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2018年8月29日

「高等専門学校(いわゆる高専)」という選択肢があるという大事な話をしておきます







おはようございます。

2018年8月の卒業を控えた中学生の学習進路に関する配信記事です。

進学を考えるとき、「高等学校(いわゆる高校)」という選択肢が一番先に浮かぶと思います。

そして、高校も、いわゆる全日制の高校だけではなく、ネットで授業を行う定時制高校でも、高校卒業資格を得られて大学入試等に挑戦できる、それからの進路も開けるという話を以前しましたが、いわゆる高校に行く以外にも、5年制の「高等専門学校(いわゆる高専)」があることを知っている人は実はあまりいないと思います。

高専は、高校でもなく、大学でもない、中学卒業時から5年制の教育機関を持つ高等専門学校です。

法律的には、後期中等教育段階を包含する5年制(商船に関する学科については5年6か月)の高等教育機関と位置付けられている日本の学校で、学校教育法には、特に「深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成する」ことを目的として掲げられている由緒と歴史のある教育機関制度です。

ですので、設置主体も、「国」である場合が圧倒的に多く、2018年8月現在で筆者が調べた限りにおいては、全国に高等専門学校は57校あり、設置者別の内訳は、国立51校、公立3校、私立3校となっております。

圧倒的に、「国立高専」が多いのです。

そして、自宅からの通学が困難な学生に対しては、食事付きで寮費が実に(一例で)月学37,000円で済むという、超絶コストパフォーマンスの良い教育機関であり、修業年限5年の間の後期と呼ばれる3年間において、エネルギー、応用化学、環境生命、メカニクス、情報システムや建築土木といった専門知識を思い切り吸収できる充実したカリキュラムが組まれているのです。

そして、こうした高専卒の学生の就職率は極めて高く、一例をあげると地元企業から大手の有名企業、世界的なグローバル企業まで求人が殺到し、求人倍率は25倍以上と、高専のOBOGは世界中の企業等から非常に高い評価を受けているのです。

研究開発に不可欠な基礎的な研究知識や振る舞いを身につけた、20歳の前途ある若者たちを放っておく企業は無く、メーカーや研究開発企業において高専卒業生を採用することは、必須の企業経営戦略上の人事政策となっているのです。

さて、高専はこのように5年で教育を一旦完成することを標榜してきた教育機関としての歴史から、課程を終えた卒業生の大部分(70%)は非常に高倍率の求人情報の中から自分の希望する進路を選び取り就職していきます。

しかし、ここであえて筆者がお勧めするのは、ここから大学の学部の3回生へ編入する、もしくは高専の専攻科(2年)への進学を検討することです。

そして、いずれにせよ大学学部の研究室並みの基礎研究素養を身につけたら、自らが長い期間をかけて定めた研究分野の大学院にチャレンジすれば良いのです。

もはや、世界の研究教育機関としては100位以内がかろうじて定位置となっている東大だろうが京大だろうが、さらには海外の有名研究開発型大学だろうが、その分野の深い興味と洞察と実力さえあれば学生の方から選びたい放題です。

こうすれば、自らの興味のある専門分野について、高専を利用することで中学卒業後から即入ることができ、専門知識と世界標準のネットワークが構築できます。

大学院としても、このような「使える」人材は喉から手が出るほど欲しいわけでして、また学生の側も、国立高専から国立大学の3年次編入から大学院というコースを辿れば、いわゆる高校受験、いわゆる大学受験といった、専門性とはあまり関係なく広い知識素養をはかるという名目のもと単なる日本語有職故実クイズとなっている嫌いもあるのではないかと思料する大部分の世界標準からは外れてしまったローカルトリビア(あくまで私見です)で時間を無駄にすることもないのではないかと思うわけです。

投資の世界でも、「人の行く裏に道あり花の山」という、株式投資の格言といえば、何をおいてもまず出てくる言葉があります。

投資家とは、自らの判断と言いながら、とかく群集心理で動きがちなのです。

これが、いわゆる付和雷同というものです。

しかしながら、それでは当然のようにどんぐりの背比べとなり、大きな成功など得られないのです。

ここは、リスクは一見多いかもしれないけれども、むしろ他人とは反対のことをやった方が、うまくいく場合が多いという至言です。

高専卒の優秀な知人友人を多く知る、大学入試という専門性とはあまり関係なく広い知識素養をはかるという名目のもと単なる日本語有職故実クイズとなっている嫌いもあるのではないかと思料する大部分の世界標準とは外れてしまったローカルトリビア(あくまで私見です)を経験したせいか、そこからの意識解放がなかなか進んでいない筆者からの「感想」は以上です。

(平成30年8月29日 水曜日)

2018年8月13日

女性の活用とかいう言葉を無くしたいと強く思っている話について書きます







おはようございます。

2018年8月の働き方改革に関する配信記事です。

いきなりですが、人手不足で外国人を採用するといった論調が起こっており、その受け入れる人に日本語能力のどの程度を求めるかといった各論も盛んに議論されています。

現に、建築現場や農業の現場、そして卑近な例ではコンビニエンスストアにおける外国人労働者の比率は増す一方です。

しかしながら、日本には、まだまだ活用されていない労働力はたくさんあります。

まずは共働き率が世の先進国に比べてはるかに低いこの状況においては、大人の男も家事をしなさすぎるし、大人の女も家事や育児を抱え込んでしまい、他に預けて仕事をするようにするというインセンティブをつけるようにするのが先だと思うのです。

女性の活用、とかいう言葉が横行すること自体、ナンセンスです。

言うなら、筆者も含むおっさんの(家事や育児や地域活動への)再活用、と置き換えた方が良いくらいです。

世の中、丸一日働くといった「働き方」ばかりが普通であるという形を変えないと、このマルチタスクの世の中に対応していくことは難しいでしょう。

これは、プライベートと仕事(ワーク)のバランスということではなく、普段の生活から、働くことと遊ぶことや学ぶことが渾然一体になってきている、ということからも、明らかなことです。

最近の企業研修でも、すでに決まったビジネスマナーやスキルを学ぶというより、所属する組織が持ち得ていない観点や視点、そして技術分野を積極的に求め、若手に会社を一気にブレイクさせるだけのパワーを求める、といった傾向の方が強くなってきていると思うのです。

実は、会社の幹部や経理担当、管理部門については、外からの採用が容易です。

管理者としての社長すら、それなりの報酬を示せば外から引っ張ってくることは可能です。

しかしながら、その会社が世の中に存在する本当の価値を体現するノウハウや技術や販売体制や社員そのものの存在やネットワーク、については、いくら管理者を代替しても得ることはできません。

それこそ、企業存続の本源的価値として、大事にしないといけないところなのです。

働き方改革とは、本当に人員が不足して多様な職場を選ぶようになった、というある意味望ましい労働者環境に戦後初めて置かれた我々が、本当に自分のこととして働くようになるようになるまたとない機会であるとも言えるのです。

それでもやっぱり1日くらいは朝からぐうたらしていたいと考えてしまう、向上心の少ない筆者からは以上です。

(平成30年8月13日 月曜日)

2018年8月6日

平成末期に昭和末期の30年前を振り返り常識というものが如何に変わるか確認したという話です







おはようございます。

2018年(平成30年)8月の常識を疑うべきという配信記事です。

常識に縛られるなとか常識を疑えといった言葉がよく聞かれるようになりましたが、そもそも常識なるものが平気で変遷するものであるということは、実は少し歴史の勉強をしたり、ほんの近い過去のことを振り返るだけでわかるものではないかと思います。

例えば、百年に一度の(金融)危機、などと2008年に起こった米国の金融機関であるリーマンブラザーズの破綻に端を発した世界的金融不安のことを言ったりする向きがございますが、たとえば我が国で百年遡れば、そこは日本が国家の存続をかけて当時の世界最強の陸軍国であるところのロシア帝国と朝鮮半島そして満州の荒野や日本海黄海をまたにかけて限界まで戦い通した、こちらから言えば日露戦争を戦っていたわけであり、数十万人の犠牲を強いて国の予算の数年分を使い果たしたこのような出来事に鑑みるに、簡単な気持ちで軽々しく百年に一度の〜などと申し上げるべきではない、ということであろうと思います。

当時は、日英は軍事同盟を結び、共に対抗してロシアの極東進出を阻もうとしていたのです。

まさに、現代の地政学で言われている通り、シーパワー(海洋国家)連合によるランドパワー(陸軍国家)の封じ込めであります。

今回、アメリカが離脱したTPP(環太平洋パートナーシップ協定)に、太平洋上にも領土(ピトケアン諸島)を持つイギリスが参加を前向きに検討している、というニュースに触れ、これこそ100年越しの日英同盟の復活かとひそかに心待ちにしている筆者です。

のちに太平洋戦争で互いに争うことになる両国が、この時点でここまで緊密な関係にあったということを見るだけで、常識なるものが簡単にその姿を変えることの何よりの証左であろうと思います。

百年というスパンから、もう少し近場の過去に目を転じてみましても、例えば平成末期からたかだが30年ほど前にすぎない昭和末期では、以下のようなことが「常識」でありました。

昭和末期
その1 保護者から教師へ「先生ウチの子言うこと聞かないなら殴って下さい」
その2 部活の顧問や先輩「練習中に水飲むな!」
その3 家には黒電話で路上には公衆電話
その4 会社は終身雇用制度

こうして並べてみますと、その時代を当然知っている我々のような中年世代を超える人以外には、一体何のことやらわからないこともあるのではないでしょうか。

1や2などは強烈すぎます。

3もびっくりですし、そもそも電話がなぜ黒いのか不明ですし、4などすでに歴史上の言葉のように思えます。

この1−4を、平成末期の「常識」で並べてみますと、以下のようになるでしょう。

平成末期
その1 学校での教師による体罰は即懲戒処分
その2 熱中症対策で常に水を飲むように
その3 スマホ/タブレット/インターネット
その4 派遣切り

こうしてみますと、たった30年で、人間の常識なるものは全くもって変化するものであり、1や2のように真反対になるものすら相当程度あるということです。

そうすると、いっ時の常識なるものに縛られていては、その後大いに生きにくくなると言うのは自明でして、当然その当時の世の中で大切にされているものである「常識」に対しては一定の尊重を見せつつも、常にそれは変わりうるものであるということを肝に銘じて、日々の変化に敏感に過ごした方がより幸せに過ごせるのではないかと思いました。

ところで、昭和生まれの小さい頃からドラゴンボールが好きで、今でもドラゴンボールをみているこの点では常識に変化のない筆者からの意見記事は以上です。

(平成30年8月6日 月曜日)

2018年7月30日

テクノロジーの進化は素晴らしいですが策士策に溺れることにならないように注意したいという話です







おはようございます。

2018年7月のテクノロジーの進化とそれに関する人間の反応に関する配信記事です。

筆者の職場の近く、というか同じ施設の中には、長らくマクドナルドのお店がございます(最近改装オープンしました)が、そのお店は、カウンターごとに人が並ぶ、いわゆる原始的なパラレル並びに終始しており、公平性に勝ると思われるフォーク並びを頑なに拒んでおります。

ファストフード店、という業界の草分けという存在なのに、どうしてこうなるのでしょうか。

もちろんフォーク並びをやっている他のマックのお店もあると思いますが、例えばもっと都心の繁華街のマックでは、明らかにフォーク並びは忌避されているようなのです。

他の、日本発祥のサービスであるコンビニエンスストアチェーンにおいては、セブンもローソンもファミマも、みなフォーク並びを行っていますが、この違いはどうして起こるのでしょうか。

結論を先に述べますと、都心で繁盛していてお客の来客頻度が非常に高い店、しかも店内は賃料の関係から利用する人に比べて非常に狭い店であればあるほど、実はフォーク並びが効率的ではない、というのが応用数学の世界での待ち行列理論では確立されているらしいのです。

すなわち、フォーク並びとは、時間当たりの総処理量(一人一人の効用ではない)であるスループットと呼ばれる効率性尺度を若干犠牲にしたうえで、先に並んでいる人が、後から並び始めた人が先に窓口に到達するというストレスを無くすことを徹底するというシステムであるということなのです。

時間当たりの総処理量を、総体で短縮することを素直に考えれば、フォーク並びなどという「手間」をかけずに、ひたすらパラレル並びを行えばよいのです。

複数の窓口がありますが、窓口からフォークの根元の人に向かって「こちらの窓口にお越しくださいー」と呼び掛けてきてもらうという「手間」がなく、各窓口はその最大効率で持って業務を処理します。

もちろん、処理速度の速い窓口と相対的に遅い窓口はあり、また並ぶ客の方も、注文が速い顧客と比較すれば遅いお客がいるでしょうから、その組み合わせで個々の顧客が窓口にありつける時間には差異(ボラティリティ)が生じるのは仕方のないことです。

しかし、全体の処理速度としては最も早くなるのです。

反対に、フォーク並びの場合、窓口が空いてから次の人がくるまでの時間、窓口は仕事をしていないという、待ち時間が生じてしまうのです。

これは致命的です。

例えば、注文1件あたりの処理時間がわりに短い単純作業の場合であれば、これは無視できない暇時間ということになり、例えば、窓口処理に60秒かかる業務の場合、歩いて窓口にたどり着くまでの時間平均が仮に10秒とすると、これだけで業務時間が1/6、すなわち16.7%も増えてしまうということになってしまうのです。

しかも、フォーク並びは、フォークの根元から各窓口へ個々人が向かう「スペース」を必要とします。

フォークなんだから当たり前なのですが、ここも人が並ぶことに使えてしまうパラレル並びの方が、実は店内に人が整然と並ぶことになり、非常にすっきりするという効果もあるのです。

もちろん、筆者のような、焦りのない、ぬぼーっとしていて待ち行列の横の人の方が先に行ったとしてもそれはそれで自分のこととは直接関係ないと達観している者ですら、場合によってはフォーク並びの公平性、すなわち先に並んだ人から順番に窓口に到達できる、というシステムは日本人的で好むものではあります。

しかし、全体の処理速度を上げたい、と考えた場合、フォーク並びにするためのコストや時間がどうしてもかかってしまう、ということは知っておいて良いことだろうと思います。

フォークでパスタを食べるのが苦手で、やっぱりお箸で食べてしまう日本人的な筆者からの記事は以上です。

(平成30年7月30日 月曜日)

2018年7月28日

コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です







おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

2018年7月22日

何事も始めるより終わらせる方が大変で体力を使うという一般的な話をいたします






おはようございます。

2018年7月の何事も始めるより終わらせる方が体力を使うという配信記事をいたします。

進学とか就職とか結婚とか、家の購入とか、人生においては非常にその後を左右する大きな決断をすることに迫られることがあります。

そうした時に、「そうしない」という決断をすることは割と容易なのですが、一旦、そうした決断をした後、しばらくやってみてやっぱりこれってちょっと合わないよな…、と思ったところで「辞めること」については非常なエネルギーが必要になってまいります。

例えば、退職です。

会社辞めるだけなのですが、これは結構大変です。

筆者が最初に辞めたのは、2003年6月当時のみずほコーポレート銀行(2018年7月現在のみずほ銀行)という名前の銀行業をやっている会社でしたが、正直退職が組織的に決まるまでにかなりの自分の内心の葛藤があったのは事実です。

そして、直属の上司の課長代理に退職の意思を伝えて、課長、次長、部長、そして人事にも同じことを伝え、同じこと、といっても「退職します」の一言ではなんとなくダメで、どうしてそのような決断に至ったのかをそれぞれが聞きたがり、どこへ行くのか転職するのか、ということを面談する上司以外の周りの同僚先輩後輩にも非公式に聞かれ、個別に飲みに行き、内々に後任者が決まり業務の引き継ぎをして、そして退職日には終礼時に一緒にやっていたみなさんに対して惜別の挨拶をするという、そのようにかなりのエネルギーが必要でした。

別に距離的物理的業界的にごく近くの会社に転職するだけで、地球の反対側や宇宙の果てに出向くわけではないのにです。

そして、残った有給を1日も消化せずに、次の職場に翌日出社して行く、というような状況だったのです。

本来ならば、職場が変わるという人生の割と節目であることから、有給も消化したいし新しい会社での出社日から逆算して心身整える準備期間なり少しは欲しかったのですが、当時は平成15年とまだまだ時代は昭和の労働慣習が色濃く残っておりまして、そんなことは叶いませんでした。

辞められただけで、ラッキーといえる、そんな時代だったのです。

正直、辞めるだけなのでもっと簡単にできるはずです。

しかしながら、特に昭和生まれの筆者世代(2回目の成人式を迎えている程度以上)については、なんだか会社は辞められないという妙な勘違いをしている人が意外と多く、そこまで思い込んでいなくても、忙しいので辞められない、とか辞めるのは裏切りかといった罪悪感が先に来て、どうも重苦しい感じがするのです。

では、退職を決めたらあとは弁護士に任せて、そして会社との交渉を全て弁護士を通じて行う、という方法もありますが、費用面等を考えるとそこまでやることは気乗りしない、ということになってしまうし、いきなり弁護士を立てて「交渉」するなどそれこそ会社に与えるインパクトが大きすぎる、こちらは淡々と退職して次に行きたいだけなのに…、という退職潜在ニーズに対して、最近では「退職代行サービス」なる、交渉を全くしなくて単に会社の窓口になってもらうというサービスが始まり注目されています。

初回の退職については基本料金5万円(正社員の場合)。

そして、2回目以降の同サービスを利用した退職については、1万円の割引がきくそうです。

退職の代行、にすぎませんので、代行業者は依頼者が退職したい会社に対して、依頼者の退職したいという意思を淡々と通知するだけです。

そして、代行ですので、会社からの連絡も代行業者に入れてもらって、そっくりそのまま依頼者に伝えます。

間に入った代行業者は、会社との交渉はもちろん、本人との交渉も一切しない、という淡々さが逆に受けています。

ミッションは、退職の完了です。

それまでの連絡の仲介については回数無制限です。

依頼者の意思として、会社側に対して、「依頼者本人には連絡しないで欲しい」ということも、これも依頼者の言葉としてそのまま会社に伝えることももちろんできます。

退職届や、保険証の返却といった書面のやりとりは、郵送で全く問題なく、この代行業者に依頼した以上、依頼者は出社する必要はありません。

これは、どうしても本人が退職の意思を言い出せないケースにまず有用です。

また、退職の意思を伝えているのになんやかんやと辞めさせてくれない会社に対しての強力な援軍となります。

第三者が間に入れば、職場での同調圧力といったものがかなり減殺されて、対等な会社と従業員との淡々とした冷静なやりとりになり、退職というドラマは通常の「手続き」になってスムーズに進んで行くのかもしれません。

従業員本人に対しては、辞めるなという強い態度が取れたとしても、本来心が離れている組織に対して忠誠を誓わせてもそれはなかなか本人のモチベーションやパフォーマンスの向上に繋がらず、会社側としても期待する働きをしてもらえず結局お互い不幸になってしまうのではないかと思うわけです。

もちろん、突然今日辞めます、などと引き継ぎもなく会社の取引先に迷惑をかけるなどの損害が生じることがないとは言えず、そのような場合、会社から損害賠償の請求を受けるというようなことが絶対にないとは言い切れませんが、こうしたサービスによって、労働力の流動性が高まるのは、この人手不足の日本の状況に鑑みると、経済社会全体によって有用であると思います。

一旦始めたら辞められない、これでは気楽に始めることができなくなるという点で、始めやすく辞めやすい社会を目指すのも良いかと思いました。

昭和生まれでありますが、最初の退職以降、わりと頻繁に退職(3回以上?)を繰り返している筆者からは以上です。

(平成30年7月22日 日曜日)

2018年7月12日

自らはいい歳でもう自分は絶対にやらないことを他人特に何も知らない子供や年少者に勧めるのは欺瞞と思うという話です







おはようございます。

本日は若干筆致強めでまいります。

2018年7月のマスコミ大新聞の記事に関して筆者があくまで個人的に思うことを空気読まずに述べるという配信記事です。

2018年7月9日(月曜日)付日本経済新聞の夕刊(第4版)という日本有数の大新聞の一面に「あすへの話題」というコラムがありますが、この日の内容は、コニカミノルタ取締役会議長の松崎正年氏が書いた「「はだしっ子」が原点」という文章でした。

少し引用しますと、

「(子供時代は)毎日自然と格闘していた。子供たちは群れを作って元気に遊び回っていた。今日のモラルでは非難されるべきことも沢山あったが、多くの経験を重ね、体力・気力・感性・知恵等々、生きていくための基盤が知らずして育まれ・・」

「(中略)・・踏切の無い線路を北側に歩いて渡って、・・・暗くなりコウモリが飛び回る時間まで遊び回っていた。(線路の)南側に住む子供と北側に住む子供の石合戦をはじめ、落とし穴を掘ってサバイバルゲームをした・・」


といった一見、さらっと読めば昔は良かった的な牧歌的な話が語られています。

しかしながら、少し注意して読むに、さすが、取締役会議長ともなると、昔の想い出話を書くだけで大新聞の一面を飾れるのかと思う気持ちと、こんな文章をよく掲載OKした新聞編集側の危機意識の欠如と二重基準(ダブルスタンダード)に控えめに申し上げて当惑というか、率直に言って大いに落胆失望したのです。

どこが筆者の感性を大いに下方方面に刺激したかと少しだけ説明いたしますと、これだけ幼少期のいじめとか職場でのパワハラやセクハラ、学校大学でのアカハラ(アカデミックハラスメント)といった問題が取りざたされていて、児童や学生、従業員や社員、働く人々個人のモチベーションを維持向上させることが急務とされているのに、こうした問題点には何らの解決方針も示さず、幼少時の腕白遊びや「危なそうなところで危なそうなことをする遊び」こそ万全の解決策だと思い込んでいる、救えない懐古趣味です。

控えめに申し上げて迷惑ですし、率直に言って有害です。

もし本当にここに書いてあることがいいことであれば、年の大小に限らず、この筆者も、いい年なんでしょうが、今からも現役で「踏切のない線路を渡って」「石合戦」だの「防空壕探検」して、「今日のモラルでは非難されるべきこと」も沢山やればいいのです。

モラルで非難されるどころか、立派な犯罪です。

集団でのいじめや暴力暴行は暴行罪であり傷害罪ですし、踏切横断は鉄道法に道路交通法違反、落とし穴は(自分の土地でないことはほぼ確実でしょうから)不動産損壊罪や侵奪罪にあたります。

子供が暗くなって徘徊していたら、青少年保護条例で補導されます。

老人の徘徊だって警察保護の対象です。

または犯罪予備行為として職務質問の対象にもなりましょう。

さらに、このようなことをやったら今の世の中、いじめ、鉄道法違反、暴行障害としてすぐさま拡散され、思い切り世間の非難を浴び、SNSで叩かれ、そして学内アンケートによる教育委員会からのいじめ公表に始まり捜査機関の捜査と司直の裁判、そして大マスコミ(当然日本経済新聞も含みます)の格好の記事ネタとして長く繰り返し繰り返し晒されることになること必定です。

新聞の方も、こうした無責任なる文章を掲載しておきながら、いじめ問題などが起こると徹底究明が必要だと叩き批判するのはダブルスタンダードも過ぎる卑怯な対応だと思います。

現代を生きている、企業の経営者、管理職、そして学校の教諭や校長、そして家庭で実際に日々の子育てに奮闘している保護者や親に対して、この文章は全く、何ら有益なソリューションを提供していません。

石合戦して、自分の子供の目が見えなくなった怪我を受けたら、親としてはどうすればよいのでしょうか。

または、管理している学校の責任は?

怪我させた子供本人と、その保護者の教育責任は?

地域社会の取り組みは?

再発防止策は?

そんな特集記事を、大新聞やマスコミは、こぞって書き立てるのではないでしょうか。

それで、記事の閲覧数を増やそうと姑息にも考えるのではないでしょうか。

だいたい、はだしで駆け回って押しピン踏んで大怪我した、という場合ですら、裸足で走らせる方が悪い、いや押しピンを使わせている学校が悪い、という論調になるのが、今の大新聞・マスコミの大多数の報道姿勢ではないのでしょうか。

筆者は(筆者ももういい年ですけど)小学校のとき、普通の運動靴で外を走っていたら割れた瓶で凹型になっていて尖った部分を踏んづけてしまって、ガラスが足裏に刺さり、静脈を傷つけたのでしょう、靴下と靴が血でべっとり真っ赤に染まって大変なことになりました。

割れたビール瓶と破片はそこらへんに転がっている、そんな時代だったのです。

その時は危なかったな、注意して走らなきゃな、という感想くらいしかないですが、靴ですらそうなったのだから、やはり裸足は危ないな、というのが本音のところです。

防空壕探検なんて、天然洞穴探検で閉じ込められて1ヶ月近くかかって保護されたタイの子供達を笑えないのではないでしょうか。

もはや自らは功なり名を遂げた「いい年」であることを理由に、自分は絶対にもうやらないことを、他人、とくに何も知らない子供や年少者に勧めるというのは、大いなる欺瞞だし不誠実な態度だと思うのですがいかがでしょうか。

真におすすめすることであるならば、せめて野山を駆け回る、というところで止めておけばいいものを、俺だって昔は悪かったんだぜ、というのを公表して反省もなくかっこつけるじいさん経営者、控えめに申し上げても痛いしあまりにも恥ずかしすぎるのではないでしょうか。

恥ずかしい、という感覚すらないのではないかと思うのでした。

これと同じ文章やコメントを、70歳無職独身生活保護者の独居老人(男)が発した場合、受ける印象は全く変わると思います。

ですが、やったこと、は「やったこと自体」で評価されるべきで、「やった人」によってやったことの評価が変わるのはおかしい、ということです。

これは、筆者も大学法学部の刑事訴訟法のゼミでも、罪刑法定主義、ということで学びました。

ゼミでは圧倒的な劣等生であり不勉強であった筆者ですら覚えています。

大統領だろうが総理大臣だろうがスティーブ・ジョブズだろうが街中の浮浪者だろうが子供だろうが、言っていることは言っている人と分けて考えるということが必要なのではないかということを改めて強く思いました。

少なくとも、石合戦で怪我をした知人や知り合いが筆者のまわりにいたとしたら、筆者としては悲しいですし、小さい頃、冬の雪合戦で石を入れたのか偶然入ったのかが目に当たって失明寸前になった知り合いがいた、という話をリアルに知っている世代としては、全て子供のはだしっ子遊び、と割り切れる自称大物経営者、その想像力の宇宙レベルの粗さに驚きの思いを禁じえません。

いつもは適当な記事が多いのですが、こうした自称大物の「肩書ビジネス」に惑わされない、健全な批判的精神を持ってこれからも生きていければと思いまして、少しだけ筆者独自の解説をさせていただきました。

コニカミノルタのカメラなどは幸いにも持っていませんが、とりあえず他人のふり見て我がふり直せ、と改めて締め直したい筆者からのコメントは以上です。

(平成30年7月12日 木曜日)

2018年7月10日

反射的に概念を理解できる漢字かな交じり文という日本語の優れたところについて考察する






おはようございます。

2018年7月の漢字に関する配信記事です。

上の作文は、最初はさらりと読んでしまいますが、おかしいと思って読み返すと気持ち悪い文章です。

なにしろ、使われている漢字が実に半分間違っているという状況なのです。

それでも、なんとなく語感で意味を取ることができるのが漢字かな交じり文という、世界でも独特の文字文化を持って、日々学校や教育現場でそれを鍛え続けている日本人の優れた認識能力ということになります。

これは、表意文字と言われる日本語の「漢字」の持つ素晴らしい機能でありまして、特に漢字2文字の「単語」の種類はことのほか多く、2語を瞬時に意味ある概念につなげて認識することができるのは、漢字かな交じり文を小学校1年生(6歳)からひたすら読み書きして訓練している賜物です。

ですので、「文宇」も「文字」とすんなり読めますし、「埋解」も「理解」できるのです。

文字の字が宇宙の宇と書くことは、通常では極めて稀でありますし、理解の理が埋めるという文字になることも、めったに起こりません。

この、あり得ない組み合わせ、を自動的に排除し、あり得る組み合わせを瞬時に脳内にフラッシュバックするというのが、いわゆる学習効果ということになります。

そして、こうした地道な学習や勉強の「訓練」や「習慣」がついたものにしか、本当に新しい発想や仕組みというものは「降りて」来ないものなのかもしれないと思いました。

そのためにも、日々勉強する姿勢や習慣を大切にしたいと改めて思いました。

今日から勉強、と思いながら明日に先延ばししてしまうことだけは得意な筆者からの意気込みは以上です。

(平成30年7月10日 火曜日)

2018年6月8日

個々の受講者や部員の現状のスキルに応じた個別の教育プログラムを施す必要について







おはようございます。

2018年6月の学業やスポーツ、芸能などの習熟や進化のための教育に関する配信記事です。

学業でも、いわゆる部活動のようなスポーツでも、芸能ごとであっても、文芸や絵画、音楽といった芸術分野であっても、その他プログラミングだろうが実験だろうが英会話であろうがなんでありましょうが、いわゆる教育による習熟度を上げていく仕組みとしてこれまでの人類社会でずっと行われてきたのが「スクール形式」と呼ばれる集団座学教育です。

これは、黒板(緑の場合が多いですが)に板書しながら、習熟度に長けた先生が、決まったテキストを用いてその解説を行い行間を示す授業形式を取ることが多いです。

この授業形式自体については、問題はないと思うのですが、問題は、この単一の一連の授業を受ける受講生側が、少なくても二十人程度、多いと数百人程度にも上ってしまうというところにあります。

受講生の側の「今から受けようとする」授業の現時点での理解度は、まちまちです。

それなのに、1人の講師や指導者の1つの授業というソリューションしか提示できないのは、あまりにもミスマッチであると言えるのです。

具体的には、上に示したグラフのように、教える側(教授側)において、一定のレベルで受講者側の学力習熟度は、逓増していくという風に割り切って、その進度に応じた最大公約数的な授業で進んでいくということになりがちです。

そうして、残念ながら、その教授側で勝手に設定した授業やスポーツ学習の進度についていけないスピードの生徒は、容赦無く切り捨てられてしまうことになります。

では、その授業の進度を遅くすれば問題は解決するのでしょうか(護送船団方式)。

やはり解決しません。

逆に、進度が早い生徒のモチベーションを著しく下げ、彼らの能力の伸びを頭打ちにさせてしまい、教育機会の欠如となってしまうのです。

これでは教える側も教わる側も、そして教わる側に確実に散在する進度が早い生徒も遅い生徒も不幸です。

さらに、同じ人物についても、教わる科目というのはそれこそ何百種類もあるわけですので、それ毎に、得意科目不得意科目といった偏りができてしまうというわけなのです。

これを防ぐには、各科目、できるだけ細かい進度を設定したクラス編成をするか、もしくは教えることをブロック形式にして、授業ではなくタブレットの視聴方式にして、ある課題がクリアされたら次の課題(ステージ)という風に考えざるを得ないのではないかと思っています。

すなわち、ゲーム的に段階を追って、スーパーマリオブラザーズのステージ1-1から8-4まで、順番に個々の受講者(プレイヤー)の進度と理解度習熟度に合わせて進めていくしかないのではないかと考えるようになったのです。

そして、インターネットとテクノロジーの進化によって、こうした個別切り分け授業の随時視聴ということも全く可能となった現在、教育プログラムも大きく変わることが期待されます。









すなわち、この図のように、まっすぐ切り上がった進度の早い学習者には、どんどん先に進んでもらうようにカリキュラムを自動的に高速回転することも簡単にできますし、標準的な進度の学習者にはそれに見合った学習速度で伸びてもらうことができます。

また、一旦つまづいて、または大きなブランクを感じた生徒で習熟度がその間全く上がらなかったとしても、次に態勢を整えて勉強をやり直してまたゾーンに入って急速に追いつくペースができたとするならば、一気に習熟度を急上昇させることもできるわけです。

なにごとも、習熟には、長い期間に渡っての、間を置いた反復が必要です。

ですので、あまり幅の広くない、限られたペースでの授業については、そこから外れた場合のリカバリーが大変ですが、そのあたりのつまづきも考慮に入れた、懐の広いカリキュラムの中では、なかなか脱落しないし、また進度が遅すぎてつまらなくなってしまって頭打ちになるというリスクも低くなろうかと思います。

これは、学業に限らず野球やサッカーのようなスポーツ競技でも、演劇や文芸、もしくはお笑いや芸能といった分野でも全く同じことが言えると思います。

個々の成長カーブに即した多様なカリキュラムを提示する、これがこれからの教育機関や指導者に求められるマルチな才能であるのかもしれません。

さて従来、伸びが今一つのままこの年になってしまいました大器晩成型の筆者からの意見は以上です。

(平成30年6月8日 金曜日)

2018年5月8日

教育動画コンテンツの昨今の急速な進化について考察しました






おはようございます。

2018年5月の教育授業に関する考察記事です。

昔から、中学で英語を始めるときに英語教師から進められるコンテンツの一つに、NHKラジオ講座の「基礎英語シリーズ」があると思います。

筆者も中学生の時に聞いていましたが、筆者の頃の「This is a pen. (これはペンです)」的な例文ではく、最近のはそのまま日常会話に出てきそうな超重要な言い回しや使える例文のオンパレードで、プログラムの進化を感じます。

最近は、基礎英語1でデートに出かけたりするんですよ!

それはさておき、更に、テクノロジーの進化とは凄いもので、ラジオ講義にとどまらず、ビデオ講義の視聴環境も格段に向上しました。

筆者も学生時代に司法試験の勉強をやりまして、実際の予備校に通う時間を効率化するために、ビデオ講義を8㎜フィルムに撮ったものを講座料として購入し、専用の再生機も買って自宅で流して勉強したものですが、現在においては、タブレットやスマホ一台で、専用アプリを使えばそのようなビデオ講義も廉価で見放題となっております。

さらに、そうしたビデオ講義ですが、筆者が聞いていた司法試験塾「伊藤塾」の伊藤真講師の凄かったところは、講義のスピードが非常に速くて聞いている方が退屈しない、というところだったかと思うのですが、最近はテクノロジーの進化で、講義の視聴自体を、1.25倍速~2.00倍速あたりまで可変速度再生できるため、丁寧にゆっくりした講義であっても、例えば倍速にするだけで、非常にスピーディーな効率的な授業に変貌するのです。

伊藤真講師の時代は、講師の能力で講義自体を高速化することそのものが価値でしたが、テクノロジーの進化により、視聴側で自由に速度を変えられるということは恐ろしい進化だと思います。

これにより、同じ内容でも理解度に合わせて等速で聞いたり倍速で聞いたりすることができ、学習において本当に必要な「自分のわからないところをわかるようにする」ことが間違いなく効率的にできるようになったと思うからです。

現在、リクルート社から、「スタディサプリ」という講義シリーズが出ていますが、これは中学受験を控えた小学校4年生から大学受験、さらには社会人向け講義、それから英検やTOEICといった資格試験にも対応している現時点では最強クラスの教育ソフトだと思っています。

筆者が昔高校生だったころ、Z会や進研ゼミから専用端末と共に送られてきた英語や数学のポイント授業(今考えると超遅いけれども当時としては画期的なソフトだった)をはるかに上回る効率性と深度の深さで、ラインナップが揃っています。

今の中高生の教育環境の激変ぶりには驚くことばかりです。

これからも、一人一人の実情に沿った教育システムの進化は進んでいくと思います。

全ての人に、ベストチャレンジができる教育環境が整えば日本ももっと良い国になるのではないかと思います。

さて、よい講義に巡り合えたものの本人の努力不足で学生時代司法試験には受かり損ねましたが、まだ負けたと思っていないので、いずれリベンジする気満々の筆者からは以上です。

(平成30年5月8日 火曜日)

2018年5月6日

新しい時代の組織マネジメントスタイルについて考えてみたという話です

部長






おはようございます。

2018年5月のマネジメントスタイルに関する配信記事です。

平成という時代があと1年となってきている現代においても、未だ組織のマネジメントスタイルはあまり変わっていないように思います。

すなわち、組織の力は数の力、率いる部下の数が多いのが良くて、その階層がきっちり分かれていて、新卒、ヒラ、主任、課長代理、課長そして次長がいての部長、みたいな組織がかつては理想とされたようです。

そんな昭和の組織は、例えば銀行の営業部隊、ゼネコンの受注部隊などがそうであったように、営業本部は営業本部長に役員が就任し、そして営業部長にその会社の帰趨を握るバリバリの叩き上げ、そしてその下に複数の第一課、第二課、、と続き、課ごとに地域別業種別取引先区分がなされて各課長は激しく相互に競争させられ、そして営業部長は営業成績全体の責任を、ときに管理部門の役員より多く負い、プレッシャーに耐えながら夜毎の接待や打ち合わせに消えて行ったのです。

筆者もそんな営業第何部、というような組織に属して夜な夜な接待に繰り出したり早朝から特急あずさに乗って遠く信州松本や清水の次郎長の清水港まで、取引先を訪問しに行った経験を持っています。

さて時代は平成となり、バブル経済が弾け、そのような重厚長大営業スタイルはだいぶ遠くなりました。

しかも平成も末期になると、日本社会を覆う少子化の波は、労働人口の急減という形で各職場を直撃し、かような末広がりの若手がたくさんいるという組織スタイルを全く許さなくなりました。

ここにきて、部長や課長といったマネジメントスタイルも大きく意識変化をしなければなりません。

すなわち、自ら動くプレイングマネジメントスタイルへの変容であり、これまでの、組織の上にデンと座って全体に睨みを聞かせる「ボス」型ではなく、係員一人一人と目標設定で折り合える「リーダー」型であることがより求められるのではないかと思うのです。

そうして、これまでは一般に上位の職位にあるものの方が社会経験が多い=年上であった場合が多かったですが、そのような年功や年上優遇といった形はだんだん溶け出し、仕事をする組織として企業は洗練されていきます。

年齢序列の逆転も普通に起こります。

女性や(日本人にとっての)外国人の社長、女性の会長、役員、部長に本部長、課長に課長代理も普通になってきます。

すなわり、仕事、業務の遂行能力によって企業は各従業員を格付けし、その組織の利潤向上に最も資するようにバランスをとって従業員の職位配置、人員配置を行い、そこに一切の忖度や妥協はなくなっていくということになります。

なんとなく若い時は横並びということはなくて、その都度その都度、若手が少なくなっていることから余計にシビアに、どのような環境におけば個々の従業員の能力開発が図られ、ひいては会社の利益になるのか、会社は冷徹にそこを見極めようとするのです。

社長や役員も、これまでのように多くの部門、多くの部下を直接に率いていることで権力の源泉にしたという時代も終わりました。

重要なのは、会社を次のステージに持っていくことができるかというビジョンであり、それを実行できるだけの覚悟やマインドセットができるかということの方になったのです。

ですから、これまでは「部長がそんな仕事をしなくてよいでしょうに」といったことは通用しませんで、例えばライドシェアサービスを展開したければ、社長自らが一日街に出て、実際に15分100円のシェア自転車を街中で実際にアプリ起動して乗ってみて移動してみて、そして使い勝手(使えない勝手)なりなんなりを一利用者の立場として感得しなければならないのです。

大変な時代になりましたが、それはそれで考え方によっては面白い時代になりました。

あまり仕事はしたくありませんので、仕事はできる方々にお任せしてうまいこと逃げ回れないかなとひそかに思っている筆者からは以上です。

(平成30年5月6日 日曜日)

2018年4月29日

「日本といつでも対話の用意」と朝鮮半島南北首脳会談で北の将軍が述べたことについての印象






おはようございます。

2018年4月の国際政治と近所の不良(我が国国内)についての配信記事です。

例えば近所の不良高校生(未成年)がいたとしまして、その彼/彼女が、例えば近所の一般人や同級生に対して暴行障害事件を繰り返していたのを、「このたび暴行や障害を行わないことに向けた努力を開始する」旨を宣言したとして、それを受けて、それまで甚大な被害を被ってきた近所の人や同級生らが諸手をあげて歓迎のコメントを出す、ということはあまり想定できないことです。

しかしながら、この話を国際政治に引き伸ばして見ますと、同様なことがいわゆる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国と名乗っているが国交がないため我が国からそのように公式に呼ぶことはできず単に便宜上北朝鮮と呼ぶ領域)の事実上の首領(こちらも正式に認めている国家の代表ではないため、いわゆる事実上の最高指導者という言い方でしかありません)である金正恩氏が行ったことについては、特に日本の大手マスコミはこぞって楽観的希望に満ちた報道をしているように感じています。

非常におめでたいことだと思います。

国際政治の状況のことではなく、報道者の頭の中についての印象です。

日本はいい国ですが、どうも自国内のことと国際社会のこととを無意識のうちに別の基準で考えてしまい、その無意識はものすごく他国の通常の感覚を迷わし、日本は不思議な国だ、大丈夫かと言われる一因を作っているように見えてなりません。

同じ基準ならば、核開発を行い核実験を行い、世界各国の制止を無視して核弾頭を積むことを想定した大陸間弾道ミサイルを我が国に向けて発射し続ける、日本国民を何らの理由もなく拉致するといった非道な相手に対しても、あれだけ寛大な対応や報道を取れるのは不思議です。

例えば比較として、マスコミ記者との会食中にセクハラ発言を行ったとされその録音音源を公開されたとされる事務次官(注1)に対する報道や、また夜中に酔っ払った勢いで同じNHK番組に出演している女子高生を自宅に呼び出し、押し倒してキスをするなどの強制猥褻をはたらいたとされる5人組芸能グループの構成員(メンバー)である46歳男(注2)に対する報道姿勢と比べますと、明らかにバランスが悪いように感じております。

日本の大手マスコミは、いわゆる北朝鮮の首脳周辺から、何か意図的な報道をするように求められているのではないか、そのような疑念すらなしとしない報道姿勢です。

ここは、悪いものは悪い、ということで複数の基準ではなく、できれば国内問題を扱うレベルできちんと実情を踏まえて報道をしてもらいたいと感じております。

零細報道機関を自称いたします当ブログ管理人からの、率直な疑問については以上です。

(平成30年4月29日 日曜日)

(注1)財務省の福田財務次官のテレビ朝日所属女性記者との会食時のいわゆるセクシャル・ハラスメントと見られる発言に関する事案
(注2)いわゆるジャニーズ事務所所属の芸能グループ「TOKIO」構成員(いわゆる「メンバー」と表記された)山口氏による未成年者(女子高校生)への強制猥褻事案

2018年4月23日

外食チェーンの禁煙化が顧客を呼び込む大きな力になると思っている話です







おはようございます。

2018年4月の焼肉チェーンに関する配信記事です。

現時点で国内最大手の焼肉チェーン店でもある「牛角」ですが、昔東京で働いていた時によく行っていました(だいたい一人で)。

七輪を備え付けたテーブルやカウンターで、ビールをちびちびやりながら、塩ダレとか漬け込んだ中落ちカルビというカルビの廉価版メニューだけでよく粘っていたものです。

レインズインターナショナルという会社がそのチェーンを統括しておりますが(店舗運営はフランチャイズ形式が主)、このレインズインターナショナルは、株式会社コロワイドに買収され、現在は同社の一事業部門として展開されています。

全国に、700店弱の店舗網を持っているとのことです。

さてこの焼肉店が一気に繁盛チェーンになったことの一つに、店への(どちらかというとネガティブな)ご意見を、あえて300円の一律割引で聴取したということがあります。

確かにむちゃくちゃな要求やクレーマーからのコメントもあったようですが、地道に、やれることをやるということで改善を進めて行ったところ、口コミマスコミで取り上げられるようになり、筆者のような在京サラリーマンの人気店となったようです。

さて、その牛の角をアンテナに見立てて「お客様のニーズをすばやくキャッチする」という発想で店名も「炭火焼肉酒家 牛角」となって牛角のチェーン店が、筆者の会社のそばにできたものですから、久しぶりにランチに行ってみたのです。

しかし、正直あまり繁盛しているとは言えませんでした。

メニューも、写真のようなもので特に問題があるというわけではないと思います。

その原因として、もっとも筆者が瞬間感じたのは、「禁煙席がない」ということだったのです。

当然のように、禁煙席をお願いしたところ、当店は全席喫煙席です、ということだったのです。

これには驚きました。

スターバックスのようなコーヒーチェーンに限らず、現在はほとんど全ての外食店舗で全面禁煙のスタイルです。

あのマクドナルドの業績が急回復したのも、顧客の志向に対応して、全店禁煙にするという方針を打ち出し、いわゆるサラリーマン喫煙層を捨てても、それ以上の別の顧客層を取り込んだからだと思います。

いくら焼肉店とはいえ、全席に灰皿が置かれてがらんとしている店内を見て、これはお客様のニーズをすばやくキャッチすることをモットーにしてクレームを成長の原動力として成長してきた焼肉チェーン店の状況なのかと少しばかり驚きました。

幸い、店内の客もまばらでしたので、受動喫煙被害にあうこともなく、食事自体はとても美味しくいただいたのですが、このように、受動喫煙を食らうリスクが高い以上、おそらく当分は同店にはいかないだろうなと思いました。

東京オリンピック2020年を控え、この先進国の中ではもっとも遅れた喫煙文化の国、日本も急速に変わるべきだろうと考えておりまして、百のおもてなしよりただ一つの禁煙の徹底(徹底した分煙、受動喫煙のリスクをなくすこと)こそ世界中から求められているということを、大手マスコミや大手出版社、テレビもラジオもタバコメーカーによるスポンサードによって骨抜きにされているという一面もあるのかもしれないと思いまして、あえて提言させていただきました。

たまには主張をもった記事を書いてみました筆者からは以上です。

(平成30年4月23日 月曜日)

2018年4月20日

動画配信教育サイトがますます多くの顧客に広がっていくであろうという話です






おはようございます。

2018年4月の勉強方法に関する配信記事です。

テクノロジーの進化によって、我々の勉強の方法論もだいぶ変わってまいりました。

クラウド技術が発達し、自分が勉強すべき教材を、その都度音声動画テキストの形で、スマホやタブレットを用いて簡単に呼び出せるようになったのです。

例えば、リクルート社が提供するスタディプラスという教育サービスがあります。

これには、ざっと小学校4年生から高校3年生、大学受験生まで含んだ科目や教科ごとのレベル別の講義動画とそれに対応したテキストが全て含まれています。

つまり、スクール形式の座学でできる学習内容なら、ほぼ全て、スマホタブレット講義をいつでもどこでも視聴できるわけです。

大学受験を超えた、社会人として必要な資格であるTOEICスコアや英検1級の対策講座も用意しています。

この講義が凄いところは、講義自体のレベルが高いこともありますか、そのレベルの高い講義動画を、1.25倍、1.5倍、2倍の速度で音声付きで早送りで再生できることです。

人間は、耳で聞くより早く物事を考えることができるので、ほとんどの講義は1倍より早い速度で聞いた方が、かえって別のことを考えることなく講義に集中することができると思います。

また、予習不要で参照するテキストを黒板講義動画と同時に参照できるのは大変効率的です。

テキストを別途持ち歩く必要がありませんし、何より電車やバスの移動中のちょっとした隙間時間での利用に最適なツールです。

朝起きてからすぐにでも講義に出ることができます。

英語の場合、スペルは書かないと覚えられませんが、そこは指文字でテーブルをなぞって筆者は済ませています。

勉強は習慣ですが、何事も見える化しないと進捗もわからないし、達成感もありません。

この動画講義コンテンツは、やった履歴がいつでも見れますし、一日一回、受講サマリーとして分単位の受講時間が電子メールで送られてきますので、継続的にやる気を保って進めることができます。

こうしたクラウド技術を利用した教育ノウハウの提供や利用がますます増えてくると思います。

大学や専門学校といった専門分野のノウハウ取得にも、こういった動画再生座学システムがますます利用されていくことになるでしょう。

いつかは講座を持って授業して、神授業と言われてみたい筆者からの願望は以上です。

(平成30年4月20日 金曜日)

2018年3月5日

日本の大学教育の方向性がどうにも定まらないように思えて意見したい話





おはようございます。

2018年3月の日本の大学に関する配信記事です。

文部科学省によると、日本の大学は大学ごとに3種類に格付けして分類し、それぞれ管理するということのようです。

少子化で大学の経営環境はますます厳しくなる中、認可している私立大学、国立大学法人、その他公立大学や大学校も含めて、大学ごとの特色を明確にする、と謳っていますが、はっきり言って大きなお世話だと思うのは筆者だけでしょうか。

文部科学省の素案では、「世界的研究・教育の拠点」「高度人材の養成」「実務的な職業教育」の3種類に分類するとのことですが、一体日本の今からの将来の大学において、「世界的研究・教育の拠点」などと本当に言える大学があるのか甚だ疑問であります。

世界的研究・教育の拠点というならば、世界大学ランキングあたりでは、常時、そうですね20位以内くらいには常時入っていただいておかなければならないと思うのですが、21世紀に入ってからそうした日本の大学があったか、筆者の耳が遠いのか寡聞にして存じ上げません。

文部科学省によると、「世界的研究・教育の拠点」となる大学は世界でも卓越した研究力をめざし、博士課程を含む大学院を中心に、高度人材の留学生も呼び込み、国をリードする人材を育てるらしいですが、日本の有為な人材にとってみれば、正直米国や欧州、アジアの主要大学の博士課程(大学院)へ無償の奨学金込みで入れば良いし、学部生の能力と意欲さえあれば問題なく入れるので、わざわざ受験トリビアを駆使して日本の大学学部への異常なまでに厳しい大学入試過程を経る必要など本来ないわけなのです。

日本においては高専や地方国立大学の工学部電気系や機械系学科で学部生のうちはしっかりと勉強して、あとは英語と、できれば中国語とシミュレーション系に汎用的に使えるプログラミングさえできれば、そのまま全くフィルターなしで欧米の一流大学の大学院への道がまっすぐに拓けてくるのに、あえて日本の私立大学や国立大学の文系学部に行ってサークル活動やゼミ運動といったコミュニケーション系の活動だけしかやってなくて何の専門性もない学生のまま卒業を迎える段になって、それまで個性を重視した教育だの言っていたその口が、百人一色の同じ色のスーツを身にまとい、新卒一括同一待遇採用という謎の雇用慣行に縛られた日本の企業群へ一斉に就職活動と称して突っ込んでいく様は滑稽を通り越してむしろ哀れですらあると考えています。

個性を重視するなら、自分の好きなことを突き詰めるなり、専門性を高めるために大学時代という貴重な時間を費やすべきで、コミュニケーションや議論など、実は社会人になって背負っているものが大きくならないと、本気の付き合いや議論などはできないと思う分野のシミュレーションをやったところで役に立たないと思うのです。

さらに、文部科学省は自分が交付金をこれ以上出せないというところから、国立大学については法人化させ(直営をやめて)、私立大学を含む大学全般への運営交付金も減らしていっているのにどうして、このようなよくわからないカテゴリを付して管理を強めるのか、これこそ狭い日本しか見えていない日本の官僚仕事の最たるものではないかと思うのです。

世界の大学と本気で伍していくのであれば、高校卒業を半年早めて8月には卒業させ、世界標準である9月入学にしないと、日本の学生もいつも一年遅れの浪人生で不利ですし、日本の大学の留学生の受け入れも全く進みません。

日本の大学を所管する文部科学省も、本当はもういい加減国におんぶにだっこをやめて、大人なんだから自分で稼いで生きていってほしいと思っているくせに、例えば稼ぎのいいことを見つけてきても、それは世間体的にダメだとかくだらない容喙をして自主性を損ねているとしかいいようがないと思うのです。

どんなに経営環境が厳しくても、それを打開する方策を必死に考えて実行する組織だけが本当に生き残るのであって、たとえばイギリスのケンブリッジ大学なんかは世界最古の大学と言われるオックスフォード大学を街ごと追い出された流浪の学生たちがケンブリッジに流れ込んで創立した、というように、志さえあれば何とでもなると思うのです。

そのようなハングリーさがなければ、世界的研究機関など絵に描いた餅でありましょう。

それでも、筆者は日本の国立大学の中には、きちんとした運営戦略と有為な人材を糾合する仕組みを続ければ、研究や教育、そして実社会における名誉ある地位と実績を出せる可能性があるものが少なくないと思っています。

そういうわけで、日本においては受験シーズンですが、各大学におかれましては入試問題の出題が誤っていたといった瑣末な問題にとらわれるのではなく、世界と勝負する気概と意志を持ってほしいなと思います。

本当は東のハーバード大学に対する西のスタンフォード大学かオックスフォード大学から分離独立したケンブリッジ大学に留学したかった筆者からは以上です。

(平成30年3月5日 月曜日)

2018年2月24日

通信制高校は不登校生徒の受け皿を超え完全な高等教育の一形態になったと思う





おはようございます。

2018年2月の配信記事です。

以前の記事で、ほぼ全ての文系学部の座学部分はネット配信動画で代替しうると述べましたが、よく考えれば実際の高等学校教育の中では、すでにネットによる双方向の授業が確立しており、単に高校履修過程を終了する以上に、それ以上の高等教育、すなわち大学入試に耐えうるだけの学力もつけることができる、そのような時代にすでになっておりますということを話します。

ところで、不登校というのはどういった状況になった生徒を指すのかと言いますと、一応調査の定義がありまして、年度の間に合計30日以上欠席した児童生徒数のうち、その理由を不登校を理由とする者が不登校児と一般に呼ばれるということです。

そして、不登校とは、いろいろ原因はありますが、何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により、児童生徒が登校しないまたはしたくともできない状況(ただし、病気や経済的理由によるものを除く)をいうようです。



不登校生徒が高校一学年に3万人いる時代(3%)



最初から通信制高校に入る人もいれば、通学制の高校を何らかの理由で行けなくなってしまって通信制高校に入り直す人もいますが、まだ多くの通信制高校が高校卒業自体を目標としています。

そんな中、注目したいのが広域通信制度で展開するN高校です。

これは、自宅のパソコンで好きな時間に授業をオンラインで受けることができます。

各科目の単元ごとに確認の小テストを受け、月に6回程度、ネット上でのレポートの提出も行います。

ネット上ですが、部活動もあり、オフラインで合宿もすることができます。

全国から集まった定時制の生徒と一緒に合宿する機会を作るのは、むしろ通学制の生徒より優れているかもしれません。

さて、こうした通信教育のネットの強みを最大限に発揮できるのが、大学受験指導です。

これまでの動画による授業に加えて、大手予備校の講師らによる配信授業も同時に受けることができます。

「自習」もネットで行うことができます。

これは、どうしても自宅の自室では集中できない場合が多い生徒に好評な制度で、勉強を始める前に、パソコンの前で勉強します宣言を行い画面を切り替えると、他の大学受験コースの生徒たちが勉強している姿と、自分自身が勉強している姿がネット上に共有され、担任の講師含めてみんなが見ることができるという仕組みです。

ネットによる社会的組織的自習空間が、たちどころに出来上がるというわけです。

自宅で一人でも、人に見られているという感覚で、緊張感をもって濃い時間を過ごすことができるのです。

受験担当のメンターとは、定期的にネットを通じて個人面談を行います。

他の受験生とのグループ面談だってあります。

そこには、他の受験生に加え、希望の大学に合格した先輩OBやOGたちも混じって、ビデオチャットで臨場感ある話が聞け、率直な悩みの相談になり、また次のやる気が湧くというわけです。

受験準備期間で培うべき学力を、定量的に、イメージをもって養成して、勉強の進み具合を随時報告相談して、アドバイスを受けてまた集中して取り組む、というたゆまぬ改革・改善のプロセスを、PCDAを回すことができるのです。

もはや、通信制という選択は、在宅ワークと同様完全に市民権を得つつあるのではないかと思います。

引きこもり、ひたすらネット記事を書きまくりたい筆者からは以上です。

(平成30年2月24日 土曜日)

2018年2月22日

私はまだまだ負けていない だって息していますからねと述べた加藤一二三棋士






おはようございます。

2018年2月のネバーギブアップの配信記事です。

2017年、73歳で将棋プロ棋士の現役を引退となった、加藤一二三さんのことを紹介します。

もう私はギブアップ

お手上げです

参りました

とは言わない

だって、まだ生きているんだから

まだ息しているんですからね

NHKの特集番組で加藤一二三さんは語りました。

2017年、加藤棋士が73歳で戦った将棋のリーグ戦、順位戦の全7局、そのどれも全て、持ち時間6時間をほとんど使い果たす、5時間50分以上考え抜いて指されたとのことです。

年齢を重ねると、体力が低下しているためにあまり考えずに指してしまうこともある棋士もいるという話もありますが、加藤さんは、絶対に負けない、その闘志を露わにして、制限時間いっぱいいっぱいまで考えに考え抜いて、勝負の手を繰り出していったのです。

実際に加藤さんが引退することになった最後の公式戦、高野四段との戦い。

その対局終了後、感想戦という将棋の内容を検討する流れを行わず、ノーコメントで、そのまま帰路につきました。

加藤さんの悔しさゆえの行為であり、加藤一二三棋士の棋士としての勝負師としての闘志が最後まで燃えていたことの証左です。

ネバーギブアップ。

老いても刀折れても矢がつきても、それでも闘志を燃やして指し続けた加藤一二三棋士。

神武以来(じんむこのかた)の天才と呼ばれ華々しくデビューした天才少年は、半世紀以上経っても、現役引退となっても、勝負の最前線に泥臭く自ら立っているのです。

まだ生きていますからね

まだ息しているんですからね

チャレンジャーは偉大です。

加藤一二三さんを見習って、少しは本気出そうと思った息してる筆者からは以上です。

(平成30年2月22日 木曜日)

2018年2月21日

日本国憲法において最も改正議論が本来起こらなければならない部分について(私見)






おはようございます。

2018年2月の配信記事です。

筆者は大学は文系学部(法学部)に学び、それなりに勉強したことも勉強しなかったこともありますが、昨今のテクノロジーの進化は文系学部のほぼ全ての講義というものを駆逐しつつあるとすら感じております。

もはや、大学の授業、教授とはオンラインでほとんど代替され、わずかに実験系やシミュレーション、フィールドワークが必要な理系学部の一部のみが生き残る場になっていくのではないかと本気で考えております。

もちろん、それぞれの学生が学ぶ場としての大学が大切であろうとは言えるのですが、板書にスクール形式のいわゆる授業というものは早晩消えて無くなるだろうな、と思うわけです。

一緒に学ぶ学徒や教授が一緒になんらかの議論をするとしても、それはすでに前提とされている知識や技能が与えられている状態で行う、いわゆるフィールドワークや議論討論、ゼミの場やプレゼンテーションといった形になるのでしょうか。

さてそんなことを考えながら、本日は最近言われるようになってきた日本国憲法改正の風潮において、筆者が憲法学徒(一応大学の憲法の単位はたった一つの「優」であります)の端くれとして感じている点を申し上げます。



日本国憲法第89条(公金その他の財産の支出)



本来、最も改正議論が起こっていなければならないのは、天皇に関する章でもなく、戦争放棄の第9条でもなく、いわんや憲法改正手続自体を規定する第96条でもなく、やはり第89条(公金その他の財産の支出)であろうと考えるのです。

時代にそぐわない条項として、これ以上のものはないと思うわけです。

原文にあたります。

日本国憲法 第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

とありますので、本来、宗教団体性の強い政党に対する政党助成金交付は当然にアウトですし、私立大学といった宗教性(先覚者)を多少は帯びるもの、もしくは宗教性が全くなくても「公の支配に属しない教育の事業」であることは明確であります。

さらに慈善、教育若しくは博愛の事業で「公の支配に属さないもの」など、NGOや町内会を考えればいくらでも出てくるのですが、そういったものに対する補助金や助成の一切が違憲となるのはどうみてもおかしいわけです。

現在、第9条の合憲判断などよりもっとずっと飛躍した論理、すなわち、「公の支配」という領域を限界いっぱいまで解釈上広げることにより、私立大学や私立高校に対する助成金や、NGOに対する補助等、さらには特定の宗教団体との関係性が事実上濃く認められる政党への政党助成金など、これらすべて「公の支配」にゆるいながらも属しているのだという解釈です。

合憲にしなければいけないので、これが通説です。

例えば、私立学校も色々な法律に服しているし、広い意味で、「公の支配」に属しているという解釈です。

しかし、これでは、「公の支配」は、単に「日本国内」にその存在がある、という程度の意味しか持たなくなり、この第89条は一体何のためにあるのだということになるのです。

こうした、論理的な破綻が明らかな条文の適切な時代の要請に即した「改正」を通じて、日本国が、日本国憲法の目指す自由な世の中になっていくことを望みますし、その議論の過程で他の憲法改正候補についての論点が整理されることが何よりも国民にとっては大切な共通の財産になることだと思っています。

たまには、真面目な話もすることができる筆者からの吹っかけ議論は以上です。

(平成30年2月21日 水曜日)

2018年2月17日

中学三年生で15歳の藤井五段が全棋士参加棋戦優勝により半月で六段に昇段したという話





おはようございます。

2018年2月の配信記事です。

将棋界にまるで往年の日本競馬のディープインパクトのような衝撃でプロ入りした藤井棋士が、五段に昇段してからわずか16日後、日本将棋連盟の昇段規定にある「全棋士参加棋戦優勝」により六段に昇段しました。

まだ卒業前の中学三年生、15歳での快挙です。

2018年2月17日(土)、東京都内で行われた第11回朝日杯将棋オープン戦を勝ち進み、準決勝では羽生竜王(47歳)を破り、決勝ではA級リーグの広瀬八段(31歳)を退けて破竹の10連勝、一次予選から勝ち上がり栄冠を手にしました(年齢は当時)。

解説していた佐藤天彦名人(30歳)も気づかなかったという桂馬打ちの妙手で形勢を引き寄せた、という新聞解説がありましたが、正直筆者レベルにはなんのことやらよくわかりません。

しかしながら、とにかくレベルがますます上がって行くこの世界において、神武以来(じんむこのかた)の才能が現れたことは間違いありません。

いまも対局を重ねるごとに強くなっている藤井棋士ですが、師匠の杉本七段(48歳)も、実はつかみどころがなく予想外なところが強さの秘密ではないか、という謎のコメントを残しています。

筆者も、部下や後輩の方が能力が高いと認められる場合には、同じようなコメントを残すかもしれませんが、とにかく凄いレベルの話であります。

これから、藤井棋士に限らずプロ棋士の棋譜を並べて勉強してみたいと思います。

藤井棋士の三倍程度生きているはずなのですが、将棋も囲碁もまだまだ伸び盛りの筆者からは以上です。

(平成30年2月17日 土曜日)

2018年2月16日

「ガルシアへの手紙」を読んでくださいー知らない人も知っている人ももう一度原文で





おはようございます。

2018年2月の配信記事です。

「ガルシアへの手紙」の話を知っている方も多いと思いますが、改めてこの話を紹介して自らへの戒めというか指針にしたいと思いましてメモがわりに書いておきます。

もともと、アメリカで1899年に出された原作「A Message to Garcia(Elbert Hubbard)」はほんの小さな小冊子で、日本語で翻訳しても数ページほどの分量です。

ですので、ぜひ原文で読んでください。

英語だから全文は厳しくても、最初と最後の部分だけでもぜひ。

この小冊子が世界に与えた衝撃は大きく、その影響力は1913年の時点で世界で4000万部印刷されたという事実から容易に推測できます。

世界中で1億人が読み、そして日本の明治天皇陛下も絶賛したとのことです。

何しろ100年以上前の本になりますので、現代では知らない方もいると思うのであえて言及します。

世界中が読んだ名著であり、そして、ゲティスバーグという片田舎で簡単に話された手短な話が、米国史上最大級に有名になったかのリンカーン大統領演説であるというのに似たものを感じます。

それでは早速紹介します。



ガルシアへの手紙


エルバート・ハバード(1899年)
筆者勝手抄訳

キューバ戦争において、私の記憶の中に、火星が大接近した衝撃に似て最もはっきりと思いだす人物がいる。

アメリカとスペインとの間で、キューバをめぐって戦争が起きた時、合衆国はどうしても、反乱軍のリーダーと連絡をとらなくてはならなくなった。

そのリーダーの名はガルシアという。

キューバの山奥の要塞にいるらしい。

どこにあるのか誰も知らない。

郵便も電報も届かない。

しかし、大統領はガルシア将軍の協力を取りつけなくてはならない。

事態は至急を要する。

どうすればいいのだ!

誰かが大統領に進言した。

「ガルシアを見つけ出せる者がいるとしたら、それは、ローワンという男です」

ローワンは呼ばれた。

そして、大統領からガルシアへの手紙を受け取った。

私は、ローワンという名の男が、どのようにガルシアへの手紙を受け取り、それを防水の小袋に密封し胸に革ひもでしばりつけ、四日後の夜に小舟でキューバの海岸に上陸し、ジャングルの中に消えていき、敵地を歩いて横断し、ガルシアに手紙を渡し、三週間後に別の海岸に現れたか、それを詳しく語ろうとは思わない。

ただ、言いたいのは、次のことである。

マッキンレー大統領はローワンにガルシアへの手紙を渡したが、そのときローワンは、その手紙を黙って受け取り、「ガルシアはどこにいるのですか」などとはひとことも聞かなかったということである。

この男こそ、ブロンズで型にとり、その銅像を永遠に国中の学校に置くべき人物である。

私たちに必要なのは、学校における机上の勉強ではなく、あれこれ細かな知識技能でもない。

ローワンのように背骨をピシッと伸ばしてやることである。

自らの力で物事に取り組もうという精神を教えることである。

勇気を教えることである。

そうすれば、人々は、信頼に忠実に応えられる人物、すぐ行動に移せる人物、精神を集中できる人物となり、そしてガルシアに手紙を持っていく人物となるであろう。

…(中略)…

この、ガルシアに手紙を届けられる人の願いは、何であろうと聞き入れられる。

このような人は、どこの都市でも、どこの街でも、どこの村でも求められている。

このような人は、どこの会社でも、どこの店でも、どこの工場でも求められている。

世界中が、このような人間を、必死に、呼び求めているのだ。

世界はいつでも、本当にどこでも、必要としているのだ。

ガルシアへ手紙を届けられる人間を。



…いかがでしたでしょうか。

このような駄文ブログ記事全てを吹き飛ばす衝撃の文章だと思います。

繰り返しますが、ぜひ原文で読んでください。

それでは本日も頑張っていきましょう。

まずは切れてしまった指定ゴミ袋から買ってこようと思いました筆者からは以上です。

(平成30年2月16日 金曜日)