このブログを検索

ラベル 訃報 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 訃報 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年3月11日

2017年3月11日になりあれから6年が経過した今何を思いますか





おはようございます。

2017年3月のあの大災害に関する配信記事です。

2017年3月11日を迎えました。

東日本大震災から6年です。

いろいろ毎日違うことを書こうと思っていますが、この日はああまたこの日が来たかという思いになりまして、タイトルからして全然違うことになりました。

あの日、筆者は東京出張の日で、同僚の皆さんが先に東京に行っているのを追いかけて福岡空港に向かいました。

そしたら空港のテレビが全て津波の画像を流し始めて、空港は大混乱となり、連絡も取れず、そのまま職場に戻って来ました。

それから職場で東京に行っている人たちの安否確認なんかをしながら会社に詰めていました。




津波はただの「大きな波」ではない




イラストに津波の絵がありますが、津波は、「大きな波」ではありません。

巨大な水の壁(塊)が数十メートルも盛り上がり、ずっと先まで圧倒的な質量を持って押し寄せ、陸上のもの全てを破壊し尽くす悪魔の自然現象です。

人間が作った全ての人工物は、なすすべもありませんでした。

日本の技術の粋を集めた原子力発電所も、電気を作る施設でありながらの、まさかの全電源喪失に陥り、メルトダウン(炉心溶融)を起こして壊れました。

そんな記憶がいろいろとフラッシュバックして、しばらく放心しました。

ともあれ、あの日から6年が経ちました。

あの年に小学校に入った子供がいたならば、もうその子は6年生で卒業です。

6年経過して、あの日から世の中の捉え方は変わって、社会のいろいろなところにこのことは深く根ざしていると思います。

明らかに、世界の価値観が変わった出来事だったと思います。

時代は、日付で意識された人々の意識によって形作られていくと改めて思いました。

3月11日は、このようにこれからの日本の人々にとって感慨深い1日となります。

皆さんはどのようなことを感じるでしょうか。

本当は、陸軍記念日としての3月10日、そしてそれを塗りつぶすように東京大空襲を敢行したアメリカ軍と日本のことを書きたかったのですが、3月11日になってしまったので、この話は次回に致します。

こちらからは以上です。

(平成29年3月11日 土曜日)

2016年9月5日

日本の特撮・アニメ映画史を駆け足で語ってみたいと思います

天空の城…のモチーフの一つ、モンサンミシェル


おはようございます。

2016年9月の記事です。

2016年を代表する映画になることは間違いない映画シン・ゴジラの監督は庵野秀明という人で、この人はエヴァンゲリオンシリーズや昔NHKでやっていた「ふしぎの海のナディア」といった先鋭的なアニメ作品を手がけた日本のクールなポップカルチャー文化を代表するクリエイターです。

すでに大学生のときに自主映画でウルトラマンシリーズを手掛けるなど、その才能には目を見張るものがありました。

怪獣映画として戦後より起こった「ウルトラマン」や「ゴジラ」といった特撮映像技術を学び、そして駆使して、その後アニメの世界にも進出しました。

これとは別に、日本アニメーション界には、宮崎駿と高畑勲という天才らが集ったスタジオジブリという製作会社があります。

世界を滅ぼすような巨大な力を秘めた青く光る秘石とその正当なる後継者である女性(お姫様)という設定題材が、宮崎駿と庵野秀明に提示され、前者は「天空の城ラピュタ」、後者は「ふしぎの海のナディア」という作品に仕上がったのです。

さて、この日本のスタジオジブリというアニメの巨塔に、宮崎駿と高畑勲(代表作:火垂るの墓、おもひでぽろぽろ等)という二人の天才の後継者と目されたアニメーターがいました。


名前は近藤喜文さん



名前は近藤喜文(こんどうよしふみ)。

彼は高畑作品、宮崎作品双方に作画監督として参画しておりまさにアニメ画の品質を高く保つための心臓部を長く担ってきたのですが、その彼がついに監督デビューした作品が、1995年スタジオジブリにて上梓された「耳をすませば」という作品です。

大変透明感ありメッセージ性も高い名作でしたが、この映画公開より2年後、心労がたたったのか近藤監督は47歳という若さで急病に倒れそのまま逝去されたのです。 

ですので、「耳をすませば」が近藤監督の最初で最後の唯一の監督作品となってしまいました。

筆者も遠い昔、多感な頃に同映画を見て感動した者の一人ですが、まさかそれを手がけた監督がほどなく亡くなってしまったとはずいぶん後まで知らずに衝撃を受けたものです。

才能のある方々、どうかその命を削るような無理はなさらないでいただきたいと思います。

そうして我々のような凡人に、できるだけ長く、多くの素敵な作品を見せていただきたいと願います。

その映画、誰と見に行ったか、それは秘密の今でも多感な筆者からは以上です。

(平成28年9月5日 月曜日)

2015年1月23日

国民栄誉賞の山下選手と日本柔道の無差別級王者を争った斎藤選手が逝去

柔道柔術




おはようございます。

2015年1月の記事です。

「柔よく剛を制す」柔道のオリンピック種目に、かつて無差別級という「階級」がありました。

格闘技における体重別階級のうち体重無関係の階級です。

つまり誰でも出れる、まさにその競技で最強の者を決めるのに相応しい「階級」ということになります。

最後の無差別級が行われたのは1984年ロサンゼルスオリンピックで、優勝したのは山下泰裕選手です。

二回戦で肉離れを起こしながらも、決勝でラシュワン選手を破り、そのラシュワン選手が表彰式のとき、表彰台に上がる山下選手に手を差し伸べたというスポーツマンシップあふれるエピソードでも有名です。

山下選手は、こうした怪我のため、28歳の若さで引退しましたが、203連勝、全日本選手権(大会自体が体重無差別で行われる事実上の無差別級)9連覇という伝説を残し、国民栄誉賞を受賞しました。




斎藤仁選手は山下選手の最大のライバル




この山下選手の最後の3回の決勝戦の相手が3学年後輩である斎藤仁選手です。

最後まで山下選手が壁として立ちはだかりましたが、斎藤選手が勝つ前に、山下選手が度重なる怪我もあり、若くして引退します。

斎藤選手は山下選手と同時に出場したロサンゼルスオリンピック95キロ超級で金メダルを取り、次の1988年ソウルオリンピックでは無差別級が廃止され、「真の重量級チャンピョン」となった95キロ超級において金メダルに輝き、オリンピック二連覇を達成したのです。

引退後は、日本柔道指導層のまさに両輪として、後進の指導にあたりました。

そんな努力の人、斎藤選手の訃報に接し、ご冥福をお祈り申し上げたいと思います。

よく投げられたので、受け身の得意な筆者からは以上です。

(平成27年1月23日 金曜日)