴訟や問題に際して、日本国民の生命と財産という大切なものを、それこそ身を呈して守ってくださっている自衛隊の隊員に対し、「人殺し」だの「殺人装置」だの「暴力組織」といった聞くに耐えない暴言を発して、これを思想信条の自由、表現の自由とうそぶく方面に対しても、同様の問題意識で当たっていただきたいとも思いました。

できることなら、「みんながこう言っている」といった他人任せの伝聞方式ではなくて、「自分はこう思う」という堂々たる論拠で、身のある議論をしていただきたいと思っています。

みんなやったほうがいいと言うから、ブログをはじめてみました主体性のない筆者(父親は警察官であった)からの薄口コメントは以上です。

(平成30年4月24日 火曜日)

2018年3月30日

地球全体が職場というクラウド(仮想)事務所という働き方について考察した話です






おはようございます。

2018年3月のテクノロジーの進化と働き方に関する考察配信記事です。

リモートワークという言葉が言われるようになってきました。

これは、一定の人々が凝集するオフィス(本社)という形態を持たなくするという方向の働き方で、自宅だろうが外出先だろうが海外だろうが山の中だろうが孤島の上だろうが、とにかく全国世界中に散らばっている人たちが、それぞれ電子デバイスや無線通信手段を用いて相互にコミュニケーションしつつ業務を適宜適切に遂行するという業務形態です。

そして、そうしたリモートワークを追求していくと、本社や支社といったもともとの「オフィス」であった場所すらも、逆転の発想で「単なるパブリックビューイング」や「たまたま社員が多めに凝集している喫茶店」のようなものとして考えられることになるわけです。

つまり、リモートワークというのがどうもうまくいかないと思っている人たちの多くは、彼らの頭の中が、当然にリアルな空間という絶対的な存在が前提として(天動説のように)あって、そしてリモートワークのほうがそのリアル本社のおまけとして扱われている、あくまで主従でいうとリアル本社が主で、リモートは、何か特殊な事情か宗教的禁忌や親の遺言や子供の授乳や病気や両親の介護やによってリアル本社に出社できないという「業」を背負った事情持ちの補完で従にすぎないということなわけです。

しかし、そんなことはないのです。

社員10人で社長と副社長がそれぞれ1人ずつ、合計12人で組織されている会社があったとします。

本社がありますが、仮にある日「朝礼」を行おうとしたときに、挨拶すべき社長が海外、南の島のビーチサイドにいて副社長が国内出先の取引先の会議室の待合にいて、社員の半分は自宅で管理作業をしていて残りの半分が営業で外に出ています、たまたま1人の営業が本社に立ち寄っていますという状況の場合、その「会議」のメインの「場所」ってどこなのだろうかと必然的に思われるわけです。

これはもう、クラウドの会議システム内にメインの会議の「会場」は存在し、そのクラウド上の本社会議室に、各所からメンバーがアクセスしているということ、すなわち、この会社の「職場」とはクラウドシステムを通じて地球全体に広がっているのではないかと思うわけであります。

このように、全てオンラインが先にあると考えると、リモート飲み会もリモート花見もリモート入社式も内定式もできるわけです。

そして、クラウドの中が本丸という考え方になるので、たとえ数人が本社に集まって会議に参加していても、これは従来の「本社」という盛り上がった場所を各所に散らばった他の社員が物欲しそうに、ちょっと寂しげに眺めているというわけにはならないのです。

これは、盛大に本社で行なっているイベントを、外で在宅勤務している人にも雰囲気だけ画面を通じて「お見せする」というような発想しかない人には絶対に到達できない観点です。

違うのです。

盛大に「クラウド上」で盛り上がっているイベントを、各所のリアルな場所から参加する、そのリアルな場所としては、パブリックビューイングを本社の会議室に用意してもいいし、逆に球場に設置してもいいわけです。

もちろん、個人でその場(自宅など)から参加してもらっても構いません。

これが、地球全体をクラウド職場としてとらえるという考え方です。

これは、リアルな本社を持ってはいけないということとは違います。

本社も支社も事業所も、支店も海外現地法人子会社オフィスも持っておけば良いのです。

「どこから」クラウド上の本社(イベント)にアクセスするかという論点なので、できれば騒がしくなくて知っている者同士数人でもリアルに集まれる場所として本社が適当であるならば、それはそれで本社としては有用なことは間違いないからです。

本社から支社に「リアル出張」している人が社内のクラウド会議に「支社の人」と一緒に出ているというだけで、何の違和感もありません。

筆者は北部九州の地方出身者で、京都の大学で東京の銀行の採用活動に応じて上京して内定式などやりましたが、一緒に内定式をやるにせよ、入社式をやるにせよ「地方出身者」として交通費支弁でいちいち東京丸の内まで上京してまいりました。

それはそれで楽しいわけですが、このテクノロジー進化の時代、本社機能をどこに持つかなど、特段のブランド構築が必要であるような業態であれば必要かもしれませんが、ほとんどの業種にとっては本当は不要なものであるのかもしれません。

このように、入社式や内定式、会社の周年イベントといった会議の大部分を、逆転の発想でオンラインのクラウドの中で行なってしまうという考え方は、オープンイノベーションとしてもっと突き詰められてよいと思いました。

実は寂しがりやなので事務所出勤率は非常に高い筆者からは以上です。

(平成30年3月30日 金曜日)

2018年3月14日

人手不足でサービス終了する前に値上げしてもらって存続してもらいたいと思う話





おはようございます。

2018年3月のサービスの人手不足に関する配信記事です。

ビジネスはビジネスです。

大切な商品・サービスを提供してきながら、そして黒字でも後継者がいないから廃業する、といったニュースが後をたたない昨今の人手不足の現場です。

少子高齢化というのは、モノやサービスが売れなくなることと同じように、モノやサービスを提供する人手も減るということになります。

しかしながら、黙って廃業して行く前に、少しだけ最後あがいてほしいと願わずにはいられません。

つまり、正々堂々と人手不足を解消しうるだけの値上げを行い、そしてサービス提供側として考える正当な値段で提供する、ということです。

そして、余計なコストをサービス提供側が支払うことを強要されていると感じる場合、その部分を切り出して客にさせることで、かなりの問題解決になるということも改めて強調しておきたいところです。

世界最大の小売業に、創業20年あまりで到達したアマゾンという米国の会社があります。

すでに、「オンラインショッピングサイトの会社」という会社の枠を超えて、リアル店舗も保有し小売業以外の業態も着々と侵食している会社ですが、この会社の得意とするのが、「客ができるところは客にさせる」という手法です。

オンラインショッピングは、客が注文した商品を彼らの配送センターから配送し届けたところでサービス提供は終わります。

ダンボールから取り出して袋を破る、そしてそのダンボール類を処分するという作業は、顧客側にさせるのです。

そもそも、客に商品の説明をするところから、オンラインで商品提供業者にさせ、さらにその商品の「評価」すらユーザー間でさせるという手の抜きようです。

それでも、そのコスト減の部分を商品単価で還元し、そして余計な手間がかからないというオンライン配送システムを磨き上げて、アマゾンは頂点に立ったわけです。

ここで重要なのは、アマゾンはやることを絞ってコストを捻出しましたが、決して安売りをしたというわけではないということです。

もちろんコストは厳しいですが、限界までやった努力をもって、正々堂々と値付けして顧客に提示しているわけです。

正当な価格で、素直に提供することが、商売において最も信頼される部分だと思います。

話を転じて、日本の外食業界を見てみますと、たとえばラーメン屋がにんにくや野菜の高騰によって運営限界、廃業や店舗の統合を行うといった話や、うなぎの稚魚が激減しているからうなぎ屋が蒲焼の提供やめるとか、そういうのが悲しいニュースに溢れているわけです。

こういう外部環境の変化にそのまま沿ってしまうと、

(ア)原材料が高騰しているし
(イ)人材も確保できないし

ということだから店は畳まないといけない、ということなのですが、それはちょっと待った、と言いたいわけです。

一番大事な、提供している商品やサービスが秀逸で、本当にお客に支持されているという自信があるのであれば、

(ア)原材料の高騰分を商品単価に上乗せ(変動相場制にするくらいの勢いで)
(イ)配膳や片付けは客自身でやってもらう(ファストフード方式)

といった対応策で、かかるコストを調整削減して、営業を続けて利ざやを獲得してもらいたいと思うのです。

それもかなわずそもそもの売上が立たない、ということであれば、真の原因は、原材料の高騰でもなく人材難でもなく、単に提供する商品が売れなかった、競争力がなかったというだけのことなのです。

ここを勘違いして、早々にうちの商品サービスはもうやっていけない、廃業、というのは少し待ってもらいたいと思います。

飲食店であれば、事業承継に困ったらこの味を守ってくれる後継者を店の張り紙やネットで公募するとか、そういうやり方はいくらでもあると思います。

M&Aなどといっても、それは一部の金融屋や会計屋のお仕事ではありません。

事業を続けるための、現場の人たちの知恵なのです。

昔、筆者が働いていたオフィス街の近くの百貨店が、百年以上の歴史を閉じて閉店することになりました。

閉店の日、最後の最後まで客でごった返して、泣きながらお客を見送る従業員の皆さんの姿に、集まった人だかりの人たちはしきりにもらい涙でフラッシュを浴びせていましたが、そもそも、存続できないくらいに売上を低迷させてきたのはその客の側ではないかと冷めた目でみていた自分がおります。

同じような話で、本当にうまい店でなくなったら困ると思う店があるならば、極力自分で利用することが大切なのです。

なくなってから、あの店美味しかったのに残念だね、などと言うのは寂しいです。

値上げするとお客さんに悪い、などと店の側が思っていたら、そんなことはないと励ましてあげましょう。

ビジネスというのは、客と売り手と双方に利潤や利益があってこそ、継続するものなのです。

それが経済社会の原理だと思います。

お店がきちんと利益を上げて、従業員に給料が支払われ、笑顔の質の高いサービスや商品が継続的に受けられるという信用がある店に対して、客は足を向けて訪れ、わざわざお金を払うのです。

もっと申し上げますと、ちょっと値上げしたくらいで文句をいうようなのは本当の客ではないとすら思います。

そろそろ、客を選ぶという発想の転換も必要ではないかと思うのです。

以上、いろいろ書きましたが、実はアマゾンで一番買い物してしまっていて安い飲み屋しか行かない筆者からは以上です。

(平成30年3月14日 水曜日)

2018年3月13日

手作りでICO(トークンイベントによる地域通貨発行)をやってみようという話です





おはようございます。

2018年3月の仮想通貨界隈に関する配信記事です。

記事に入る前に、筆者もコインチェックからの連絡通り、奪われた仮想通貨XEM(ネム)をJPY(日本円)に兌換した代わり金を受領いたしましたので、ここに謹んでご報告いたします。

何事も、理論より実践ということで買ってみた仮想通貨ですが、いきなりの電子強盗事件、そしてコインチェック等の仮想通貨取扱業者への一斉行政処分といった激しい動きを経て、どうやって調達したのかは不明ながら一応代わり金の現金(日本円)が戻ってきたということで非常に面白い経験となりました。

これで、一旦全損したと思ったお金が戻ってきたので、周囲の人と一緒に飲みにでも行ってこようと思います。

さて、このように、既存の法定通貨(JPYとかUSDとか)に兌換できる仕組みにした場合、そのような仮想通貨を取り扱う業者は、仮想通貨業者として当局(金融庁)の監督を受けるということになりますが、保育園幼稚園町内会バザーの紙のお金や、家で親に渡す肩たたき券といった法定通貨に紐つかないトークン(厳密には通貨ではないのでコインとか呼ばない)については、物々交換の一形態なので特に問題になることはなく、発行もしやすかろうという話になります。

具体的には、例えば千円単位で払い込んでもらい、その対価としてかまぼこ板のようなものを1枚渡します(通常の1枚千円の売買契約です)。

一般のかまぼこ板とは違って、一応発行体の「刻印」のようなものを付しておきます。

これで、単なる木札とは違った立派なトークン(いわゆる地域通貨)となります。

この木札、何に使えるかというのはオープンリソースですからその時点(発行時点)では何も決まっていません。

決まっていないけれども、その後その木札面白いね、と考える複数の人々がそれを媒介とした財・サービスを後から考えていきます。

例えば、

・会議室を借りるには1木札
・焼肉食べさせてあげるから3木札くれ
・マッサージしてあげるから3木札で支払って

といったサービスが付いてきた場合、木札でしか支払わない、となればどこかしらから木札を調達しないといけないわけです。

木札の調達手段は大きく2つです。

・持っている人から買うなり自分でサービス提供して引き取る
・発行体のトークンセールに参加して木札をもらう

ということになります。

この場合、最初の1枚1,000円というレートはしばらくは固定でしょうが、だんだん市場参加者が増えてくると、変動してくるでしょう。

しかし、この木札システムの管理にはコストがかかります。

ある一定期間ごとに、木札を誰が持っているかといった元帳管理を誰かが(もしくはみんなで)行わないといけないのが面倒なわけです。

でも、このトークンエコノミーを「面白い」と感じて、わざわざ効率化の極地にあるJPY(日本円)での決済を「あえて」やらずに面倒な木札決済という、決済コストも管理コストもかかることをわざわざやるという経済圏が小さいながら確立すれば、これはもう自立経済圏としての明らかな息吹なわけです。

とても、面白いと思いませんか。

ということで、木札エコノミーが始まったら、1,000円くらいは図書カードかクオカードで投げ銭してみようかと考えております、昔はビックリマンシールを元気一杯集めていた筆者からの妄想は以上です。

(平成30年3月13日 火曜日)

2018年3月12日

他人との適切な距離の取り方についての社会的合意がなかなかできないのがしんどいと思う話

ツイッターより「おじさんLINE」講座




おはようございます。

2018年3月の他人との適切な距離の取り方に関する配信記事です。

少し前より、主に若い学生、または働く女性の間で、いわゆるしつこいおじさんから読むのがしんどい、胃もたれするようなLINEメッセージをよく受け取ることがあって困る、といった記事がありました。

いつの時代にも他人の距離感がずれていて、このようにやたら一方的に距離を詰めてくる人は、別におじさんに限らずおばさんだろうがおじいちゃんだろうが、なんなら若い人でも子供でもあるわけですが、このような少数の人たちがいて少々困っている人がいるということが広く社会に認知されてしまうと、もっとよくない影響、すなわち本来距離を近づけてほしい人たちがやたら遠巻きにしか接してこないという問題が起こってしまいます。

つまり、セクハラやパワハラといった社会問題の「認知」が、これ以上ないくらいに職場や世間に浸透した結果、多くの「健全な」「普通の」おじさんが、若い女性(男性も含む)とうまく話し合う機会がなくなりつつあるという逆の社会問題を生むというパラドックスです。

「セクハラ」「パワハラ」という言葉は、すでに社会的一般名詞として人口に膾炙しています。

そして、男性の、特におじさんと自己認識している層のほとんどは、「自身の行動は全てセクハラだと指弾され批判される可能性がある」と認識せざるを得ない状況になっています。

何しろ毎週のように新潮や文春といった週刊誌にその手の話は載っていますし、#Metoo運動による大物著名人への告発といったネット社会を味方につけた運動も急速に高まり、これまで不当な待遇を我慢してきた(多くは女性の)芸能人の言葉を見ない日はないという状況です。

言葉や行動は、匿名性や時間の経過による忘却といった逃げ道を失ってしまいました。

「私や妻が関係していたということになればこれはまさに私は間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申し上げておきたい」

と約1年前に述べた言葉が繰り返し動画でアップされ、テキスト文字として駆け巡る世の中なのです。

そういうわけで、立派な中年おじさんであります筆者などの自己防衛手段としては、若い人たち、特に若い女性に対しては、「連絡の回数や接触は必要最低限にとどめ、かつオープンな場所で行い、セクハラパワハラなどと微塵も誤解をされないようにいわば木で鼻をくくった言動に終始しよう、なんなら直接話すのもやめてチャットで要件を伝えるだけにしよう」とするのが自然な行動になるわけです。

これは、おじさんおばさんと若い人たちとの間に横たわる、徹底的な「溝」になっています。

今の時代に、嫌がっているのに二人で飲みに行こうとしつこく誘うそんな典型的な昭和サラリーマンが多数派を占めるとは思いません。

しかし、社会にセクハラパワハラの「極端な」事例が蔓延してしまったことにより、普通の善良なおじさんが若い人に普通に連絡を取ることが非常に難しくなってきた、これは間違いないと思います。

どうも逆に生きにくい世の中になったのかもしれません。

こうなれば少子化高齢化まっしぐらじゃないでしょうか。

人の接触が減れば子供が少なくなるのは道理です。

みんなが目指したセクハラパワハラのない社会、どうも抑止効果が効き過ぎて、これではもっと前の高度経済成長期の終わりに言われた、

ビルの谷間の 川は流れない 
  人の波だけが 黒く流れて行く♪

あなたがいれば 
  ああ うつむかないで 
  歩いて行ける この東京砂漠♪

(唄:内山田洋とクール=ファイブ)

みたいな情景に戻ってきてしまったのかもしれません。

結局、セクハラとかパワハラとかに限らず、こうした社会問題の本当の解決策は、互いに誤解をされない程度の距離をたもつというコミュニケーションスキルの問題に過ぎないのではないかと思っています。

したがって、本稿の結論としては、

「こちらの心情を理解しようともせず、ひたすら距離を詰めてしつこく絡んで連絡をしてくるしんどい人」が、「適切な距離」を取ることができるようなスキルやノウハウが巷に広がることを期待したい、というところになります。

何事も、あまりにも神経質で、過剰とも思える対応をしてしまうと、却ってそのこと自体が人を傷つけてしまうことがあります。

これも、距離の置き方が適切でないことから起こっているのだと思います。

人間同士の心地よい距離感をつかむのは大変難しいところですが、適度なトライ&エラーで男性だろうが女性だろうが、とにかく「自然な人付き合い」ができるようになっていくのが理想です。

自分が忖度されたくないから上司には絶対忖度しないことをポリシーとしていきたい、「健全な」「普通の」おじさんではない距離感ゼロの筆者からの意見は以上です。

(平成30年3月12日 月曜日)

2018年3月5日

日本の大学教育の方向性がどうにも定まらないように思えて意見したい話





おはようございます。

2018年3月の日本の大学に関する配信記事です。

文部科学省によると、日本の大学は大学ごとに3種類に格付けして分類し、それぞれ管理するということのようです。

少子化で大学の経営環境はますます厳しくなる中、認可している私立大学、国立大学法人、その他公立大学や大学校も含めて、大学ごとの特色を明確にする、と謳っていますが、はっきり言って大きなお世話だと思うのは筆者だけでしょうか。

文部科学省の素案では、「世界的研究・教育の拠点」「高度人材の養成」「実務的な職業教育」の3種類に分類するとのことですが、一体日本の今からの将来の大学において、「世界的研究・教育の拠点」などと本当に言える大学があるのか甚だ疑問であります。

世界的研究・教育の拠点というならば、世界大学ランキングあたりでは、常時、そうですね20位以内くらいには常時入っていただいておかなければならないと思うのですが、21世紀に入ってからそうした日本の大学があったか、筆者の耳が遠いのか寡聞にして存じ上げません。

文部科学省によると、「世界的研究・教育の拠点」となる大学は世界でも卓越した研究力をめざし、博士課程を含む大学院を中心に、高度人材の留学生も呼び込み、国をリードする人材を育てるらしいですが、日本の有為な人材にとってみれば、正直米国や欧州、アジアの主要大学の博士課程(大学院)へ無償の奨学金込みで入れば良いし、学部生の能力と意欲さえあれば問題なく入れるので、わざわざ受験トリビアを駆使して日本の大学学部への異常なまでに厳しい大学入試過程を経る必要など本来ないわけなのです。

日本においては高専や地方国立大学の工学部電気系や機械系学科で学部生のうちはしっかりと勉強して、あとは英語と、できれば中国語とシミュレーション系に汎用的に使えるプログラミングさえできれば、そのまま全くフィルターなしで欧米の一流大学の大学院への道がまっすぐに拓けてくるのに、あえて日本の私立大学や国立大学の文系学部に行ってサークル活動やゼミ運動といったコミュニケーション系の活動だけしかやってなくて何の専門性もない学生のまま卒業を迎える段になって、それまで個性を重視した教育だの言っていたその口が、百人一色の同じ色のスーツを身にまとい、新卒一括同一待遇採用という謎の雇用慣行に縛られた日本の企業群へ一斉に就職活動と称して突っ込んでいく様は滑稽を通り越してむしろ哀れですらあると考えています。

個性を重視するなら、自分の好きなことを突き詰めるなり、専門性を高めるために大学時代という貴重な時間を費やすべきで、コミュニケーションや議論など、実は社会人になって背負っているものが大きくならないと、本気の付き合いや議論などはできないと思う分野のシミュレーションをやったところで役に立たないと思うのです。

さらに、文部科学省は自分が交付金をこれ以上出せないというところから、国立大学については法人化させ(直営をやめて)、私立大学を含む大学全般への運営交付金も減らしていっているのにどうして、このようなよくわからないカテゴリを付して管理を強めるのか、これこそ狭い日本しか見えていない日本の官僚仕事の最たるものではないかと思うのです。

世界の大学と本気で伍していくのであれば、高校卒業を半年早めて8月には卒業させ、世界標準である9月入学にしないと、日本の学生もいつも一年遅れの浪人生で不利ですし、日本の大学の留学生の受け入れも全く進みません。

日本の大学を所管する文部科学省も、本当はもういい加減国におんぶにだっこをやめて、大人なんだから自分で稼いで生きていってほしいと思っているくせに、例えば稼ぎのいいことを見つけてきても、それは世間体的にダメだとかくだらない容喙をして自主性を損ねているとしかいいようがないと思うのです。

どんなに経営環境が厳しくても、それを打開する方策を必死に考えて実行する組織だけが本当に生き残るのであって、たとえばイギリスのケンブリッジ大学なんかは世界最古の大学と言われるオックスフォード大学を街ごと追い出された流浪の学生たちがケンブリッジに流れ込んで創立した、というように、志さえあれば何とでもなると思うのです。

そのようなハングリーさがなければ、世界的研究機関など絵に描いた餅でありましょう。

それでも、筆者は日本の国立大学の中には、きちんとした運営戦略と有為な人材を糾合する仕組みを続ければ、研究や教育、そして実社会における名誉ある地位と実績を出せる可能性があるものが少なくないと思っています。

そういうわけで、日本においては受験シーズンですが、各大学におかれましては入試問題の出題が誤っていたといった瑣末な問題にとらわれるのではなく、世界と勝負する気概と意志を持ってほしいなと思います。

本当は東のハーバード大学に対する西のスタンフォード大学かオックスフォード大学から分離独立したケンブリッジ大学に留学したかった筆者からは以上です。

(平成30年3月5日 月曜日)