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2018年5月24日

やることが溜まっていて身動きが取れないように感じるときの解決法について







おはようございます。

2018年5月のやることが溜まっているときにどうすべきかというような配信記事です。

筆者にしては久しぶりの、長期間(といっても3泊4日ですけど)の旅が終わりました。

旅は楽しいのですが、当然旅先でやれることは限られておりまして、むしろ限られているのはいいことで、いつも以上に旅先でやれることにフォーカスしたほうが楽しいし、是非そうすべきなのですが、自宅及び職場に置いてきた、やらなければならないことや未処理の案件が溜まっていくのを帰ってから見るのは非常にストレスでもあります。

これに加えて、旅の情報の整理やあった人へのお礼などを追加すると、旅は終わってからがバタバタするといっても過言ではありません。

溜まった洗濯物をまとめて洗濯するように、いろいろとやるべきことを整理していく必要に駆られます。

しかしながら、当たり前ですが、旅は疲れます。

寝不足だったり飲みごとや会食も続きますので、疲れていて思うように集中できません。

そんなときの秘訣としては、「やるべきこと」から優先順位をつけると、どうしても意志がそちらに向かず、結果うまく動けず時間を無駄に消費し自己嫌悪に陥ってしまうという悪循環にはまります。

旅に出て、リフレッシュしたり新しい知見を得たりするのは良いことであるはずなのに(旅をし、本を読み、人に会う)、これでは自己否定のための旅となってしまい逆効果です。

そこで、やるべきことにこだわらず、とにかく動いて気楽に今すぐできてしまうこと、を重ねていって行動を積み上げるという解決策を取ることにします。

そうして、マグロのように泳ぎ続けていけば、動き続けていけば結果として「やるべきこと」についても少しずつ減っていき、心の余裕が出てきます。

人間、面白いもので、ある程度のやることリストがないとやる気がでませんが、あまりにも過剰にやることリストが積みあがってしまうと、最初の一歩から取ることができなくなるのです。

ですので、やることが簡単ですぐできそうなものから無意識的に手当たり次第にやり散らかして目途をつけていく、そのような活動ドリブンな時期もあってよいと心のリセットをすることにしています。

やるべきことが、適度な状態まで減っていくと、なんとなく気分も上々になり、動きやすくなり、そして見える視界もクリアになっていくようになります。

そうしたところで、改めて、優先順位や緊急度に応じたやるべきことリストの再整理を行い、少し手のかかる大事なこともやり始めることができる心構えが取れてくるのです。

そうして、通常運転に戻る精神的なアイドリングを行うことができるのも、生きる能力のひとつだと思い、旅は帰ってからも続く、帰ってからが重要という言葉もありますので噛みしめながら、この不確定で積みあがった精神状態を一通り冷やすべく一旦作業に没頭したいと思います。

実は、ブログ記事も書く時間もありませんでしたので、こうしたことを内容にしたという、簡単記事の筆者からは以上です。

(平成30年5月24日 木曜日)

2018年5月23日

(感想文)九州出身者の北海道についての雑感を述べておきます

札幌の大倉山ジャンプ台からの眺めです




おはようございます。

2018年5月の北海道に関する素人感想記事です。

3泊4日の日程で休暇をいただきまして、初夏の北海道に行ってまいりました。

ほとんどすべて札幌駅の傍の札幌競馬場近辺で過ごしまして、最終日は、日高地方の通称「サラブレッド通り」というサラブレッド生産牧場が密集しているエリアで生まれたばかりの仔馬やら1歳馬やらを観ながら、長いドライブをして、新千歳空港から空路直接福岡まで帰るという旅でした。

まず、北海道、前も行ったこと確かにありますが、その広さに驚きました。

札幌という街もでかいし、街を出たところの道路も長いし風景がでかいです。

どこまで行っても同じような景色が続くというのは、確かに九州での阿蘇や九重地方(やまなみハイウェイ)も確かに雄大な風景を持っておりますが、それとはまた違った、とにかく海、山、そして原野と道が続くという意味ではスケールが違いました。

それもそのはずです。

北海道、という都道府県の一つでありながら、実に面積は九州本島2つ分なのです。

広すぎです。

北海道の半分しかない九州本島を、7県に分けて福岡だの長崎だの鹿児島だの言っているのは小さいということです。

どこまで走っても、隣の県に入らないのです。

九州自動車道を30分も走れば、隣の県である佐賀県鳥栖市に入って直ぐ折れたら大分県、みたいな高速道路の感覚ではないのです。

そもそも、SA(サービスエリア)も見当たりません。

高速道路がどこまでもまっすぐ、続いていきます。

運転している筆者以外の同乗者は、すでに寝入っています。

これは、凄いと思いました。

ドライブを始めた瞬間、筆者は名作映画「幸福の黄色いハンカチ」のテーマと共に赤いファミリアを運転する気分に一瞬なったのですが、運転するのに借りたレンタカーはねずみ色だし、走り始めて10分もたてばそんな感じで車内はしんとしてしまい、ただ自分の車のエンジン音だけが続いていく延々とした高速道路道、になってまいります。

人はいません。

時々牧場に放牧されている、馬やら牛やらがぽつぽつ見えるだけです。

それもそのはず、九州の二倍の面積の北海道の人口は、実に550万人、福岡県の500万人とそんなに変わらないのです。

そして、道都札幌市の人口は約200万人、実に4割弱の人口が、一都心に集中しているという状況です。

他の市や町や村には、そんなに人はいないのです。

馬や牛の方が多いというわけなのです。

どこまで行っても大自然で、そんな北海道の日高地方は、日本のサラブレッドの生産頭数7,000のうちの大部分を、ここで生産するという世界でも稀な競走馬の産地というわけです。

のどかな放牧の姿の中で、そんな厳しい競走馬の世界が展開されているのかと思うと、感慨深い北海道の旅でありました。

さて、競馬の見る目も特にないので予想はあてにならない筆者からの感想は以上です。

(平成30年5月23日 水曜日)

2018年5月4日

伝説のイチローがマリナーズの特別アドバイザー兼コーチに就任したというニュースです






おはようございます。

2018年5月の野球選手に関する配信記事です。

イチローといえば、この20数年間、一人の日本人野球選手の代名詞でした。

日本のオリックスで210安打を放った鮮烈のデビューから、フル出場での3割8分5厘という驚異の打率、そしてメジャーリーグに転じてメジャー記録となるシーズン262安打を放ち、日米通算4,000本安打に到達した紛れもなく日米野球界のスーパースターです。

筆者はイチロー選手の一つ年下に当たりますので、同時代人として、彼の選手の活躍をずっと見てきました。

このたび、今年から復帰したメジャーリーグのマリナーズにおいて、イチロー選手はマリナーズと契約し、今季の残り全試合に出場せず、特別アドバイザー兼コーチに就任するということが正式に発表されました。

くしくも今季最後のプレーとなった2018年5月2日のマリナーズーアスレチックス戦においては、「9番・左翼」で先発出場し、背面キャッチを見せるなど堅実な守備は健在でしたが3打数無安打、1四球1得点という成績でした。

ちなみに選手としては事実上の引退でフロントもしくはコーチ入りという観測もありますが、選手として続けたいというイチロー選手のかねてからの強い希望があったのでしょう、選手としての引退ということではなく、ただメジャーの選手登録枠25人という制限の中、すでに伝説的選手である同選手にマイナー行きを通告して飼い殺しにするよりも、より双方にとって合意しやすい契約ではなかったかと思われます。

ちなみに、来季マリナーズは、開幕戦を日本の東京で行うプランを持っておりまして、この凱旋試合に、事実上の同選手の引退壮行試合として、メジャー契約を結び直してイチロー選手を出場させることも可能となっています。

メジャーリーグの海外戦略において、アメリカのみならず日本ではもっとも有名なプロスポーツ選手といって間違いないイチロー選手をそのような役割として期待するのも、抜け目ないプロスポーツの本場アメリカならではの考え方なのかもしれません。

メジャーリーグ機構のロブ・マンフレッド・コミッショナーも、日本でのメジャーリーグの開幕戦については、「東京という(世界有数の)大都市は、MLBの開幕戦を開催するのにふさわしく、再び「野球」を愛する日本のファンの前に戻ってこられることを楽しみにしております」とリップサービスを寄せています。

「最低50歳まで現役」と常より語っているイチロー選手は、試合に出る出ないは関係なく、今季残りシーズンも全てチームに同行し、練習を続けるということです。

本当に野球が好きなのだろうと思います。

イチロー選手お疲れ様でした。

イチロー選手に代わり、日本で一番有名な野球選手に大谷翔平選手が躍り出た、2018年はそのように記憶される年になるのかもしれません。

週末草野球一試合やっただけで全身を筋肉痛にすることができる筆者からの感想は以上です。

(平成30年5月4日 金曜日)

2018年3月18日

コミュニケーションに障害を設けないようにしないと事業が進まないという話です





おはようございます。

2018年3月の火星旅行を夢見る事業家に見る企業経営の考え方に関する配信記事です。

「できることなら、火星で死にたいね」

と公言する世界的企業家であるイーロン・マスク氏が、電気自動車や自動運転車を展開しているテスラグループの社内向けに出した書簡がとても興味深かったので紹介します。

ちなみに、イーロン・マスク氏は、電子決済の先駆けであるPayPalの創立者で、宇宙ロケットの推進部分を再利用することで打ち上げコストを画期的に下げたスペースXや、最近の世界的なEV・自動運転のブームを作り出したテスラの創業者です。

それでも、次々に新しい事業領域を破壊的に開拓して、突き進む企業家であることをやめていません。

むしろ加速しています。

そうして、今は、人工知能の会社を立ち上げて、ついでに火星に行くことを公言しています。

そんなイーロン・マスク氏は言います。

企業内での情報の流れには大きく2つあると思う。

で、これまでのところ最も一般的なやり方は、すでにある指揮命令系統に従う方法です。

つまりこうです。

あなたは常に上司に指示を仰ぎます。

上司から伝達された業務命令を遂行します。

判断が必要な状況になったら、また上司の指示を仰ぐのです。

はい、この方法の問題点は、上司の力を強化するだけで、会社のためにならないということです。

問題が発生した場合はその部門の人が関係部門の人と話し、正しい行動を起こして迅速に解決するのが一番早いです。

にもかかわらず、指揮命令系統の下では、人々はまず上司に報告せねばならず、その上司がそのまた上司に報告して、その上司の上司が他部署の管理職に相談し、その管理職が部下に相談するといった回りくどい流れをとります。

その後、もう一度同じ経路を逆流し情報が伝えられます。

こんなバカなことがあるか、即刻やめろ。

当社ではこうです。

誰にメールしても会話しても構わないし、すべきです。

企業全体と自身の利益(自分の昇給とか評価とかキャリアップとか名誉とかなんでも)のために、自分が考える最速の解決方法をとるべきです。

上司の許可なく上司の上司に相談しても全く構わないし、別の部門のトップに直接相談してもいいし、イーロン・マスクCEOに相談してもらっても問題ありません。

誰かと話すことに誰かの許可は要らないのです。

さらに、課題解決のために、自分にその義務が常にあると考えるべきだ、ということです。

これは、どの企業や組織体についても当てはまることです。

本来、案件を高速で確実に成果に結びつけるために企画された組織が、組織自身の自己保身のために情報を統制しだすと、ろくなことはおころないのです。

いつも、問題を解決するのは新鮮で機微にとんだ、知性であることは間違いなく、組織の管理職と言われる人々が一番に注意しなければならないのは、このように企業は縦割り組織の弊害に常に晒されており、常に巻き起こる精神的な壁を壊し続けて、率直なコミュニケーションを続けていかなければならないということなのです。

ということで、率直なコミュニケーションを続けていかないといけないという話でした。

「できることなら、稼いで死にたい」ところですが、なかなか稼げない筆者からは以上です。

(平成30年3月18日 日曜日)

2018年2月3日

ベンチャー(起業家)はとても孤独だという話をサラリーマンの筆者が謹んで致します





おはようございます。

2018年2月の配信記事です。

寒い日々が続きますが、近くのほか弁で買えるホットココアがあればさみしくない筆者です。

かの漫画の神様、手塚治虫先生も、締め切りに追われる日々の中、少しだけ抜け出して近くの無名のイタリアン料理屋でスパゲッティを食べられるのが至高の幸せである、というようなことを語っておられるので、人間案外小さいもので幸せになれるものだと思います。

だいたい、ベンチャー起業家や投資家とは本当に孤独なものです。

成功した起業家ほど、孤独は誰よりも増すのではないでしょうか。

何しろ、世間とずれていることそれ自体が、その人が仕掛けるベンチャー企業が成功する源泉になっているわけですから。

そして、その仕掛けるベンチャーに最も必要なものは命の次に大事なお金になります。

それから、お金という概念は想像上のものです。

紙の形で(紙幣など)化体することもあれば、仮想通貨のような形すらない電子情報上に「存在」するものでもありますが、とにかく自らの命の次に大切な富を預けて身を切るという経験は、人を真剣にさせることは間違いありません。

真剣になる以上に、お金には魔力がありまして、投資とは刺激を求めてどこまでも突っ込んで行くものでありますが、友情や家族愛など簡単に壊す破壊力を持っているものでもあります。

そんな、麻痺状態(トランス状態)にある意味ならないと投資や起業などやっていられないものですが、完全に麻痺してしまいリスク管理ができなくなると、たちどころに完全にマーケットや他人の食い物(養分)になってしまうので気をつけなければなりません。

そんな投資の世界ですが、なんらこうした世界にいないと考える皆さんも、どうしても逃げられない分野があります。

それは、時間という分野です。

日々、一時間一時間、時間は完全に不可逆に一方方向に流れていきます。

その使い方については、個々人が自分で決めるしかなく、そしてその自分の時間がいつ止まるのかはわからない、というのが人間の面白いところでもあります。

そういうわけですので、筆者も残された人生の時間を大切にちびちび使いたいと思います。

こちらからは以上です。

(平成30年2月3日 土曜日)

2018年1月20日

「2代目は守成の人」加賀藩百二十万石2代目前田利長公のことについて語ります

金沢城




おはようございます。

2018年1月の記事です。

加賀百万石のご当地金沢は、それは綺麗な伝統工芸品や料理などがひしめくまさに絢爛豪華な北陸文化が花開いた場所です。

しかしそれは、江戸幕府に常に警戒され、睨まれ続けた豊臣恩顧(というか対等の友人)の大名である加賀家が、徳川家と対峙し一見泰平の世であった徳川幕府政権下でしたたかに生き抜いて行くための方便であり、戦わない戦であったと思うのです。

ここで加賀藩第2代の前田利長公を取り上げますが、この利長公は、父の前田利家が関ヶ原の戦いの直前に亡くなるという急転直下の状況の中、加賀家を任されることになります。

そもそも、藩祖の前田利家は織田信長亡き後、その後継者の地位を争った柴田勝家と羽柴秀吉との間に立って苦悩します。

柴田勝家は北陸の総司令官で前田利家の上司であるも、羽柴秀吉と前田利家は無二の親友で、お互い子女を結婚するなど親戚でもあったからです。

結果、一度は柴田側に付いて秀吉と戦うも、利家のできた妻であるまつのとりなしにより、今度は秀吉側に与みして戦い、先頭に立って戦い秀吉の厚い信頼を得て、越中加賀能登の三国の太守として揺るぎない地位を確立しました。

しかしながら、加賀前田家のこの秀吉、豊臣家との近すぎる距離が、のちのち力をつけてくる徳川家には邪魔なわけです。

しかも、代が変わった2代目の利長、まだ余命を残している徳川家康は得意の陰湿な言いがかりであらゆる揺さぶりをかけてきます。

家康謀殺の謀反をかけられても、必死の弁明につとめてこれを斥け、実母のまつを江戸に人質に出すという無理難題を受けて、それに返す形で利家の四男を養嗣子に迎えて、その利常に徳川家康の孫娘を輿入れさせるという離れ業の交渉を成立させ、自らの印象を薄くし、早くに家督を利常に譲り自らは引退し金沢城から高岡城に移り、その引退分の領地10万石分もまもなく本藩に返上します。

そして、最後には豊臣秀吉・秀頼の印象が色濃く残る自らをこの世から消し去るように、わざわざ毒物を飲んで病気の進行を早めさせ、53歳で病死するのです。

一気に死んではまた逆に幕府に疑いの目を向けられる、という利長一流の鬼気迫る処世術のなせる技でした。

このように、組織でも藩でも一家でも企業でも、2代目が守成の人として素晴らしい場合、その組織は長く命脈を保ちます。

黒田藩の藩祖黒田官兵衛を継いだ黒田長政しかり、伊達藩の藩祖伊達政宗を継いだ伊達忠宗しかり、そして関ヶ原で西軍として戦い撤退した島津義弘の子島津忠恒もいます。

特に大坂夏の陣における真田信繁(幸村)の評として有名な「真田日本一の兵(つわもの)」という言葉を手紙に残したのは島津忠恒であることからも、才能と武勇に溢れた2代目の研究がもっと進めば良いと思いました。

真田幸村も2代目として輝いた武将の一人です。

今を生きる全ての2代目3代目に光あれ。

そんな歴史好きのつぶやきは以上です。

(平成30年1月20日 土曜日)

2017年12月5日

働き方を変えるというのは生き方を変えるということなのかもしれない





おはようございます。

2017年12月の記事です。

時代の流れが早く、2010年くらいから第三次第四次産業革命だと言われ、究極の情報化社会が到来すると言われてくるようになりました。

そして、同時に世界の先進国で起こっているのが人口減少の問題であり、いよいよ人類が経験したことのない「段階的に人間が減っていく」時代に突入していくことになりました。

こうした動きの中で、既存の歴史ある企業もこぞって、失敗を恐れず新規事業にチャレンジしようという機運が盛り上がってきたようです。

しかし、なかなかこれまでやったことがないことを振る舞うというのは勇気がいるものです。

そして、朝礼などでよくトップの社長や会長が新規事業にチャレンジしようといった挨拶をすることがあっても、聞く側の社員にそのような意識が芽生えるかというとなかなか難しいのが本当のところなのではないでしょうか。

なぜかというとスローガンとして新規事業といってみても、やはり既存の事業と同じように失敗したら怒られるのは目に見えているし、できれば失敗の確率の方がはるかに高い新規事業よりも、時の試練と先人たちの改善の結果、収益が出せる型を突き詰めた既存事業にこだわった方が何かと特だと思うのはもっともなのからかもしれません。

こうした矛盾を最も解消する方法としては、組織としての評価の軸を少しだけ変えるということではないかと思っています。

つまり、評価の軸を

最上 やって成功する
次善 やって失敗する
悪  やらない
最悪 評論だけする

という風に変えてみるわけです。

ポイントは、「やって失敗する」ということを「やらない」ことの上に持ってきたことと、「評論だけする」ことを、「やらない」の下に持ってきたことです。

こうすれば、平均並みを求めるだけでやって失敗する方向にシフトするのではないか、と思うのです。

これからの時代を見据えるに、明らかに人口減による人手不足やネットの台頭、IT技術の進化(人工知能など)といった、明らかに既存の時代にはなかった環境にあるわけです。

既存の発展してきたやり方や発想で新規事業を成功させることは、ますます難しくなることでしょう。

さて、次にこのような難しい環境にあって、より積極的に失敗するための具体的な仕事の進め方とはどのようなものになるのでしょうか。

このあたり、筆者もいろいろ考えてきたのですが、できるだけ本音で話す時間を同僚や部下や上司とできるだけ濃く長く持つことが必要だと思い至りました。

つまり、バーチャルで代替可能な「報告」や「情報共有」「事前の課題設定」といった作業はたくさんあります。

それらを取り去り、真に創造性を発揮させる仕事を人に残し、そしてその人たちが協働することによってしか新しい価値は生み出されないとしたら、そうした人たちが最も気持ちよく積極的に前向きにオープンな議論ができる場をどのようにしつらえたら良いのか、ということになります。

そして、組織や会社側の要求として、そうした社員たちの相互作用による画期的なアイデアをなるべく定量的効率的に生み出すような仕組みが最善ということになります。

この点、スマホゲームの金字塔「パズドラ」を世に出した孫泰蔵さんもおっしゃっているのは、「ランチタイムをコアタイムとして集合する」というオフィスルールです。

つまり、具体的な議論をあえて決めずに(具体的な議論内容が決まっていたらそれはバーチャル手段でがしがし進める)、顔を合わせることにこそ価値があるだろうという信念です。

特に、一緒に食事をしたりお茶をしたりお酒を飲むことなどによる、たわいもないことからの「雑談」というのが、最もクリエイティブなものに近い、という考えです。

「最近どうですか?」
「最近はまっていることはこんなことで」
「へえ、それって面白いよね」
「紹介します、あとこんな観点はどうかな?」

といったちょっとした話で劇的に世の中の見方が変わることはよくあります。

飲み会はバカにできません。

ものすごいインキュベーション装置になりうる壮大な仕掛けでもあるのです。

事件は会議室で起こってるんじゃない、現場で起きてるんだ!

とは昭和生まれの人にしか刺さらない日本映画のセリフかもしれませんが、確かに会議室で頭をひねってもあまりいいアイデアは出てきません。

そこで、集団でリラックスしているゆえに出てくる前向きな議論結果をつかまえる、そのために、ランチに集合してコアタイムと設定し、あとは出社含めて自由とするのは面白い実験ではないかと思います。

そして、できれば週1か月1ではしっかり夜の懇親会もやって、相互理解を深めていく、そうすれば具体的な案件が持ち上がった時には時間や空間の制約を超えて、IOTを使った爆速での事業垂直立ち上げが可能になるでしょう。

基本的には会社にいる必要はありません。

単なる作業なら、職場でなくてもやりやすいところで、どこでもどうぞということです。

ですが、逆に社員である以上、必ずランチタイムには来て顔を見せろ、ということです。

「同じ釜の飯を食った仲間」というのを会社組織でも作り出すのです。

学生や部活動の専売特許ではなく、人を創造的にさせる仕組みであれば、どんどん応用した方が良いと思います。

もちろん、この集合時間は厳密に業務時間=作業時間ではないので、社外の人が一緒にいても一向に構いません。

むしろ奨励されるべきことでしょう。

こうして、意図的に、新しいアイデアが生まれるような「場」「空間」を積極的に作り出す仕組みというのは結構簡単に考えうるものではないかと思いました。

新規事業については、筆者の会社でも強烈に求めています。

何かアイデアあって話してあげてもいいよと思われる方、昼食くらいならばいつでもおごりますので、何とぞこのアイデア不足の私たちにお寄せいただければ幸いです。

よく失敗して怒られている筆者からは以上です。

(平成29年12月5日 火曜日)

2017年11月21日

冬に温かくするために考えるべきは断熱という考え方であるという話です





おはようございます。

2017年11月の記事です。

最近めっきり寒くなって来ました。

合わせて乾燥して来ましたので、我が家でも加湿器を出して保湿につとめてインフルエンザや風邪の防止になればよいと考えておりまして、このことは別記事にでも触れたいと思いますが、今回は寒くなって来たときのどのように暖を取るかという点について、事例を踏まえてご説明させていただくという記事になります。

筆者は高校時代に山岳部に所属しておりまして、また大学時代は冬でも夏でも朝の日が昇る前の静水(波打っていない水面)でのボート競技練習のために早朝起床しておりましたので、寒いのをどう防ぐかということについては少しだけ慣れています。

しかし、エスキモー(イヌイット)だろうが日本人だろうが、裸で極寒の氷上に放って置かれれば数十分で生きていけなくなるのは同じでして、氷上に暮らす彼らは暖かさを身にまとう方法を習得しているということ、これが我々との違いになるわけです。



暖を取るとは熱を遮断(断熱)することである



さて暖を取るというのはどういうことかと言いますと、もともと発熱している生物(人間を含む)の熱が過剰に外に持ち去られるようになると、寒いと感じるということになります。

したがって、体から出た熱を、できるだけ外に出さずにこもらせる、というのが正しい防寒のスキル(技術)ということになるわけです。

そうして、断熱力が高いものとして、最も身近で廉価で、我々がほぼ無限に利用することができるもの、それが「空気」というわけです。

空気、といっても風になっているのは大敵です。

思い切り熱を奪っていきます。

風呂上がりやプール上がりに濡れた体を乾かすために扇風機に当たると、もちろん乾きますが同時に熱も大量に奪われます。

これと同じことです。

しかし、逆にとどまった状態の空気というのは、何にも代え難い、絶好の断熱材になるわけです。

ガラスの二重窓も、ダウンのコートも、羽根布団も、ダンボールを敷いて花見をするのも、みんなみんなその間に含まれる止まった空気を利用しているというわけです。

ちなみに、常温常圧(20℃、1気圧)での空気の熱伝導率は、0.0000565ということで、空気はものすごく有能な断熱機能を持っているのです。

そして、熱伝導率は一般に、個体から気体になるほど高くなるということも合わせて覚えておくと、海で浸かって冷たくなるとか、コンクリートの床が冷たいのでダンボールを敷いて寝るとか、そういう感覚でうまく防寒できるようになると思います。

ちなみに、同じ論理で羽布団で寝るのであれば、羽根布団を体側にして、毛布を使うならその上に毛布をかけるべきですが、毛布自体が重くて羽根布団がぺしゃんこになるようであれば、そもそも毛布はいらないくらいだ、ということなどは覚えておかれるといいかもしれません。

また、体育館や車の中で寝るのは、なんとなく鉄やガラスでできている熱伝導の高い固体だからそんな中で寝たら寒いのだというのも感覚的にわかっていただけるかと思います。

テント泊の時にグランドシート(テントの下に敷くやつ)を忘れてしまい、土の上にそのままテントを張ってえらい寒かった記憶が抜けない筆者からは以上です。

(平成29年11月21日 火曜日)

2017年8月3日

修羅場をくぐったという経験が糧になるという人の人生に学ぶ話です







おはようございます。

2017年8月の暑い夏の記事です。

暑い夏ですが、プロ野球も全国高校野球夏の甲子園選手権も行われる野球好きにとってはたまらない季節でもあります。

さて、かつて小林繁という読売ジャイアンツ所属の選手がおりました。

サイドスローのエース。

小柄ながら人一倍の練習と野球のみに打ち込む真摯な哲学で順調に成績を伸ばしておりました。

趣味もなく、事故に遭うのが怖くて週末に家族をドライブに連れて行くこともしなかった、それだけ野球のことだけを考えて生きていたと言います。

さてそんな純粋プロ野球選手の小林氏は、1978年、日本プロ野球界を揺るがす大きな事件に巻き込まれます。

俗にいう江川事件です。

小林選手が所属した読売ジャイアンツは、「入団交渉期間は、ドラフト会議当日から、翌年のドラフト会議前々日(2日前)までとする」としていた野球協約の盲点を突く形で、前年のドラフト会議でクラウンライターライオンズの指名を受けた江川卓選手とドラフト会議前日にあたる1978年11月20日に突如入団契約を取り交わしたのです。

さて想定していない状況に野球界は大揺れです。

江川氏と読売ジャイアンツとの入団契約をセ・リーグ会長の鈴木龍二は認めず、逆に反発した巨人はドラフト会議をボイコットします。

ドラフト会議の結果では、阪神タイガースが江川との交渉権を獲得しますが、読売ジャイアンツは「全球団が出席しないドラフト会議は無効」と主張します。

そして江川の読売ジャイアンツ選手としての地位保全を求める仮処分申請を東京地方裁判所に対し行うと同時に日本野球機構を脱退し新リーグ設立を画策するに至ります。

えらいことになりました。

そして、年の暮れの12月21日、日本野球機構コミッショナーの金子鋭は「ドラフト会議は有効」、「タイガースが江川に対する交渉権を有する」とする裁定を下した上で、翌12月22日に「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という旨の「強い要望」を表明します。

そうして江川選手との交換トレード要員として、巨人から誰がピックアップされるか、そこに世間の注目が集まることになりました。





そして小林繁選手が選ばれた





選ばれたのは小林繁選手、文字通り金看板の巨人のエースをプロ実績ゼロの新人、怪物江川卓の代わりにいただこうというのです。

ちなみに江川選手を怪物と呼んだのは平成の怪物松坂投手の時に文字通り怪物的な成績を収めたということではなく、江川選手の風貌が当時の藤子不二雄の少年少女漫画「怪物くん」の主人公に似ていることから来ています。

怪物的な成績や豪速球を投げたからではなかったのです。

文字の持つイメージが時とともに代わるよい事例だと思います。

さて、小林選手は、この裁定に公式には何も言わず、ただ後年「人生のバッターボックスに立ったらならば、見逃しの三振だけはするな」との言葉を残します。

翌シーズン、巨人戦に先発投手で臨む阪神の小林選手からは、近寄りがたいくらいのピリピリした雰囲気が放たれていたと言います。

巨人戦の8連勝を含め、この年22勝を挙げ、最多勝、沢村賞を総なめにする驚きの成績をあげたのです。

エースとして君臨していた球団から突然の意図しないトレード宣告を受け、ライバル球団に移籍し古巣を見返す、このような仕打ちが個人に降りかかろうとは思ってもみなかったのではないかと思います。

しかし、小林選手は強い意志の力で、逆境を力に変えました。

小林さんは引退後、解説者やプロ野球コーチなどを歴任、まだ若い57歳において体調不良による突然の死を迎えます。

人生における修羅場をくぐり抜け、その逆境を力に変えた小さなサイドスローの大投手、小林繁さんという人がいたという話でした。

こちらからは以上です。

(平成29年8月3日 木曜日)

2016年8月18日

好評につき石田三成斬首後の関ヶ原のその後について論じてみます







おはようございます。

2016年8月の歴史に関する配信記事です。

先日書いた石田三成に関する記事が意外に好評だったので、その続きの歴史を書こうと思います。

関ヶ原においては、豊臣恩顧の大名の引き抜き合戦を制し戦いにも(小早川裏切りと毛利傍観により)完全な勝利を収めた徳川家康ですが、これはあくまでも建前上は豊臣傘下の大名同士の戦いでありました。

したがって、徳川方についた黒田長政や加藤清正、福島正則といった諸将たちは、馬の合わなかった文官肌で補給担当に過ぎず太閤秀吉の威光を笠に着た(と彼らには見えた)石田治部三成を嫌って、これを除くために東軍についた面もあると思います。

しかし、関ヶ原後の戦後大名処分において、黒田福島加藤とも、大幅な加増を受けて大大名の仲間入りをしますが、なぜか徳川家康によって主導された関ヶ原戦後の論功行賞により諸大名に預けていた豊臣氏直轄領である蔵入地が、西軍大名の改易に伴い一緒に没収されてしまったのです。




一番肥え太ったのは徳川





一番加増したのは、当の徳川家康で、260万石から400万石を超える所領を得ました。

実は、関東平野に追いやられた徳川家は、新田開発に精を出し、かの地を大生産地に変え、石高や生産力ですでに豊臣家を上回る実力を蓄えつつあったのです。

完全なお手盛りです。

この中から、新しい領主の領地もあてがわれ、豊臣秀頼の領地は激減しました。

実に222万石から、摂津・河内・和泉三国65万石余に大幅な事実上の減封を受けたのです。

減俸額、減俸率ともに、そもそも東軍西軍の上に位置する大君である秀頼に対するこの事実上の処置に対し、黒田福島加藤とも、内心忸怩たる思いだったと思われます。

福島正則は、徳川家康に対し、関ヶ原の事を起こすにあたって「秀頼公に異心なきこと」を何度も問いただしていますし、加藤清正も、あくまで忠誠を誓う対象は秀頼であり、徳川方につくのは方便と公言していました。

この二者は、関ヶ原戦後に「福島と加藤と徳川は同じ豊臣秀頼配下の対等な大名である」という原則論を曲げなかったことから、いずれも徳川家にとって面倒な存在になっていったようで、関ヶ原の功績は昔の話として両家とも改易という運命を辿ります。

例外は黒田家で、藩祖黒田官兵衛ゆずりの軍略と武勇に秀でた大将に成長した黒田長政は、時代は徳川に味方すると見抜き、豊臣家の恩顧に報いるより未来志向で行くと脱皮したのかもしれません。

陰湿で疑り深い徳川家康と秀忠の親子が、最後まで警戒した豊臣恩顧の大名が福島正則と加藤清正ならば、それ以前からの戦国大名で警戒して懐柔するのに大きく気を使ったのが、奥州の伊達正宗と、加賀の前田家でしょう。

いずれも、謀反されれば江戸や京都の後背地が一気にレッドゾーンになってしまいますので、大坂の陣に至ってついに豊臣を滅ぼす流れを作るときには特に、これらの大名の離反を防ぐために、ありとあらゆる権謀を用いたのは間違いありません。





島津に暗君なし






そして最後に、いくら味方に引き入れようとも頑として受け付けず、来るなら来いとのポーズを崩さず突っ張った西南の戦国大名がいます。

筑前福岡に封じられた黒田家よりもっと遠く、薩摩の地を鎌倉時代から治めている名門島津家です。

島津に暗君なしと言います。

九州制覇の直前で秀吉の九州入りを招き帰順した島津家ですが、江戸を根城にする徳川家からかの地は遠く、一戦交える覚悟で臨めば幕府もうかつには手が出せないことを時の事実上の領主である島津義弘は見抜いていました。

島津義弘は西軍で単独わずか1,000の兵で関ヶ原を戦い、敵前に突っ込み敵中突破するという古今例にない退却戦を演じ、薩摩に戻りつきました。

そうして激烈な駆け引きと何よりも関ヶ原に派遣しなかった大部分の精強な薩摩兵の力のもと、薩摩鹿児島77万石は全く減らされずに安堵されたのです。

未来を前から予め見ることはできませんが、歴史は振り返ることができます。

いろいろ学ぶことが多いものです。

今宵はここまでに致しとうござりまする。

(平成28年8月18日 木曜日)

2015年9月2日

私たち人類のご先祖様たちの地球を舞台にした素晴らしいグレートジャーニー






おはようございます。

2016年9月の記事です。

現在の人類史がいつ頃から始まったかということは、世界史の始まりが何千年前からという疑問と同じように興味があるところです。

宗教でも王朝でも、だいたいその始まりを特定させるので覚えやすいですが、この二つにおいては学説はもとより、教科書レベルでも敢えて触れないようになっているようです。

それでも、今最も正しいとされているけれども、将来間違っていたことが証明されることを恐れず申し上げれば、現世の人間は、約20万年前にアフリカ南部で生まれたもののようです。

そして、アフリカ大陸で充分に増えた我々の祖先は、5万年前に「出アフリカ」し、氷河期に繋がった南極大陸以外のあらゆる世界に踏み出していったのです。




人類のご先祖様たちの地球を舞台にした壮大な旅の始まり





その旅を、グレートジャーニーと言います。

最も遠くまでたどり着いた祖先たちは、アジア大陸からアリューシャン諸島経由で北アメリカ大陸に渡り、パナマ地峡を超えて南アメリカの先端、今のプエルト・ウィリアムズという港町まで、何世代にもわたり実に5万キロメートルの距離を歩いたということになります。

ものすごいことです。

南アフリカからアリューシャン列島を超えて南アメリカの突端まで歩いたのです。

途中、アフリカ大陸を出たところで、ネアンデルタール人というヨーロッパに広がっていた、ほとんど種の親戚と言ってよい者たちとの遭遇も経験します。

直接に争ったかどうかはわかっておりませんが、ネアンデルタール人は歴史から消滅し、彼らのDNAも一部取り込みながら、我々は1万年前までには、南極大陸以外のほぼ全ての地に、その足跡を記したということです。

こうして考えますと、先達の物凄い行動力に驚かされますが、我々の旅好きは我々のDNAに染み込んだ基本的習慣なのかもしれません。

たまには職場まで歩いてみましたのでこんなことを考えた筆者からは以上です。

(平成27年9月2日 水曜日)

2015年3月10日

メジャー帰りではない現役メジャー仕様の黒田投手を広島が獲得した話

広島東洋カープ


おはようございます。

2015年3月の野球に関する記事です。

2015年シーズンから広島球団に改めて入団した黒田投手がオープン戦で登板し、打者13人を39球で「料理」するというパーフェクトピッチングを披露しました。

簡単にツーストライクに追い込んで、得意のスプリット(落ちる球)やフロントドアといわれるツーシームのシュート球など、得意な武器を駆使して凡打もしくは三振の山を築いたわけです。

驚きなのは、そのコントロールの良さです。

実に39球のうち、ボール球は9球のみ、そしてそのボール球も非常にくさいコースに決めてきますので、見逃すことができずつい手が出てしまいます。

プロの打者相手に簡単にツーストライクまで追い込むというのは、相当のマウンド度胸と練習の積み上げによる精密な投球のなせる業です。




緻密な投球と絶妙なコントロール



ペナントが始まってどのような投球を見せてくれるか、今から楽しみです。

メジャー帰りではない、メジャー仕様「8年目」の黒田投手擁する広島球団に、今年も注目していきたいと思います。

黒田投手と同い年の筆者からは以上です。

(平成27年3月10日 火曜日 最終更新:平成28年3月10日 木曜日)

2015年1月16日

厳島神社(広島県廿日市市に鎮座する平家の崇敬厚かった氏神神社)について

厳島神社 大鳥居



おはようございます。

2015年1月の記事です。

弥山(みせん)と厳島神社(いつくしまじんじゃ)について好評でしたのでもう少し書きます。

すみません、正確には好評だったかどうかはわかりませんが筆者が書き足りなかったので書きます。

厳島神社は平家滅亡後、混乱と衰退の道をたどります。

それも当然で、最大かつ唯一の大パトロンといってよい平家という後ろ盾が、壇ノ浦で突然の「滅亡」を遂げてしまうのですから仕方がありません。

まさに春の夜の夢の如し、というところでしょう。過剰品質となった水の上の寝殿造りという大建築は、それを維持するだけでも大変だったと思われます。

しかし、苦難の時代を経て、厳島神社はふたたび大パトロンに恵まれることになります。

それが毛利元就でした。

しかし、神の島として敬われている宮島も、戦国時代の習いで戦場となることもあったのです。




厳島の戦い(1555年10月16日)



厳島の戦いとは、1555年(天文24年)、かつては西方六カ国の守護大名として西中国地方を支配した主君大内家の当主、大内義隆(おおうちよしたか)を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた)を、その子分であった毛利元就が厳島に敗死させたという戦いです。

陶軍兵力は2万とも云われ、毛利軍兵力は4千から5千と云われています。

普通に戦えば勝機が低いと見た元就は、巧みな謀略で陶晴賢を狭い厳島におびき寄せました。

そして毛利軍はその後伊予水軍を味方に引き入れ制海権を握り、一斉に島内へ上陸、奇襲を仕掛け、狭い島内で大部隊を混乱させ陶晴賢を討ち取りました。

戦死者5千人という壮絶なものだったといいます。

合戦後、毛利元就は戦死者を対岸に運ばせ埋葬させ供養し、血で汚れた厳島神社の社殿を洗い流し清めさせ、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせたと云われています。

血の穢れに対する神域としての宮島の禁忌は厳しかったのです。

その後、毛利元就は勢力を伸ばし中国地方を代表する戦国大名となり、厳島神社の造営や再建、寄進を数多く行ったということです。

神社のある意味したたかな生存戦略が見えて面白いものです。

お好み焼きは食べられませんでしたが、宮島の鹿にはしっかりと鹿せんべいをあげて寄進に協力してきました筆者からは以上です。

(平成27年1月16日 金曜日)

2015年1月15日

弥山(みせん):広島県廿日市市(はつかいちし)宮島の霊山

消えずの火




おはようございます。

2015年1月の記事です。

2015年年始旅行編の最後を飾りますのは、広島県廿日市(はつかいち)市宮島町の宮島(厳島)の中央部にある標高535 mの山であります「弥山(みせん)」です。

弥山といってもわからない方が多いと思いますので、より知られた「厳島神社」ということならば聞いたこともある方が多いかと思います。

平家が大輪田泊(おおわだのとまり)という「港」を整備して、これが今の神戸港の発端なのですが、こうした瀬戸内を通じた日宋貿易で大儲けして、朝廷における権力を誇示することができたという、まさにその瀬戸内の海運の要衝を守るため、厳島神社に莫大な寄進を行ったわけです。

何事も、権力の基にはカネ、ということなのかもしれませんが、平安時代末期、神主である佐伯家と当時の安芸守でもあった「英雄」平清盛の結びつきを契機に平家一族から崇敬を受けました。

そして、清盛により現在の社殿の基礎が出来上がりました。

平家の隆盛とともに厳島神社も栄え平家の氏神に格上げされていったのです。

筆者が行った時はちょうど引き潮のときでしたので、普段は海上に突き出ている大鳥居まで歩いて行くことができました。



弥山への参拝



ここまでは普通の宮島観光なのですが、やはり一工夫したい筆者はそこから弥山に向けて登山を開始致しました。

弥山は古くから修験の山で、かの弘法大師が平安時代、弥山を開山し、真言密教の修験道場となったと伝えられていまして、山麓から山頂にかけて大聖院(だいしょういん)と呼ばれる密教の寺院施設がこれでもか、と鎮座しています。

山に一歩入ると神社から一気に寺になるというわけです。決して大きくない島に、過剰なまでの神仏密度です。

弥山頂上まで石畳の急坂を上り、「消えずの火」がある聖堂に着きます。弘法大師が806年と言われるこの山を開山して秘法を授けて以来、現在まで途絶えることなく燃え続ける霊火です。

この火で沸かした霊水は万病に効くと言われています。

ちょっとすごい神秘スポットなのか、訪れる人の半数近くが一見して海外の方です。

日本人が下の厳島神社だけ見て帰るところ、彼らは日本の歴史や風土を予習して、弥山の山頂までロープウェーも使わずやってくるわけです。

その民度と教養の高さに驚嘆した弥山観光でした。

柄にもなく文化的なことを考えてしまったせいか、当初の主要な目的であったお好み焼きを食べそびれてしまった筆者からは以上です。

(平成27年1月15日 木曜日)

2015年1月14日

大石内蔵助を訪ねて赤穂城まで行って来ました(@2015年始の旅)

四十七士の一、大高源五(萱野三平の俳人仲間でした)



おはようございます。

2015年1月の記事です。

姫路城を見たあとに姫路から車で約1時間あまり、赤穂城に行ってきました。

年始の旅行ということで、赤穂城自体は観覧できませんでしたが、城内は大変な賑わいで、特に城に隣接した大石神社は大願成就のご利益にあやかろうと人だかりができておりました。

有名な忠臣蔵ですが、当時は戦国時代末期から豊臣政権の朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに大坂冬の陣夏の陣に島原の乱、と社会に必要とされていた職業軍人の「活躍」する場所が極端に少なくなってしまい、街に浪人があふれた元禄の世の中に起こるべくして起こった「事件」だったと思います。

ある領域に多くの(能力も高い)人材が集中した結果、社会不安が増すという事例は洋の東西を超えてありまして、例えば戦後の米国でNASA(航空宇宙局 National Aeronautics and Space Administration)の設立に至ったのは、民生品における各企業の研究開発予算が世界的な競争激化により大幅に削られ、研究者を食わせられなくなった、といったことが言われたりします。

彼らのようなNASAに「移籍」した頭脳達は、新しい活躍の場を得て、宇宙探検という壮大なプロジェクトに打って出たのです。

そのような時代背景から赤穂事件は起こったわけで、筆者の解釈や感想としては、赤穂藩主も旧家臣たる浪士たちも、討ち入った者も討ち入らずに他家への仕官を行ったものも、みなそれぞれの人生を一生懸命生きたということであろうかと思います。




萱野三平のお話


大石神社は大石内蔵助をはじめとした赤穂浪士47人を祀っていますが、同格として中途で自害した萱野三平(かやのさんぺい)も主祭神としています。

萱野は同志との義盟や旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになり、同志と共に約束をはたせぬ罪を詫び、同志の奮起を祈る心を記した遺書を内蔵助にしたため、切腹して自ら命を断ったのです。

当然、江戸時代には幕府の手前、こうした浪士たちを表立って祀ることはできませんでした。

しかし、時代は下って1868年(明治元年)、ついに明治天皇が赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わしこれを弔って以降、大石神社として「創建」されたというわけです。

まるで隠れキリシタンのように、民間の伝承や振興は、時の試練に耐えるものだと感じました。

出自は天草上島、赤穂事件より遡ること約60年、まさにキリシタンと農民が島原・天草の地で幕府と戦い散っていったご先祖様を持ちます筆者からは以上です。

(平成27年1月14日 水曜日)

2015年1月12日

大山祇神社(おおやまずみ神社:瀬戸内海に鎮座する海の神)

大山祗神社 本殿



おはようございます。

2015年1月の記事です。

大山祇神社はおおやまずみ神社と読みます。

大山積神(おおやまづみのかみ)は天照大神(あまてらすおおみかみ)の兄で、海の神様です。

西洋で言いますとポセイドンのようなものでしょうか。

とにかく四方を海に囲まれた日本という国において、海の神様は神話の格付け的にも相当上位に来るはずで、そもそも何もないところから神様がかきまわしたそのしずくで日本列島ができたという日本神話式天地創造のお話からすれば、その日本列島という島ができたほかは全て海になったわけで、それも当然のような気がします。

さて、そんな海の神様を祀っているのが、瀬戸内に浮かぶ大きな島、大三島(おおみしま)にあります大山祗神社(おおやまずみじんじゃ)です。

古来より村上水軍の尊崇篤く、というより伊予守という世俗の支配者と大山祇神社の宮司という神官とを双方担った河野家は、そもそも河野水軍というれっきとした由緒正しい「海賊」であり、村上水軍も形式上は河野水軍の配下であったものの、独自の「活動」も大いに行い世間的にはこちらのほうが有名になった模様です。



神官職河野家は大化の改新から続く名家



境内の楠(樹齢3,000年、天然記念物)



さて世俗の伊予守河野家は何と大化の改新から続く名家でしたが(そもそもそれまでは神官職も兼ねた聖俗双方の国王のような存在だったと思われます)、豊臣秀吉の四国征討により、中国の覇者毛利家の「両川」の一翼、小早川隆景によって大名としての道を断たれ、その後継嗣なく滅亡してしまいます。

しかし神官職としては連綿と現在まで続いているわけです。

この点、世俗統治力を失っても同じく神官職が連綿と続いた出雲大社の千家家にも通じるところがあり大変興味深いところです。

そんな大山祇神社、さすが歴史のタイムカプセル、古くは斉明天皇が白村江の戦いの際に奉納した鏡やら、壇ノ浦の合戦で平家を滅亡させた源義経がかの八艘飛びを行い戦った鎧などを戦勝御礼に奉納したりしており、国宝重文の宝庫です。

時代が下っても南北朝時代の南朝方、護良親王や後村上天皇の奉納した大太刀など、マニア垂涎のすごいお宝の数々を目の当たりにすることができます。

かような海における戦いの神という性格から、初代総理大臣の伊藤博文(日清日露戦争)、旧帝国海軍連合艦隊司令長官山本五十六(太平洋戦争)をはじめとして、政治や軍事の第一線の参拝もありました。

現在でも、海上自衛隊や海上保安庁の幹部などが参拝するそうです。

筆者の死んだ爺さんも旧帝国海軍でしたので、別段孫は幹部でもありません単なる旅人ですがお祈りさせていただきました。

境内には日本最長寿の楠など、自然あふれる瀬戸内の神の島、大三島に鎮座します大山祇神社でした。

その後花より団子とばかり、みかん食べ放題で手が黄色くなりお腹がゆるむまで美味しいみかんを食べまくった筆者からは以上です。

(平成27年1月12日 月曜日)

2015年1月11日

姫路城と御着(ごちゃく)城址@2015年始中国地方への旅

姫路城


おはようございます。

2015年1月の記事です。

2015年の年始旅行編続きです。

鳥取砂丘から後は、鳥取の奥地での雪の中の宿泊でした。

よく車で事故を起こさなかったと感心する雪道運転を経て、
まるでムーミンの世界のような幻想的な宿泊施設に到着し、
朝は雪かきと車の屋根の雪下ろしを行い出発しました。

目指すは「福岡」の生みの親、2014年大河ドラマ軍師官兵衛の
生誕の地である姫路です。

姫路城は平成の大改装中でした。

まさに白亜の殿堂といってよい威容です。
大天守の中は内装工事中(という言い方は適切ではないかも
しれませんが)ということで、入ることはできませんでしたが、
長大な渡り廊下をくねくねと探検し、広い本丸二の丸から様々な
角度で大天守を仰ぎ見ることができ、大変満足でした。

満足以上に足が疲れました。

姫路は、確かに黒田家の居城だったのですが、
豊臣秀吉が西方毛利攻めの居城として入城してから、
西の防衛の拠点として、時の権力(織田豊臣徳川と変わりますが)
によって重視された結果、城の普請は進み、
城下含めて巨大となり威容を誇っていった一方、
藩主は数年で改易され、事実上江戸幕府の直轄地に近い
取扱いを受けたという説明でした。

なお、記帳台に「福岡県福岡市」などと記帳したところ、
「おっ、官兵衛の晩年だね」などと話しかけられましたので、
「ええ、その頃は如水ですが」なんて無駄に張り合ってしまいました。

まだまだ私も若いようです。

申し訳ありません。




御着(ごちゃく)城跡


御着城址




さて、次に官兵衛までが当時使えていた小寺政職の居城である
御着城も、一緒に見てまいりました。

鼻を赤くした片岡鶴太郎が扮した「思案の、しどころじゃのぉ~」という
(そして必ず間違える)小寺政職の台詞が耳に残っております。

こちらは、本丸は小さい公園兼姫路市の出張所となっており、
二の丸においては少年野球などにおあつらえ向きの小さな
グラウンドとなっておりました。

主従の逆転とはいえ、姫路城は国宝として現代貨幣換算で
数百億円の費用をかけ大改修を行っている一方、
御着城は公民館のような建屋のみで、あとは土くれのままの
グラウンド、という状況に、まさに盛者必衰の理を目のあたりに
致しました新春の或る日でございました。

そんな、改行が少ないと読者からのリアルなご指摘を頂きました
筆者からは以上です(明日から戻ります)。

(平成27年1月11日 日曜日)

2014年3月22日

人生キットという考え方で他人の人生をなぞることすら可能になる時代

写真は太宰府天満宮です。夜ピクの皆さんガンバレ



おはようございます。

2014年3月の夜のピクニックに関する配信記事です。

その昔人生ゲームというボードゲームが流行しましたが、デバイス機器の発達でさしずめ今はライフログの履歴蓄積ができるようになっています。

走ったルートやタイム、撮った写真の場所や時間などです。

もっと進めばまさに人生そのもの辿り直しができるようになるのではないでしょうか。

行動やイベントや写真がいつどこでどのようなシチュエーションで為されたのかが蓄積されていき、それをいつでも取り出して当事者視線のビデオとして「体感」できるのです。

腕につけて毎日の行動をログ管理して健康維持やダイエットに利用するというモニターが人気ですが、これが毎日の人生を記録しつづけることになります。

このデバイスが高度化すれば、写真や行動の記録に加えて、その時の考えや感情まで記録し続けることができるようになるでしょう。

まさに外部脳です。人間の脳は、その人に固有の記憶や能力発揮のためにしか役に立たない汎用性のないものですが、一旦記録された外部脳の記憶は、いつでも汎用パッケージにすることができます。

そして「人生キット」として売り出すことすらできるのです。




偉人の人生って結構つらいはず




例えば、「イチローの人生」という人生キットならば、どのようにして幼少期よりプロ野球選手になることを「予定」して毎日の努力を重ねたか、節目の4,000本安打を打った時の気持ちなども手に取るように当事者として味わえるようになるのです。

イチローや松井秀喜が、単なる才能だけではなく凡人に測れない血のにじむ努力をしていることも文字通り体感できます。

ほぼきつい練習をしているだけの人生キットなのかもしれませんので、お薦めとは言い難いかもしれませんが。

一方、歴史上の偉人の人生はパッケージにすれば興味を持ってもらえそうですが、例えばリンカーンなどは突然暗殺されてしまい人生を閉じるため、キットを体験するのは相当の勇気が必要です。

人生キットは、あくまで将来のことはわからない普通の人間の感情や思いを味わうものですので、もしかしたらいつも言い知れぬ不安を持たされるキットもありそうです。

太宰治などはそうでしょう。

以上のように考えると、他人の人生をモニターで経験しても、所詮ガラス越しに鑑賞しているようなものでつまらないのかもしれません。

やはり自分だけのオリジナルな人生を精一杯生きるべきだと思い直しました。

恥の多い生涯を送ってきました筆者の妄想は以上です(太宰治「人間失格」より)。

(平成26年3月22日 最終更新:平成28年3月22日 火曜日)

2014年3月3日

(日本史)石田三成と成田長親で有名な行田の忍城(おしじょう)の戦

忍城(おしじょう)



おはようございます。

2014年3月の戦後時代末期に関する胸のすくような配信記事です。

豊臣秀吉の小田原攻めのもう一つの舞台、忍城(おしじょう)攻略戦ですが、秀吉に与えられた大軍を擁しながら石田三成軍が忍城(現在の埼玉県行田市)を落とせなかったのは、三成自身が認めるように自身の軍略の欠如が決定的要因と言えます。

小田原城を居城とした後北条氏については→こちら

変に水攻めなどせずに、大軍ですりつぶすように押し切ればよかったのです。もちろん味方の損害も甚大だったでしょうが、負けることはありません。

しかし、それでは後世に語り継がれる物語にならないのではないかと思うのです。

当時の光成や成田長親(ながちか)もそのように考えたのかもしれません。

戦国時代もいよいよ大詰め、その中で勝ち残り負けたものを糾合したただ強い者がただ勝つ、という状況に対し、「それだけの世の中は何とつまらないものか」という成田長親の命を張ったアンチテーゼ、正直な気持ちに沿った覚悟が軍略を超越したという方がだんぜん面白いわけです。

もう大きな戦はなくなってしまう、という焦りにも似た気持ちが当時の武将の上層部にはあったのかもしれません。

応仁の乱から始まった戦国時代ももう終盤だと。




天下再統一のフィナーレをどのような立場で迎えて歴史に名を残すのか




三成は勝って当然、天下人の戦いをしようなどと勝者の奢りに満ちています。

勝つのは当たり前で、勝ち方により自らの出世もかかっています。

守る成田側は、領民総出で城に立て籠もり、一泡吹かせようとエリート軍団を迎え撃つという構図です。

この手の状況が日本人は大好きです。

一般的日本人を自任する筆者も大好きです。

緒戦に手痛い負けを喫した三成は、備中高松で秀吉に見せられた水攻めをしたいと言い出します。

これは合戦による部下の手柄を奪うことなので諸将の士気はますます下がり、結局三成は部下からソッポをむかれていきます。

逆に成田長親はおのれの命をかけて百姓の心をつかみ、意を決した城外の農民の怒りと共に堤防を決壊させます。

みんな命をかけて戦っているのだから、これは大きな差になります。

三成はその後関ヶ原で敗走、京都六条河原で斬首され果てます。

一方成田正親は68歳まで生きたそうです。

なかなか一時の勝敗では人生わからないものです。

しかしながら、それでもどうにもくそ真面目サラリーマン権化にも見える石田三成を本当の意味で憎める日本人がいるのでしょうか。

それは読めない筆者からは以上です。

(平成26年3月3日)

【関連記事】

小田原北条氏に学ぶ(前篇)

天下統一

2014年1月19日

海の正倉院とも言われる玄界灘の神の島「沖ノ島」のことを語ります

スライム砂時計(隣はメタルスライムです)




おはようございます。

2014年1月の配信記事です。

ロールプレイングゲームの草分けといえるドラゴンクエストシリーズですが、筆者が個人的にその最高傑作と考えているのはドラゴンクエストⅡ~悪霊の神々~です。

作品が出た時期と筆者の多感な子供時期がぴったり重なったことも一因としてありましょうが、社会現象を巻き起こした購入ブームを尻目に、1年前から近くの玩具店に予約し、初回納入分数本のうちの1本を発売日に購入でき遊んだことをよく覚えています。

さて、この物語には絶海の孤島に浮かぶ小さな島「ルビスのほこら」が出てきます。

メインシナリオとなる5つの紋章を集めると最後の敵の神殿へと入ることのできるお守りアイテムを貰えるという設定なのですが、このゲームのシナリオライターは、きっと現実世界の「沖ノ島」のことをよく知っていたに違いないと思っています。




沖ノ島とは




沖ノ島は北部九州の宗像から北西に60キロメートルのところにある絶海の孤島です。

大和政権が成立したと考えられる4世紀以前から祭祀がなされていたらしく、本格的な学術調査で発見された遺物数万点がまとめて国宝に指定されるなど、まさに神の島といってよい存在です。

古来より、沖ノ島のことは「お言わず様」といいその名前を出すことや島での様子を口外してはならない、また女人禁制や入島する際に必要な全裸での海中の禊ぎなど様々な神秘に満ちています。

宗像大社の本宮「沖津宮」が置かれ島全体が神域である沖ノ島は、大和政権が無視し得ない大陸との通商交流ルートの先鞭をつけた北部九州の宗像海人族との関係が偲ばれるものです。

沖津宮に祀られる田心姫神(たごりひめのかみ)以下宗像三女神は、伊勢の天照大御神(あまてらすおおみかみ)の娘であることからも、この地の重要性やかつて彼らが果たした大陸との海の交通路という重要な役割が推察されます。

かの日本海海戦も肉眼で始終を観察したという現代に生きる神秘の島、いつか行ってみたいものです。

*この記事の後、かの島に上陸する機会に恵まれました!

(平成26年1月19日)