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2018年5月19日

帰ってきた日本の製造業・ザ・日本の高炉メーカー「日本製鉄」の復活について






おはようございます。

2018年5月の日本の製造業、産業のコメと言われる高炉製鐵業に関する配信記事です。

ついに帰ってきました。

帰ってきたぞ

帰ってきたぞ

ウルトラマン

よろしく戻ってきたその名は「日本製鉄」、日本を代表する世界3位の高炉製鉄メーカーである新日鐵住金が、2019年4月1日をもって、「日本製鉄」に社名を変更すると発表したのです。

その前に、現在(2018年5月)の新日鐵住金については、新日本製鐵と住友金属工業という高炉メーカーの大手が合併して誕生したものでした。

さらに、かつて世界一位の座に君臨していた世界高炉大手の新日本製鐵は、1970年に当時の八幡製鐵と富士製鐵の合併で「誕生」したわけですが、そもそもこの2社は、戦前の1934年に発足した国策鉄鋼会社であるところの「日本製鐵」が、1950年、いよいよGHQの財閥解体圧力に抵抗することができなくなり、分割してできたいわば同胎の会社なのです。

歴史を紐解きますと、日本の高炉メーカーのはしりは、1901年の記念高炉が立っております現在の福岡県北九州市八幡東田の官営八幡製鐡所ですが、それを中心に、輪西製鐡(北海道)釜石鉱山(岩手県)三菱製鐡(朝鮮)九州製鋼(福岡県)富士製鋼(神奈川県)の1所5社が1934年(昭和9年)に合同して日本製鐵は設立されました。

その後、東洋製鐡と大阪製鐡の2社も加わり、1製鐵所7社の合同となりました。

1933年(昭和8年)に制定された法律「日本製鐵株式會社法」で特別に経営が規定され、大蔵省が株式の大半(設立時は82.2%、解散時は57.0%)を保有しました。

これは、当時の日本国内の最大の高炉製鐵メーカーであり、世界の鉄鋼業を代表する存在であったのです。

さて、この日本製鐵は当時の経済軍事から、最重要視されていた高品質の鉄鋼素材を豊富に供給し、日中戦争から太平洋戦争を背景に拡大を続けました。

しかし敗戦後の復興途上の1950年(昭和25年)4月に、旧財閥の解体を目的とする過度経済力集中排除法の適用対象となり、八幡製鐵・富士製鐵・日鐵汽船(現・NSユナイテッド海運)・播磨耐火煉瓦(現・黒崎播磨)4社に分割されて日本製鐵は解散したのです。

その後、ゆるやかな再統合の流れの中、高炉メーカーとしての後継の八幡製鐵と富士製鐵は、双方のメインバンクであった日本興業銀行の当時の会長、中山素平の仲介もあり1970年(昭和45年)に合併し、新日本製鐵(新日鐵)が誕生しました。

そののち、2012年(平成24年)10月1日に住友金属工業と合併し、新日鐵住金となったのです。

筆者も、北九州市八幡で育ちましたが、当時の都市対抗野球の応援での新日鐵チームの応援は、「ニッポンスチールゴーゴーゴー」でした。

なぜ「新」の音が入っていないのか疑問だったのですが、もともと日本製鐵(にっぽんせいてつ)だったわけですから、いちいち新など言わない、ということだったのでしょう。

さて、今回、「新日鐵住金」(しんにってつすみきん)は晴れて「日本製鉄」となるわけですが、微妙に違う点が2つだけあります。

まず、「鐡」の旧字体ではなく「鉄」の新字体に統一されます。

北九州市八幡で育った身としては(小学校の時の社会科見学が戸畑の高炉の製鉄過程の見学という)、鐡の文字には愛着がありますが、これはわかりにくさを排除するという意味で仕方がないところでしょう。

次に、「日本」は「にっぽん」と読まずに「にほん」と読むようです。

これは、当時は国策会社であり、日本銀行(にっぽんぎんこう)が発行する日本銀行券(にっぽんぎんこうけん)と同じような呼び方であったところ、今回はそうした国策会社とは一線を画して世界一位に返り咲くという野望を新たにしたものと筆者個人は理解しようとしております。

ちなみに、2018年5月16日に行われた記者会見において、新日鐡住金の進藤孝生社長は、戦前の「日本製鐵」については「意識せずに(新社名を)決めた」と、堂々と語っています。

そんなもの、いわずもがな、というところでしょう。

「鐡」の字は、戦前の会社はもちろん、新日本製鉄や2012年にできた新日鉄住金でも正式には旧字の「鐵」でしたが、新社名では新字になるというところに、世界に向けて勝負するという意思が見て取れます。

さらに、もともと新日鐡の英語社名は「Nippon Steel」なのです。

Newとかつけない、いつかは日本製鉄に戻る、このような、長期目線に立った会社運営が、オーナー一族で受け継がれてきたわけではない代々の経営陣に染み付いていたことに、正直驚かされます。

新日鐵にはたくさんのグループ会社がありますが、その略称としても、よく「NS」や
「日鉄」が使われています。

もちろん、Nippon Steel、日本製鉄の頭文字です。

いよいよ、日本の最終兵器、カタカナやひらがなのゆるふわ社名ではない、本当に世界で勝負しようと意気込む骨太の会社の発足です。

日本製鉄の前途に幸せあれ。

零細投資家ですが、早速新日鐵住金の株式を購入しておきました筆者からの感想は以上です。

(平成30年5月19日 土曜日)

2018年3月23日

東京駅を挟んで東西の三菱村と三井村の開発合戦について書いておきます






おはようございます。

2018年3月の東京中心街に関する短い配信記事です。

私たちベビーブーマー第二世代(昭和40年代後半生まれ)が若かりし頃は、東京駅といえば別段他の駅と変わらないけれども単に東京の中心にあるというだけの駅でした。

単に働いているオフィスビルがあるというだけの場所であり、特段観光客を魅了するような街ではなかったのです。

しかし、東京駅がいわゆる創建当時の丸屋根に大規模なお金をかけて改装されて復元された今、東京駅の周りは来るべき東京オリンピック2020年に向けて急速に整備されています。

もともと、皇居のそばの沼地であった東京駅の西側すぐの丸の内という場所を100年前に払い下げを受けた三菱財閥は、そこに巨大なオフィスビル街を建設し、ロンドンの中心街シティを目標にまちづくりを進めました。

対して、最近になって、同じく東京駅の今度は東側すぐの日本橋という場所に、同財閥のはしりとなった三越日本橋本店を構えていた三井財閥は、商業の中心が銀座や六本木、新宿といったダウンタウンに移っていったところから趣向を変えて、三菱が開発していた丸の内に対抗して、日本橋を最先端のお洒落なオフィス街に変えようと意気込んでいます。

そうして、昔からある三菱村(丸の内)と、最近すごい勢いで整備が進んでいる三井村(日本橋)という双璧の構図となり、それぞれが切磋琢磨しあって東京の玄関口は、急速に発展し極めて綺麗な街並みとなってきました。

三菱財閥は現在の三菱地所を中心として丸の内を、三井財閥は現在の三井不動産を中心として日本橋の開発をそれぞれ担い、世界に通用する東京の玄関口を整備し世界の有力企業やサービスを導入しようと躍起になっているのです。

最近東京に行くことが少なく、たまに行ってみると浦島太郎状態の筆者からの解説は以上です。

(平成30年3月23日 金曜日)

2018年3月15日

日本において数字の銀行がいくつか続いて残っているという話について




おはようございます。

2018年3月の日本の銀行に関する配信記事です。

最近、三菱東京UFJ銀行が三菱UFJ銀行に名称を変更するという話がありました。

東京銀行といえば、Bank of Tokyoという通り名で世界にその名を知られた名門銀行であり、かつては外為専門銀行として、いわゆる外貨を独占的に扱っていたというわけですが、1996年に当時の三菱銀行と合併して東京三菱銀行となり、そしてそこから20年あまりをかけて、ゆっくりと東京の名は消えようとしているわけです。

当時の東京銀行をぎりぎり知る身としましては、非常に寂寥感がつのるお話です。

さて、日本の銀行には、そのほかにも、第四、七十七、百五といった漢数字がついた銀行がいくつかありますが、この銀行たちはどのような経緯でかような漢数字の名前を持つようになったかご存知でしょうか。

これは、中学の歴史の教科書にも載っていますが、時代が江戸幕府から明治の新政府に移ったところ、日本政府は西洋列強に対抗すべく急激に世界の奇跡とも呼べる近代化を一気に図りますが、その中で、いわゆる通貨を整備することにも着手します。

これまで、慶長小判とか言われていた通貨を、単位「円」として、「両」単位からの脱却をはかったのです。

ただ、幕藩時代の各藩発行の藩札やら、これまでの小判や銀といった通貨が入り乱れている状態であり、この状況打開のため、明治5年(1872年)に、政府は「国立銀行条例」という法律を制定して、通貨の統一に乗り出したのです。

しかし、そこは当時の明治政府、当面自前で通貨を発行できる予算がなかったため、なんと民間が設立した銀行に、銀行券を発行させて、そしてこれまでの紙幣をこの新しい銀行券と交換させ回収したのです。

国立、といっても国は名前を貸しただけ、つまり今でいう「ネーミングライツ」のような、「PFI」というべき仕組みです。

まず、これに沿って民間が設立した「国立銀行」は4つあります。

東京に設立された国立第一銀行はその後、第一勧業銀行を経て現在はみずほ銀行です。

横浜に設立された第二国立銀行は、現在は名称を変え横浜銀行となっています。

第三国立銀行は大阪に作られるはずでしたが、設立時のトラブルで営業開始前に解散した経緯がありまして今も存在しませんが、「国立」ではない純粋民間の第三銀行というのが三重県松阪市にあり、三重県の三を取って第三銀行として営業していますのでややこしいところです。

新潟にある第四銀行は、今もその名前のまま存続しています。

その後、解散した国立第三銀行の後釜として、第五国立銀行が大阪で設立され、これは現在の三井住友銀行に引き継がれています(三井の方が本流になります)。

さて、その後も銀行条例の柔軟な改正もあり、次々に同様の国立銀行が設立された結果、なんと153番目の国立銀行までが設立されたのです。

そして、これらの「国立」銀行が発行する銀行券は、すべて同じデザインで、発行する各銀行の名称だけが違う(つまり番号が違う)ということになったというわけです。

しかしながら、そんな民間由来の公的紙幣発行という予算が少ない中での合わせ技がいつまでも続くわけもなく、やがて明治15年(1882)年に至って、ついに日本の中央銀行として銀行の銀行というべき日本銀行が設立され、日本銀行券(要するに今の紙幣)が発行され、これらの国立銀行券は日本銀行券と交換されていき姿を消していき、そしてこれらの国立銀行も通貨発行の役目を終えて普通銀行として転換して、一般の民間銀行として営業を継続したというわけです。

そんなわけで、明治以来の大事な名前のまま2018年3月現在も営業を続けているのは、第四(新潟)、十六(岐阜)、十八(長崎)、七十七(仙台)、百五(三重県津市)、百十四(香川)の6つとなります。

また、八十二銀行(長野県長野市)は、第十九銀行と六十三銀行が合併してできました。

「19+63=82」というわけです。

冗談のようですが、数字に対するこだわりを垣間見ることができます。

そして、第三銀行については、漢数字ではなく三重県松阪市の三ということですので、厳密にはここから外します。

同じ三重県津市には百五銀行がありますので、さらにややこしいですが、三重県に縁のある方はここのところよく復習しておいてください(テストに出ます)。

三重県に出張で訪れた際に、最高級の松坂牛を一度だけ食べたことがあり、その味がわすれられない筆者(赤福も美味しい)からの感想は以上です。

(平成30年3月15日 木曜日)

2018年3月11日

たった数十年前の映画が今上映できないレベルになるまで世間が進んだことを感じる話





おはようございます。

2018年3月の昔の映画に関する配信記事です。

映画「スタンド・バイ・ミー」を久しぶりに観ました。

ドラえもんのやつではありません。

本家本元の方です。

観るといっても、映画館や家のテレビでDVDというわけではなく、今やすっかりお馴染みとなったアマゾンの動画配信サービスの、プライム会員無料版に挙がってきたので、ちょっと拝見してみたというわけです。

そして、カーナビの映画機能よろしく、ギガ通信で少々通信容量を使っても問題ない契約にしてしまっていることを良いことに、車で遠出して買い出しに行く途中、手元のスマホにこの映画を流しながら、一部英会話のお勉強と称して視聴したわけです。

この映画を観ながらつくづく思ったのは、日本は、いや世界の意識はかなり前に進んだということであり、以前(といっても筆者たちが子供であった頃)はこれほどまでに暴力的な表現が「許され」、かつ実際にもこのような暴力的なシーンが普通に見られていた、そのような環境の中で我々は育ってきた中で、今の子育てや地域活動や企業活動においては、相当慎重に振る舞わないと、この世界中ネットで同時中継されてしまう世の中にあっては一瞬でブラック男(野郎)のレッテルを貼られて社会的に抹殺されてされてしまうだろうな、というような感覚でした。

何しろこの映画、始まるしょっぱなから10歳近辺の少年4人組が隠れ家の木の上の小屋に篭って、というかたむろして、親からくすねてきた煙草をふかしながらポーカーに興じている、というシーンから始まるのです。

そして、列車にはねられた子供の死体を見に行こうという提案で、なぜか数十キロ離れた湖畔までキャンプと称して歩いて4人の男の子が行くというのですが、この4人組の兄貴分でより不良度の高い連中も、同じく車で死体の子供を見に行き最初の発見者になろうとするわけです。

この兄貴連中の不良度はさらに卓越していまして、おそらく無免許の車を乗り回して、家の庭先にある郵便ポストを金属バットで走りながら叩き壊すという「ゲーム」に興じながら同じく死体のありかを目指します。

徹頭徹尾、不良少年と主人公たちの悪い素行や劣悪な家庭環境や不幸(主人公の兄はアメフトの有名な学生選手でしたが事故で亡くなる)を描いて、最後に主人公がピストルをぶっ放すために構えるまで、女性がほぼ出演しない(唯一主人公の母親だけ)という映画は終わります。

女性に対する蔑視発言もそこかしこに見られますし、この映画を今の小学生に文部省特選で見せるわけにはもういかないでしょう。

世間はそこまで成長してしまいました。

昔小学生の時にゴールデンタイムで放映していてよく見ていた藤子不二雄作「エスパー真美」の再放送が決してされることがないことにも通じる映画の評価も時代によって変わるという話でした。

筆者の世代のさらに上の世代になれば、幼少期に戦争というものが色濃く反映されますし、その上の世代になればあの超大国のアメリカとガチで戦い、その海軍軍艦や戦闘機の多くを海の藻屑として叩き込んでいるのです。

たかだか100年くらいの時の流れの中に、人間の集団意識とはこうも変わるのかと驚いたドライブでした。

結局、映画に夢中で買うべきものを買い忘れて大目玉をくらった筆者からは以上です。

(平成30年3月11日 日曜日)

2018年2月7日

日本史上類を見ないエクストリーム帰宅選手権「島津の退き口(のきぐち)」について語ります!






おはようございます。

2018年2月の記事です。

全国高校生帰宅選手権、優勝は東京代表という虚構新聞の有名な嘘ニュースがありまして、筆者も大好きなのですが、この虚構新聞の題材となったと筆者が勝手に推測するのが、実際にあったエクストリーム帰宅、またの名を史上最高の帰宅難民事件、古今東西類を見ないダイナミック帰宅として名高い、かの島津の退き口(のきぐち、と読みます)であります。

島津の退き口とは、1600年の関ヶ原合戦の最終盤において、西軍で最後まで戦場に留まった島津義弘公が下知した「相掛けよ」という号令によって火ぶたが切られます。

それまで、大阪に駆けつけた兵1,000あまりで布陣した島津軍は西軍の真ん中に陣を置いておりましたが、近寄る敵は撃退するだけで主だった動きを見せてはおりませんでした。

突如東軍に寝返った小早川秀秋15,000の軍が南から攻める中、他の西軍諸将は散り散りとなり退却、そしておよそ300まで撃ち減らされた島津軍は不気味な沈黙を保っておりました。




島津義弘公の決断は?




義弘公の決断の時が迫ります。

義弘公「敵は何処方が猛勢か」(敵の勢いが最も強いのは何処であるか?)

家臣「東寄の敵、以ての外猛勢」(東側の敵勢の勢いが尋常でなく強いです)

義弘公「その猛勢の中に相掛けよ」(その猛烈な敵の中に突っ込め!)

そして、前代未聞の前進退却、コンビニ寄ってお家に帰ろう、というくらいのそぶりで、突然、薩摩軍300は死兵となって家康本隊に向かって猛然と突撃したのです。

この時点ですでに関ヶ原の勝敗は決しており、東軍は残党狩りモードでした。

普通ならば300の部隊が80,000の東軍に包囲されている中で、最も強い本隊に向かって行くなど狂気の沙汰ですが、猛将島津義弘公率いる一騎当千の島津軍、それも目の色を変えて突撃してくる軍隊に対し、合間見えた東軍の福島正則は迂闊に手を出しては大火傷を負うと判断、島津軍をそのまま見送ります。

そうして島津軍は徳川家康本隊の目前まで一気に突破し、そのまま本隊の脇をすり抜けて伊勢路方向へ一直線に駆け抜けていったのです。

ここからが壮絶です。

当然、家康の命により東軍は追撃します。

島津軍は、「捨て奸(すてがまり)」や「座禅陣」と呼称される決死の足止め作戦を行い、主君義弘公を逃すべく、捨身で東軍に襲いかかるのです。

これは、火縄銃と槍刀で武装した兵士たちが、ある程度の集団として本隊から離脱して時間稼ぎ役となるもので、座禅を組み座り込んで火縄銃を構え、敵将を狙撃します。

そして撃った直後に槍や刀に持ちかえ敵集団に突っ込み撹乱し、死ぬまで戦いほぼ確実に死ぬという壮絶な戦法です。

そして、義弘公の甥っ子の島津豊久や家老である長寿院盛淳なども、幹部自らの捨て肝(すてがまり)を敢行し、次々に討死していきます。

「ヒャッハー!」
「道連れだー!」

と叫んだのかは不明ですが、真面目に捉えますと、島津軍の最終目標は、義弘公を無事に薩摩に逃すこと、それこそ島津の勝利であり(西軍は敗北しても島津は負けていない)、兵子(へこ)ども今こそ命の使いどき!という場面なのです。

この島津軍とすでに勝利し命を噛みしめている東軍との士気の差は大きいはずです。

こうして、島津義弘公は、多大な犠牲を払ったものの、80名ほどの部下と一緒に薩摩に帰還したのです。

エクストリーム帰宅、ここに完結です。

この前代未聞の「突撃する」撤退戦こそ、後に「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれ、薩摩隼人の武勇を世に知らしめることと相成りました。

そして時代は15年ほど過ぎまして、この薩摩隼人たちが、大坂夏の陣において最後の突撃を敢行した豊臣軍大将の真田幸村を評して、「日本一の兵(ひのもといちのさむらい)」と書き残し、長く後世に伝えたのです。

突き抜けた者たち同士、敵味方を超えて通じ合うものがあったのかと思います。

西の島津義弘と東の真田幸村、一方は生き残り武名を挙げもう一方は死んで名誉を残しましたが、いずれも時の最高権力者である徳川家康を震え上がらせ義理を果たした、後世に語られるにふさわしい生き方だったと思うわけであります。

そろそろ(明後日くらいから)本気出そうと思います筆者からは以上です。

(平成30年2月7日 水曜日)

2018年1月20日

「2代目は守成の人」加賀藩百二十万石2代目前田利長公のことについて語ります

金沢城




おはようございます。

2018年1月の記事です。

加賀百万石のご当地金沢は、それは綺麗な伝統工芸品や料理などがひしめくまさに絢爛豪華な北陸文化が花開いた場所です。

しかしそれは、江戸幕府に常に警戒され、睨まれ続けた豊臣恩顧(というか対等の友人)の大名である加賀家が、徳川家と対峙し一見泰平の世であった徳川幕府政権下でしたたかに生き抜いて行くための方便であり、戦わない戦であったと思うのです。

ここで加賀藩第2代の前田利長公を取り上げますが、この利長公は、父の前田利家が関ヶ原の戦いの直前に亡くなるという急転直下の状況の中、加賀家を任されることになります。

そもそも、藩祖の前田利家は織田信長亡き後、その後継者の地位を争った柴田勝家と羽柴秀吉との間に立って苦悩します。

柴田勝家は北陸の総司令官で前田利家の上司であるも、羽柴秀吉と前田利家は無二の親友で、お互い子女を結婚するなど親戚でもあったからです。

結果、一度は柴田側に付いて秀吉と戦うも、利家のできた妻であるまつのとりなしにより、今度は秀吉側に与みして戦い、先頭に立って戦い秀吉の厚い信頼を得て、越中加賀能登の三国の太守として揺るぎない地位を確立しました。

しかしながら、加賀前田家のこの秀吉、豊臣家との近すぎる距離が、のちのち力をつけてくる徳川家には邪魔なわけです。

しかも、代が変わった2代目の利長、まだ余命を残している徳川家康は得意の陰湿な言いがかりであらゆる揺さぶりをかけてきます。

家康謀殺の謀反をかけられても、必死の弁明につとめてこれを斥け、実母のまつを江戸に人質に出すという無理難題を受けて、それに返す形で利家の四男を養嗣子に迎えて、その利常に徳川家康の孫娘を輿入れさせるという離れ業の交渉を成立させ、自らの印象を薄くし、早くに家督を利常に譲り自らは引退し金沢城から高岡城に移り、その引退分の領地10万石分もまもなく本藩に返上します。

そして、最後には豊臣秀吉・秀頼の印象が色濃く残る自らをこの世から消し去るように、わざわざ毒物を飲んで病気の進行を早めさせ、53歳で病死するのです。

一気に死んではまた逆に幕府に疑いの目を向けられる、という利長一流の鬼気迫る処世術のなせる技でした。

このように、組織でも藩でも一家でも企業でも、2代目が守成の人として素晴らしい場合、その組織は長く命脈を保ちます。

黒田藩の藩祖黒田官兵衛を継いだ黒田長政しかり、伊達藩の藩祖伊達政宗を継いだ伊達忠宗しかり、そして関ヶ原で西軍として戦い撤退した島津義弘の子島津忠恒もいます。

特に大坂夏の陣における真田信繁(幸村)の評として有名な「真田日本一の兵(つわもの)」という言葉を手紙に残したのは島津忠恒であることからも、才能と武勇に溢れた2代目の研究がもっと進めば良いと思いました。

真田幸村も2代目として輝いた武将の一人です。

今を生きる全ての2代目3代目に光あれ。

そんな歴史好きのつぶやきは以上です。

(平成30年1月20日 土曜日)

2018年1月15日

2018年1月より本ブログタイトルを「UEDA通信」に変更するというお知らせです





おはようございます。

2018年1月の記事です。

さて世界には共同通信、時事通信、タス通信、朝鮮中央通信と多種多様な通信社のネットワークが張り巡らされていて、日々毎時間、各通信社は自国や周辺地域のことについて、自らの視点で多種多様なニュース記事を配信しています。

核弾頭搭載可能な大陸間弾道ミサイルの実験を人工衛星の打ち上げだとうそぶいたり、天安門事件のことを今だになかったこととして報じない国営通信もあるということですが、そのこと自体が、多種多様な言論表現が世界中でなされていることのよい証左だと筆者などは前向きに捉えています。

そういうことで、2013年8月創刊の本ブログも、過去色々ブログタイトル(メインネーム)を変更してきましたが、すでに記事数も千を超え、語るジャンルもありとあらゆる分野に渡ってきつつあります。

そこで、2018年となり密かに温めていた構想を実現することにいたしました。

構想3日、実行には5分で済みました。

本ブログタイトルを「UEDA通信」に変更します。

その昔、筆者がこのブログを立ち上げた頃に所属していたビルメンテナンス会社(ビルメン王に俺はなる!時代)に、小田さんという先輩がいらっしゃいました。

小田さんはこのビルメンテナンス会社を含むグループ会社のメインバンクであった(今でもそうですが)地方銀行から出向してきた人で、違った業界のことを自ら学び、また自らの知見をこの会社のみんなに広めたいと、毎朝「ODA通信」と銘打ったメールを配信されていました。

思えば、筆者の周りでは個人が直接情報発信できる時代のはしりではなかったかと思うわけです。

そういうことで、2018年はこれからこうした小田さんのような方がやられていたことへのオマージュも込めて、ちょうどODAのDA以下にあやかって、UEDA通信としてなんでも目新しい、また古いことでも改めて面白いと思えるものであればなんでも発信していこうということにいたしました。

平成も30年目となり、いよいよ一つの時代が終わろうとしています。

筆者は昭和生まれですから、次にくる新しい年号を入れれば三世代を生きるということになります。

非常に感慨深く、新時代を迎えるにあたり筆者も新しく気持ちを入れ替えて頑張ろうと思います。

そう言いながら一発目の記事ネタからどうにも見つからず右往左往しそうな筆者からは以上です。

(平成30年1月15日 月曜日)

2017年12月1日

現時点での価値観を過去の歴史に無理に当てはめようとするのは疲れるという話です




おはようございます。

多様な価値観や働き方ということが言われて久しくなりました。

個人個人大切にしている価値観は違うのだから、それは他人の自由や権利を侵害ないしは邪魔しない程度において最大限に尊重すべきというのは、日本国憲法に限らず現代の世界においては極めて支持されうる考え方であり理念だと思っています。

ここまで来るのに、少なくとも有史以来数千年の戦争や紛争、内乱や混乱、内戦やテロといった戦いの歴史ばかり世界は経験してきました。

さて、そういった過去の先人たちの紡いだ共通知に基づいて現代の我々は生きているわけですが、そうして得られた共通の現代の価値観を、無理に過去の時点に当てはめてしまうと、なかなか難しいことになってまいります。

これは、多様な価値観や振る舞い方を認めるという共通知に反することでもあるのです。

例えば、日本の戦国時代、諸侯が相争っていた時代における織田信長は、明智光秀から見ればどう控えめに見ても明らかにパワハラ上司であったはずです。

しかしながら、光秀は信長をテロによって暗殺するのではなく司直の判断に委ねるべきだったといった現代の価値観を持ち込むとかなりおかしなことになります。

裏切りは悪、という価値観の前に、当時に生きる明日をも知れない極限状況の中、武将や諸侯はどうやったら一族一門が生き残るか、それを真剣に考えた末での決断だったはずです。

信長に猿と呼ばれた秀吉だって、そんなの差別発言の最たるものですし、その秀吉も、信長がシスコンで溺愛したお市の娘の茶々に入れあげますが、その迫りようといったらセクハラ以外の何者でもないでしょう。

しかしながら、いろいろ葛藤はあったにせよ現実に秀吉を受け入れた茶々は秀頼を産んで淀君として大坂城の事実上の主となります。

本来の正妻である北政所を押しやり、不貞の妾が本妻を追い出したわけで、略奪愛といって糾弾されて文春砲の餌食になるのは必定でしょう。

こうした設定は、ライトノベルで時空を行き来する小説やドラマで演じれば面白い筋書きになるかもしれませんが、あくまで事実とそれに対する評価というものを分けて検討すべきという態度からは慎みたいものであります。

繰り返しますが、多様な価値観があるということを認めるということと、それを是とするということは別だということです。

当時は当時の論理や考え方や振る舞いがあった、ということをそのまま理解するというのが大切なことで、価値判断はその上で分けて行うべきだということです。

そうやって少しづつ社会は良くなっていくものではないかと信じています。

信長や秀吉、光秀や淀君に会ったことはもちろんありませんが、それぞれ自分の人生を思い切り生きたという意味で大変羨ましく思います。

なかなか本気出せないのですが、来年くらいからはそろそろ本気出して行こうと考えている筆者からは以上です。

(平成29年12月1日 金曜日)

2017年11月14日

「功臣粛清の嵐吹く」で終わる名作歴史漫画を振り返っていろいろ話したい記事です

虞美人



おはようございます。

またまた夜更けまで昔の漫画を読んでしまった筆者からの2017年11月の記事です。

人間社会に生きて行くにあたって、いろいろな組織に属したり組織を作ったり、またはそのトップに立ったり従ったりして人は生きて行くものでありますが、現在(2017年11月)においてこうした意味で大ヒット中の日本の漫画といえば、あの大手の少年漫画誌と青年漫画誌でそれぞれやっている「ワンピース」と「キングダム」というところだと思います。

そして、ただの昔からの一漫画読者の感想ですが、今や少年誌においてはどぎつい表現や過激な殺戮シーンは御法度となってしまい、すでに昔の人気作品であった「北斗の拳」や「魁!男塾」、果ては「ドラゴンボール」といった名作に至るまで、そのままでは今の少年誌では表現できないということでそうした表現の舞台は青年誌に移っているように見受けております。

さて、そんな中筆者がその昔読んで、世の無常を深く考えるに至った作品に、少年ジャンプで連載し表現の制約から当時においても青年誌に移籍し完結した、「赤龍王」という作品があります。

これは、「キングダム」が描く中国の春秋戦国時代末期、秦の始皇帝による天下統一からさらに数十年時代が下って、始皇帝が死んでから楚漢戦争を経て漢の劉邦が再度天下を統一してその後400年続く漢の社稷を立てる、その物語であります。

わずか8巻の漫画ですが(昔の漫画は無駄に連載を引き伸ばしたりせず作品がきちんと終わるという意味でもまことに秀逸であります)、物語を通じて一貫するテーマはズバリ「諸行無常」というところです。

最後、楚の項羽を漢軍が総がかりで垓下に包囲し、そして最後の突破を試み項羽は自らの胸に剣を突き立て果てますが、作者(本宮ひろ志氏)はおそらく劉邦より項羽の方が百倍好きだったのでしょう、最後は全て項羽の突撃と切り結ぶシーンです。

そして、項羽は自害して果てますが、最後に見開き一杯のページを割き、項羽の生涯について「年少、赤身にして起ち、わずか三年で秦を滅ぼし覇王として天下に号令…(中略)…史上未曾有の壮事なり…。」と、それはもう最大級の賛辞で見送るのです。

片や、劉邦の方は、最後の出撃を敢行した項羽を必ず仕留めろと慌てふためきながら下知している姿が最後です。

そして、物語の本当の最後のシーンは、人物が全く出てこない漢朝廷の荘厳な建物をバックに、次のショッキングな言葉で締めくくられるのです。

紀元前二〇二年二月
漢王 劉邦 皇位に就く
その後 功臣粛清の嵐吹く
韓信 彭越 黥布の三族 いずれも誅殺される
張良 内紛を恐れ 隠退
盧綰 誅殺を恐れ 国外へ逃亡
「狡兎死して 良狗煮られる」
とは、誅殺された韓信の言葉である

歴史における結末と、本当に好きなキャラクターがどうしてもずれていってしまう、そのような雑談のお話でした。

現代のこうした漫画の名作たちも、商業主義とうまく折り合いながら、本当に描きたいことや伝えたいことを表現できる隙間がなくならないように願う次第です。

昭和時代からいつも漫画ばっかり読んでいる筆者からは以上です。

(平成29年11月14日 火曜日)

2017年11月11日

(緊急投稿)このままでは全ての小売業はアマゾンに吸われて死んでしまうという話




おはようございます。

2017年11月の記事です。

市場規模を業界ごとに毎年プロットする、こうした少し昔だと膨大なデータマイニングが必要だったことも、最近では上の写真のように簡単に素人の筆者のような者でも作れてしまう時代になりました。

こうして主な業界をグラフにして年ごとの売上高をプロットするだけで、大きな社会経済の流れというのが一目瞭然でわかってしまうのは驚きです。

1997年、筆者が社会人になった年に、スーパー業界の売上高は16兆円超を果たしピークに達しました。

実は、そのかなり前から小売の王者は百貨店からスーパーに移っていたわけですが、その絶頂を迎えたスーパー業界も、2000年初頭に生まれたネット販売業者(要するにアマゾン)に急速に売上を食われていくことになります。

そうして、このグラフは2015年までですが、2017年の直近で言えば、おそらくネット通販(紫の折れ線)が1997年時点でのスーパー業界売上(緑の折れ線)を超えていくようになるのでしょう。

さらに恐ろしいことに、ここでネット通販の勢いがピークアウトするわけではなく、さらに鋭角を保って急速に伸びていき、他の業界の売上を根こそぎ奪っていくということが強く予想される点です。

このままでは、みんなアマゾンに吸われて食われて死んでしまう、そのような空恐ろしさを感じずにはいられません。

正当なビジネスの舞台でこうしたネット通販の勢いに負けないように、どこで売上げてどこで稼ぐか、全世界の仕事人たちの戦いは始まったばかりです。

万国の小売業者よ、団結せよ!

そして各自の工夫と創意でネット通販の次の時代を作ろうではありませんか。

こんなことを書きながら、それでもアマゾンでまた買い物してしまった心弱い筆者からは以上です。

(平成29年11月11日 土曜日)

2017年8月21日

インターネット情報は現代の無限の知の宝庫といえるという話です




おはようございます。

2017年8月の記事です。

アイスクリーム、という童謡があります。

さとうよしみ作詞・服部公一作曲の歌で、

「おとぎ話の王子でも 昔(むかし)はとても食べられない
アイスクリーム アイスクリーム」

「ぼくは王子(おうじ)ではないけれど
アイスクリームを召(め)し上がる」

と続きます。

つまり、ざっと4,000年くらい遡ったところでは、雪が降らない土地でアイスクリームを食べれるのは王侯貴族かファラオといった一部の特権階級の人だけだったのが、2017年の現在では広く一般国民も食べられるということを言っています。

明らかに、これは人間社会の進歩であると言えます。

同じように、知識についても、昔は僧侶や司祭者、それから王侯貴族に独占されたものであり、彼らはその知識をもって宇宙や超自然的、超人間的本質、すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等の存在と交信し、彼らの翻訳媒体としての地位を保全してもって集団支配の拠り所としたというわけです。

使う文字も、階級に応じて、神聖文字(ヒエログリフ)、神官文字(ヒエラティック)、民衆文字(デモティック)と分かれておりまして、神聖文字でしか記載されない高度な形而上的宗教的概念もあったと言われます。

時代が少し下って、紀元前300年くらいにエジプトに建設されたアレクサンドリア図書館は、プトレマイオス朝のファラオ、プトレマイオス1世によって世界中の文献を収集することを目的として建設され、古代最大にして最高の図書館、最古の学術の殿堂となりました。

図書館は当時世界中の思想や作品、著作、学術の宝庫であり、パピルスの巻物に記されたおよそ70万巻にものぼる蔵書に惹かれて、アルキメデスなど世界各地から超優秀な学者が集まり一大学術機関(古代の大学)となりました。

このように知識集まるところに好奇心に惹かれた人間が集まるというのは世の構図であります。

現代は、インターネットの通信技術の向上と検索技術の向上により、世界中だれでもインターネット上にアップされた情報にアクセスできる世の中になりました。

世界は、ついに21世紀になって世界電子図書館を完成させたのです。



世界中の人々で作り上げた電子図書館



この図書館を作り上げたのは、一部のファラオや王侯といった特権階級ではありません。

市井の国民の総力です。

つまり、アイスクリームはみんなが食べられる世の中になった、というわけです。

しかし、この知の宝庫をいかに利用していくか、いかに付き合っていくかというのは自分次第となります。

アルキメデスが学んだアレクサンドリアの図書館も、学びたいという欲求なければただのばかでかい建物にすぎなかったのです。

学びたいことがあるから知識にはアクセスできるという順番は普遍です。

学びたいことがないのに、知識へのアクセス手段が簡便になったからよいだろう、とはならないのです。

したがって、古代も現代も、知の宝庫へのアクセス方法こそ変わりましたが、そこに生きる人間それぞれの学びたい欲求が最も重要ということはなんら変わっていないのではないかと考えるわけです。

ということで、書きたいことも書いたので勉強に戻ろうかと思いましたが、その前にアイス食べてこようと思います筆者からは以上です。

(2017年8月21日 月曜日)

2017年7月16日

聖徳太子は実在しなかったという説が有力になりつつあるという驚きの話




おはようございます。

2017年7月の熱い日に歴史の熱い記事です。

聖徳太子といえば、少し前までの昭和時代には一万円札や五千円札の表紙も飾っていた日本人にとってはおなじみの存在でした。

筆者も小学校のときに、聖徳太子のひみつという歴史読本を読み、聖徳太子はその当時の小学生の間では、織田信長豊臣秀吉徳川家康卑弥呼についで、5番目に有名で好きな歴史上の人物としてとらえられているという内容に納得し、その後も過ごして参りました。

しかし、現在の歴史の教科書では、聖徳太子についての実在性に疑義が生じており、いわゆる聖徳太子(伝厩戸皇子)というふうに記載しているのが通常になりつつあるのです。

皇族である厩戸皇子が実在したのは確かなようなのですが、その人物が、ものすごい業績を残した天才「聖徳太子」という人と同一の人なのか、それが疑問視されているのです。

そして、厩戸皇子の実績で確実だと言えるのは十七条憲法と冠位十二階のみです。

これは、中国の歴史書である「隋書」にも記載されている事柄なのではありますが、その隋書には、推古天皇のことも厩戸皇子のことも一切記載されていません。

日本書紀にも厩戸皇子のことは記載されていないのです。

確かに、厩戸皇子は斑鳩宮に住み、法隆寺を建てたのかもしれません。

しかし、肝心の厩戸皇子が聖徳太子という人であった、というのはどこにも書かれていないのです。


聖徳太子は実在しなかったという大胆な仮説を提示します



さて、日本書紀を編纂したのは藤原氏(藤原不比等)の一族です。

この一族からすれば、蘇我氏が皇族の力を簒奪して悪さをしたので誅殺した自身の先祖である中臣鎌足と中大兄皇子が正義でなければなりません。

ただし、歴史の業績は相対的なものであり、最終的に勝ち残った藤原氏に絶対的な正義があったわけではないと思うのです。

そして、一旦は蘇我氏のもとで、さまざまな改革事業が行われ、その成果を無視できなかった藤原氏は、一旦その蘇我氏の業績を仮託する相手として、蘇我氏の一族と縁が非常に深いけれどもバリバリの皇族である厩戸皇子を「聖徳太子」として創作し、これをことさらに礼賛し、蘇我氏の活躍や業績をいったんこの「皇族」に吸い取っておきながら、蘇我入鹿(本来の改革者であり実力者)が聖徳太子の子供らを滅亡に追い込むという嘘に嘘を重ねたのではないかということなのです。

もともと創作であった聖徳太子ですので、都合の良い時には消えてもらわなければなりませんし、その消えた原因が罪をなすりつけたい蘇我氏ということにすれば殊のほか都合がよいということになるのです。

聖徳太子は、生後間も無く言葉を発して、凄まじい天才児であったこと、10人の訴えを同時に聞き分ける耳と頭脳を持っていたことなどといった「逸話」も、実は中国の同様の史書から転用剽窃、有り体にいえばパクった話であることが間違いないことからも、ありとあらゆる手段で聖徳太子を礼賛する日本書紀の記述こそ怪しいと考えなければならないのです。

怪しい、というのはこれほどまでに蘇我氏の業績を貶め蘇我入鹿を悪役に仕立て上げたのは、実は中大兄皇子と中臣鎌足側は当初の反動勢力であり、彼らからすればクーデターに近い形で政権を奪取したという事実を隠して蘇我氏の業績を我が物にして都合のよい史実を作る必要があったということです。

かくして、蘇我入鹿は大悪人となり、それを誅殺した皇族である中大兄皇子は天皇となり、簒奪は完了したと思われました。

しかし、壬申の乱という日本を揺るがす大乱ののち、天皇位は天武天皇系に奪われ、それを取り返すのにまた数十年の時が必要になります。

因果は巡るというところでしょうか。

筆者が小学生の時より歴史学は格段に進歩しています。

いくつになっても好奇心を失わないようにしたいものです。

一万円札には縁がない筆者からは以上です。

(平成29年7月16日 日曜日)

2017年5月31日

昔のゲームはストーリーも育成も長かったということを改めて感じた話





おはようございます。

2017年5月の記事です。

最近ゲーム、特にRPGの話ばかりしているようですが、言い足りないのでさらに話をしたいと思います。

昔のゲームはとても長かったのです。

シューティングゲームの草分け、ゼビウスや1942などに見られるように、なかなかステージクリアまで行きませんし、ステージをクリアしたところでまたさらに延々と続きます。

パズルゲームの草分け的存在と筆者が勝手に認定する「バブルボブル」などに至っては、アーケードゲームとしては超絶の30分以上のゲーム時間をワンコインでやりきる猛者が現れ、興行的には全く儲からないゲーム台として有名でありました。

そのうち、ゲームも大衆化し、ストリートファイターなどの、「試合時間が決まっている」ゲームが登場し、これでゲーム回数の回転率向上が図られました。



RPGもキャラクターの成長にものすごく時間がかかった



RPG(ロールプレイングゲーム)についても、この傾向は顕著でした。

日本のRPGの草分けと言ってよい「ドラゴンクエスト(Ⅰとはつけない)」において、最初に出会う敵である青い「スライム」の経験値はわずか1EXP、獲得するゴールドも同じく1ゴールドでした。

少し稀に登場する赤い「スライムベス」は経験値は1で同じですが、獲得ゴールドが2倍の2と、お得感満載だったのです。

しかるに、最近のRPGの育成のインフレたるやなんということでしょう。

軽く、明治時代の通貨感覚から黒田日銀総裁緩和並みのインフレターゲットぶりです。

昭和生まれのプレイしていたRPGにおいては、その育成はかなりしんどく時間を食うものであった、けれどもそれも含めてゲームの味であったという感じが致します。

今のゲームは、よくも悪くも結果をすぐ求められる、スピード重視かつ他レーベルに顧客を持って行かれないように次々とイベントを投入する、いわば強制動的紙芝居的な面もあるように感じます。

いわば小説をじっくり読みたい昭和派と、動画音声加えてVRで効率的に情報収集をするのが当たり前になっている平成派のせめぎ合いといったところでしょうか。


ラスボスにできるだけ低いレベルで会いにいくというイベント競争



さてそんな骨太で攻略が難しい昭和のRPGにおいて、たとえばドラゴンクエストでは、「竜王会見斬」というイベントが少年ジャンプ誌上で繰り広げられました。

これは、最終ボス(ラスボス)である「竜王」の前にどれだけ「低い」レベルで到達できるか、ということを競うイベントで、どうしても経験値が上がってしまうところを抑えに抑えて、戦闘シーンは運に任せて逃げまくり、なんとかダンジョンを抜け竜王の玉座にたどり着くというものです。

ドラゴンクエストでは、最後の最強呪文ベギラマを覚えるのがレベル19で、レベル19では竜王を倒せる確率は半分半分、レベル20だと何とか倒せるというような感じでした。

MP(マジックパワー)を使い切るまで回復呪文を交えつつ、ひたすらダメージ一桁を竜王に与え続けてようやく勝てるという状況でした。

さて、この竜王会見斬、誌上で毎回記録が更新されていくのですが、最初はレベル18や17だったのが、レベル12まで一気に落ちたところで驚愕しておりましたところ、最後にレベル7!という状況で竜王に話しかけている猛者が現れ、一体この者はどれだけの時間をこのゲームにかけたのだろうかと気が遠くなったのを昨日のことのように覚えております。

なぜ、レベル7かというと、攻撃呪文ギラと睡眠呪文ラリホーを覚える最低レベルだからです。

基本的に、偶然に遭遇する戦闘は全て逃げるコマンドで回避し、どうしても回避できないイベント扱いの戦闘(必ずクリアしないとシナリオが次に進まない)については、ラリホーで眠らせてギラで攻撃、というパターンで進めるしかありません。

理論的にはそうだとしても、実践には気の遠くなるような時間がかかるはずです。

このように、昭和生まれの一部の層は、骨太なストーリーと手ごたえのある、いわば北九州製鉄所名物の「堅パン」のような歯ごたえ最高のRPGを求めているのです。

ドラゴンクエストで実現できるレベルの上限はレベル30、こうなるといつもは次のレベルに到達するまでの経験値を教えてくれる王様からも「そなたはじゅうぶんにつよい!なぜりゅうおうをたおせないのか」と叱られてしまう始末です。

そこまで育成するのにどれだけの時間を費やしたか、本当に思い出深いです。

現実世界からは逃走したい筆者からの論考は以上です。

(平成29年5月31日 水曜日)

2017年5月26日

明治製菓の定番お菓子の「カール」がローカルスナックとして存続する



おはようございます、2017年5月の記事です。

地域限定のアイスやお菓子というのはよくあります。

そうして、その地域を出て他の地方に移り住んだ時に、あああの商品は地元オリジナルのものだったななどと気づくのです。

例えば、福岡に限定して売られている食品の代表例が、「ブラックモンブラン」という棒アイスです。

竹下製菓という地元のお菓子会社がずっと作っています。

本社と工場が佐賀県小城市小城町にありまして、竹下さん一族が経営する立派な中小企業ですが、知名度は抜群ではないでしょうか。

そのほか、「銀チョコ」や「マンハッタン」といった古くから定番の菓子パンもあります。


「カール」が西日本ローカライズお菓子に?



さて、そんな日本の一地方を超えて、全国ブランドとしてその名を誇った明治製菓の「カール」が、いよいよ続く菓子販売競争と少子化から廃盤の危機に瀕しているというニュースが飛び込んできました。

カールといえば、「うすあじ」以下すべての種類について大好きな筆者などにしては、なぜカールがなくなるんだという衝撃でしたが、思えば筆者が子供の頃には同い年(同じ学年)の子供は180万人いたのに、今では100万人を切っているといいますから、市場もそれだけ縮んだのです。

カール部門の売り上げは、1990年代(筆者が子供の頃)には実に190億円に達したそうですが、最近では60億円程度とのことです。

スナック菓子市場の飽和と少子化によるダブルパンチで、国民的ブランドを誇ったカールも、単体部門では実は赤字という状況だったのです。

全商品の取り扱いを取りやめるという最悪の判断もよぎる中、なんとかブランドを維持したい明治製菓は、カールの生産工場を全国5つから愛媛の1工場に集約し、そして配送と販売も西日本に限定することを決断したそうです。

これは、お菓子のローカライズ化の一方策と言えるのかもしれません。

大消費地の関東地方を捨てて、西日本を販路に維持した明治製菓の決断に頭が下がりますが、明治製菓からカールを卸してもらった販売業者が、自社トラックなどで関東地方や東北地方に配送し、そして送料も含めて売るという途は残されています。

本来、地方産物なのですから、全国で統一料金にする必要もないわけです。

これからは、愛媛の工場産であることを売り出して、息の長いブランド展開をしてもらいたいと考えます。

物流コストがかかるという当たり前の事実を日本の消費者が知る良い機会になればなどと思いました。

カールも好きですが、かっぱえびせんも好きな筆者からは以上です。

(平成29年5月26日 金曜日)

2017年5月25日

会社や組織が回ると回り回って個人の労働者も豊かになるという仕組み

ソヴィエトの国旗(星と鎌とハンマー)



おはようございます。

2017年5月の後半、思う通りに書いてみるシリーズ記事です。

明らかに通常に比し長くなります(本文字数3,800字超)ので、お察しください。

日本における新卒一斉就職による4月のフレッシャーズの状況も一段落し、そうして毎日の通勤電車のひとときの混乱もだいぶおさまりつつある季節ですが、そもそも会社に勤めるということの仕組みの長所を考えてみたいと思います。

いわゆる産業革命において、労働生産性を飛躍的に高めた結果、その担い手としての資本家というものが発生し始めました。

そうして、その原点に近いところにいたイギリスや、海を渡ったアメリカにおいては、そうした資本家の横暴を適度に抑え、その仕組みを労働者側にも適切に還元するような仕組みで社会を再構築するような革命が比較的ゆっくりと行われました。

ここでの産業革命の担い手は、いわゆる都市部の中小自営業者や、地方の農場主およびその子弟といった勢力が中心でした。

彼らは、もともと貧乏な小作や農民であった場合も多く、そこから這い上がり、かつ家業としての事業を営むためにかつての自らのような境遇にあるところの労働者を従業員や委託先として雇っていたという状況から、貧乏な人たちを豊かにするには、一時金をばらまくのではダメで、起業家自体を増やしてビジネスの総量を多くし盛んにして、そして労働力以外に売るものを持たない人々の雇用の不安を解消して待遇(賃金)もよくしていくしかないと現実的に考えました。

健全な労働市場の伸長の上に、健全な金融投資市場が育つというまともかつ穏健な考え方で、利益の一部を内部留保し、適切な税金を国家に支払い、そしてさらにその残りから将来の設備投資などに資金を再投下して、単位労働あたりの生産性を高めるという方法を地道にとりました。

そうすると、だんだんと労働生産性があがり、労働者も高度な職人として、比較優位の賃金が保障されたわけです。


資本家層が登場する前に資本家層を打倒する革命が起こってしまった


しかしながら、ここでそもそも健全な資本家層が育つ前に革命を迎えてしまった少々不幸な国々が現れました。

典型的なのがまだ産業革命のとば口にも来ていなかったロシア及びその周辺国でありますが、彼らは兎にも角にも威勢良く王政を打倒し、皇帝を吊るし首にしたあと、急速な富の再分配を行ったのです。

しかしながら、企業や産業は、そこに生まれ続ける利潤や利益の一部を内部留保し、設備投資や労働装備に回してこそ息が長く続くものです。

その大切な将来の再投資の種銭をすべて根こそぎ資本家(の卵)から巻き上げ、労働者革命と称してとにかく平等に分配すべく強力な共産国家による巻き上げをおこなったとあっては、今後まともに事業を展開しようとする気がなくなるのは仕方がないところだったのかもしれません。

共産主義革命政権下においては、資本家は労働者階級から搾取するのみの存在で、打倒されるべき存在と規定されました。

もちろんそうした一面もあるかもしれませんが、より構造的には、資本を回して雇用や賃金を増やしていくためには、資本家がもつ企業が受け取った利益の一部を内部留保して、設備投資などに回して、労働生産性を高めるしかありません。

そのため、資本家は、労働者の生み出した付加価値の一部を利益として確保して、税金を払った後の残りを内部留保して、設備投資などにあてるのですが、これが一見すると、労働者からの搾取に見えるわけです。

実際には、設備投資などによって労働生産性が高まり、労働者の賃上げや待遇改善に繋がっていき、新産業も生まれてGDPが向上する効用のほうが大きいのですが、それは先の話になるので、種銭レベルで目の前を目の前だけ見ると搾取に見えるのかもしれません。

さらに、そうした資本家層にも、公開株式市場などを通じて、労働者階級や庶民も些少ながら株式投資や年金資産の投入などで入り込むことが可能になり、さらに資本家と労働者という対立構造に意味がなくなってきました。


一見最もな対立構造に議論を単純化することが往々にして行われる


しかしながら、一見労働者のこうした劣位に置かれている立場を殊更に言い立て、そこを一点突破して自らの政治的主張とリンクするように運動する層もいまして、そうした勢力による「資本家による搾取」理論が、一定の理論的支柱を得てこうした下からの共産革命を成功させた一因であろうかと思います。

この点を突いて、例えば共産主義を標榜すると称する人々などが、資本家による搾取だーなどと無茶を言うことがあるので、ここは、(全てを)真に受けないようにしないといけないと思うのです。

特に、大学を出る、大学に入学するといった一定の知識層に対しては、社会での現実を知る前に、こうした価値観を一気に植え付けるという勧誘手法が、未だに残っているようです(筆者が大学に進んだ時にはさらに大々的に運動されており、白昼堂々と授業を妨害しての宣伝活動が活発でありました。教育を受ける自由の重大な侵害なのですが)。

世の中に貧しい人や困ってる人がいるのは、いつの時代もそうでありまして(筆者なんか本当にモテないので困っています)、それは比較的豊かな家庭に生まれて大学などの高等教育機関に学ばせてもらっている自らのせいでは全くないのですが、例えばそこに、極端な運動家によって「お前はプチブルだ、総括しろ、反省しろ」と言い続けられた場合、一見純粋な人ほど、自分が豊かな家庭に生まれたこと自体が悪ではなかったのか、などと勘違いしてしまう場合もあるのです。

そうして、その意味の少ない「贖罪」行為としてこうした活動に身を投じるという場合もあるのです。

わが国でも連合赤軍のあさま山荘事件や、よど号ハイジャック事件など、一見大変滑稽で困った社会事件が起こったのも、厳然たる歴史的事実です。

時代を遡ると、良家の子弟ほど、こうした社会の矛盾を一気に解決する劇薬を求めました。

あるものは共産主義革命に憧れ、あるものは宗教上の神秘主義に浸り、またあるものは極右思想による世界制覇と民族浄化を夢見ました。

没落貴族の子弟などは特に、自らの没落した理由を社会の歪みのせいにしたがり、さらにそうした不満を左翼右翼限らず極端な革命活動に絡め取られたりする事例が歴史上たくさんあったわけです。


壊したものは元に戻らない


もちろん、社会をぶっ壊したところで、その再建にはさらに時間と手間がかかりますので、今の社会を少しずつよくした方が良いことはわかりきっていると思うのですが、なぜか急進的かつ極端な人たちは、まず壊すことの甘美さに抗し得ないようなのです。

そんな没落層が、さらにもともと貧しく資本の蓄積のない社会層及び農村部の農奴制が色濃く残る極寒のロシアの地で、初めての共産主義革命を実現したことは、非常に示唆的です。

社会主義革命論を説いたドイツの哲学者である巨人マルクスは、資本主義社会の最終段階が壊れるその次に社会主義革命がやってきて、真の共産主義社会がやってくるであろうと説いたのですが、実際は、産業革命が起こる前の農奴制社会から一気に共産党独裁の巨大社会ができあがってしまったというわけです。

しかるに、1920年台当時のロシア及びその周辺国には、そもそも、そこまで資本主義的な産業の芽がなかったこともあり、さしたる抵抗もなく、共産主義革命と称した壮大な社会実験は一定の成功を収め、その後は計画経済と称した国家による統制経済による高度に統制された経済秩序による発展が志向されることになりました。


壮大な社会実証実験


ソヴィエト社会主義共和国連邦におけるこうした強力な中央集権主義による上からの経済高度化については最初の段階では非常な成功を収めたものの、やはり全てを中央の共産党幹部が机上で決めるということに無理があったのか、ソヴィエトの歴史は約70年で幕を閉じます。

具体的には、ソヴィエト社会主義共和国連邦は、1922年から1991年までの間に存在したユーラシア大陸における首都をモスクワとする長大な国家でした。

実に15のソヴィエト共和国により構成された連邦国家であり、マルクス・レーニン主義を掲げたソヴィエト連邦共産党による一党制の社会主義国家でもありました。

こうした歴史の話を振り返って思いますことは、やはり社会の不満とかそういうものを、社会のせいだとか自分自身のせいだとか極端に思い込もうとすることの大きな副作用として、社会全体を不安の渦に叩き込む恐れがあるものだということです。

巨額な賠償金や劣位に置かれて民族的な誇りを傷つけられた純粋なドイツ国民5,000万人が、ほぼ全てヒトラーを支持し、当時世界で最も民主的と言われたワイマール憲法体制を自らが選んだナチスという政党を通じて「否定」して、全ての権限(大統領と首相)を一人に集中させて国家の力を最大限発揮することを「求めた」のです。

大戦時を犠牲を凌ぐ数千万人ともいえる犠牲者を強いながら、それでもソヴィエトの連邦国家群は、スターリンという絶対権力者に全ての権限を捧げたのです。

何事も、全ての責任を他人にゆだねることや、うまくいかないことを全て外の何かや自分自身のせいにしないようにすると、手痛いしっぺ返しを食らうというのは学びにしたいと思います。

そういうことでとにかく話も考えも、覚悟も仕事も顔も何もかも中途半端な筆者からの今日の放談は以上です。

(2017年5月25日 木曜日)

2017年4月14日

トップの権限を2人以上で負担し合うという組織運営の進化を論じます





おはようございます。

2017年4月の組織のトップに関する配信記事です。

現在の今上天皇の譲位の意向を受けた政府が慎重に有識者会議を開いて、必要な法整備や政令の準備を行なっていましたが、ようやくその最終方針がまとまり政府に対して最終答申を行うというニュースが流れて来ました。

これで、ようやく今上帝が譲位できる制度的担保が進みそうです。

そして、譲位後の天皇陛下をどう呼称するか、についても、「上皇陛下」ということで一致したということです。

皇位継承第一位となる秋篠宮は「皇嗣殿下」と呼ばれるとのことです。

何にせよ、組織のトップが変わるということは非常に大変なものです。



会長と社長のダブル統治体制




翻って庶民が運営する会社組織形態におきましても、昭和の昔は社長職一本だったのが、最近は組織運営の高度化から会長や取締役会議長といった「別の」お目付的な地位を置くことが増えて来ました。

課長島耕作で始まったシリーズ主人公も、ついに会長になってさらに経団連の中での出世階段を登っていく、昭和のサラリーマンというものは常に上昇志向があるものですが、最近の平成の世の中ではこうしたスタイルも相対化されて来ている感はあります。

筆者が大事にしております経済小説の名作に「小説日本興業銀行」というのがありますが、この主人公の戦後興銀の第2代頭取である中山素平という人は、頭取職を去る時に後輩たちに特に慰留されて「会長」に就任します。

それまで、大銀行のトップといえども頭取一本だったのです。

副頭取も1人しかいませんでした。

中山素平は2年だけだという約束通り2年で会長職も退きますが、その後の日本経済社会においては会長職が一般的となり、ついには人事権など社長より権限が大きくなるといった状況になるに至り、輸入呼称であるCEOという呼び名を社長や会長の前につけて、結局どちらがトップなのか、といったことを示すようになったりしております。

会長と社長の間には副会長を数名、社長の下には副社長や副頭取を数名置くようなスタイルが一般的になってきています。

もちろん大組織を束ねるにはそれなりの人数は必要かもしれませんが、昔とくらべて明らかに頭取や副頭取といった単体の地位が軽くなったように思うのは筆者だけでしょうか。

脱線ついでに書きますと、1998(平成10)年の年頭に、当時の日本興業銀行の西村頭取が全役職員に向けて送った内部向け書簡は、これこそ総合企画部あたりの社内官僚ではなくトップの頭取自らが書いたに違いない迫力に満ちたものでありまして、当時新人であった筆者などは衝撃を受けたのを覚えています。

ですので筆者の中で頭取、といえばこの西村頭取のイメージが物凄く強いわけです。

それから時代は流れ、代表取締役会長兼社長CEO、という一見わけのわからない肩書きも出現しています。




古代ローマの皇帝とはどのような地位の集合体だったのか




この点、古代ローマで皇帝が誕生した時、その皇帝という地位がどのような称号で呼ばれて総体として皇帝という地位や権限を有していたのかとを比較すると面白いです。

古代のローマ皇帝は、少なくともこれから列挙する4つの称号を同時に保有する主体として皇帝と通称されたのです。

1つめは、「アウグストゥス」という称号で、初代皇帝オクタヴィアヌスが元老院から送られた尊厳者を意味する称号です。

2つめは、「インペラトール」という称号で、もともと最高司令官を意味する言葉です。英語のエンペラー(皇帝)の語源です。

3つめは、「カエサル」という称号で、これはカエサル家の棟梁である初代終身独裁官であり事実上第0代皇帝ともいえるユリウス・カエサルの正当な後継者という意味です。ちなみにこれが英語になってなまってシーザーになり、ドイツ語でのカイザー(皇帝)の語源になります。

4つめは、「プリンケプス」という称号で、これはアウグストゥスの尊号が贈られる前にオクタヴィアヌスが使用していた「第一人者」という称号です。これは、元老院の中の一員ながら、最初に発言する権利があるという権利を示すものでした。

あとは、国家の父とか祭祀を主催する称号とかいろいろありますが、とにかく最重要な尊称として、この4つは必ず歴代皇帝につけられたというわけです。

今後の21世紀の日本においても、会長、社長のほかにも、今後取締役会議長とか監査役会首席とか、報酬委員会委員長とか、いろいろと実質的なトップを呼称する地位が生まれてくるのかもしれません。

夜の帝王やカラオケでの大統領を僭称しながら実質は夜の中洲のパトロール巡回に留まっている筆者からは以上です。

(平成29年4月14日 金曜日)

2017年4月4日

ノーベル平和賞という賞は政治的な色彩を帯びざるを得ないという議論

トルストイ「戦争と平和」



おはようございます。

2017年4月のノーベル平和賞に関する配信記事です。

ノーベル平和賞は創始者のノーベルがもっともこだわった賞なのですが平和の定義が立場や思想によって曖昧なので非常に議論を呼ぶ賞となっています。

オバマ大統領といい2012年の欧州連合といい、受賞するのもまだ早かったのではないかと思うのです。

特にEU(欧州連合)といえば複数の国で成長率などを約束しておきながら、できなかった国の分のつけを、それを法律・団体責任という名の下に何の非もない真面目な他の加盟国に等しく責任を押し付けようとしたあまり褒められないシステムであり、欧州金融危機という全世界に悪影響を与えた張本人なのではないでしょうか。

そして今回のイギリスのEU離脱、トランプ大統領誕生、そしてフランスにおいても極右政党の党首が大統領になろうかという勢いです。



フランスでは極右のル・ペン大統領候補が台頭中




女性のル・ペン候補は、テロ事件で自らも傷を負ったことのある経歴と、同じく極右政治家だった父親の思想を受け継ぐものとして、今非常に人気が出てきています。

彼女らの主張は移民排斥とEU離脱ですから、残る大国はドイツのみということになり、EUの経済力は危殆に瀕することになります。

EUの仕組みでは、こうして各国の主権を認める中で、そもそもちゃんと経済改革をおしすすめているのかを監視する機構すら独立国の内政干渉の壁がありできにくいのです。

EUがノーベル平和賞を受けることになったとき、その受賞においてはそもそも誰が真の代表者なのかというせめぎあいがありました。

日本のみずいろフィナンシャルグループもビックリの3頭体制、すなわち、当時のファンロンパイEU大統領とバローゾ欧州委員長、シュルツ欧州議会議長の3人が授賞式に出席したようですが、さて受賞のスピーチはどうしたのでしょうか。

筆者は寡聞にして存じ上げません。

そんなEUがゆるやかに崩壊していくさまをこれから見ることになるのでしょうか。

フランス大統領選挙からも目が離せません。

政治大好きの筆者からは以上です。

(2017年4月4日)

2017年3月24日

アメリカワシントンのポトマック川に咲くさくらが今年も花を咲かせる





おはようございます。

2017年3月の桜に関する配信記事です。

今年も日本列島を桜前線が北上し、既に東京では開花宣言がなされたそうです。

この先、わずか10日間ほどで桜は見ごろとなり、満開となり、そして散っていき葉桜になっていきます。

このあっという間に咲いて散りゆく情緒、これが日本人が大好きな風情なのです。

さて、明治の時代、憲政の神様と言われた大政治家尾崎行雄先生は、その長い長い政治家人生において9年間も東京市長をつとめられましたが、その中で、1909年アメリカのタフト大統領夫人が日本の桜をアメリカワシントンのポトマック川に植樹したいという意向をお持ちであるということを聞き、2,000本もの苗木を用意してワシントンに送りました。

しかしながら、この苗木は長い航海の途中、多くの桜が病害虫に侵され、検疫の結果不合格となりすべてアメリカの地で焼かれてしまいます。




諦めずに綺麗な苗で再挑戦




残念に思った尾崎行雄市長は、害虫に強い桜を確保するよう指示を出して再挑戦しました。

東京の荒川堤で採集したソメイヨシノをはじめとする五色桜を穂木として、兵庫県伊丹市東野地区の台木に接木し、健康な苗木を作り上げたのです。

さらに青酸ガス薫蒸で害虫駆除も念入りに実施して長い航海に耐えられるようにしました。

2,000本の先達に敬意を称して、決してあきらめず改善して再挑戦するのです。

きれいな完全な苗木をもう一度用意して、1912年、今度は2000本に増やしたさくらの苗木をアメリカの首都ワシントンに送りました。

こうして、100年以上経った今でも、毎年ポトマック川の河畔の春を日本のさくら、ソメイヨシノの花が彩るのであります。

真の国際交流とはこのようなものをいうのだと思います。

いつかポトマック川のさくらを見てみたいものです。

尾崎先生は94歳まで衆議院議員の職にあり、95歳で大往生されました。

東京市長を除いて、衆議院議員として当選25回、議員勤続63年は誰にも破られることのない記録でしょう。

そんな大先達の偉業を偲び、ぜひポトマック川を見に行きたい気持ちが尽きない筆者からは以上です。

(平成29年3月24日 金曜日)

2017年2月28日

(歴史探訪雑談)名付け親との関係性について具体例から論じてみたい





おはようございます。

2017年2月の配信記事です。

最後まで読みますと、ちょっとすごい話です。

名札のイラストしかなかったので若干イメージが違うような気がいたしますが、今回は歴史的な名付け方法から、いわゆる名付け親との関係性について触れてみたいと思います。

まず、平成29年大河ドラマ「おんな城主直虎」においても、いよいよ青年期の徳川家康が登場してきましたが、この青年、三河のぼんやりとか言われてかわいそうですが、当時の名前は「松平元康」です。

元、の字は当然人質同様に預けられていた駿河の大太守、今川義元の元をもらったものであることは明白です。

そのうち、今川家が桶狭間を経て滅び、松平家は独立して、元康は元の字を捨てて家康と名乗ったわけです。

そして、その家康が当初後継とは考えておらず、目の上のたんこぶであった豊臣秀吉におもねって子供につけた名前が秀忠です。

秀、の時は秀吉から賜ったのは明白です。

徳川15代将軍を見渡しても、家の字がついてないのは秀忠、綱吉(吉綱と書いておりましたので間違い)、吉宗、慶喜くらいですから(間違っていたらご指摘宜しくお願いします)、秀忠の名前は、憎っくき豊臣家を滅ぼしても残ってしまったということで家康は無念であったことでしょう。




三代将軍は「家光」、光はどこから?




そして、生まれながらの将軍には、家光と命名しました。

今回は、もはや誰に気兼ねすることもなく自分が名付け親になれるものですから、家の字は当然として、さて光の文字はどこから採ったものなのでしょうか。

筆者はいろいろ本を読んだ中で提示したいのは、「明智光秀」の光を取ったのではないかという考え方です。

そもそも、本能寺の変において、明智によって暗殺されるべきは徳川家康だった、という大胆な仮説をもって、それを信長の命として避けることはできないと覚悟した光秀は、この計画を家康に漏らし、そして主君の信長を打ち果たし、そして家康は見逃して本国三河に帰らせた、というところではないか、と考えるのです。

そうして体制を立て直し、徳川・明智の連合軍で戻ってくる信長家臣を迎え撃つという段取りが、羽柴秀吉に何らかの形で情報が漏れ、そして急遽の中国大返しになり山崎に明智は体制立て直すまもなく戦って滅びたというような感じではないかと思うのです。

そうなると、家康は自分と自分の家を救ってくれた光秀に非常な恩義を感じているに相違なく、それで後継の孫に家光という名を自ら用意したのではないかと思うのです。

勝手な想像をたくましくした歴史の推理は以上です。

(平成29年2月28日 火曜日)

2017年2月20日

日本独自に発展した重層的な統治機構のあり方を勝手に議論してみます





おはようございます。


2017年2月の配信記事です。
日本の統治構造は、中央集権といいながら平安時代以降の封建制度が多分に残っているものだと常々感じています。

封建制度とは同じ土地に利害を持つ機構がたくさんあるというもので、流通制度にしても許認可制度にしても、国なのか県なのか市町村なのかよくわからない重層構造であるというところにその名残が残っているのです。

そもそも現行の日本国憲法には、地方自治という一章がわざわざ設けられていて、地方自治は基本的人権に類する重要な権利であると謳っており、都道府県レベルの地方自治と市町村レベルの地方自治という二重地方自治は憲法の予定する理想の姿とすらなっています


実際、日本国憲法第九十三条には、「地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する」「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」

とわざわざ記載されています。

国も合わせれば三重行政です。

したがってその機構を運営する公務員機構、議員機構もどんどん肥大化します。






「大蛇市」という架空の政令指定都市で考えてみる




例えば、架空の政令指定都市である大蛇市というのを例にしますと、まずいちばん身近な存在として大蛇市議会議員、というのがいます。

これは、だいたい選挙のときに1万票の有権者の有効票をもらえれば立派に当選できます。

それで300万人の大蛇市の代表というわけですね。

しかし大きなことは市議会だけでは決められません。


大蛇府議会議員、というのもいまして、これはだいたい選挙のときに3万票の有権者の有効票をもらえれば当選できるたぐいのものです。

それで900万人の大蛇府の代表というわけですね。




国会議員は10万票必要(衆議院議員の場合)





しかし、国家レベルの事業になると、国の認可事業でありそもそも予算をつけるかどうかが国会審議にかかりますから、とりあえず衆議院議員を出すことになると、大蛇府はたくさんの選挙区がありますが、とりあえず第何区というレベルで10万票の票が必要となります。

こうして市議会、府議会(県議会)、国会(衆議院)という格付けにそって、議員誕生は概ね票の数で決まるのですが、同じ区域にこうした3重の権力構造があることが実務をややこしくしているのです。

筆者としては、コスト削減のためとりあえず、まずは中抜きとして府議会と市議会は統合してしまってもいいのではないかというのが議論がなされている大蛇都構想の要点だと思います。


そうなれば府知事と市長を同じ地方政党のトップとナンバーツーである代表と幹事長でたらい回しにするようなことも必要なくなり、政令指定都市という都道府県と同格なのだが責任範囲は市内に止まるといった中途半端な制度維持の必要もなくなります。

政令指定都市になるための運動というのも変ですし、そもそも国民レベルでどの市が政令市かなどというのは当事者しか興味のないことでしょう。


効率的な行政ときめ細やかさを両立できる制度設計が望まれます。

政令指定都市に生まれ、同じ県の別の政令指定都市に住まう筆者からは以上です。

(平成29年2月20日 月曜日)