このブログを検索

ラベル 歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年9月17日

なぜ力が弱く頭も足りない我々ホモ・サピエンスが地球上に生き残り繁栄したのか






おはようございます。

2018年9月の人類の死生観に関する配信記事です。

先日、ネアンデルタール人と我々の直接の祖先であるホモ・サピエンスが中東のどこかで出会い一部混血していた、という最新の人類学の調査結果に基づき記事を書いたところ、非常に反響がありましたのでそれをお知らせするとともに、ではなぜ力も強く脳の容積も10%以上ホモ・サピエンスより多かったネアンデルタール人がイベリア半島の先端、ジブラルタルまで追い詰められて絶滅したのか、代わりにホモ・サピエンスが興隆して世界中に広がったか、その違いは何であったのか興味深いところになります。

現時点での回答は、社会性と集団の凝集性に差があった、というものです。

すなわち、ネアンデルタール人の集団は、家族単位で、多くても20人程度のものであったことに対し、ホモ・サピエンスの集団は、数家族から数十家族を巻き込んだ、最大150人から歴史が下れば400人もの集団に成長していたことが遺跡等からの発掘結果からも明らかになってきつつあるのです。

そして、ホモ・サピエンスの集団は、その社会性の中で、力が弱くても安全かつ効率的に狩りができる道具である「投擲器」「笛」といった画期的な発明を行います。

そして、笛や言葉で情報を交換しながら、獲物を追い込み、そして投擲器という、非力な彼らでもテコの原理を用いて手投げの約2倍以上の飛距離を伸ばせる飛び道具を駆使して、集団で、効率的に、役割を分担して、安全に狩りを行うシステムを確立していったのです。

これに対し、力が強く、個人として賢いネアンデルタール人は、独力もしくは少人数での、大型動物相手の肉弾戦の狩りに明け暮れました。

したがって、ネアンデルタール人の出土化石には、こうした狩りでの戦いで負傷した跡がたくさんあるとのことで、命がけの狩りで平均寿命も非常に短かかったと見られるのです。

平均寿命が短い小集団であれば、知識や知恵の伝承がなかなか起こりません。

そうして、相対的に平均寿命が長く大集団であったホモ・サピエンスの方に、文明の利器や知恵といった積み上げが起こり、そして結果として大きな違いとなっていったと考えられるのです。

現代においては、インターネットという技術の発達により、文明の利器や知恵といった知識やノウハウは、かつてない勢いで広がり、かつ同時に利用できる共通知となりました。

農業革命、紙の発明、火薬の発明、そして20世紀後半から起こった情報革命。

これらは全て我々ホモ・サピエンス(一部ネアンデルタール人との混血)の重要な特質であった集団性と相互の情報共有から生まれた結果なのです。

こうした人類共通の共有知をこれからどのように生かして行くのか、これからの人類の行く末を決めることになるでしょう。

現代人類がアフリカの南半分で突如として興ってから実に25万年の歳月が経過し、地球上に75億個体が存在する状態まで我々は急拡大しました。

今後を占うのにこれほど楽しみでかつ解決が難しい時代もないと思います。

そんな楽しい時代をこれから生きられることが楽しく、長生きしてその行く末を見ていきたいと思っています。

その前に、まずはもう少し人類の歴史なり言葉なりを勉強しておこうかと思いました筆者からは以上です。

(平成30年9月17日 月曜日)

2018年9月16日

我々はホモ・サピエンスとネアンデルタールの混血の子であるという最新の人類考古学の結論について







おはようございます。

2018年9月の人類のはじまりについての配信記事です。

我々は、30種類程度生まれた「人類」の最後の最後に枝分かれして生まれた「ホモ・サピエンス」という種類の人類であったということはわかっていたのですが、実は、その我々のご先祖であったところのアフリカ南部で生まれた「原ホモ・サピエンス」が、アフリカ大陸を出たところで、それよりも前に生まれて主にヨーロッパに広く生息していたネアンデルタール人と同時代に出会いを果たしていたのです。

そして、近しい種族の彼らにおいて、必然とも言える「交配」により、アフリカを除くホモ・サピエンスのDNAには、彼らネアンデルタールのDNAが2%から3%程度混じり、そしてそのいわば混血のホモ・サピエンスが、我々の今住んでいる遠いアジアの端やら、アラスカを超えて北アメリカや南アメリカまで、要するに南極大陸を除く地球上中に広まったというわけです。

これを、グレートジャーニーと言いますが、我々のご先祖様たちは、それはそれは新しもの好きで、どんどん新境地を拓いていく、そんな好奇心と冒険精神に満ち溢れた方々であったというわけです。

隣り合っているとはいえ、種別として明らかに別の「人類」との交配も辞さないその貪欲な姿勢。

おかげで、寒冷地にも耐える肌の白い遺伝子や金髪、そして寒冷地に潜むウイルスや細菌耐性にも優れた形質を獲得することにも成功しました。

さまざまな冒険をして、そこで得た知見を元に、さらに遠くに行く。

シベリアの奥地からアラスカ、そして日本や太平洋の島々といった「海を隔てた新天地」にも、船での航海技術なども駆使して遠慮なく冒険していった、そうした先輩たちの成果の先に我々は生きているわけです。

さて、75億人以上に増えてこの世の春を謳歌しているに見える我々ホモ・サピエンスでありますが、ようやく21世紀の終わりには果てなき拡大、人口増大の時代が終わりをつげ、ゆるやかな人口減少の世界に入ることがほぼ確実視されています。

インターネットの発達により、ホモ・サピエンスが他の人類に先駆けて強みを得た大きな集団の社会性という強みは極限まで発達しました。

この先に何があるのか、人類は経験したことのない人口減少社会に差し掛かり、その知恵を全力で試されることになりそうです。

それもまた面白い冒険です。

移民政策がどうとか、排外主義とかブロック経済とか、現代社会においてはいろいろ利害調整の話が言われていますが、そんなもの、かつて他種族との「混血」すら辞さなかった、そして自らを作り変えて世界を制覇する形質を勝ち取っっていった我々のご先祖様の偉業を思えば、本当に小さなことに過ぎないのかななどと思った次第です。

異性の好みのストライクゾーンはかなり広いことで定評のあります筆者からの勝手な記事は以上です。

(平成30年9月16日 日曜日)

2018年9月11日

リーマンショック10周年に寄せて10年に一度くらいのよくある危機について述べておきます






おはようございます。

2018年9月の国際経済状況に関する配信記事です。

今からちょうど10年前、2008年9月15日(月)に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象がありまして、この事態を総括的にリーマンショックと呼んでいます。

リーマン・ブラザーズは、当時負債総額約6,000億ドル(約64兆円)というアメリカ合衆国の歴史上、最大の企業倒産により、世界連鎖的な信用収縮による金融危機を招きました。

日本はそれまでの長引く不景気から、サブプライムローン関連債権などにはあまり手を出していなかった(出せなかった)ために、大和生命保険が倒産し農林中央金庫が大幅な債券評価損を被ったものの、直接的な影響は当初は軽微と見られていました。

にもかかわらず、世界的な経済の冷え込みから消費の落ち込み、金融不安で各種通貨から急速なアメリカ合衆国ドルの下落が進み、アメリカ合衆国の経済への依存が強い輸出産業から大きなダメージが広がり、結果的に日本経済の大幅な景気後退へつながってしまいました。

結果、日経平均株価も大暴落を起こし、2008年9月12日(金曜日)の終値は12,214円だったが、同年10月28日には一時は6,000円台(6,994.90円)まで下落し、1982年(昭和57年)10月以来、26年ぶりの安値を記録するに至るのです。

当時、筆者は某上場不動産投資信託の運用会社の企画部長という職責におりまして、日々暴落する日経平均を眺め投資家からかかってくる矢のような電話に対応しながら非常に苦しい日々を過ごしました。

結果、100万円を超えていた自社の運用する上場投資信託証券は、28万円まで下落したのをこの目で見ました。

逆に28万円の時に、どうしてこの金融商品を買えなかったのか(内部社員なのでコンプライアンス規制上買えないのですが、それでも)今でも悔やんでいます。

当時、この金融崩壊状況はまさに100年に1度の危機などと言われたものなのですが、本当に100年に一度というならば、日本で1900年前半と言えば国家予算の数年分を費やし満州の荒野まで帝政ロシア相手に国運をかけた日露戦争を戦い数十万の将兵を死傷させていたことを思えば、軽々しく○○年に一度のーというフレーズを使うべきではないと考えておりまして、要するに、人間の希望的観測、机上の空論、こうあってほしいという従来からの発想、要するに根拠のない楽観などにしがみついたために、国民経済や生命財産に多大の犠牲が出ることは、10年に一度くらいの「よくあること」ではないかと思うに至りました。

国民は、のど元過ぎれば意外と熱さを忘れますし、そんな国民が選んで組成される議会や政府にあまり有用な根本治療を期待するのは難しいからだと思っています。

ここで個人的な意見として申し上げておきたいのは、そんな100年に一度の危機というのはなくて、10年単位でわりに頻繁に起こる経済危機といった状況はよく起こるものである、ということです。

普段から備えておきたいものです。

備えなく、憂いの多い筆者自身の反省は以上です。

(2018年9月11日 火曜日)

2018年8月21日

2018年夏の甲子園第100回記念大会の決勝は大阪桐蔭高校(北大阪)と金足農業高校(秋田)の一戦です







おはようございます。

2018年8月の、夏の甲子園決勝戦直前に配信する期間限定の記事です。

今年の夏の甲子園は、記念の第100回大会ということで、参加高校数56チームを数え、日々熱戦が繰り広げられました。

素晴らしい試合たちでしたが、おそらく本日行われる決勝戦は球史に残る名勝負となること間違いありません。

史上初の2度目の春夏連覇を狙う大阪桐蔭高校と、秋田代表、公立高校および東北に初の大優勝旗を持ち帰るチャンスを得た金足農業高校。

この2校の決勝戦です。

この決勝戦まで、数ある好カードと名勝負を繰り広げられましたが、事実上の決勝戦などなく、明らかに、両校が降してきた名チームの名誉のためにも、これが真の意味での第100回大会の決勝戦にふさわしいカードであろうと思います。

片や無敗で全国の強豪に目標とされた大阪桐蔭と、雑草魂で勝ち上がって来た金足農業。

金足農業、スタメン9人と一人のエースピッチャーで勝ち上がって来た、まさに昭和から蘇ったような公立地元のチームです。

秋田の人たちはすでにお祭り騒ぎです。

街に人がいなくなり、パブリックビューイングでハイタッチする人の群れ、会社は休んでテレビ観戦、自動車で急遽15時間かけて秋田から兵庫県西宮市甲子園町の甲子園まで夜通しで観戦に来てしまい、そして決勝進出でそのままステイな人まで、まさにウルトラクイズかよw的状況に大騒ぎです。

大阪桐蔭も、単なる野球エリートというわけではなく、チームとしての態度も個々の選手の振る舞いも素晴らしい、本当の王者の風格と実力を兼ね備えた名チームです。

明日は忘れられない1日になるでしょう。

なぜこのような好対照なチームのカードが、夏の決勝戦で実現するのか、少し真面目に論じますと、中学でトップになっているという選手は実は成長ボーナスが早く来ているという「傾向」があるので、高校3年の夏時点で依然トップにいるというのも凄いことなのです。

つまり、ここに高校野球の大きな「課題」「問題点」が横たわっていると思うのです。

むしろ、選手としてのピークに向かっていく途上で他の選手との比較優位性がどの学年(中学、高校、大学や社会人、そしてプロ)で起こるのかを正確に見極める眼力があれば、その選手に即した長期的な指導ができるはずなであります。

この2高校の決勝というのは、そういう意味で非常に対照的であり、かつこの高校野球の2年3ヶ月でここまで勢力図が変わる、ほぼ素人が体躯がでかくなりわずか2年で先頭集団に挑めるところまで来れるという意味で非常に興味深いものがあります。

おそらく、中学軟式で鍛えている方が、身体の「ガタ」が来ていない可能性が高く、特にピッチャーの粘りはあるのではないか、とすら思われるのです。

その、「後ろから全力で追いかけてやってくるライバル」を蹴落とし続けて無敗でやってきた大阪桐蔭も凄いです。

中学王者だったからといって簡単に勝たせてくれるほど高校野球は甘いものではありません。

中学で144キロ投げるなど、明らかに成長が早いのですが、逆に高校では成長しきってしまったので後から抜かれた、なので記録員、とも言えるのです。

フジヤマのトビウオの古橋廣之進も、マラソンの瀬古利彦も、彼らのピーク時点でオリンピックに出れなかったため、残念ながらピークを過ぎての参加だったので、結果は厳しいものになりましたが、スポーツの世界はそういうものだと思います。

だからこそ、プロで長く活躍を続けた松井秀喜やイチロー、そして今日始球式をやった桑田真澄などは、伝説として語り継がれるのではないかと思います。

いずれにせよ、筋書きの全くないドラマが、本日1日日本列島を包むのは間違いありません。

高校野球の球児の味わう、この濃い日々に比べれば、自分はなんと薄い毎日を過ごしているのだと思ったりしますが、そこは置いておいて本日は両校の決勝の姿をしっかり焼き付けておこうと思いました。

野球はやっぱり面白いですね。

高校時代は山岳部で、真裏にあった野球部のピッチングマシーンの横で山行の準備をしていたことが懐かしい筆者からの回想は以上です。

(平成30年8月21日 火曜日)

2018年6月27日

GEが収益の柱である医療機器部門を分離売却するという衝撃の話です







おはようございます。

2018年6月の世界の経済界を揺るがす衝撃のニュースです。

あのGE(ゼネラル・エレクトリック)がその収益の柱として育ててきた名門部門である、医療機器部門を分離し売却し独立させるというのです。

向こう1年から1年半の間で、具体的な方法は検討され実施に移されますが、売却した部門から入るキャッシュのうち、その8割は既存株主への配当に回され、残りの2割は会社が保有するキャッシュとなり、今後の運転資金や新事業領域への展開(買収含む)に使われるということです。

GEという巨大企業におけるヘルスケア部門(つまり医療機器部門)の売上高比率は実に15%、そのほぼ全てを売却するというのは、前のCEOであるジェフ・イメルト氏の出身部門であり、現在のGEの経営幹部たちもたくさんいることから考えると、普通はあり得ない決定です。

しかし、それだけGEへ向けられる風当たりは厳しいのでしょう。

株主も、8割を配当として受け取る、ということは、その部門に代わる別の収益の柱の部門を、当面GEは見つけられない、会社を一部畳むに等しいという判断です。

事業家にとって、これほどまで屈辱的な決定もないでしょう。

お前に株主の大事な金を預けるわけにはいかない、とっとと返せ、という迫られたわけですから。

かように、上場企業における資本の論理というのは冷徹です。

オーナー(つまり株主)と経営者が一族で同じ、という同族経営の会社であれば、会社がどのような方向に進むかはより長期的に決められると思いますが、GEでなくても投資したい別の会社や企業やファンドはほぼ無限にあると考える機関投資家やプロ個人投資家にとって、GEはもはや金を連れてこれる「器」としての一定の限界を見せた、ということにもなるのです。

100年を優に超える名門企業、筆者が社会人の若いころには超強力なモーレツおじさん、ジャック・ウェルチCEOの下、ナンバーワンナンバーツー戦略という、その業界で1位か2位になれなければ撤退か売却か、という厳しい事業採算基準で世界の時価総額トップの会社として君臨したGEも、筆者の目の黒いうちに、このようなことになるのかと驚きでした。

このヘルスケア部門の分離売却のほか、石油サービスや伝統的な家電や電灯、金融部門といったビジネスも全て手放した結果、新しいGEは、ジェットエンジンと発電プラント、そして再生可能エネルギー部門に特化した会社となります。

もう、総合電機メーカーではなく、専門製造業、といった感じですが、これが規模も自由自在という現代の資本主義社会における投資対象としての会社の姿なのかもしれません。

1999年には米経済雑誌「フォーチュン」(タイム社)で「20世紀最高の経営者」に選ばれているジャック・ウェルチの著書に、勝利の経営という本がありまして、その本の要諦を筆者流に解釈しますと、

卓越した成果を求める組織では一定の物差しと判断基準で格付けされ評価された下位社員の存在は、会社自身、および経営層、中位および上位の社員にとって有益でないのみならず、下位社員の人間自身にとっても他の環境で活躍できる可能性を潰して飼い殺させるという意味で、本当に有益ではない

ということであろうかと思います。

これは、有限な人間個々の時間を冷徹に判断した、いわば冷たい優しさともいうべき経営哲学ではないかと考えています。

そんなGEの、筆者にとってはあまり聞きたくはなかった斜陽の記事は以上です。

(平成30年6月27日 水曜日)

2018年6月21日

GE(ゼネラル・エレクトリック)がダウ平均株価構成銘柄から外れる日がやって来ました






おはようございます。

世の儚さ、および栄枯盛衰というものを感じる2018年6月の配信記事です。

ついに、落日です。

米国最強幹部企業、強烈研修企業の名を欲しいままにしていた、あの発明王エジソンが創業した米国ゼネラル・エレクトリック(GE)がダウ工業株30種平均の構成銘柄から外れることになりました。

代わりに構成銘柄に採用されるのは、フェイスブックという噂もありましたが、GEがヘルスクケアに注力していることも影響しているのでしょうか、ドラッグストア大手のウォルグリーン・ブーツ・アライアンスが昇格します。

GEは昨年2017年7月末、2001年9月から約16年間、最高経営責任者(CEO)を務めてきたジェフ・イメルト(当時61歳)が退任し、後任のCEOとして、医療部門のトップを長く務めるジョン・フラナリー(当時55歳)を充てる人事を発表しました。

その後の同社株価の下落ぶりは激しく、これはどうしてもヘルスケアという世界的、特に先進国に顕著な人口増加に次第に鈍化が見えている市場にしか活路が見出せない同社に対する容赦ない不支持の結果なのかもしれません。

皮肉なことに、イメルト氏のCEO末期においても、この成長鈍化の懸念から株価が低下していましたが、新CEOになってからその傾向に拍車がかかったようです。

就任1年弱、現在のCEOフラナリー氏にとってはまさに正念場の経営が続きます。

筆者が社会人になった頃は、GEはイメルト氏の前任のCEOである、ジャック・ウェルチという「強烈おじさん」が幅を利かせていまして、当時はナンバーワン・ナンバーツー経営で時価総額トップの名を欲しいままにしていました。

相当のビジネスマンや幹部が、ジャック・ウェルチの著書を読みましたし、さらに、後任のCEOをどのように選定したか、そしてジェフ・イメルトに地位を譲った際に同じくCEO候補に見立てていた他の2人(この2人の方がGEにおけるキャリアもあり年長であった)を社外に出すためにクビの宣告を与えた、そして2人ともGEに並ぶくらいの名門企業のCEOとして転じていった、といった評伝を見るたびに、素直に凄いと感じていたものです。

そんな筆者のような昭和生まれの中年ビジネスマンの感慨をよそに、世界は凄い勢いで動いています。

GEを世界最強企業にしたジャック・ウェルチのあとを受けたジェフ・イメルトは、米国の2001年同時・多発テロや2008年のリーマン・ショックなど度重なる経済危機に見舞われたものの、事業の選択と集中を進め、GEの革新を常に進めてきた名CEOでした。

そして、2015年にはGEは金融事業から実質撤退を決断し、一方で、「インダストリアル・インターネット」と呼ぶデジタル技術を活用した製造業の革新に取り組んでいました。

しかしながら、結果から言えばアマゾンやグーグル、フェイスブックといった巨大なプラットフォーマーの台頭による収益と存在感の低下には抗することができませんでした。

代わりに株価が低迷し、いわゆる物言う株主であるアクティビストたちからの圧力を受ける、事業の大幅なリストラを要求される状況です。

こうした混乱による、株価低迷による時価総額の減少が直接の引き金となりまして(ダウ平均には最低価格銘柄であろうとも最高価格銘柄の時価総額のおよそ10分の1以上あるべきとされるルールがある模様)長く構成銘柄として採用され続けたGE株についても、ついに一旦区切りがつけられることになりました。

栄枯盛衰、盛者必衰の理りです。

これでダウ平均が作られた1896年当時のオリジナル銘柄(12銘柄)は全て消滅したことになります。

変わり続けることの難しさを感じます。

GEは過去一度構成銘柄から除外されましたが、1907年に再び採用されてからは110年以上構成銘柄の座を守ってきた、と経済史の教科書に記しておきたいと思います。

ジェフ・イメルトがCEOに就任した45歳に近づいているものの、成果としてはイメルトに直接会ったことがあるという友人を持っているくらいのネットワークにとどまる筆者からのコメントは以上です。

(平成30年6月21日 木曜日)

2018年5月23日

(感想文)九州出身者の北海道についての雑感を述べておきます

札幌の大倉山ジャンプ台からの眺めです




おはようございます。

2018年5月の北海道に関する素人感想記事です。

3泊4日の日程で休暇をいただきまして、初夏の北海道に行ってまいりました。

ほとんどすべて札幌駅の傍の札幌競馬場近辺で過ごしまして、最終日は、日高地方の通称「サラブレッド通り」というサラブレッド生産牧場が密集しているエリアで生まれたばかりの仔馬やら1歳馬やらを観ながら、長いドライブをして、新千歳空港から空路直接福岡まで帰るという旅でした。

まず、北海道、前も行ったこと確かにありますが、その広さに驚きました。

札幌という街もでかいし、街を出たところの道路も長いし風景がでかいです。

どこまで行っても同じような景色が続くというのは、確かに九州での阿蘇や九重地方(やまなみハイウェイ)も確かに雄大な風景を持っておりますが、それとはまた違った、とにかく海、山、そして原野と道が続くという意味ではスケールが違いました。

それもそのはずです。

北海道、という都道府県の一つでありながら、実に面積は九州本島2つ分なのです。

広すぎです。

北海道の半分しかない九州本島を、7県に分けて福岡だの長崎だの鹿児島だの言っているのは小さいということです。

どこまで走っても、隣の県に入らないのです。

九州自動車道を30分も走れば、隣の県である佐賀県鳥栖市に入って直ぐ折れたら大分県、みたいな高速道路の感覚ではないのです。

そもそも、SA(サービスエリア)も見当たりません。

高速道路がどこまでもまっすぐ、続いていきます。

運転している筆者以外の同乗者は、すでに寝入っています。

これは、凄いと思いました。

ドライブを始めた瞬間、筆者は名作映画「幸福の黄色いハンカチ」のテーマと共に赤いファミリアを運転する気分に一瞬なったのですが、運転するのに借りたレンタカーはねずみ色だし、走り始めて10分もたてばそんな感じで車内はしんとしてしまい、ただ自分の車のエンジン音だけが続いていく延々とした高速道路道、になってまいります。

人はいません。

時々牧場に放牧されている、馬やら牛やらがぽつぽつ見えるだけです。

それもそのはず、九州の二倍の面積の北海道の人口は、実に550万人、福岡県の500万人とそんなに変わらないのです。

そして、道都札幌市の人口は約200万人、実に4割弱の人口が、一都心に集中しているという状況です。

他の市や町や村には、そんなに人はいないのです。

馬や牛の方が多いというわけなのです。

どこまで行っても大自然で、そんな北海道の日高地方は、日本のサラブレッドの生産頭数7,000のうちの大部分を、ここで生産するという世界でも稀な競走馬の産地というわけです。

のどかな放牧の姿の中で、そんな厳しい競走馬の世界が展開されているのかと思うと、感慨深い北海道の旅でありました。

さて、競馬の見る目も特にないので予想はあてにならない筆者からの感想は以上です。

(平成30年5月23日 水曜日)

2018年5月19日

帰ってきた日本の製造業・ザ・日本の高炉メーカー「日本製鉄」の復活について






おはようございます。

2018年5月の日本の製造業、産業のコメと言われる高炉製鐵業に関する配信記事です。

ついに帰ってきました。

帰ってきたぞ

帰ってきたぞ

ウルトラマン

よろしく戻ってきたその名は「日本製鉄」、日本を代表する世界3位の高炉製鉄メーカーである新日鐵住金が、2019年4月1日をもって、「日本製鉄」に社名を変更すると発表したのです。

その前に、現在(2018年5月)の新日鐵住金については、新日本製鐵と住友金属工業という高炉メーカーの大手が合併して誕生したものでした。

さらに、かつて世界一位の座に君臨していた世界高炉大手の新日本製鐵は、1970年に当時の八幡製鐵と富士製鐵の合併で「誕生」したわけですが、そもそもこの2社は、戦前の1934年に発足した国策鉄鋼会社であるところの「日本製鐵」が、1950年、いよいよGHQの財閥解体圧力に抵抗することができなくなり、分割してできたいわば同胎の会社なのです。

歴史を紐解きますと、日本の高炉メーカーのはしりは、1901年の記念高炉が立っております現在の福岡県北九州市八幡東田の官営八幡製鐡所ですが、それを中心に、輪西製鐡(北海道)釜石鉱山(岩手県)三菱製鐡(朝鮮)九州製鋼(福岡県)富士製鋼(神奈川県)の1所5社が1934年(昭和9年)に合同して日本製鐵は設立されました。

その後、東洋製鐡と大阪製鐡の2社も加わり、1製鐵所7社の合同となりました。

1933年(昭和8年)に制定された法律「日本製鐵株式會社法」で特別に経営が規定され、大蔵省が株式の大半(設立時は82.2%、解散時は57.0%)を保有しました。

これは、当時の日本国内の最大の高炉製鐵メーカーであり、世界の鉄鋼業を代表する存在であったのです。

さて、この日本製鐵は当時の経済軍事から、最重要視されていた高品質の鉄鋼素材を豊富に供給し、日中戦争から太平洋戦争を背景に拡大を続けました。

しかし敗戦後の復興途上の1950年(昭和25年)4月に、旧財閥の解体を目的とする過度経済力集中排除法の適用対象となり、八幡製鐵・富士製鐵・日鐵汽船(現・NSユナイテッド海運)・播磨耐火煉瓦(現・黒崎播磨)4社に分割されて日本製鐵は解散したのです。

その後、ゆるやかな再統合の流れの中、高炉メーカーとしての後継の八幡製鐵と富士製鐵は、双方のメインバンクであった日本興業銀行の当時の会長、中山素平の仲介もあり1970年(昭和45年)に合併し、新日本製鐵(新日鐵)が誕生しました。

そののち、2012年(平成24年)10月1日に住友金属工業と合併し、新日鐵住金となったのです。

筆者も、北九州市八幡で育ちましたが、当時の都市対抗野球の応援での新日鐵チームの応援は、「ニッポンスチールゴーゴーゴー」でした。

なぜ「新」の音が入っていないのか疑問だったのですが、もともと日本製鐵(にっぽんせいてつ)だったわけですから、いちいち新など言わない、ということだったのでしょう。

さて、今回、「新日鐵住金」(しんにってつすみきん)は晴れて「日本製鉄」となるわけですが、微妙に違う点が2つだけあります。

まず、「鐡」の旧字体ではなく「鉄」の新字体に統一されます。

北九州市八幡で育った身としては(小学校の時の社会科見学が戸畑の高炉の製鉄過程の見学という)、鐡の文字には愛着がありますが、これはわかりにくさを排除するという意味で仕方がないところでしょう。

次に、「日本」は「にっぽん」と読まずに「にほん」と読むようです。

これは、当時は国策会社であり、日本銀行(にっぽんぎんこう)が発行する日本銀行券(にっぽんぎんこうけん)と同じような呼び方であったところ、今回はそうした国策会社とは一線を画して世界一位に返り咲くという野望を新たにしたものと筆者個人は理解しようとしております。

ちなみに、2018年5月16日に行われた記者会見において、新日鐡住金の進藤孝生社長は、戦前の「日本製鐵」については「意識せずに(新社名を)決めた」と、堂々と語っています。

そんなもの、いわずもがな、というところでしょう。

「鐡」の字は、戦前の会社はもちろん、新日本製鉄や2012年にできた新日鉄住金でも正式には旧字の「鐵」でしたが、新社名では新字になるというところに、世界に向けて勝負するという意思が見て取れます。

さらに、もともと新日鐡の英語社名は「Nippon Steel」なのです。

Newとかつけない、いつかは日本製鉄に戻る、このような、長期目線に立った会社運営が、オーナー一族で受け継がれてきたわけではない代々の経営陣に染み付いていたことに、正直驚かされます。

新日鐵にはたくさんのグループ会社がありますが、その略称としても、よく「NS」や
「日鉄」が使われています。

もちろん、Nippon Steel、日本製鉄の頭文字です。

いよいよ、日本の最終兵器、カタカナやひらがなのゆるふわ社名ではない、本当に世界で勝負しようと意気込む骨太の会社の発足です。

日本製鉄の前途に幸せあれ。

零細投資家ですが、早速新日鐵住金の株式を購入しておきました筆者からの感想は以上です。

(平成30年5月19日 土曜日)

2018年3月23日

東京駅を挟んで東西の三菱村と三井村の開発合戦について書いておきます






おはようございます。

2018年3月の東京中心街に関する短い配信記事です。

私たちベビーブーマー第二世代(昭和40年代後半生まれ)が若かりし頃は、東京駅といえば別段他の駅と変わらないけれども単に東京の中心にあるというだけの駅でした。

単に働いているオフィスビルがあるというだけの場所であり、特段観光客を魅了するような街ではなかったのです。

しかし、東京駅がいわゆる創建当時の丸屋根に大規模なお金をかけて改装されて復元された今、東京駅の周りは来るべき東京オリンピック2020年に向けて急速に整備されています。

もともと、皇居のそばの沼地であった東京駅の西側すぐの丸の内という場所を100年前に払い下げを受けた三菱財閥は、そこに巨大なオフィスビル街を建設し、ロンドンの中心街シティを目標にまちづくりを進めました。

対して、最近になって、同じく東京駅の今度は東側すぐの日本橋という場所に、同財閥のはしりとなった三越日本橋本店を構えていた三井財閥は、商業の中心が銀座や六本木、新宿といったダウンタウンに移っていったところから趣向を変えて、三菱が開発していた丸の内に対抗して、日本橋を最先端のお洒落なオフィス街に変えようと意気込んでいます。

そうして、昔からある三菱村(丸の内)と、最近すごい勢いで整備が進んでいる三井村(日本橋)という双璧の構図となり、それぞれが切磋琢磨しあって東京の玄関口は、急速に発展し極めて綺麗な街並みとなってきました。

三菱財閥は現在の三菱地所を中心として丸の内を、三井財閥は現在の三井不動産を中心として日本橋の開発をそれぞれ担い、世界に通用する東京の玄関口を整備し世界の有力企業やサービスを導入しようと躍起になっているのです。

最近東京に行くことが少なく、たまに行ってみると浦島太郎状態の筆者からの解説は以上です。

(平成30年3月23日 金曜日)

2018年3月15日

日本において数字の銀行がいくつか続いて残っているという話について




おはようございます。

2018年3月の日本の銀行に関する配信記事です。

最近、三菱東京UFJ銀行が三菱UFJ銀行に名称を変更するという話がありました。

東京銀行といえば、Bank of Tokyoという通り名で世界にその名を知られた名門銀行であり、かつては外為専門銀行として、いわゆる外貨を独占的に扱っていたというわけですが、1996年に当時の三菱銀行と合併して東京三菱銀行となり、そしてそこから20年あまりをかけて、ゆっくりと東京の名は消えようとしているわけです。

当時の東京銀行をぎりぎり知る身としましては、非常に寂寥感がつのるお話です。

さて、日本の銀行には、そのほかにも、第四、七十七、百五といった漢数字がついた銀行がいくつかありますが、この銀行たちはどのような経緯でかような漢数字の名前を持つようになったかご存知でしょうか。

これは、中学の歴史の教科書にも載っていますが、時代が江戸幕府から明治の新政府に移ったところ、日本政府は西洋列強に対抗すべく急激に世界の奇跡とも呼べる近代化を一気に図りますが、その中で、いわゆる通貨を整備することにも着手します。

これまで、慶長小判とか言われていた通貨を、単位「円」として、「両」単位からの脱却をはかったのです。

ただ、幕藩時代の各藩発行の藩札やら、これまでの小判や銀といった通貨が入り乱れている状態であり、この状況打開のため、明治5年(1872年)に、政府は「国立銀行条例」という法律を制定して、通貨の統一に乗り出したのです。

しかし、そこは当時の明治政府、当面自前で通貨を発行できる予算がなかったため、なんと民間が設立した銀行に、銀行券を発行させて、そしてこれまでの紙幣をこの新しい銀行券と交換させ回収したのです。

国立、といっても国は名前を貸しただけ、つまり今でいう「ネーミングライツ」のような、「PFI」というべき仕組みです。

まず、これに沿って民間が設立した「国立銀行」は4つあります。

東京に設立された国立第一銀行はその後、第一勧業銀行を経て現在はみずほ銀行です。

横浜に設立された第二国立銀行は、現在は名称を変え横浜銀行となっています。

第三国立銀行は大阪に作られるはずでしたが、設立時のトラブルで営業開始前に解散した経緯がありまして今も存在しませんが、「国立」ではない純粋民間の第三銀行というのが三重県松阪市にあり、三重県の三を取って第三銀行として営業していますのでややこしいところです。

新潟にある第四銀行は、今もその名前のまま存続しています。

その後、解散した国立第三銀行の後釜として、第五国立銀行が大阪で設立され、これは現在の三井住友銀行に引き継がれています(三井の方が本流になります)。

さて、その後も銀行条例の柔軟な改正もあり、次々に同様の国立銀行が設立された結果、なんと153番目の国立銀行までが設立されたのです。

そして、これらの「国立」銀行が発行する銀行券は、すべて同じデザインで、発行する各銀行の名称だけが違う(つまり番号が違う)ということになったというわけです。

しかしながら、そんな民間由来の公的紙幣発行という予算が少ない中での合わせ技がいつまでも続くわけもなく、やがて明治15年(1882)年に至って、ついに日本の中央銀行として銀行の銀行というべき日本銀行が設立され、日本銀行券(要するに今の紙幣)が発行され、これらの国立銀行券は日本銀行券と交換されていき姿を消していき、そしてこれらの国立銀行も通貨発行の役目を終えて普通銀行として転換して、一般の民間銀行として営業を継続したというわけです。

そんなわけで、明治以来の大事な名前のまま2018年3月現在も営業を続けているのは、第四(新潟)、十六(岐阜)、十八(長崎)、七十七(仙台)、百五(三重県津市)、百十四(香川)の6つとなります。

また、八十二銀行(長野県長野市)は、第十九銀行と六十三銀行が合併してできました。

「19+63=82」というわけです。

冗談のようですが、数字に対するこだわりを垣間見ることができます。

そして、第三銀行については、漢数字ではなく三重県松阪市の三ということですので、厳密にはここから外します。

同じ三重県津市には百五銀行がありますので、さらにややこしいですが、三重県に縁のある方はここのところよく復習しておいてください(テストに出ます)。

三重県に出張で訪れた際に、最高級の松坂牛を一度だけ食べたことがあり、その味がわすれられない筆者(赤福も美味しい)からの感想は以上です。

(平成30年3月15日 木曜日)

2018年3月11日

たった数十年前の映画が今上映できないレベルになるまで世間が進んだことを感じる話





おはようございます。

2018年3月の昔の映画に関する配信記事です。

映画「スタンド・バイ・ミー」を久しぶりに観ました。

ドラえもんのやつではありません。

本家本元の方です。

観るといっても、映画館や家のテレビでDVDというわけではなく、今やすっかりお馴染みとなったアマゾンの動画配信サービスの、プライム会員無料版に挙がってきたので、ちょっと拝見してみたというわけです。

そして、カーナビの映画機能よろしく、ギガ通信で少々通信容量を使っても問題ない契約にしてしまっていることを良いことに、車で遠出して買い出しに行く途中、手元のスマホにこの映画を流しながら、一部英会話のお勉強と称して視聴したわけです。

この映画を観ながらつくづく思ったのは、日本は、いや世界の意識はかなり前に進んだということであり、以前(といっても筆者たちが子供であった頃)はこれほどまでに暴力的な表現が「許され」、かつ実際にもこのような暴力的なシーンが普通に見られていた、そのような環境の中で我々は育ってきた中で、今の子育てや地域活動や企業活動においては、相当慎重に振る舞わないと、この世界中ネットで同時中継されてしまう世の中にあっては一瞬でブラック男(野郎)のレッテルを貼られて社会的に抹殺されてされてしまうだろうな、というような感覚でした。

何しろこの映画、始まるしょっぱなから10歳近辺の少年4人組が隠れ家の木の上の小屋に篭って、というかたむろして、親からくすねてきた煙草をふかしながらポーカーに興じている、というシーンから始まるのです。

そして、列車にはねられた子供の死体を見に行こうという提案で、なぜか数十キロ離れた湖畔までキャンプと称して歩いて4人の男の子が行くというのですが、この4人組の兄貴分でより不良度の高い連中も、同じく車で死体の子供を見に行き最初の発見者になろうとするわけです。

この兄貴連中の不良度はさらに卓越していまして、おそらく無免許の車を乗り回して、家の庭先にある郵便ポストを金属バットで走りながら叩き壊すという「ゲーム」に興じながら同じく死体のありかを目指します。

徹頭徹尾、不良少年と主人公たちの悪い素行や劣悪な家庭環境や不幸(主人公の兄はアメフトの有名な学生選手でしたが事故で亡くなる)を描いて、最後に主人公がピストルをぶっ放すために構えるまで、女性がほぼ出演しない(唯一主人公の母親だけ)という映画は終わります。

女性に対する蔑視発言もそこかしこに見られますし、この映画を今の小学生に文部省特選で見せるわけにはもういかないでしょう。

世間はそこまで成長してしまいました。

昔小学生の時にゴールデンタイムで放映していてよく見ていた藤子不二雄作「エスパー真美」の再放送が決してされることがないことにも通じる映画の評価も時代によって変わるという話でした。

筆者の世代のさらに上の世代になれば、幼少期に戦争というものが色濃く反映されますし、その上の世代になればあの超大国のアメリカとガチで戦い、その海軍軍艦や戦闘機の多くを海の藻屑として叩き込んでいるのです。

たかだか100年くらいの時の流れの中に、人間の集団意識とはこうも変わるのかと驚いたドライブでした。

結局、映画に夢中で買うべきものを買い忘れて大目玉をくらった筆者からは以上です。

(平成30年3月11日 日曜日)

2018年2月7日

日本史上類を見ないエクストリーム帰宅選手権「島津の退き口(のきぐち)」について語ります!






おはようございます。

2018年2月の記事です。

全国高校生帰宅選手権、優勝は東京代表という虚構新聞の有名な嘘ニュースがありまして、筆者も大好きなのですが、この虚構新聞の題材となったと筆者が勝手に推測するのが、実際にあったエクストリーム帰宅、またの名を史上最高の帰宅難民事件、古今東西類を見ないダイナミック帰宅として名高い、かの島津の退き口(のきぐち、と読みます)であります。

島津の退き口とは、1600年の関ヶ原合戦の最終盤において、西軍で最後まで戦場に留まった島津義弘公が下知した「相掛けよ」という号令によって火ぶたが切られます。

それまで、大阪に駆けつけた兵1,000あまりで布陣した島津軍は西軍の真ん中に陣を置いておりましたが、近寄る敵は撃退するだけで主だった動きを見せてはおりませんでした。

突如東軍に寝返った小早川秀秋15,000の軍が南から攻める中、他の西軍諸将は散り散りとなり退却、そしておよそ300まで撃ち減らされた島津軍は不気味な沈黙を保っておりました。




島津義弘公の決断は?




義弘公の決断の時が迫ります。

義弘公「敵は何処方が猛勢か」(敵の勢いが最も強いのは何処であるか?)

家臣「東寄の敵、以ての外猛勢」(東側の敵勢の勢いが尋常でなく強いです)

義弘公「その猛勢の中に相掛けよ」(その猛烈な敵の中に突っ込め!)

そして、前代未聞の前進退却、コンビニ寄ってお家に帰ろう、というくらいのそぶりで、突然、薩摩軍300は死兵となって家康本隊に向かって猛然と突撃したのです。

この時点ですでに関ヶ原の勝敗は決しており、東軍は残党狩りモードでした。

普通ならば300の部隊が80,000の東軍に包囲されている中で、最も強い本隊に向かって行くなど狂気の沙汰ですが、猛将島津義弘公率いる一騎当千の島津軍、それも目の色を変えて突撃してくる軍隊に対し、合間見えた東軍の福島正則は迂闊に手を出しては大火傷を負うと判断、島津軍をそのまま見送ります。

そうして島津軍は徳川家康本隊の目前まで一気に突破し、そのまま本隊の脇をすり抜けて伊勢路方向へ一直線に駆け抜けていったのです。

ここからが壮絶です。

当然、家康の命により東軍は追撃します。

島津軍は、「捨て奸(すてがまり)」や「座禅陣」と呼称される決死の足止め作戦を行い、主君義弘公を逃すべく、捨身で東軍に襲いかかるのです。

これは、火縄銃と槍刀で武装した兵士たちが、ある程度の集団として本隊から離脱して時間稼ぎ役となるもので、座禅を組み座り込んで火縄銃を構え、敵将を狙撃します。

そして撃った直後に槍や刀に持ちかえ敵集団に突っ込み撹乱し、死ぬまで戦いほぼ確実に死ぬという壮絶な戦法です。

そして、義弘公の甥っ子の島津豊久や家老である長寿院盛淳なども、幹部自らの捨て肝(すてがまり)を敢行し、次々に討死していきます。

「ヒャッハー!」
「道連れだー!」

と叫んだのかは不明ですが、真面目に捉えますと、島津軍の最終目標は、義弘公を無事に薩摩に逃すこと、それこそ島津の勝利であり(西軍は敗北しても島津は負けていない)、兵子(へこ)ども今こそ命の使いどき!という場面なのです。

この島津軍とすでに勝利し命を噛みしめている東軍との士気の差は大きいはずです。

こうして、島津義弘公は、多大な犠牲を払ったものの、80名ほどの部下と一緒に薩摩に帰還したのです。

エクストリーム帰宅、ここに完結です。

この前代未聞の「突撃する」撤退戦こそ、後に「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれ、薩摩隼人の武勇を世に知らしめることと相成りました。

そして時代は15年ほど過ぎまして、この薩摩隼人たちが、大坂夏の陣において最後の突撃を敢行した豊臣軍大将の真田幸村を評して、「日本一の兵(ひのもといちのさむらい)」と書き残し、長く後世に伝えたのです。

突き抜けた者たち同士、敵味方を超えて通じ合うものがあったのかと思います。

西の島津義弘と東の真田幸村、一方は生き残り武名を挙げもう一方は死んで名誉を残しましたが、いずれも時の最高権力者である徳川家康を震え上がらせ義理を果たした、後世に語られるにふさわしい生き方だったと思うわけであります。

そろそろ(明後日くらいから)本気出そうと思います筆者からは以上です。

(平成30年2月7日 水曜日)

2018年1月20日

「2代目は守成の人」加賀藩百二十万石2代目前田利長公のことについて語ります

金沢城




おはようございます。

2018年1月の記事です。

加賀百万石のご当地金沢は、それは綺麗な伝統工芸品や料理などがひしめくまさに絢爛豪華な北陸文化が花開いた場所です。

しかしそれは、江戸幕府に常に警戒され、睨まれ続けた豊臣恩顧(というか対等の友人)の大名である加賀家が、徳川家と対峙し一見泰平の世であった徳川幕府政権下でしたたかに生き抜いて行くための方便であり、戦わない戦であったと思うのです。

ここで加賀藩第2代の前田利長公を取り上げますが、この利長公は、父の前田利家が関ヶ原の戦いの直前に亡くなるという急転直下の状況の中、加賀家を任されることになります。

そもそも、藩祖の前田利家は織田信長亡き後、その後継者の地位を争った柴田勝家と羽柴秀吉との間に立って苦悩します。

柴田勝家は北陸の総司令官で前田利家の上司であるも、羽柴秀吉と前田利家は無二の親友で、お互い子女を結婚するなど親戚でもあったからです。

結果、一度は柴田側に付いて秀吉と戦うも、利家のできた妻であるまつのとりなしにより、今度は秀吉側に与みして戦い、先頭に立って戦い秀吉の厚い信頼を得て、越中加賀能登の三国の太守として揺るぎない地位を確立しました。

しかしながら、加賀前田家のこの秀吉、豊臣家との近すぎる距離が、のちのち力をつけてくる徳川家には邪魔なわけです。

しかも、代が変わった2代目の利長、まだ余命を残している徳川家康は得意の陰湿な言いがかりであらゆる揺さぶりをかけてきます。

家康謀殺の謀反をかけられても、必死の弁明につとめてこれを斥け、実母のまつを江戸に人質に出すという無理難題を受けて、それに返す形で利家の四男を養嗣子に迎えて、その利常に徳川家康の孫娘を輿入れさせるという離れ業の交渉を成立させ、自らの印象を薄くし、早くに家督を利常に譲り自らは引退し金沢城から高岡城に移り、その引退分の領地10万石分もまもなく本藩に返上します。

そして、最後には豊臣秀吉・秀頼の印象が色濃く残る自らをこの世から消し去るように、わざわざ毒物を飲んで病気の進行を早めさせ、53歳で病死するのです。

一気に死んではまた逆に幕府に疑いの目を向けられる、という利長一流の鬼気迫る処世術のなせる技でした。

このように、組織でも藩でも一家でも企業でも、2代目が守成の人として素晴らしい場合、その組織は長く命脈を保ちます。

黒田藩の藩祖黒田官兵衛を継いだ黒田長政しかり、伊達藩の藩祖伊達政宗を継いだ伊達忠宗しかり、そして関ヶ原で西軍として戦い撤退した島津義弘の子島津忠恒もいます。

特に大坂夏の陣における真田信繁(幸村)の評として有名な「真田日本一の兵(つわもの)」という言葉を手紙に残したのは島津忠恒であることからも、才能と武勇に溢れた2代目の研究がもっと進めば良いと思いました。

真田幸村も2代目として輝いた武将の一人です。

今を生きる全ての2代目3代目に光あれ。

そんな歴史好きのつぶやきは以上です。

(平成30年1月20日 土曜日)

2018年1月15日

2018年1月より本ブログタイトルを「UEDA通信」に変更するというお知らせです





おはようございます。

2018年1月の記事です。

さて世界には共同通信、時事通信、タス通信、朝鮮中央通信と多種多様な通信社のネットワークが張り巡らされていて、日々毎時間、各通信社は自国や周辺地域のことについて、自らの視点で多種多様なニュース記事を配信しています。

核弾頭搭載可能な大陸間弾道ミサイルの実験を人工衛星の打ち上げだとうそぶいたり、天安門事件のことを今だになかったこととして報じない国営通信もあるということですが、そのこと自体が、多種多様な言論表現が世界中でなされていることのよい証左だと筆者などは前向きに捉えています。

そういうことで、2013年8月創刊の本ブログも、過去色々ブログタイトル(メインネーム)を変更してきましたが、すでに記事数も千を超え、語るジャンルもありとあらゆる分野に渡ってきつつあります。

そこで、2018年となり密かに温めていた構想を実現することにいたしました。

構想3日、実行には5分で済みました。

本ブログタイトルを「UEDA通信」に変更します。

その昔、筆者がこのブログを立ち上げた頃に所属していたビルメンテナンス会社(ビルメン王に俺はなる!時代)に、小田さんという先輩がいらっしゃいました。

小田さんはこのビルメンテナンス会社を含むグループ会社のメインバンクであった(今でもそうですが)地方銀行から出向してきた人で、違った業界のことを自ら学び、また自らの知見をこの会社のみんなに広めたいと、毎朝「ODA通信」と銘打ったメールを配信されていました。

思えば、筆者の周りでは個人が直接情報発信できる時代のはしりではなかったかと思うわけです。

そういうことで、2018年はこれからこうした小田さんのような方がやられていたことへのオマージュも込めて、ちょうどODAのDA以下にあやかって、UEDA通信としてなんでも目新しい、また古いことでも改めて面白いと思えるものであればなんでも発信していこうということにいたしました。

平成も30年目となり、いよいよ一つの時代が終わろうとしています。

筆者は昭和生まれですから、次にくる新しい年号を入れれば三世代を生きるということになります。

非常に感慨深く、新時代を迎えるにあたり筆者も新しく気持ちを入れ替えて頑張ろうと思います。

そう言いながら一発目の記事ネタからどうにも見つからず右往左往しそうな筆者からは以上です。

(平成30年1月15日 月曜日)

2017年12月1日

現時点での価値観を過去の歴史に無理に当てはめようとするのは疲れるという話です




おはようございます。

多様な価値観や働き方ということが言われて久しくなりました。

個人個人大切にしている価値観は違うのだから、それは他人の自由や権利を侵害ないしは邪魔しない程度において最大限に尊重すべきというのは、日本国憲法に限らず現代の世界においては極めて支持されうる考え方であり理念だと思っています。

ここまで来るのに、少なくとも有史以来数千年の戦争や紛争、内乱や混乱、内戦やテロといった戦いの歴史ばかり世界は経験してきました。

さて、そういった過去の先人たちの紡いだ共通知に基づいて現代の我々は生きているわけですが、そうして得られた共通の現代の価値観を、無理に過去の時点に当てはめてしまうと、なかなか難しいことになってまいります。

これは、多様な価値観や振る舞い方を認めるという共通知に反することでもあるのです。

例えば、日本の戦国時代、諸侯が相争っていた時代における織田信長は、明智光秀から見ればどう控えめに見ても明らかにパワハラ上司であったはずです。

しかしながら、光秀は信長をテロによって暗殺するのではなく司直の判断に委ねるべきだったといった現代の価値観を持ち込むとかなりおかしなことになります。

裏切りは悪、という価値観の前に、当時に生きる明日をも知れない極限状況の中、武将や諸侯はどうやったら一族一門が生き残るか、それを真剣に考えた末での決断だったはずです。

信長に猿と呼ばれた秀吉だって、そんなの差別発言の最たるものですし、その秀吉も、信長がシスコンで溺愛したお市の娘の茶々に入れあげますが、その迫りようといったらセクハラ以外の何者でもないでしょう。

しかしながら、いろいろ葛藤はあったにせよ現実に秀吉を受け入れた茶々は秀頼を産んで淀君として大坂城の事実上の主となります。

本来の正妻である北政所を押しやり、不貞の妾が本妻を追い出したわけで、略奪愛といって糾弾されて文春砲の餌食になるのは必定でしょう。

こうした設定は、ライトノベルで時空を行き来する小説やドラマで演じれば面白い筋書きになるかもしれませんが、あくまで事実とそれに対する評価というものを分けて検討すべきという態度からは慎みたいものであります。

繰り返しますが、多様な価値観があるということを認めるということと、それを是とするということは別だということです。

当時は当時の論理や考え方や振る舞いがあった、ということをそのまま理解するというのが大切なことで、価値判断はその上で分けて行うべきだということです。

そうやって少しづつ社会は良くなっていくものではないかと信じています。

信長や秀吉、光秀や淀君に会ったことはもちろんありませんが、それぞれ自分の人生を思い切り生きたという意味で大変羨ましく思います。

なかなか本気出せないのですが、来年くらいからはそろそろ本気出して行こうと考えている筆者からは以上です。

(平成29年12月1日 金曜日)

2017年11月14日

「功臣粛清の嵐吹く」で終わる名作歴史漫画を振り返っていろいろ話したい記事です

虞美人



おはようございます。

またまた夜更けまで昔の漫画を読んでしまった筆者からの2017年11月の記事です。

人間社会に生きて行くにあたって、いろいろな組織に属したり組織を作ったり、またはそのトップに立ったり従ったりして人は生きて行くものでありますが、現在(2017年11月)においてこうした意味で大ヒット中の日本の漫画といえば、あの大手の少年漫画誌と青年漫画誌でそれぞれやっている「ワンピース」と「キングダム」というところだと思います。

そして、ただの昔からの一漫画読者の感想ですが、今や少年誌においてはどぎつい表現や過激な殺戮シーンは御法度となってしまい、すでに昔の人気作品であった「北斗の拳」や「魁!男塾」、果ては「ドラゴンボール」といった名作に至るまで、そのままでは今の少年誌では表現できないということでそうした表現の舞台は青年誌に移っているように見受けております。

さて、そんな中筆者がその昔読んで、世の無常を深く考えるに至った作品に、少年ジャンプで連載し表現の制約から当時においても青年誌に移籍し完結した、「赤龍王」という作品があります。

これは、「キングダム」が描く中国の春秋戦国時代末期、秦の始皇帝による天下統一からさらに数十年時代が下って、始皇帝が死んでから楚漢戦争を経て漢の劉邦が再度天下を統一してその後400年続く漢の社稷を立てる、その物語であります。

わずか8巻の漫画ですが(昔の漫画は無駄に連載を引き伸ばしたりせず作品がきちんと終わるという意味でもまことに秀逸であります)、物語を通じて一貫するテーマはズバリ「諸行無常」というところです。

最後、楚の項羽を漢軍が総がかりで垓下に包囲し、そして最後の突破を試み項羽は自らの胸に剣を突き立て果てますが、作者(本宮ひろ志氏)はおそらく劉邦より項羽の方が百倍好きだったのでしょう、最後は全て項羽の突撃と切り結ぶシーンです。

そして、項羽は自害して果てますが、最後に見開き一杯のページを割き、項羽の生涯について「年少、赤身にして起ち、わずか三年で秦を滅ぼし覇王として天下に号令…(中略)…史上未曾有の壮事なり…。」と、それはもう最大級の賛辞で見送るのです。

片や、劉邦の方は、最後の出撃を敢行した項羽を必ず仕留めろと慌てふためきながら下知している姿が最後です。

そして、物語の本当の最後のシーンは、人物が全く出てこない漢朝廷の荘厳な建物をバックに、次のショッキングな言葉で締めくくられるのです。

紀元前二〇二年二月
漢王 劉邦 皇位に就く
その後 功臣粛清の嵐吹く
韓信 彭越 黥布の三族 いずれも誅殺される
張良 内紛を恐れ 隠退
盧綰 誅殺を恐れ 国外へ逃亡
「狡兎死して 良狗煮られる」
とは、誅殺された韓信の言葉である

歴史における結末と、本当に好きなキャラクターがどうしてもずれていってしまう、そのような雑談のお話でした。

現代のこうした漫画の名作たちも、商業主義とうまく折り合いながら、本当に描きたいことや伝えたいことを表現できる隙間がなくならないように願う次第です。

昭和時代からいつも漫画ばっかり読んでいる筆者からは以上です。

(平成29年11月14日 火曜日)

2017年11月11日

(緊急投稿)このままでは全ての小売業はアマゾンに吸われて死んでしまうという話




おはようございます。

2017年11月の記事です。

市場規模を業界ごとに毎年プロットする、こうした少し昔だと膨大なデータマイニングが必要だったことも、最近では上の写真のように簡単に素人の筆者のような者でも作れてしまう時代になりました。

こうして主な業界をグラフにして年ごとの売上高をプロットするだけで、大きな社会経済の流れというのが一目瞭然でわかってしまうのは驚きです。

1997年、筆者が社会人になった年に、スーパー業界の売上高は16兆円超を果たしピークに達しました。

実は、そのかなり前から小売の王者は百貨店からスーパーに移っていたわけですが、その絶頂を迎えたスーパー業界も、2000年初頭に生まれたネット販売業者(要するにアマゾン)に急速に売上を食われていくことになります。

そうして、このグラフは2015年までですが、2017年の直近で言えば、おそらくネット通販(紫の折れ線)が1997年時点でのスーパー業界売上(緑の折れ線)を超えていくようになるのでしょう。

さらに恐ろしいことに、ここでネット通販の勢いがピークアウトするわけではなく、さらに鋭角を保って急速に伸びていき、他の業界の売上を根こそぎ奪っていくということが強く予想される点です。

このままでは、みんなアマゾンに吸われて食われて死んでしまう、そのような空恐ろしさを感じずにはいられません。

正当なビジネスの舞台でこうしたネット通販の勢いに負けないように、どこで売上げてどこで稼ぐか、全世界の仕事人たちの戦いは始まったばかりです。

万国の小売業者よ、団結せよ!

そして各自の工夫と創意でネット通販の次の時代を作ろうではありませんか。

こんなことを書きながら、それでもアマゾンでまた買い物してしまった心弱い筆者からは以上です。

(平成29年11月11日 土曜日)

2017年8月21日

インターネット情報は現代の無限の知の宝庫といえるという話です




おはようございます。

2017年8月の記事です。

アイスクリーム、という童謡があります。

さとうよしみ作詞・服部公一作曲の歌で、

「おとぎ話の王子でも 昔(むかし)はとても食べられない
アイスクリーム アイスクリーム」

「ぼくは王子(おうじ)ではないけれど
アイスクリームを召(め)し上がる」

と続きます。

つまり、ざっと4,000年くらい遡ったところでは、雪が降らない土地でアイスクリームを食べれるのは王侯貴族かファラオといった一部の特権階級の人だけだったのが、2017年の現在では広く一般国民も食べられるということを言っています。

明らかに、これは人間社会の進歩であると言えます。

同じように、知識についても、昔は僧侶や司祭者、それから王侯貴族に独占されたものであり、彼らはその知識をもって宇宙や超自然的、超人間的本質、すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等の存在と交信し、彼らの翻訳媒体としての地位を保全してもって集団支配の拠り所としたというわけです。

使う文字も、階級に応じて、神聖文字(ヒエログリフ)、神官文字(ヒエラティック)、民衆文字(デモティック)と分かれておりまして、神聖文字でしか記載されない高度な形而上的宗教的概念もあったと言われます。

時代が少し下って、紀元前300年くらいにエジプトに建設されたアレクサンドリア図書館は、プトレマイオス朝のファラオ、プトレマイオス1世によって世界中の文献を収集することを目的として建設され、古代最大にして最高の図書館、最古の学術の殿堂となりました。

図書館は当時世界中の思想や作品、著作、学術の宝庫であり、パピルスの巻物に記されたおよそ70万巻にものぼる蔵書に惹かれて、アルキメデスなど世界各地から超優秀な学者が集まり一大学術機関(古代の大学)となりました。

このように知識集まるところに好奇心に惹かれた人間が集まるというのは世の構図であります。

現代は、インターネットの通信技術の向上と検索技術の向上により、世界中だれでもインターネット上にアップされた情報にアクセスできる世の中になりました。

世界は、ついに21世紀になって世界電子図書館を完成させたのです。




世界中の人々で作り上げた電子図書館





この図書館を作り上げたのは、一部のファラオや王侯といった特権階級ではありません。

市井の国民の総力です。

つまり、アイスクリームはみんなが食べられる世の中になった、というわけです。

しかし、この知の宝庫をいかに利用していくか、いかに付き合っていくかというのは自分次第となります。

アルキメデスが学んだアレクサンドリアの図書館も、学びたいという欲求なければただのばかでかい建物にすぎなかったのです。

学びたいことがあるから知識にはアクセスできるという順番は普遍です。

学びたいことがないのに、知識へのアクセス手段が簡便になったからよいだろう、とはならないのです。

したがって、古代も現代も、知の宝庫へのアクセス方法こそ変わりましたが、そこに生きる人間それぞれの学びたい欲求が最も重要ということはなんら変わっていないのではないかと考えるわけです。

ということで、書きたいことも書いたので勉強に戻ろうかと思いましたが、その前にアイス食べてこようと思います筆者からは以上です。

(2017年8月21日 月曜日)

2017年7月16日

聖徳太子は実在しなかったという説が有力になりつつあるという驚きの話






おはようございます。

2017年7月の熱い日に歴史の熱い記事です。

聖徳太子といえば、少し前までの昭和時代には一万円札や五千円札の表紙も飾っていた日本人にとってはおなじみの存在でした。

筆者も小学校のときに、聖徳太子のひみつという歴史読本を読み、聖徳太子はその当時の小学生の間では、織田信長豊臣秀吉徳川家康卑弥呼についで、5番目に有名で好きな歴史上の人物としてとらえられているという内容に納得し、その後も過ごして参りました。

しかし、現在の歴史の教科書では、聖徳太子についての実在性に疑義が生じており、いわゆる聖徳太子(伝厩戸皇子)というふうに記載しているのが通常になりつつあるのです。

皇族である厩戸皇子が実在したのは確かなようなのですが、その人物が、ものすごい業績を残した天才「聖徳太子」という人と同一の人なのか、それが疑問視されているのです。

そして、厩戸皇子の実績で確実だと言えるのは十七条憲法と冠位十二階のみです。

これは、中国の歴史書である「隋書」にも記載されている事柄なのではありますが、その隋書には、推古天皇のことも厩戸皇子のことも一切記載されていません。

日本書紀にも厩戸皇子のことは記載されていないのです。

確かに、厩戸皇子は斑鳩宮に住み、法隆寺を建てたのかもしれません。

しかし、肝心の厩戸皇子が聖徳太子という人であった、というのはどこにも書かれていないのです。




聖徳太子は実在しなかったという大胆な仮説を提示します





さて、日本書紀を編纂したのは藤原氏(藤原不比等)の一族です。

この一族からすれば、蘇我氏が皇族の力を簒奪して悪さをしたので誅殺した自身の先祖である中臣鎌足と中大兄皇子が正義でなければなりません。

ただし、歴史の業績は相対的なものであり、最終的に勝ち残った藤原氏に絶対的な正義があったわけではないと思うのです。

そして、一旦は蘇我氏のもとで、さまざまな改革事業が行われ、その成果を無視できなかった藤原氏は、一旦その蘇我氏の業績を仮託する相手として、蘇我氏の一族と縁が非常に深いけれどもバリバリの皇族である厩戸皇子を「聖徳太子」として創作し、これをことさらに礼賛し、蘇我氏の活躍や業績をいったんこの「皇族」に吸い取っておきながら、蘇我入鹿(本来の改革者であり実力者)が聖徳太子の子供らを滅亡に追い込むという嘘に嘘を重ねたのではないかということなのです。

もともと創作であった聖徳太子ですので、都合の良い時には消えてもらわなければなりませんし、その消えた原因が罪をなすりつけたい蘇我氏ということにすれば殊のほか都合がよいということになるのです。

聖徳太子は、生後間も無く言葉を発して、凄まじい天才児であったこと、10人の訴えを同時に聞き分ける耳と頭脳を持っていたことなどといった「逸話」も、実は中国の同様の史書から転用剽窃、有り体にいえばパクった話であることが間違いないことからも、ありとあらゆる手段で聖徳太子を礼賛する日本書紀の記述こそ怪しいと考えなければならないのです。

怪しい、というのはこれほどまでに蘇我氏の業績を貶め蘇我入鹿を悪役に仕立て上げたのは、実は中大兄皇子と中臣鎌足側は当初の反動勢力であり、彼らからすればクーデターに近い形で政権を奪取したという事実を隠して蘇我氏の業績を我が物にして都合のよい史実を作る必要があったということです。

かくして、蘇我入鹿は大悪人となり、それを誅殺した皇族である中大兄皇子は天皇となり、簒奪は完了したと思われました。

しかし、壬申の乱という日本を揺るがす大乱ののち、天皇位は天武天皇系に奪われ、それを取り返すのにまた数十年の時が必要になります。

因果は巡るというところでしょうか。

筆者が小学生の時より歴史学は格段に進歩しています。

いくつになっても好奇心を失わないようにしたいものです。

一万円札には縁がない筆者からは以上です。

(平成29年7月16日 日曜日)

2017年5月31日

昔のゲームはストーリーも育成も長かったということを改めて感じた話





おはようございます。

2017年5月の記事です。

最近ゲーム、特にRPGの話ばかりしているようですが、言い足りないのでさらに話をしたいと思います。

昔のゲームはとても長かったのです。

シューティングゲームの草分け、ゼビウスや1942などに見られるように、なかなかステージクリアまで行きませんし、ステージをクリアしたところでまたさらに延々と続きます。

パズルゲームの草分け的存在と筆者が勝手に認定する「バブルボブル」などに至っては、アーケードゲームとしては超絶の30分以上のゲーム時間をワンコインでやりきる猛者が現れ、興行的には全く儲からないゲーム台として有名でありました。

そのうち、ゲームも大衆化し、ストリートファイターなどの、「試合時間が決まっている」ゲームが登場し、これでゲーム回数の回転率向上が図られました。



RPGもキャラクターの成長にものすごく時間がかかった



RPG(ロールプレイングゲーム)についても、この傾向は顕著でした。

日本のRPGの草分けと言ってよい「ドラゴンクエスト(Ⅰとはつけない)」において、最初に出会う敵である青い「スライム」の経験値はわずか1EXP、獲得するゴールドも同じく1ゴールドでした。

少し稀に登場する赤い「スライムベス」は経験値は1で同じですが、獲得ゴールドが2倍の2と、お得感満載だったのです。

しかるに、最近のRPGの育成のインフレたるやなんということでしょう。

軽く、明治時代の通貨感覚から黒田日銀総裁緩和並みのインフレターゲットぶりです。

昭和生まれのプレイしていたRPGにおいては、その育成はかなりしんどく時間を食うものであった、けれどもそれも含めてゲームの味であったという感じが致します。

今のゲームは、よくも悪くも結果をすぐ求められる、スピード重視かつ他レーベルに顧客を持って行かれないように次々とイベントを投入する、いわば強制動的紙芝居的な面もあるように感じます。

いわば小説をじっくり読みたい昭和派と、動画音声加えてVRで効率的に情報収集をするのが当たり前になっている平成派のせめぎ合いといったところでしょうか。


ラスボスにできるだけ低いレベルで会いにいくというイベント競争



さてそんな骨太で攻略が難しい昭和のRPGにおいて、たとえばドラゴンクエストでは、「竜王会見斬」というイベントが少年ジャンプ誌上で繰り広げられました。

これは、最終ボス(ラスボス)である「竜王」の前にどれだけ「低い」レベルで到達できるか、ということを競うイベントで、どうしても経験値が上がってしまうところを抑えに抑えて、戦闘シーンは運に任せて逃げまくり、なんとかダンジョンを抜け竜王の玉座にたどり着くというものです。

ドラゴンクエストでは、最後の最強呪文ベギラマを覚えるのがレベル19で、レベル19では竜王を倒せる確率は半分半分、レベル20だと何とか倒せるというような感じでした。

MP(マジックパワー)を使い切るまで回復呪文を交えつつ、ひたすらダメージ一桁を竜王に与え続けてようやく勝てるという状況でした。

さて、この竜王会見斬、誌上で毎回記録が更新されていくのですが、最初はレベル18や17だったのが、レベル12まで一気に落ちたところで驚愕しておりましたところ、最後にレベル7!という状況で竜王に話しかけている猛者が現れ、一体この者はどれだけの時間をこのゲームにかけたのだろうかと気が遠くなったのを昨日のことのように覚えております。

なぜ、レベル7かというと、攻撃呪文ギラと睡眠呪文ラリホーを覚える最低レベルだからです。

基本的に、偶然に遭遇する戦闘は全て逃げるコマンドで回避し、どうしても回避できないイベント扱いの戦闘(必ずクリアしないとシナリオが次に進まない)については、ラリホーで眠らせてギラで攻撃、というパターンで進めるしかありません。

理論的にはそうだとしても、実践には気の遠くなるような時間がかかるはずです。

このように、昭和生まれの一部の層は、骨太なストーリーと手ごたえのある、いわば北九州製鉄所名物の「堅パン」のような歯ごたえ最高のRPGを求めているのです。

ドラゴンクエストで実現できるレベルの上限はレベル30、こうなるといつもは次のレベルに到達するまでの経験値を教えてくれる王様からも「そなたはじゅうぶんにつよい!なぜりゅうおうをたおせないのか」と叱られてしまう始末です。

そこまで育成するのにどれだけの時間を費やしたか、本当に思い出深いです。

現実世界からは逃走したい筆者からの論考は以上です。

(平成29年5月31日 水曜日)