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2018年7月20日

義務教育を受けさせる小中学校においてこの酷暑に冷房ないという異常事態に対して静かにもの申したいと思います







おはようございます。

2018年7月の大変残念でならない酷暑の熱中症被害に関する配信記事です。

先日、教室に冷房の設置されていない愛知県豊田市の小学校で、ついに小学校1年生のお子さんが熱中症で亡くなるという痛ましい事件が起こってしまいました。

将来の日本を支える、数少ない国民の宝というべきお子さんが亡くなるというのは、全くもって噴飯ものであります。

大変腹立たしいところです。

この事案を少し整理します。

愛知県豊田市で市立梅坪小学校1年の男子児童(6歳)が、課外授業で発症した熱中症で、クーラーのない教室で休ませたが死亡したという事故です。

豊田市内の市立小・中学校と特別支援学校計104校には、一部の特別教室を除いて扇風機しかなかったとのことです。

もちろん、教室ではなく、例えば冷房のある保健室などで休ませれば良かったという意見はあると思います。

しかしながら、2013年に設置した扇風機の設置で当面十分だという不作為の認識が市にあって、豊田市の市長は、会見で「当時はこれで様子を見ようという判断で適切だったが、こういう事態があったので見直す」と述べたとのことです。

死亡した児童を含む梅坪小学校1年生の計112人は2018年7月17日午前10時ごろ、校外学習のため約1キロ離れた和合公園に徒歩で向かったとのことです。

そして、公園で30分ほど虫捕りなどをした後、同11時半ごろ教室に戻りました。

男子児童は教室で休憩中に意識を失い、救急搬送されたが死亡したとのことです。

男子児童が命を落とした教室にエアコンはなく、4台の扇風機しか設置されていませんでした。

さて、義務教育として国の宝である子供を強制的に学校に通ってもらっている学校教育関係者の皆さんにおかれましては、そろそろ、というか死人が出てからでは本来遅いのですが、少し考え直す必要がありましょう。

エアコンつける予算がないというのなら、どうして市庁舎や市長室、教育長の部屋にはエアコンが入っているのでしょうか。

明らかに、気温は一本調子に年々上昇しており、昔の暑いと今の暑いは全く違ったものになっております。

熱帯夜(25度以上の夜)も無かった昭和時代の以前すぎる経験をもとに昔の人が、昔は我慢したとか言うのが全く筋違いなわけです。

今は超熱帯夜(30度以上の夜)も珍しくありません。

市役所の建物より(義務教育の)子供のエアコンや冷房対策の方が明らかに緊急の課題だと思います。

東日本大震災の時の東京の計画停電の際に、皇居はもちろんその対象外であったけれども、天皇皇后両陛下の強いご意思で、計画停電で「第1グループ」に分類された地域の停電時間に合わせ、1回約2時間にわたり、明かりや暖房といった電気の使用を一切控え、時にはろうそくや懐中電灯を使いながら過ごされたとのことです。

人の上に立つ人というのは、こうでなければなりません。

ですから、この市の教育行政を司る市長と教育長くらいは、本気で自分の部屋のエアコンは即止めて、全ての小中学校の教室に冷房が設置され稼働を確認するまで、そのまま執務するべきだと思います。

私が市長か教育長ならば、その上で、時間を限って校庭の真ん中で青空執務させていただく覚悟です。

もちろん、官僚に必須のスーツとネクタイです。

それくらいやらないと、申し訳が立たない、夏が暑いということは統計的に明らかであるにもかかわらず、昭和な授業を適切な設備を用意せずに進めた不作為の罪は重いと考えます。

何なら、7月から9月は全校休校もしくは、10時~2時は休校にするなりすればよいのです。

必要な授業は、冬休みでも春休みでも使って行えばよろしいし、土曜授業を復活しても全く問題ありません。

昭和の授業にこだわるならば、筆者もそれが常識であった土曜半ドンを復活すれば良いでしょう。

もしくは、午前午後の二登校制にするとか、やり方はいくらでもあるはずです。

義務教育を掲げておきながら、最低限の安全対策を取ることすらできないのであれば、予算がないというのであれば、もはや義務教育の看板は下ろして、高認(昔大検といった)と同じく中卒相当の資格というものを別途認めて、小中学校に行かなくても良い自主教育の自由を認めるべきだと思います。

どうやら日本は、既に借金まみれのくせに、市役所を建てたり、参議院議員を増やすことには熱心なのに(総人口は顕著に減っているのですが)、こういうところが全く硬直的だなと思いました。

夏の外回りは厳しいですが、実はクーラーの効いた室内でこれを書いているのを反省したい筆者からの主張は以上です。

(2018年7月20日 金曜日)

2017年3月11日

2017年3月11日になりあれから6年が経過した今何を思いますか





おはようございます。

2017年3月のあの大災害に関する配信記事です。

2017年3月11日を迎えました。

東日本大震災から6年です。

いろいろ毎日違うことを書こうと思っていますが、この日はああまたこの日が来たかという思いになりまして、タイトルからして全然違うことになりました。

あの日、筆者は東京出張の日で、同僚の皆さんが先に東京に行っているのを追いかけて福岡空港に向かいました。

そしたら空港のテレビが全て津波の画像を流し始めて、空港は大混乱となり、連絡も取れず、そのまま職場に戻って来ました。

それから職場で東京に行っている人たちの安否確認なんかをしながら会社に詰めていました。




津波はただの「大きな波」ではない




イラストに津波の絵がありますが、津波は、「大きな波」ではありません。

巨大な水の壁(塊)が数十メートルも盛り上がり、ずっと先まで圧倒的な質量を持って押し寄せ、陸上のもの全てを破壊し尽くす悪魔の自然現象です。

人間が作った全ての人工物は、なすすべもありませんでした。

日本の技術の粋を集めた原子力発電所も、電気を作る施設でありながらの、まさかの全電源喪失に陥り、メルトダウン(炉心溶融)を起こして壊れました。

そんな記憶がいろいろとフラッシュバックして、しばらく放心しました。

ともあれ、あの日から6年が経ちました。

あの年に小学校に入った子供がいたならば、もうその子は6年生で卒業です。

6年経過して、あの日から世の中の捉え方は変わって、社会のいろいろなところにこのことは深く根ざしていると思います。

明らかに、世界の価値観が変わった出来事だったと思います。

時代は、日付で意識された人々の意識によって形作られていくと改めて思いました。

3月11日は、このようにこれからの日本の人々にとって感慨深い1日となります。

皆さんはどのようなことを感じるでしょうか。

本当は、陸軍記念日としての3月10日、そしてそれを塗りつぶすように東京大空襲を敢行したアメリカ軍と日本のことを書きたかったのですが、3月11日になってしまったので、この話は次回に致します。

こちらからは以上です。

(平成29年3月11日 土曜日)

2016年9月5日

日本の特撮・アニメ映画史を駆け足で語ってみたいと思います

天空の城…のモチーフの一つ、モンサンミシェル




おはようございます。

2016年9月の記事です。

2016年を代表する映画になることは間違いない映画シン・ゴジラの監督は庵野秀明という人で、この人はエヴァンゲリオンシリーズや昔NHKでやっていた「ふしぎの海のナディア」といった先鋭的なアニメ作品を手がけた日本のクールなポップカルチャー文化を代表するクリエイターです。

すでに大学生のときに自主映画でウルトラマンシリーズを手掛けるなど、その才能には目を見張るものがありました。

怪獣映画として戦後より起こった「ウルトラマン」や「ゴジラ」といった特撮映像技術を学び、そして駆使して、その後アニメの世界にも進出しました。

これとは別に、日本アニメーション界には、宮崎駿と高畑勲という天才らが集ったスタジオジブリという製作会社があります。

世界を滅ぼすような巨大な力を秘めた青く光る秘石とその正当なる後継者である女性(お姫様)という設定題材が、宮崎駿と庵野秀明に提示され、前者は「天空の城ラピュタ」、後者は「ふしぎの海のナディア」という作品に仕上がったのです。

さて、この日本のスタジオジブリというアニメの巨塔に、宮崎駿と高畑勲(代表作:火垂るの墓、おもひでぽろぽろ等)という二人の天才の後継者と目されたアニメーターがいました。




名前は近藤喜文さん





名前は近藤喜文(こんどうよしふみ)。

彼は高畑作品、宮崎作品双方に作画監督として参画しておりまさにアニメ画の品質を高く保つための心臓部を長く担ってきたのですが、その彼がついに監督デビューした作品が、1995年スタジオジブリにて上梓された「耳をすませば」という作品です。

大変透明感ありメッセージ性も高い名作でしたが、この映画公開より2年後、心労がたたったのか近藤監督は47歳という若さで急病に倒れそのまま逝去されたのです。 

ですので、「耳をすませば」が近藤監督の最初で最後の唯一の監督作品となってしまいました。

筆者も遠い昔、多感な頃に同映画を見て感動した者の一人ですが、まさかそれを手がけた監督がほどなく亡くなってしまったとはずいぶん後まで知らずに衝撃を受けたものです。

才能のある方々、どうかその命を削るような無理はなさらないでいただきたいと思います。

そうして我々のような凡人に、できるだけ長く、多くの素敵な作品を見せていただきたいと願います。

その映画、誰と見に行ったか、それは秘密の今でも多感な筆者からは以上です。

(平成28年9月5日 月曜日)

2015年1月23日

国民栄誉賞の山下選手と日本柔道の無差別級王者を争った斎藤選手が逝去

柔道柔術




おはようございます。

2015年1月の記事です。

「柔よく剛を制す」柔道のオリンピック種目に、かつて無差別級という「階級」がありました。

格闘技における体重別階級のうち体重無関係の階級です。

つまり誰でも出れる、まさにその競技で最強の者を決めるのに相応しい「階級」ということになります。

最後の無差別級が行われたのは1984年ロサンゼルスオリンピックで、優勝したのは山下泰裕選手です。

二回戦で肉離れを起こしながらも、決勝でラシュワン選手を破り、そのラシュワン選手が表彰式のとき、表彰台に上がる山下選手に手を差し伸べたというスポーツマンシップあふれるエピソードでも有名です。

山下選手は、こうした怪我のため、28歳の若さで引退しましたが、203連勝、全日本選手権(大会自体が体重無差別で行われる事実上の無差別級)9連覇という伝説を残し、国民栄誉賞を受賞しました。




斎藤仁選手は山下選手の最大のライバル




この山下選手の最後の3回の決勝戦の相手が3学年後輩である斎藤仁選手です。

最後まで山下選手が壁として立ちはだかりましたが、斎藤選手が勝つ前に、山下選手が度重なる怪我もあり、若くして引退します。

斎藤選手は山下選手と同時に出場したロサンゼルスオリンピック95キロ超級で金メダルを取り、次の1988年ソウルオリンピックでは無差別級が廃止され、「真の重量級チャンピョン」となった95キロ超級において金メダルに輝き、オリンピック二連覇を達成したのです。

引退後は、日本柔道指導層のまさに両輪として、後進の指導にあたりました。

そんな努力の人、斎藤選手の訃報に接し、ご冥福をお祈り申し上げたいと思います。

よく投げられたので、受け身の得意な筆者からは以上です。

(平成27年1月23日 金曜日)