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2018年5月16日

日本の労働規制によって役員も経営者も従業員も会社自体も大きな損失を被っているのではないかという話







おはようございます。

なかなか給料が上がらないのに消費税や社会保険料は上がってやっぱりきついなと日々感じている筆者からの労働慣例に関する配信記事です。

日本企業の給料が低いというのは、もはや世界的な常識となっているようです。

中国企業のファーウェイの新卒のエンジニアの月給が40万円だったり、アメリカのフェイスブックの社員の給料の平均(中央値)が2,600万円であったというような、景気の良い話が世界にはあふれています。

しかも、フェイスブックにおいては、この数字はパートタイムの労働者も含んだ数字であるということで、いわゆる社員の平均年収はさらに高いといわれております。

しかるに、日本企業において、このような景気の良い話はなかなか聞かれません。

業績絶好調な会社においてもそうなのです。

なぜなのでしょう。

筆者の私見を申し上げれば、大きく理由は二つあります。

一つは、新卒業種無差別採用、もう一つは超絶厳しい解雇制限制度です。

順番に説明したいと思います。

まず、新卒業種無差別採用、いわゆる「総合職」とか「基幹職」といったどんぶり採用形態で、しかも大学卒業を中心とした「新卒」採用に絞って日本の大手企業は採用を行います。

中途採用を通年で積極的にやっているという会社はまだまだ少ないのです。

新卒といっても、すでにそれまで高校や大学といった専攻や教育やもともとの志向や考え方により、どのような職種につくかどうか、かなり明確になっているのにもかかわらず、企業は、新卒一括採用というどんぶり勘定を続けています。

これでは、例えば、天才プログラマーとか天才ITアーキテクチャ、建築士や弁理士や弁護士、医者や研究者、暗号解読者やデジタルゲーム技術者といった特異な才能を持つ社員を、普通の会社は市場価値で遇することができません。

先に触れた、中国ITのファーウェイの新卒社員についても、まさか全員が営業一般事務ということで採用されているわけではないでしょうし、おそらく職種により、細かく決められた職能と給与体系により、明らかに事務と営業とエンジニアでは違った給与提示がなされているはずです。

同じ金融機関でも、営業事務と、神経と身体をすり減らしてITを駆使するリサーチャーやトレーダー、アナリストやクオンツ、フィナンシャルテクノロジーといった職種では、全く違った待遇体系になるはずなのですが、なぜかそのような個別の役職員の待遇をすり合わせることを日本企業は(大企業になるほど)嫌います。

変でやたら細かいだけのだた広い薄皮ミルクレープのような、ちまちました階層別人事給与テーブルを作って、定期昇給何千円、といった程度の給与改定しかできないのです。

ここの職能や職種を細かく査定しない、もしくは査定できないため、一律の(低い)給与体系となってしまうというのが第一の論点です。

では、第二の論点である、解雇規制が厳しすぎるという点に移ります。

こちらのほうがより問題です。

解雇規制があるということは、解雇してコストを削減するのがふさわしい人をわざわざ雇い続け、そしてその間、ずっと会社の利益が減殺されるという効果を生むのです。

会社は事業をやって、利潤を上げることを命題にしていろいろ活動しますが、人を雇うという原価は非常に重くのしかかってきます。

原価をかけながら、ろくな成果や結果が出ない場合、例えば工場やお店だったらたたんだり売却したりするのが普通です。

それが、こと「雇用(あえて「人」とはいいません、人は雇用を失っても死ぬわけではなく、別の「雇用」を得ればいいだけだし自ら「事業主」になってもよいわけですので)」に関してはできないのです。

これは考えようによってはむちゃくちゃです。

解雇できないコストを、ほかの社員と役員と会社(の持ち主である株主)みんなで払っているということになります。

たとえばコンビニチェーンがあるとして、売り上げが全く上がらないお店があったとしたら、即撤退しなければチェーン全体が傾いてしまいます。

そこへの出店は間違いだった、間違いは修正しないと会社自体が潰れます。

それが「雇用」の場合はできないのです。

守るべきは「人」であり、「雇用」そのものではない、と声を大きくして言いたいわけです。

「雇用」を失う「人」にフォーカスしすぎると、その「雇用」による余計なコストを支払わされている他の従業員である「人」や経営者の「人」、会社の株主である「人」の権利はどうなるのか?という問題なのです。

そろそろ気づいてほしいですね。

解雇するというのは悪い話ではなくて、その人に別のチャンスを与えるという前向きな意味もあるのです。

プロ野球の自由契約みたいなものです。

野球、もしくは仕事をやりたいのならば、雇用されやすい環境を整えて飼い殺しにしない、これは社会経済全体にとって善いことのはずです。

それなのに、明治以来の日本の労働基準法令は、強い解雇規制一辺倒です。

解雇=悪いことという一般観点があると「信じて」いるから、このように解雇しないようにという方向で規制がかかっているのです。

しかしながら、暴行や障害、セクハラやパワハラといった「不法行為」並みに解雇を捉えるのは本来おかしく、普通の私人間の契約である「雇用契約」の解除行為の一類型のものを、これだけ後生大事に保有しようとする規制や先入観が、この100年間の日本の成長を著しく阻害したと思っているのは筆者だけでしょうか。

当たり前ですが、「人」にフォーカスするのであれば、「解雇」を過剰に禁じることでコストを広く負担している多くの「人」に対しての提案として、一定の解雇手当と失業保険によるカバーで必要十分であると思います。

筆者も会社の従業員でありますが、解雇されず給料が高くて仕事が楽、というのを望んでもそれはかなり難しいことくらいわかっています。

企業の事業収益は、そんな一社員の思惑とは別に、実に様々な環境や事情により激変します。

そんな中、「雇用」だけ独立して安定させるというのは難しい、というより不可能です。

会社自体がなくなってしまいます。

乗っている船が揺れまくっている中、中の乗員だけ全く揺れない仕組みを作れ、といわれても無理です。

揺れまくっているうちに、沈没します。

企業とは、そのようにか弱い存在なのです。

現在の世界最強企業の一角であるアマゾンだって、1994年の創業、世界最大のデータ保有会社にして検索最強企業のグーグルだって、1998年の創業で、天地創造の時から未来永劫強い企業があったわけではないし、ありつづけるわけはないのです。

「人」に対するセーフティーネットというのは、断じて「雇用」そのものではなく、そのようなか弱くいつ消えてもおかしくない企業というものに負わせる義務ではなく、雇用保険などの「公的社会保険サービス」で担保すべきものだと思っています。

これであれば、個々の従業員が毎月の給料から支払っている保険料から支弁されるものですので、平等だし企業側も負担しているので、真に平等なシステムだと思います。

労働市場というように、雇用という原価、仕入れもマーケットによる需給原則にその価格は影響されます。

株や外国為替、不動産や債券を購入する人は、それらが売れる場を知っているからこそ、期間というリスクをとって投資を行います。

それなのに、22才で買ったら最低定年の65才までの43年間売れません、という状況で株や債券を買う人はいないでしょう。

労働市場は、このような「出口なき」閉じた市場という異常な状態なのです。

22才の若人も、65才のおっさんになります。

しかし、この経過する時間で何を生み出せるのか、そこが会社と従業員個々のおもしろきコラボレーションなのです。

しかるに流動性の全くないマーケット。

これは、市場とはいえません。

結果的に雇用における「最初の取引」である新卒採用の価値や手間やコストが「異常過剰なまでに」上昇します。

エントリーシートを何百社も出して、全く同じ黒いスーツを来て、女も男も予定調和の面接対応を行なっている日本の新卒対応を見ていると、就職側も採用側も、極めて無駄なコストを支払っていると本当に思います。

それよりも、2社目3社目でうちに来てね、と囁いておいた方が結果的によい採用、雇用ができそうです。

新卒一括採用は、就活の失敗で自殺者が出るような状況を生んでいます。

過剰な解雇規制の裏返しでもありましょう。

日本はいい国ですが、そろそろ変えるべきところは変えるべきだと強く思います。

さて、フェイスブックには能力不足で転職できなさそうな筆者からのコメントは以上です。

(平成30年5月16日 水曜日)

2018年5月5日

何はさておき目標設定と心構えが大切だという話を改めてしておきます






おはようございます。

2018年5月の勉強に関する配信記事です。

例えば身近な大学入試という試験に対する心構えを例に話します。

毎年東大合格者を輩出している塾や予備校があるとします。

しかしながら、別に自分には東大とか医学部とか関係ないし、レベルが違いすぎて関係ないとか、都会の高校と地方の高校とでは講義のレベルも生徒の練度も違うから、一緒くたにするのは間違っているといった意見が聞こえてきます。

これは、生徒それぞれの実情に寄り添って考えてあげているようで、全くそうではない御都合主義の考え方であると筆者などは思うのです。

確かに、東大や医学部に現役合格を目指す場合と、いわゆる中堅どころの大学とを目指す場合とで、勉強する「内容自体」が異なることは当然だと思います。

しかしながら、その勉強する「内容」を別にして、その勉強に向かう前向きな「心構え」や「目標設定」、「勉強する内容」についてはほぼ全く変わりはないと断言できます。

これは、勉学ではない例えば野球で甲子園を目指す、ラグビーで花園を目指す、サッカーで国立競技場を目指すといった場合においても、それぞれの高校において目指すところが、全国制覇であったり甲子園出場であったり県大会出場であったり一回戦突破であったりすることはありましょうが、こうして設定された目標に対する心構えや具体的練習にはほとんど差がないということと一緒だと思うのです。

これまで地区大会で一勝もできていなかった野球部が、地区予選一勝を目指す、そのための練習や心構えと、全国制覇(もしかしたら二連覇かも)を目指す野球部のそれでは、やる内容は段違いかもしれませんが、やるときの心構えや具体的練習メニューについて、それほどの違いはないということです。

つまり、自ら設定した「高い」目標に対して本気に取り組むことが大切なのであって、志望や目標を自ら下げて安心しようとするような連中は、その下げた目標達成すら、死に物狂いで頑張って目指している大勢のライバルに飲み込まれることは目に見えていると思うのです。

昔、商業高校しかなかった地方の島から、商業高校出て東京の大学に行きたいと希望した子供がいたそうです。

子沢山だったその家庭では、親がその学費を出せなかったので、兄や姉(当然大学出てない)がお金を工面して、その子を東京の大学に行かせてあげたそうです。

その行った大学が、偏差値的に東大に遥かに達しない場合であったとしても、田舎の島の商業高校卒の受験生がどれだけ頑張ったか、それは東大や医学部が第一志望の生徒と同じくらい、いやそれ以上に、必死に頑張ったはずなのです。

自分は行っていない大学の学費を、兄や姉が稼いで弟に出してあげる。

そんな大切なお金を出してもらった弟が、必死に勉強しないはずはないでしょう。

このような本気で取り組む姿勢を見せているライバルの横で、「このくらいの目標なら大丈夫だろう」などとナメてかかる者が勝てると思う方がおかしいと思うわけです。

自分の定めた目標は、自分にとっての東大でありましょう。

どんな目標でも、安易な姿勢で合格できるほど、世間は甘くないということです。

勉強に限らず、仕事やそのほかの本気な世界においてはなおさら、そういった内に秘めた強い姿勢を持って当たって欲しいと思います。

自分の父親は偉かった、という話を回りくどく書いてみました筆者からのコラムは以上です。

(平成30年5月5日 こどもの日 土曜日)

2018年4月27日

民法第770条に定める裁判上の離婚事由に関して今更ながら物申したい件






おはようございます。

2018年4月の裁判上の離婚制度に関する意見配信記事です。

筆者も法学士の端くれですので、民法などは知っていなければいけないのですが、この年になりまして今更ながら気づいた重大な論点がありますので、特に書かせていただきます。

民法第770条に、裁判上の離婚を定めた条文があります。

(裁判上の離婚)

第770条
夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
一 配偶者に不貞な行為があったとき。
二 配偶者から悪意で遺棄されたとき。
三 配偶者の生死が三年以上明らかでないとき。
四 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。
五 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。
裁判所は、前項第一号から第四号までに掲げる事由がある場合であっても、一切の事情を考慮して婚姻の継続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。

一見してさらりとした条文です。

しかし、民法は単に口語化されたに過ぎない、中身は明治の法律ですから、ここに、現在の社会においては重大な人権侵害となっているものが潜んでいると思われるわけです。

ズバリ、その文言は、同条第1項第4号です。

四 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。

に裁判上離婚ができる、つまり正当な離婚事由として法律が認めちゃっているわけです。

こういう法律上の文言は、例示列挙ではなくて、限定列挙であることが「常識」ですから、精神病、すなわち統合失調症等の患者になれば、有無を言わせず捨ててよいし、なった側は捨てられるということです。

他の病気は、限定列挙されていませんから、

たとえ、

「あ」から始まる

悪性リンパ腫
アトピー性皮膚炎
アレルギー疾患



から



メタボリックシンドローム
腰痛
緑内障
ロコモティブシンドローム(運動器症候群)


に至るまで、他のほとんどすべての病気では別れられないのに、統合失調症(精神病)のみ離婚事由として法的に認められているのです。

こんな意味不明な条文はありません。

誰もが統合失調症(精神病)になる可能性を秘めています。

なりたくてなるものではありません。

不貞行為、悪意の遺棄、そして生死3年不明。

それと同列に単なる病気の一種が扱われるとは、こんなにバカにした話はないでしょう。

さらに、「精神病」という定義もあいまいです。

脳の病気、であるに過ぎない一連の疾患に対して、民法という国民の根本法令がこれほどまで執拗に取り上げることに対する違和感です。

もちろん、病気が原因で夫婦生活が維持できないことはままありましょう。

しかし、そういう個々の事情のために、バスケット条項である五号「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」という条文があるのではないかと思うのです。

脳も、体の臓器の一部でありまして、それはそれは繊細な器官ですから、そこに何らかの疾患が起こることは、他の臓器器官と同様いやそれ以上の可能性があるわけです。

誰にだって起こりえることに対して、この無作法の極み、無礼千万な誰も幸せにしない条文、明治以来の項目であることが更に不快感を増大させます。

昨今あれだけ些細なことで膨大な国会審議の時間をお使いになられておられる国会議員各位におかれましては、このような些末なお仕事などお手のものでしょうから、軽くさっくりとなくしてもらいたいものです。

昔から、頭はだいぶいかれております筆者からの意見は異常です。

(平成30年4月27日 金曜日)

2018年4月25日

日本の崩れゆく年金制度の悪魔的抜本解決策を提示してみたいと思います






おはようございます。

2018年4月の年金制度に関する観測配信記事です。

財務大臣の諮問機関である「財政制度等審議会」というのがありまして、増大する一方の日本国政府の支出をなんとか削減ないしは食い止めようと奔走しておりますが、このたび、日本国民の高齢化および平均寿命の伸びに伴って増え続ける医療や介護、年金といったいわゆる社会保障費の「抑制」「削減」についてついに具体的な議論を開始しました。

このまま一般会計の歳出を増えるに任せていては、近い将来(数年後)、日本の財政は破綻したと世界中に「認定」され、自国民からも通貨「円」の信用が失われ、そして行き着く先は日本も太平洋戦争後に経験したあのハイパーインフレというのは目に見えています。

お金の価値が下がり続ける、これは現在の黒田日銀総裁が言っている「年率2%」の物価上昇といったゆるやかなものではありません。

通貨の信用を崩し、人為的にインフレを起こそうと日銀が躍起になっているのに、5年を経過してもその効果は現れていないのが現状です。

物価は上昇しないのです。

しかし、本当に通貨の信用が失われてしまった場合、その通貨の価値は暴落し、紙切れ以下につるべ落としとなるのは各国の歴史が証明しています。

こうした中、せめて歳出を削減し、消費税を増税するなどして国際的な「円」「日本政府」の金銭的信用を維持したいと考える政府当局の苦肉の策として、政府一般会計の大きな部分を占める「医療」「介護」「年金」の三分野について削減方向で見直すとしているのです。

こうして、新しい素案として

・医療についてはかかりつけの医師や薬局以外での受診や調剤について患者の自己負担割合を増やす

・介護については介護保険認定基準を厳格化する

・年金については年金支給開始年齢を、現行の原則65歳からたとえば68歳に引き上げる

といった具体案が提示されているようです。

この中で、もっとも削減額(歳出抑制額)が大きいのが、やはり年金に対するものでしょう。

支給対象年齢を引き上げれば、当然総支給額は減ります。

それではいっそこの際ですから、65歳から68歳に、といったちょこちょこした改革ではなくて、支給対象年齢を一気に120歳まで引き上げてしまってはどうだろうかと考えました。

そうすれば、ほとんどの人にとっては、年金は届かないものとなります。

長寿記録、すなわち世界最高年齢記録は123歳のフランス人女性だそうで、世界二位の長寿の人でも120歳未満らしいですので、これまでの歴史上この年金をもらえる資格者はたった一人という狭き門です。

しかしながら、テクノロジーの進化で今後どう転ぶかわからないのが人類の面白いところだと考えれば、年金支給対象年齢を120歳とし、支給は120歳に到達した瞬間にたとえば10億円を支給、そして現役世代における個人の年金保険料の積立は「なし」としてしまえば良いのではないかという画期的な案です。

こうすれば、120歳になって10億円もらった場合、そうした人はきっと周りにいる人たちに感謝の気持ちをもって還元してくれると思いますし、どのように使うかについてはあらかじめ生前贈与等で決定しておくことができることから、相互の助け合いというものが進むのではないかと思うわけです。

人類が、ほとんど到達したことのない年齢120歳(大還暦)への挑戦です。

どのような世界が見えるでしょうか。

政府予算としても、これくらいの支出は予備費で対応できるので問題ないと思いますし、これまで年金については半分を国庫負担で賄ってきたことを考えれば、年金保険料の積立分をベーシックインカムとして還元していることに等しく、変に運用で困ったり日本年金機構といった制度自体を運用する官僚組織のスリム化にも資するはずです。

ちなみに、これと同じような提言が、滋賀県あたりを拠点とする「虚構新聞」からも記事として出ておりましたが、本論は、同紙とは直接の関係はありません。

ただ、本案は、ゲームのガチャなどをはるかに凌ぎ、国民の射幸性を極限まで煽り、かつ目先の年金保険料の国庫負担および国民負担を一気に軽減させるという、一挙三得の妙案ではないかと思い提示する次第です。

ちなみに60歳で、半分の5億円でいいからこっそり前払いしてほしいなと思う筆者からは以上です。

(平成30年4月25日 水曜日)

2018年4月16日

フェイスブックが米国大統領や上院下院議員から大きく批判されている中で同社株式をあえて推奨する意味





おはようございます。

2018年4月のテクノロジーの進化についての配信記事です。

フェイスブックに限らず、現在のアメリカハイテク系の株価についてですが、今これだけトランプ大統領に叩かれ、世間に叩かれ、公聴会まで引きずり出されている割にフェイスブックの株価が暴落していないのは、ひとえに、サイレントマジョリティーであるフェイスブックのメインユーザー層(ユーザーだけで20億人、アクティブなユーザーとしては10億人)が、そんなもの(ユーザー自身が登録した個人情報の流失)として、意外に冷静に捉えていることからであると思っています。

10億人といえば、世界最大の宗派であるキリスト教カトリック(11億人)に迫る数です。

有史以来、言語や宗教、通貨以外のサービスとしてひとつの企業が提供する商品やサービスが世界を席巻したことがあったでしょうか。

筆者は寡聞にして知りません。

フェイスブックに対してよくわからない企業として質問をぶつけている高齢の米国上院議員などにとっては、フェイスブックなど無用の長物でしょうし(彼らは功なり名を遂げていて、あとは余生を穏やかに過ごしたいと思っているはずです)、これは、ユーロにとどまるイギリスのメリットはないから離脱しろと騒いだかつてのイングランドの旧守派(シニア層)と同じようなものだと思うのです。

この点、たとえば、自動車という商品製品は世界中に広がっており、この「走る鉄のイノシシ」というテクノロジーによって毎日何十人何百人の単位で世界中のどこかで人が死んだり傷ついたりしているわけですが、すでに時代を自動車以前や飛行機以前に戻すことを本当に主張する政党なり団体なりがあるとは思えません。

こうした、すでに世の中に広く受け入れられている製品や商品、サービスだってコモディディだって、最初に登場した時は、巷で言われる破壊的テクノロジーだったはずです。

ある一定以上のレイトマジョリティーもその存在を受け入れ、その便益を長い時間にわたって享受したところで、事実上の「導入」が完了したとみなせます。

決して安全性についてもっとも懸念する層(この場合はアメリカ議会の公聴会にてザッカーバーグ氏を質問攻めにしてつるし上げた議員たちおよびそのような議員を国の代表として選挙で選ぶ選挙民)の意識する「要求水準」を満たしたわけではないということに留意しなければなりません。

人が一人も死なない状況になるまで自動車や飛行機の普及に待ったをかけることはできなかったわけです。

フェイスブックやアマゾンといった、情報を根こそぎ持って行くように思われる産業に対しても、同様にいわゆる旧守派がアレルギーを持ちますが、これも自動車や飛行機と同じく、時間の経過によってそのサービスから便益を受ける層に入れ替わって行く段階で、自然とそうした批判も聞こえなくなってくるものだと思います。

自動車だって飛行機だって、人の命を根こそぎ預かって高速で移動する、という意味では、フェイスブックなどよりよほど危ないものでしょう。

具体的に、フェイスブックにより人が直接的に死んだのかといえば、自動車や飛行機並には論じられないし、フェイスブックはあくまで場を用意しているだけで(プラットフォーム)、そのサービスの乗り手である個々の人や組織が、それをどう使うかで結果は全く変わって行くという意味では、テロリストが飛行機の操縦桿を奪ってビルに突っ込んだ、飛行機製造会社に対して公聴会に呼び出すという、100年前なら通用したかもしれないけれども今では関係ないでしょうといわれかねないことだと思うわけです。

そのような巷の、普通の認識の通り、長期(10年)チャートで見るに、フェイスブックの株価は一本調子で上昇しており、今の踊り場価格から下がるとは思えません。

むしろ、これだけ世界中を騒がせておきながら、この株価に留まっているのが、逆に同社のサービスを世界中のサイレントマジョリティーである20億人のユーザーたちの明確な支持があるからだと思っています。

これは、別に筆者がザッカーバーグ氏のカリスマ性に賭けているわけではありません。

彼は33歳にして、ハーバードのオタクから起業家、一気にビリオネア、そして公聴会(日本で言えば国会の証人喚問)に呼び出されるというジェットコースター人生ですが、別に彼でなくてもテクノロジーの進化により同様のサービスが生まれたであろうと筆者は考えております。

この点、歴史小説「坂の上の雲」のあとがきで司馬遼太郎がいみじくも言っていた、秋山兄弟がたとえいなければいない場合であっても、明治のほかの誰かがその地位を占めたであろうという言葉と同じような感覚を持っています。

さらに、フェイスブックの企業としての比較優位性その他をとりわけ信頼しているというわけでもなく、筆者としては、単に自動車や飛行機が生まれた、産業革命が起こった、農業革命が起こった、そのような時代の節目にあってそのテクノロジーの担い手であるもの(組織とか企業体とか)に張るか張らないか、そのどちらが面白いかと言えば、張っとくほうが面白い、人生生きている実感があるなという程度の思いです。

また、同じ最先端テクノロジー会社であるグーグルに代表される検索サービスは、実は巨大なクローズドサービスであるSNS内の発言や情報は拾えないという究極の問題があります。

今の世の中、公開ブログや公開サイトに迫るSNS内のクローズド情報の中のほうにこそ、真の情報が含まれていることになっており、これはオススメの店を教えてもらうには公開情報よりも信頼できる友人からの口コミが一番、という感覚にも合致します。

そういう意味では、公開情報を検索し尽くしているグーグルを買っている以上に、SNS内の情報に価値を見出すならば、むしろフェイスブックこそグーグルよりポーションを厚めに置いておくべきだとすら思います。

どうせ張るなら、世界が前に進むような会社の株を買いたいものだと思います。

個人的な見解は以上です。

(平成30年4月16日 月曜日)

2018年4月14日

アメリカがイギリスフランスと共同してシリアを空爆した報に日本はどう声明するか






おはようございます。

2018年4月の国際政治に関する配信記事です。

ついに、シリアへの米国英国仏国の共同の空爆攻撃が行われた模様です。

シリアへの空爆については、2017年4月にも行われていますが、さて日本は本件に対してどのように対応するか、非常に微妙かつ双方にとって良い顔をした、有り体に言えばこうもり的な対応に終始するはずであるという予測をしますので披瀝します。

まず、前回の空爆に対する声明は、以下にあります。

【前回の声明】
https://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/actions/201704/07kaiken.html

政府公式見解ですので、全文を引用いたします。

***

 平成29年4月7日、安倍総理は、総理大臣官邸で会見を行いました。

 総理は、シリア・アラブ共和国の情勢について次のように述べました。

「シリアにおいて再び化学兵器によって何の罪もない多くの一般人が犠牲となりました。幼い子供たちもが犠牲となった惨状を目の当たりにして、国際社会は大きな衝撃を受けています。極めて非人道的であり、国連決議にも反します。
 化学兵器の拡散と使用は絶対に許さないとの米国政府の決意を日本政府は支持いたします。その上で、今回の米国の行動はこれ以上の事態の深刻化を防ぐための措置と理解しています。
 そして、東アジアでも大量破壊兵器の脅威は深刻さを増しています。その中で、国際秩序の維持と同盟国と世界の平和と安全に対するトランプ大統領の強いコミットメントを日本は高く評価します。
 今後、米国を始め国際社会と連携をしながら、世界の平和と安定のために日本は果たすべき役割をしっかりと果たしてまいります。」
シリアへの米英仏の空爆が行われたようです。前回(昨年4月)同様、日本は微妙な対応をするでしょう。

***

さて、ここに書いてあることは非常に勇ましいのですが、ここに敢えて書いていない(言えない)部分があります。

シリアに空爆したという米国ほかの国としての行為に対して、いいとも悪いとも何も評価を加えていないのです。

あくまで、米国の一般的な「化学兵器と拡散と使用」「国際秩序と世界の平和と安全に対するトランプ大統領率いる米国の強いコミットメント」については高い評価を手放しで与えて支持しているのにすぎません。

空爆そのものを国際法上正当化するのは難しいという、平和国家日本を彷彿とさせる態度をとっている、というのは早計です。

より直接的には、シリアの背後にいるロシアに対して、どのように対応するのか日本国としてスタンスが決まっていない、もしくは曖昧であるためこの点については触れたくないのです。

ロシアからは四島を取り返したいし、そのために決定的にロシアと断絶するのは得策ではない、という意見もあれば、どうせ返す気のない四島にこだわって弱腰外交(共同投資という名の経済支援)を続けていても実ることはない、実力行使を行えといった意見までいろいろあるので、統括する外務省や外務大臣としても、首相に対して空爆そのものの評価については棚上げしておくしかない、ということなのです。

ですので、空爆そのものを支持評価できない後ろめたさから、勢い他の部分では一生懸命言葉を尽くして言辞を弄して粉飾、お化粧したコメントとなっている、このように筆者のような者には映るわけです。

さて、これを読んだ海外のメディアは、そんな日本人の国際社会に向けた「忖度」など全く普通に理解しませんので、即日米同盟にのっとって「日本が空爆を支持(Japan supports airstrikes)」と報じます。

そして、こう書いてくれるのは、実は日本の外交当局(外務省とか外務大臣とか)にとっては、むしろありがたい勘違いということもあるのです。

さて、今回はどのような声明がなされるのでしょうか。

国際社会を渡り合っていくには、いろいろと勉強する必要がありそうです。

こうした事例に多く触れていけば、日本が置かれた立場や方針に沿った、対外的な声明の発し方や読み方が深まることだと思います。

日本には、言葉に宿る霊的な力が信じられており、それは言霊(ことだま)として一般にも知られています。

聖書にもはじめに言葉ありき、と記されていることからも、何を言うのかその背景を考えることは、このテクノロジー全盛の時代においてもとても大切だと思います。

語彙がなかなか増えない筆者からは以上です。

(平成30年4月14日 土曜日)

2018年4月9日

コインチェックをマネックス(8698)が36億円で買収して仮想通貨事業分野に本格進出





おはようございます。

2018年4月の仮想通貨についての配信記事です。

日本のオンライン証券会社グループを形成するマネックスグループ(8698)は2018年4月6日、仮想通貨業者のコインチェック(東京・渋谷)を買収すると発表しました。

4月16日付で同社の全株式を取得するとのことです。

買収額は36億円。

マネックスグループは仮想通貨事業を成長分野と位置づけ、今回の(傷ついた)コインチェックの買収で本格参入し事業基盤を拡充したい考えです。

なお、コインチェンクについては、2018年1月に突如として同社が顧客より預かって管理していた仮想通貨(XEM(ネム))のほとんど、当時の時価総額にして約580億円もの盗難があり、26万人にも上るその盗まれた顧客に対して代わり金を約460億円の「円」で返却したという記憶が新しいところですが、その後金融庁から改正された資金決済法に基づく業務改善命令を2度に渡って受けるなど、抜本的な経営体制の刷新なければ金融庁に対する業務登録などできないという状況にあり、喫緊の課題として迫られていたということです。

460億円もの代わり金を事実上の損失補填として顧客に支払っておきながら、なお株式売却額が36億円も残るという事実に驚きですが、これで、コインチェックの創業者である
和田晃一良社長、大塚雄介取締役ら経営陣および、これまでのラウンドで同社に資金を提供していたベンチャーキャピタル等は、一定の手金を得て解放されたことになります。

ここからはマネックスグループが代わって100%子会社としてのコインチェックを、無事金融庁の登録業者として登録完了すること、これが当面の課題として残ります。

マネックスグループには、往時のオンライン証券を金融庁と協議しながら規制なり投資家保護の枠組みを作ってきたという自負があり、仮想通貨についても、同様に規制当局と議論しながらそうした枠組みづくりを作って行きたいという意向のようです。

しかし、ゲームプレイヤーというよりゲームマスターやルールメーカーという役割になるこれらの役割を一民間企業が全て担うことを、規制する側がよしとするかは未知数です。

それでも、火中の栗を拾いにかけたマネックスの決断を興味深く見守りたいと思っています。

コインチェックの口座にXEM(ネム)を保有していて盗まれた26万人のうちの一人ですが、相変わらずコインチェック内に資産を保有している、意外に頑固な筆者からのコメントは以上です。

(平成30年4月6日 金曜日)

2018年3月29日

デザインの力は世界に通用する貴重な技術であると改めて思った話です






おはようございます。

2018年3月の海外渡航に関する配信記事です。

日本の福岡国際空港から、セブ島に向かっております

以前に海外渡航した時より、明らかに訪日外国人が多く、空港カウンターは人々でごった返しております。

筆者の海外渡航はこれで通算9回め、

釜山、ソウル、台北、シンガポール、シンガポール、シンガポール、クアラルンプール、ハワイ、そして今回のフィリピンのセブ島となります。

いずれも、日本人が過去国家として到達したことがある地点であるということが共通点ということで、何らかの縁を感じざるを得ないわけですけれども、今回は日本を出てすぐに感じたデザインの力について少し書いておきたいと思います。

過去の海外旅行や日本における訪日外国人に対するいろいろな情報提供は、これまではやはり「文字情報」が主だったように思います。

たとえば、同じことでも、日英韓中の4ヶ国語で表示するとか、そういうことですけれども、これでは同じ情報を違う言語ツールという手段で4回繰り返しているだけなので、なかなか情報量を載せられません。

その点、最近思うのは、こういう情報のやりとりに、フラットでシンプルなデザインが非常に多く使われるようになったということです。

たとえば、日本における観光資源である「食事」について、ごはん(丼もの)やうどん、ラーメンなどをこのように数個の共通のイラストで表示するといった具合です。

小さいことですが、これはものすごいセンスだと思います。

こうしたセンスが要求されるのがデザインの力であり、言語情報を超えた、デザインで一瞬で伝えるという力です。

このような世界に通用するイラストやアニメの力を持つ日本の誇るべき技術は、電子機械技術のほかにもあるのではないかと思いました。

何でも好きなアニメの話に持っていこうとしてしまう筆者からの論評は以上です。

では行ってきます。

(平成30年3月29日 木曜日)

2018年3月28日

明日からがんばるのではなく今日からがんばるのでもなく今日だけがんばる






おはようございます。

2018年3月の営業研修に関する配信記事です。

外部顧問的といいますか、外部役員的なお役目を頂戴しているところの、スタートアップ企業で話をしていましたら、人材育成や新人研修といった話になりました。

そこで筆者は、筆者自身も20何年か遡れば立派な新卒新人であったわけであり、もうほとんどのことを忘れてしまっているものの、一つだけ覚えていることがあり、それは、「ビジョナリーカンパニー」というビジネス本と「ナニワ金融道」という漫画のことであった、という話をしたところ、やたら反応が良く雑談に花が咲きました。

普通、外部役員的なおっさんが話をするとなると、非常に退屈なものだと思うのですが、やたらそうした話をしてくれという空気になりましたので、調子に乗ってどんどん深い議論になってきたのですが、そこで気づいたのは、筆者が新人であった20年前においてもすでに漫画コンテンツが心構えやモチベーションといった分野で非常に奥深い名言を残したり印象を与えたりしていたところ、時代が下りますますそうした分野においても漫画やコンテンツといった手法で訴えることがむしろ普通になってきているなというようなことでした。

つまり、歴史の授業、例えば日本史なんかの理解をさっと行うためには漫画「日本の歴史」を通読するのが一番です。

いきなり教科書を頭から読んでも頭にはいりませんところ、漫画日本の歴史では中だるみせず、日本の有史2,000年くらいをさらりと読破できるわけです。

同じように、金融業をやるなら(銀行業も金融業の一つ)ナニワ金融道で、取り込み詐欺の話や法定利息の話、取り立ての現場や現実を追体験することができるという意味で、その意義は図り知れません。

さて議論の中で、最近の漫画コンテンツの中で、目標設定や心構えに関する心の整え方、といったところで話に挙げたいのは、「賭博破戒録カイジ」というカイジシリーズ初期の作品中のセリフです。

引用します。

 「明日からがんばろう」という発想からは…
 どんな芽も吹きはしない…!
 そのことに 20歳を超えてもまだわからんかのか…!?

 明日からがんばるんじゃない…
 今日…今日だけがんばるんだっ…!

 今日がんばった者…今日がんばり始めた者にのみ…
 明日が来るんだよ…!

  講談社「賭博破戒録カイジ」第7話「亀裂」より

発言の主は、地下強制労働で他人から吸い上げることしか頭にない、大槻班長という超小物でありますが、こんな誰からも目標にされないような人間であっても、それでもその生き方に学ぶべきところがあるのかもしれないという、衝撃の名言です。

人間ですから、人間って、ついつい「明日しよう」と思ってしまいます。

でも、「明日しよう」はなんの決断でもないのです。

明日が今日になったらまた別の日です。

そうではなく、今日からずっとがんばるのではなく、とりあえず「今日だけ」頑張るという発想の転換です。

今日からずっとではなく、今日だけ、明日のことは考えない、今だけ頑張る。

明日も今日になった時に「今日だけ」頑張る。

こうして、1日1日を本気で生きていけば、けっこう人間変われそうな気がします。

「明日からがんばる」でもなく「今日からがんばる」でもなく「今日だけがんばる」を意識すること、こうすれば人生しんどいけど楽しくなっていくのかもしれません。

偉そうに若手の前で喋りましたが、今日やることは明日やる、明日になったら先延ばしの筆者からは以上です。

(平成30年3月28日 水曜日)

2018年3月21日

世の中を本気で変えたいと思ったらどう振舞うべきかを科学的に考えてみた話





おはようございます。

2018年3月の心構えや振る舞い方に関する配信記事です。

全ては思うところから始まる、とは筆者の恩師が述べた言葉だったと思います。

大学への入学でも、職探しでも、それよりももっと大きな世の中を変えたいといった漠然とした願いも、全てはより強く思うところから始まるというわけです。

その何とかしたいという思いを、かのソフトバンク創業者の孫正義社長が、「志」という言葉で熱く語ってくれました。

何かを成し遂げたいと希求する強烈な熱意、それが「志」いうわけです。

そして、その熱意は周囲に伝わり、その熱にみんなが参画して、思いを乗っけていくことになります。

そして、節目節目でそういった志をつないでいってくれる仲間や支援者やメンターや協力者がそこここに現れてくるものだ、というようなことを語っています。

世の中を変えるだけの人の条件は、志を持つこと、そして志は、全て思うところから始まるとなります。

もう少し具体的に話を進めます。

例えば、事業遂行能力や事理認識能力といった、いわゆる人の「能力」については、かなり客観的に測れるようになっていて、その多寡や度合いもわかるのですが、実はそれだけで世の中を変えるだけの原動力を持つ人になると問われたら、ほとんどの人たちが感覚的に違うと答えます。

経験的にも直感的にも、「能力」だけでは決定的に何かが足りないのです。

そして、このテクノロジー全盛の時代は、実は才能や能力すら、世界中にアクセスして借りてくることができるわけで(アウトソースできるともいう)、問題は、能力それ自体ではないという論拠をさらに強くしているように思います。

となれば、なぜ生きるのか、自分の人生において何を為したいのか、といったところを具体的に、期限を切って語れる熱い目標がある人が浮かび上がってきます。

そうした振る舞いができる人が、志がある人として人に認知され、そしてリーダーとなって行くのではないでしょうか。

そして、志という言葉には、目標に向かってハードワークする、必死に頑張るという過程が必ず対となってきます。

この、ハードな目標に向かう過程というか心構えがなければ、「志」は「願望」に格下げされます。

そうなったらいいな、では残念ながらその実現は遠いでしょう。

実現する前に寿命が尽きてしまうかもしれません。

というわけで、世の中を変える可能性のある人の資質を重要なものからまとめると、

・志

・努力する過程

・能力

というところだと思いますが、最後に、正しい方法論というのを付け加えておきたいと思います。

これだけの情報化社会にあっても、人間なかなか必要なところにリソースを割かないで、別の他に任せていいところにばかりこだわってしまったり、また逆に方法としては全く正しくない方法で突き進んで行ってしまうという失敗があとをたちません。

この方法論、こそ学習によって修正できるところではないかと思っています。

最後にまとめますと、世の中を変える人に必要な要素は、

・志、継続力(努力する姿勢、心構え)、能力、そして正しい学習による方法論の確立

というところになりそうです。

異論反論、論評お待ちしています。

いい記事を書けたみたいなので、まずは酒でも飲みたいと強く願う筆者からは以上です。

(平成30年3月21日 水曜日)

2018年3月12日

他人との適切な距離の取り方についての社会的合意がなかなかできないのがしんどいと思う話

ツイッターより「おじさんLINE」講座




おはようございます。

2018年3月の他人との適切な距離の取り方に関する配信記事です。

少し前より、主に若い学生、または働く女性の間で、いわゆるしつこいおじさんから読むのがしんどい、胃もたれするようなLINEメッセージをよく受け取ることがあって困る、といった記事がありました。

いつの時代にも他人の距離感がずれていて、このようにやたら一方的に距離を詰めてくる人は、別におじさんに限らずおばさんだろうがおじいちゃんだろうが、なんなら若い人でも子供でもあるわけですが、このような少数の人たちがいて少々困っている人がいるということが広く社会に認知されてしまうと、もっとよくない影響、すなわち本来距離を近づけてほしい人たちがやたら遠巻きにしか接してこないという問題が起こってしまいます。

つまり、セクハラやパワハラといった社会問題の「認知」が、これ以上ないくらいに職場や世間に浸透した結果、多くの「健全な」「普通の」おじさんが、若い女性(男性も含む)とうまく話し合う機会がなくなりつつあるという逆の社会問題を生むというパラドックスです。

「セクハラ」「パワハラ」という言葉は、すでに社会的一般名詞として人口に膾炙しています。

そして、男性の、特におじさんと自己認識している層のほとんどは、「自身の行動は全てセクハラだと指弾され批判される可能性がある」と認識せざるを得ない状況になっています。

何しろ毎週のように新潮や文春といった週刊誌にその手の話は載っていますし、#Metoo運動による大物著名人への告発といったネット社会を味方につけた運動も急速に高まり、これまで不当な待遇を我慢してきた(多くは女性の)芸能人の言葉を見ない日はないという状況です。

言葉や行動は、匿名性や時間の経過による忘却といった逃げ道を失ってしまいました。

「私や妻が関係していたということになればこれはまさに私は間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申し上げておきたい」

と約1年前に述べた言葉が繰り返し動画でアップされ、テキスト文字として駆け巡る世の中なのです。

そういうわけで、立派な中年おじさんであります筆者などの自己防衛手段としては、若い人たち、特に若い女性に対しては、「連絡の回数や接触は必要最低限にとどめ、かつオープンな場所で行い、セクハラパワハラなどと微塵も誤解をされないようにいわば木で鼻をくくった言動に終始しよう、なんなら直接話すのもやめてチャットで要件を伝えるだけにしよう」とするのが自然な行動になるわけです。

これは、おじさんおばさんと若い人たちとの間に横たわる、徹底的な「溝」になっています。

今の時代に、嫌がっているのに二人で飲みに行こうとしつこく誘うそんな典型的な昭和サラリーマンが多数派を占めるとは思いません。

しかし、社会にセクハラパワハラの「極端な」事例が蔓延してしまったことにより、普通の善良なおじさんが若い人に普通に連絡を取ることが非常に難しくなってきた、これは間違いないと思います。

どうも逆に生きにくい世の中になったのかもしれません。

こうなれば少子化高齢化まっしぐらじゃないでしょうか。

人の接触が減れば子供が少なくなるのは道理です。

みんなが目指したセクハラパワハラのない社会、どうも抑止効果が効き過ぎて、これではもっと前の高度経済成長期の終わりに言われた、

ビルの谷間の 川は流れない 
  人の波だけが 黒く流れて行く♪

あなたがいれば 
  ああ うつむかないで 
  歩いて行ける この東京砂漠♪

(唄:内山田洋とクール=ファイブ)

みたいな情景に戻ってきてしまったのかもしれません。

結局、セクハラとかパワハラとかに限らず、こうした社会問題の本当の解決策は、互いに誤解をされない程度の距離をたもつというコミュニケーションスキルの問題に過ぎないのではないかと思っています。

したがって、本稿の結論としては、

「こちらの心情を理解しようともせず、ひたすら距離を詰めてしつこく絡んで連絡をしてくるしんどい人」が、「適切な距離」を取ることができるようなスキルやノウハウが巷に広がることを期待したい、というところになります。

何事も、あまりにも神経質で、過剰とも思える対応をしてしまうと、却ってそのこと自体が人を傷つけてしまうことがあります。

これも、距離の置き方が適切でないことから起こっているのだと思います。

人間同士の心地よい距離感をつかむのは大変難しいところですが、適度なトライ&エラーで男性だろうが女性だろうが、とにかく「自然な人付き合い」ができるようになっていくのが理想です。

自分が忖度されたくないから上司には絶対忖度しないことをポリシーとしていきたい、「健全な」「普通の」おじさんではない距離感ゼロの筆者からの意見は以上です。

(平成30年3月12日 月曜日)

2018年3月11日

たった数十年前の映画が今上映できないレベルになるまで世間が進んだことを感じる話





おはようございます。

2018年3月の昔の映画に関する配信記事です。

映画「スタンド・バイ・ミー」を久しぶりに観ました。

ドラえもんのやつではありません。

本家本元の方です。

観るといっても、映画館や家のテレビでDVDというわけではなく、今やすっかりお馴染みとなったアマゾンの動画配信サービスの、プライム会員無料版に挙がってきたので、ちょっと拝見してみたというわけです。

そして、カーナビの映画機能よろしく、ギガ通信で少々通信容量を使っても問題ない契約にしてしまっていることを良いことに、車で遠出して買い出しに行く途中、手元のスマホにこの映画を流しながら、一部英会話のお勉強と称して視聴したわけです。

この映画を観ながらつくづく思ったのは、日本は、いや世界の意識はかなり前に進んだということであり、以前(といっても筆者たちが子供であった頃)はこれほどまでに暴力的な表現が「許され」、かつ実際にもこのような暴力的なシーンが普通に見られていた、そのような環境の中で我々は育ってきた中で、今の子育てや地域活動や企業活動においては、相当慎重に振る舞わないと、この世界中ネットで同時中継されてしまう世の中にあっては一瞬でブラック男(野郎)のレッテルを貼られて社会的に抹殺されてされてしまうだろうな、というような感覚でした。

何しろこの映画、始まるしょっぱなから10歳近辺の少年4人組が隠れ家の木の上の小屋に篭って、というかたむろして、親からくすねてきた煙草をふかしながらポーカーに興じている、というシーンから始まるのです。

そして、列車にはねられた子供の死体を見に行こうという提案で、なぜか数十キロ離れた湖畔までキャンプと称して歩いて4人の男の子が行くというのですが、この4人組の兄貴分でより不良度の高い連中も、同じく車で死体の子供を見に行き最初の発見者になろうとするわけです。

この兄貴連中の不良度はさらに卓越していまして、おそらく無免許の車を乗り回して、家の庭先にある郵便ポストを金属バットで走りながら叩き壊すという「ゲーム」に興じながら同じく死体のありかを目指します。

徹頭徹尾、不良少年と主人公たちの悪い素行や劣悪な家庭環境や不幸(主人公の兄はアメフトの有名な学生選手でしたが事故で亡くなる)を描いて、最後に主人公がピストルをぶっ放すために構えるまで、女性がほぼ出演しない(唯一主人公の母親だけ)という映画は終わります。

女性に対する蔑視発言もそこかしこに見られますし、この映画を今の小学生に文部省特選で見せるわけにはもういかないでしょう。

世間はそこまで成長してしまいました。

昔小学生の時にゴールデンタイムで放映していてよく見ていた藤子不二雄作「エスパー真美」の再放送が決してされることがないことにも通じる映画の評価も時代によって変わるという話でした。

筆者の世代のさらに上の世代になれば、幼少期に戦争というものが色濃く反映されますし、その上の世代になればあの超大国のアメリカとガチで戦い、その海軍軍艦や戦闘機の多くを海の藻屑として叩き込んでいるのです。

たかだか100年くらいの時の流れの中に、人間の集団意識とはこうも変わるのかと驚いたドライブでした。

結局、映画に夢中で買うべきものを買い忘れて大目玉をくらった筆者からは以上です。

(平成30年3月11日 日曜日)

2018年3月9日

「いい人」がこれからは大切な資質として崇められる世の中になるのではないかと思う理由





おはようございます。

2018年3月のいい人に関する配信記事です。

いいひと。という漫画が1990年代の昔にありました。

ひたすらいい人に徹する主人公とその周りの社会人たちの物語なのですが、正直その当時はいい人だけでは世の中渡れないという常識に対するアンチテーゼではなかったかと思うのです。

しかしながら、今や時代は変わりました。

陰徳を積むという言葉がありますが(隠匿ではありません)、興味深いのは、そうした陰徳を積むいい人の行いというのは、それまではお天道様しか見ておらず、本当に人の目に触れることは少なかったのですが、このIOT全盛のテクノロジーの時代が、そうした陰徳を陰徳として許さず、すかさず「シェア」という方法で全世界に同時に拡散できる手法が確立されたことで世の中変わったのです。

逆に、それまで「隠匿」されていた不都合な事実などが、同じ手法で一気に暴かれそれまで注意深く築かれてきた虚構の信用が一気に崩れ去るという、いわばまともな世の中になったのです。

#Me too 運動の広がりなどはその最たるものと言えるでしょう。

そういう世の中になった以上、事業活動を行う企業としても、人材採用において興味深い方向にシフトしています。

つまり、「いい人」という資質を認めてそれを積極的に自社の社員として取り込もうとするのです。

いい人だけでは仕事はできない、という考え方はもう古いのです。

なぜかというと、グーグルやフェイスブックといったテクノ系大企業においては、天才的な知能や高度なスキル、ネットワークや才能などは、それぞれが必要な時にピンポイントで、世界中のリソース(全世界の人口75憶人に直接)にアクセスしてその都度外注(アウトソーシング)すればいい、と考えているのです。

もしくはプロジェクトごと買収するといった話です。

優秀な社員がいる会社なので、会社ごと買ってしまった、というのは、自分の好きな電車ダイヤを組むために電鉄会社ごと買っちゃうといった発想ですが、今やスキルは何でも買えるので、自社のコアな従業員(正社員)に唯一望むものは、いい人であるという資質それのみであるということになるわけです。

いい人こそ雇え、これは日本の浪花節映画の金字塔である、例えば男はつらいよの寅次郎や、釣りバカ日誌シリーズの浜ちゃんに通じるGood Personこそ、これらの会社が求める人物像なのかもしれません(すみません未確認ですが)。

とにかく信用できるいい人に出会えれば、何らか飯の種は見つかるものだと信じている筆者からは以上です。

(平成30年3月9日 金曜日)

2018年3月8日

スポーツ用品メーカーアシックスの社名の由来を知っていますか





おはようございます。

2018年3月のスポーツメーカー「アシックス」に関する配信記事です。

アシックスは特に筆者などはシューズメーカーとして、小学校のころから知っていまして、特徴あるあの#のようなロゴマークが入ったスポーツシューズを買いたくて、近くのデパートの靴売り場で靴をずっと眺めていたものです。

あと、ジャージなんかも作っていて、青地に金字で#の刻印がされたのが結構おしゃれでした。

そんなアシックスは、1949年に兵庫県神戸市で創業された、社員4人の鬼塚株式会社が前身で、創業者の鬼塚喜八郎さんは、終戦後に、「もし神に祈るならば健全な身体に健全な精神があれかしと願うべき」というローマの作家ユベナリスの言葉に感銘を受けて、スポーツによる青少年(今では中年老年も)の育成により社会全体の発展に寄与貢献することを志したと社史にあります。

そして、1977年に、アパレルやスポーツ用具の会社2社との合併を機に、この名句のラテン語の原文である

Anima Sana In Corpore Sano(健全な身体に健全な精神あれかし。健全な身体に健全な精神が宿る、ではない)

の頭文字をとって、新しい社名「ASICS(アシックス)」としたのです。

そして、2018年の今、全世界の社員数10,000人を超える大企業に成長しましたが、アシックスの皆さんはこの言葉を企業理念として今も大切にしているとのことです。

これだけ聞くと、和製スポーツブランドのアシックス#のマークにさらに愛着がわいてきますが、政府の成長戦略においても、日本再興戦略2016という閣議決定された官民プロジェクトの一つとして、スポーツの成長産業化が明記され、現在のスポーツ市場の規模を5兆円から15兆円に2025年までに成長させようという方針が示されています。

身体を動かすことやスポーツを楽しむことに、ICTやIoTといった最新技術やテクノロジーを駆使して、さらに手軽に楽しめ、データ化していく要素を付加していけば、トラッキングデバイスの普及などと共にスポーツをより身近に感じられる機会はもっと増えると思います。

運動不足なのでダイエットし甲斐があります筆者からは以上です。

(平成30年3月8日 木曜日)

2018年3月7日

2分で読んでだいたいわかる日本の医学部等制度についての雑談をします





おはようございます。

2018年3月の日本の医学部等制度に関する配信記事です。

なぜ、医学部と書かずに医学部等と濁して書いたのかと言いますと、日本の医師養成機関としては、◯◯大学医学部、ということで総合大学の医学部に収斂されてきているものの、未だ単科医科大学としての、◯◯医科大学という単科大学も複数残っているため(残っているという言い方も本当のところはよろしくないため)、等という言葉を付させていただくものです。

日本国といたしましては、獣医学部を50年ぶりに新設するということで、国会でもその設置の経緯が大激論となった2017年の記憶も新しいところでありますが、獣医ではなく人間の医療を行う医学部については、かの田中角栄内閣(第二次)の中で1973年に策定された「経済社会基本計画」の中に当時の医師不足を反映して、当時医学部がなかった15県に医学部を設置しようという意欲的な取り組みが行われ、一気に医学部の設置が進んだという背景があります。

日本も、やればできるのです。

黒船の歴史を紐解くまでもなく、危機に際しては一致団結、ことの解決にあたって一斉に動き出すというのは日本人の(良くも悪くも)特性であると思います。

なお、医学部を設置するといっても、その当時の国立の総合大学はいわゆる大学紛争の真っ最中であり、そこに医学部を新設してもまともな教育ができそうにないだろうという特段の配慮がなされました。

すなわち、医学部としての設置は当初、既存国立大学への医学部増設として当たり前に勧められたところ、当時の文部省(現在は文部科学省)がせっかく新設した大切な医学部の学生に、既存の総合大学の学生運動の影響が及ぶことを懸念したのです。

そこで、当時大学ごと新設しつつあった筑波大学と同様の新構想の大学として、単科大学での設置を進めたのです。

こうして、早速1973年に旭川医科大学、山形大学医学部、愛媛大学医学部、筑波大学医学専門学群、1974年に浜松医科大学、宮崎医科大学、滋賀医科大学、1975年に富山医科薬科大学、島根医科大学、1976年に高知医科大学、佐賀医科大学、大分医科大学、1978年に福井医科大学、山梨医科大学、香川医科大学、1979年に琉球大学医学部と、7年間で16校の国立医科大学(総合大学の医学部)が相次いで新設されました。

田中角栄が推し進めた、この一県一医大構想は、わずか発表より6年で実現されることとなったわけです。

政治の力、おそるべしです。

さすが、故郷新潟に新幹線(上越新幹線)を引いた総理大臣です。

やることがいちいちでかいです。

この結果、日本の医学部等の数は同時期に認可された私立大学を含め1979年末時点で80大学となり、入学定員は既存学部の入学定員増を含め8,000人を超える水準となったのです。

そして、琉球大学医学部の設置を最後に、ごく最近(2016年)まで医学部の新設は実に40年弱も沙汰止みになるのです。

その岩盤規制がようやく崩れたのは、東日本大震災を端緒とする災害医療と国際化に対応した医療および国家戦略特区制度による医学部誘致を合わせて行った2つの私立大学の医学部設置です。

2016年に被災地復興支援の特例として「東北医科薬科大学」(東北薬科大学から改称、仙台市)が認可されたのに続いて、2017年4月には国家戦略特区事業の枠組みで、国際医療福祉大学(本部・栃木県大田原市)の成田キャンパス(千葉県成田市)に医学部が新設されました。

また、別途、2004年の国立大学法人化等の改革によって、文部科学省はこれら新設の医科大学と地元国立大学との統合を推進し、浜松医科大学・滋賀医科大学以外の医科大学は同一県内の国立大学と統合し、統合された国立大学の医学部となりました。

筆者は琵琶湖でボートを漕いでいた時に、滋賀大学経済学部のクルーを「しがけい」、滋賀医科大学のクルーを「しがい」、と呼んでいました(彼ら自身もそう呼んでいたと記憶しています)が、筆者は実は今更、両者は同じ大学の違う学部というわけではなく、滋賀医科大学という独立した医科大学のボート部であったのだということにようやく気づいたくらいです(滋賀県界隈の方々、がさつな九州出身者の認識で本当にすみません)。

浜松医科大学については、静岡県に今もくすぶる静岡県の盟主は浜松市か静岡市かどちらか、という根深い問題に根ざしているようですので、ここでのこれ以上のコメントは避けたいと思います(筆者は静岡や浜松にはほぼ縁がございませんので、机上の感覚ですご了承ください)。

最後、旭川医科大学については、これは流石に北海道の広さからして、また北海道大学にはそもそも医学部があることからしても、くっつける国立の総合大学がない例、ということになるのではないかと思います。

以上、2分で読めるわが国の医者養成制度に関する振り返りでした。

琵琶湖に浮かんでいた頃に阪神淡路大震災が起こってから20年余、ようやく滋賀について、滋賀は琵琶湖だけという虚構新聞並みの理解から少しだけ詳しくなった学習の遅い筆者からは以上です。

(平成30年3月7日 水曜日)

2018年3月4日

働き方改革ではなく働き時間の意識づけを変えることが必要ではないかという話です






おはようございます。

2018年3月の働き方に関する配信記事です。

働き方改革というのが言われるようになってきまして、政府もさまざまな労働法制の改正を国会に提出する構えです。

振り返りますと、その昔、1986年に男女雇用機会均等法が施行されたのを皮切りに、産休制度や育児休暇制度といった制度は確かに整備されてきまして、そこからざっと。30年余を経て、ようやく2015年、女性活躍推進法が施行されたというのがこれまでの大きな流れです。

しかしながら、一体いわゆる女性の地位がどれほど向上したのかというと、そんなに実感がないのが実際のところではないでしょうか。

この何となくの感覚は日本だけにしか通用せず、世界経済フォーラムによる各国の男女同権平等の度合いを示した「ジェンダーギャップ指数」というのがありまして、2017年版において、日本は114位という、大変ありがたくないランキングに格付けされているのです。

いわゆる先進国の中ではダントツの最下位です。

しかしながら、この問題の本質は、男性とか女性とかに限らず、とにかく労働時間の塊が長い、ということ一点に尽きるのではないかと思うのです。

現在の、家事も育児もしなくてよく、専業主婦と子供を含む幾人かの家族を、一家の大黒柱として、一本足収入打法で養うという、美しき分業の労働慣行が、いわゆる働き方を、ひたすら長期間、全国世界中への社命による異動も当たり前、という無理ゲーに昇華させ続けてきたことが問題の根源ではないかと思うのです。

雇う企業側にしても、家族4人(子供2人の場合)を養うだけのでかい収入を一家の大黒柱(たいてい男性)に求めるのならば、その全精力を仕事に注力していただかないと割りに合わないし、社命一つで日本のどこでも、世界中のどこでも(ブラジルサンパウロだろうがロシアのハバロフスクだろうが)異動していく忠誠度を求めるのは当然のところではあります。




会社にいること自体が当たり前になってしまう




そういった、一家の大黒柱的な働き方というのは、労働時間の一単位が勢い非常に長くなります。

休みも少なくなります。

生産性が高い低い云々の前に、とにかく全人格を社業に捧げないと会社側に貢献できないという「空気」が職場に蔓延します。

そうして、こうした組織では、仕事や業務の「成果」で物事を測ることが非常に不得手になります。

なにしろ長時間職場にいるということ「自体」が至高の価値に置き換えられ、冷静に各人ごとの業務成果を相互に確認しあうといった当たり前のフィードバックや振り返りも組織として行われないので、実際定量的な評価というのが全くできなくなるのです。

そうした組織においては、唯一、自身の大切な「時間」をいかに社業に捧げているかというのが唯一無二の価値観となるため、それは男であろうが女であろうが相当の覚悟がないと入れない組織になるのです。

ですので、ここの問題の本質は、「無意味にしこり固まっている長時間労働」を細分化して、本当に業務推進に役に立っている作業ごとに切り分けるということが必要ではないかと思うのです。

それが、本当の働き方の改革です。

そして、一律出社して昼食挟んで8時間労働、そして(必要に応じて)残業、というステレオタイプな労働時間を細かく分析して分割することが絶対必要だと思います。

困難は分割せよ(公立中学国語の教科書に載っているルロイ修道士の言葉から)、という箴言のとおり、8時間+残業時間をどういった有意義な業務に充てて行くか、労働者個人個人に割り付けて行くことが、当の労働者自身と会社側に求められます。

会社側も、その人を雇うことで、具体的にどのような成果を求めるかを適宜頻繁に方向修正しながら伝えなければなりません。

労働者側も、自分自身が社業に貢献するためには、単に会社に「いる」だけではなく、具体的に、プラクティカルにどのような動きをするのかの行動計画を立てて随時会社に認めてもらうように主体的に動かなければなりません。

案件をかかえて、そして腐らせて大問題というのが最もやってはいけないことです。




まとめます




今回ここで話したいのは、女性の問題ではなく男性も含む労働者全体と経営者全体の問題でありまして、男女労働者経営者問わず、とにかく働き方そのものの問題であるということです。

黒船で日本が急速に目覚めて30数年後には当時世界最強の陸軍国と戦争して勝つ、というように、日本は危機的な状況を前にするといきなりまとまり世界も驚く成果をあげるという民族特性があるようです。

ですので筆者は希望を持っておりまして、今まさに日本も本当に変わってきているのではないかとも思っているのです。

そんな未来への期待を込めて、働き方に関する筆者の考えを終わります。

こちらからは以上です。

(平成30年3月4日 日曜日)

2018年2月28日

どどどどどどどど ど ド ラえもん と ど真ん中直球で歌う映画ドラえもん主題歌が熱い






おはようございます。

2018年2月の国民的アニメについての配信記事です。

2018年2月、毎年発表される映画ドラえもん(2018年3月3日公開予定)「のび太の宝島」の主題歌を、あの恋ダンスの星野源さんが作詞作曲して発表しました。

そして、映画の予告編が早速インターネットの動画サイトにアップされていますが、この予告編と主題歌のコラボレーションが素晴らしく、惚れ惚れしてしまいます。

筆者は、藤子不二雄先生(AとかFとか別れる前のお二人の先生の総称としての表示ですが、筆者の世代はFAが入るのが違和感あるので当時の藤子不二雄先生で表記します)の国民的漫画「ドラえもん」に登場する首長竜「フタバスズキリュウ」が初めて映画館に登場して以来のファンです。

そして、改めて、星野源さんが、この映画の主題歌を、ど真ん中直球の「ドラえもん」という曲にしたというのが大変に潔く素直で素晴らしいと思っております。

国民的アニメ「ドラえもん」。

これは、もはや知らない人はいない、100%国民的アニメといって良いタイトルをそのままストレートに採用した曲であること、昔のアニメの名作たちの骨太の主題歌たちの系譜を正統に引き継ぐ、とても気合いの入った楽曲でありながら、ドラえもんの世界観に対する愛が詰まった詩(歌詞)となっておりますので少しポイントを説明させていただきます。

この、タイトルで変にひねらない主題歌としては、例えば「海のトリトン」「宇宙戦艦ヤマト」「裸足のフローネ(アニメ表題は南の島のフローネ)」「虹になりたい(南の虹のルーシー)」「機動戦士ガンダム」「マジンガーZ」に「ブルーウォーター(ふしぎの海のナディア)」「デビルマン」「ガッチャマン」「サイボーグ009」など、いろいろありまして、これはアニメの世界観をストレートに表すことに全力投球しており、変に歌っているシンガーを売り出したいという余計なプロモーション的な事情などが介入していないというところがとても好感が持てるのです。

もちろん、今のメディアミックスで巨大市場に成長した、例えば身体は子供で頭は大人な高校生が体を小さくされて恋人の家に居候して探偵やる推理ものアニメとか、麦わら帽子をかぶって仲間を募って頭目団を結成して、東の海からグレート航路に入って旧世界から新世界まで旅して懸賞金が急激にインフレしていく海賊団のお話とかのアニメも、確かに好きなのですが、今回のドラえもんについては、星野源さんというすでに非常に売れているシンガーソングライターが、全力でドラえもんの世界観をオマージュして曲を書いたというところが大変に好感が持てるわけです。

♪少しだけ不思議な 普段のお話♪

これは、まさにドラえもんの世界観である、普段の生活アニメそのままの表現です。

漫画の大作には、例えば腐海を旅して墓所という旧世界の英知を集めた聖地を破壊しにいく空飛ぶ少女と司令官王女の壮大な戦時譚や、竜の球という集めると願いが叶う玉を集めるところから、なぜか強い敵たちが次々現れ、果ては死後の世界にまで修行に行く修行オタクな孫悟空の壮大な物語などがありまして、これらもそれで非常に面白いのですが、毎回、普段の生活の中から、ひみつ道具というスパイスを駆使して面白いことが起こるドラえもんの展開は、笑点大喜利にも通じる、偉大なマンネリ要素というか飽きさせない安心感に溢れているのです。

「ドラえもん」「パーマン」「キテレツ大百科」「忍者ハットリくん」などなど、とにかく子供向け漫画で不朽の足跡を残された藤子不二雄先生の真骨頂であります。

本来の主題歌の有名なセリフである「あんなこといいな できたらいいな」という子供の想像力に沿った楽しいお話なのです。

そうした世界観への敬意を、「少しだけ不思議な 普段のお話」というセリフで語る星野さん、天才です。

そして、アイドルグループのSMAP(2016年末をもって解散)の5人より国民に知られているのがドラえもんのキャラクターたちです。

そのキャラクターが歌詞に随所に登場します。

♪落ちこぼれた君も 出来すぎあの子も♪

これは簡単ですね、のび太くんと出木杉くんですね。

出木杉くんは、特に映画ドラえもんにおいては、ナレーター的な役割で世界観を説明してくれる重要な役回りとなることが多いです。

特に、海底奇岩城や魔界大冒険、大魔境といった世界においては、水先案内人としての淀みない説明に惚れ直したものです。

しかし、どうしても冒険そのものには参加しない、というところも面白いです。

ドラミちゃんと一緒で、彼が帯同してしまうといきなり解決してしまって物語にならないからかもしれません。

ドラえもんも登場します。

♪機械だって涙を流して 勇気を叫ぶだろう♪

一応、22世紀のネコ型ロボットのドラえもんです。

そして、

♪拗ねた君も 静かなあの子も 彼の歌も誰かを救うだろう♪

の歌詞。

はい正解ですね。

スネ夫、しずかちゃん、そして歌といえばジャイアンリサイタルですね。

ジャイアン(剛田武)のボエボエーの歌は、彼の代名詞ですね。

最後に、

♪どどどどどどどど ど ド ラえもん♪

のサビの部分ですが、これは、のび太がよく泣きながらどどどどドラえもーん、と泣きついてきたりしますし、しずかちゃんからはドラちゃんと呼ばれるし、これもそのままストレートでいいと思うのです。

ドラえもんについては、しずかちゃん一人に女性キャラクター要素を全てを背負わせるのが時代の要請に応えられなくなってきているのではないかという勝手な懸念を持ちながら、それでも息長く続いて欲しいタイトルだと思って見守っております。

「のび太くん、宿題は終わったのかい?」と声をかけてくれる、そんなネコ型ロボットの心温まるお話でした。

アニメはあまり詳しくないのでこれから勉強したいと思っております筆者からは以上です。

(平成30年2月28日 水曜日)

2018年2月27日

専業主婦というカテゴリーはここ50年程度で現れた新しい概念に過ぎないという話です






おはようございます。

2018年2月の配信記事です。

政府の女性活躍の大号令の一方、専業主婦層が潜在的な疎外感に似た感情を抱いているという新聞記事がありました。

しかし、日本における専業主婦の比率は未だ30%台と、いわゆる先進国の中で突出して高い水準です。

一方、北欧の事例ですが専業主婦率がわずか2%程度しかないスウェーデンでは出生率が日本より格段に高いということを見れば、専業主婦が子供を産み育てやすいといった感覚的な議論は全くの錯覚であり、そもそもなんの相関もないのは明らかです。

そして、さらに1970年頃まで遡ると、実は日本の女性の就労率は、当時の欧米諸国に比べても高かったのです。

その後、いわゆる専業主婦層が一般化し、そうしてそうした専業主婦家庭に育った子供たちが今40代を迎えているというのが今の日本の現状になるわけです。

筆者もその子供の一人です。

要するに、ざっと50年前に立ち戻りますと、夫婦共働きというのは普通であり、より時代が遡って近代以前の封建時代に戻ってみても、事例は少ないですが女性の名主も庄屋も、女性の城主(井伊直虎など)だって女性が家督を継いだこともあったわけで土地の所有権も保有していたということを考えますと、専業主婦なるカテゴリーは、長い日本の歴史を眺めても、非常に限られたたかだか50年程度(半世紀)のトレンドであったに過ぎないということに他ならないのです。

そうして、そのトレンドはほぼ終了し、これからは元々の原理原則、働く能力と意欲のある者は女だろうが男だろうが普通に働く通常の世の中に戻っていくのではないかと思って見ています。

明治以前の日本で一番多かった家業は農業であったでしょうが、当然皆共働きです。

おそらく、高度経済成長を成し遂げた昭和のベビーブーマーのみなさんの家庭において、お父さんがサラリーマンで出世していくことを子供にももう一度勝ち組サラリーマンな人生を望みその手助けをするために母親が家庭に入って子育て+子の教育環境整備を担ったという、歴史的に見て非常に特異な時代ではなかったかと思うのです。

そして、第一次産業がメインの経済主体においては、当然共働きの方が多かったはずです。

ところが、サラリーマンがメインとなり、会社の異動や配置転換により、日本全国どころか世界中を家族丸ごと移転するという転勤族という事実上の職業国内移民制度があり、北欧諸国のように社会福祉および女性のサラリーマン社会への進出を強力に促す仕組みや法制度を持たなかった日本の高度経済成長社会においては、自然とサラリーマンを続けない女性を専業主婦になるしかならないように仕向けてきたわけです。

このあたり、共働きという、原理原則に戻るゆるやかな意識改革が進んでいるところ、待った無しの少子化を少しでも食いとめるべく、政府や公共部門の強力なリーダーシップが必要なのですが、なんと、その司令塔であるべきの国会の政治家のみなさん(いわゆる国会議員)の多くが、田舎出身の(そして選挙権も2倍以上持つ有権者に支えられた)老年男性であり、そうした昭和後期の一時期の歴史的には特異な事実上の制度を金科玉条にして、こうした「普通に元に戻る」方向に猛烈に反対し、女性は子育て第一といった訳のわからないことを言いだしているというのが大方の概観なのであろうと考えています。

子育て第一を本当に掲げるならば、夫婦とも能力と意欲の限り働き収入を得て、そして多くの子供を持ち教育させ、そして少子化に喘ぐ日本を救っていただく方向になるべきなのです。

しかるに、これでは、日本が滅ぶのが早まるだけなので、もう少し若い有権者や普通な世界が見えている賢明なる有権者の方々には、こうした老害田舎議員のような方々の主張については、よく吟味いただき、適切な投票行動なりに繋げていただければと思います。

普通が一番だと普通に考えているのですが普通じゃなく異常と言われる筆者からは以上です。

(平成30年2月27日 火曜日)

2018年2月21日

日本国憲法において最も改正議論が本来起こらなければならない部分について(私見)






おはようございます。

2018年2月の配信記事です。

筆者は大学は文系学部(法学部)に学び、それなりに勉強したことも勉強しなかったこともありますが、昨今のテクノロジーの進化は文系学部のほぼ全ての講義というものを駆逐しつつあるとすら感じております。

もはや、大学の授業、教授とはオンラインでほとんど代替され、わずかに実験系やシミュレーション、フィールドワークが必要な理系学部の一部のみが生き残る場になっていくのではないかと本気で考えております。

もちろん、それぞれの学生が学ぶ場としての大学が大切であろうとは言えるのですが、板書にスクール形式のいわゆる授業というものは早晩消えて無くなるだろうな、と思うわけです。

一緒に学ぶ学徒や教授が一緒になんらかの議論をするとしても、それはすでに前提とされている知識や技能が与えられている状態で行う、いわゆるフィールドワークや議論討論、ゼミの場やプレゼンテーションといった形になるのでしょうか。

さてそんなことを考えながら、本日は最近言われるようになってきた日本国憲法改正の風潮において、筆者が憲法学徒(一応大学の憲法の単位はたった一つの「優」であります)の端くれとして感じている点を申し上げます。



日本国憲法第89条(公金その他の財産の支出)



本来、最も改正議論が起こっていなければならないのは、天皇に関する章でもなく、戦争放棄の第9条でもなく、いわんや憲法改正手続自体を規定する第96条でもなく、やはり第89条(公金その他の財産の支出)であろうと考えるのです。

時代にそぐわない条項として、これ以上のものはないと思うわけです。

原文にあたります。

日本国憲法 第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

とありますので、本来、宗教団体性の強い政党に対する政党助成金交付は当然にアウトですし、私立大学といった宗教性(先覚者)を多少は帯びるもの、もしくは宗教性が全くなくても「公の支配に属しない教育の事業」であることは明確であります。

さらに慈善、教育若しくは博愛の事業で「公の支配に属さないもの」など、NGOや町内会を考えればいくらでも出てくるのですが、そういったものに対する補助金や助成の一切が違憲となるのはどうみてもおかしいわけです。

現在、第9条の合憲判断などよりもっとずっと飛躍した論理、すなわち、「公の支配」という領域を限界いっぱいまで解釈上広げることにより、私立大学や私立高校に対する助成金や、NGOに対する補助等、さらには特定の宗教団体との関係性が事実上濃く認められる政党への政党助成金など、これらすべて「公の支配」にゆるいながらも属しているのだという解釈です。

合憲にしなければいけないので、これが通説です。

例えば、私立学校も色々な法律に服しているし、広い意味で、「公の支配」に属しているという解釈です。

しかし、これでは、「公の支配」は、単に「日本国内」にその存在がある、という程度の意味しか持たなくなり、この第89条は一体何のためにあるのだということになるのです。

こうした、論理的な破綻が明らかな条文の適切な時代の要請に即した「改正」を通じて、日本国が、日本国憲法の目指す自由な世の中になっていくことを望みますし、その議論の過程で他の憲法改正候補についての論点が整理されることが何よりも国民にとっては大切な共通の財産になることだと思っています。

たまには、真面目な話もすることができる筆者からの吹っかけ議論は以上です。

(平成30年2月21日 水曜日)

2018年2月20日

平昌オリンピック2018スピードスケート女子500m金メダルに輝いた小平選手おめでとうございます






おはようございます。

2018年2月の配信記事です。

平昌(ピョンチャン)冬季オリンピックが開催中です。

その平昌五輪第10日目の2月18日(日)、スピードスケート女子500メートルが行われ、小平奈緒選手(相澤病院所属)が36秒94の五輪記録で優勝しました。

これは、未だ誰も出したことがない低地での36秒台の記録でした。

冬季五輪の女子日本選手としては、1998年長野大会の里谷多英選手(女子モーグル)、2006年トリノ大会の荒川静香選手(女子フィギュアスケート)に続く、史上3人目の優勝となりました。

おめでとうございます。

この小平選手のエピソードですが、まさに人格ある選手には人が集まり、人が支えて人の和が広がる話に満ちています。

小平選手は、地元長野の病院所属の選手です。

ただ、病院がスケート選手を養成して、何か病院経営に得になることがあるでしょうか?

しかし勤務先の病院の理事長は、長野で世界を目指す選手をなぜ応援できないんだ、と言って、この選手を応援することこそ地域の、社会に対する相澤病院の答えであると決めて、スケートに夢をかける小平選手を応援することにしたのです。

小平選手は病院勤務職員です。

病院勤務の職員の立場のまま、スピードスケートに専念させ、そしてヨーロッパ遠征の経費も、職員の海外出張費として捻出するのです。

飛行機は、公式遠征費用としてはエコノミー分しか出せないので、ビジネスクラスへのアップグレード分は理事長個人が負担し、合わせて年間1,000万円もの多額の援助をしてきました。

この陰の支えに、陰徳に小平選手は見事応えました。

社会的に企業が意義ある活動をするというのがCSRの姿ですが、ここには前々からの、小平選手と病院側との、理事長との相互の信頼や深い尊敬があったのです。

松澤病院の患者の皆さんも、殊のほか喜ばれたと思います。



何のために滑るのか誰と健闘を称え合い誰に成果を報告するのか



誰のおかげでプレーすることができるか。

自分にどれだけの人が自分の夢を乗せてくれているか。

誰と喜びや悔しさを分かち合いたいか。

そもそも、冬季競技は華やかなフィギュアスケートを除けば、オリンピックの時くらいしか注目されないのです。

ですので、専門選手をサポートしたところで企業の広告効果などは実はほとんど見込めず、受け入れる企業や活動資金を援助するスポンサーは非常に少ないのです。

筆者も、日本国内では全くスポンサーがつきにくいマイナー競技となってしまったボート競技については少しは知っておりますので、そのことはよくわかります。

ボート競技が明治時代に海外から初めて輸入された時には、琵琶湖から流れ出す瀬田川のレガッタの両岸には5万人もの観客に埋め尽くされた、と当時の新聞にあるくらいですが、時代とともに観客の嗜好も変遷するのです。

そして、現在の冬季競技の選手の多くは、トレーニングとは別に生活の基盤となる所属企業やスポンサー探しを行ないながら競技を続け、そうした逆境もバネにして、そして立派に戦っているのです。

小平選手のように成果を挙げた選手も、競技結果が伴わなかった代表選手たちも、等しく競技自体の地位向上と社会的意義をも感じて、それぞれの厳しい勝負の世界を生きているのです。

相変わらずスケートではイの字ストップができるくらいのほぼ素人ですが、氷上や雪上のスポーツも見て応援したいと思った筆者からは以上です。

(平成30年2月20日 火曜日)