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2018年7月20日

義務教育を受けさせる小中学校においてこの酷暑に冷房ないという異常事態に対して静かにもの申したいと思います







おはようございます。

2018年7月の大変残念でならない酷暑の熱中症被害に関する配信記事です。

先日、教室に冷房の設置されていない愛知県豊田市の小学校で、ついに小学校1年生のお子さんが熱中症で亡くなるという痛ましい事件が起こってしまいました。

将来の日本を支える、数少ない国民の宝というべきお子さんが亡くなるというのは、全くもって噴飯ものであります。

大変腹立たしいところです。

この事案を少し整理します。

愛知県豊田市で市立梅坪小学校1年の男子児童(6歳)が、課外授業で発症した熱中症で、クーラーのない教室で休ませたが死亡したという事故です。

豊田市内の市立小・中学校と特別支援学校計104校には、一部の特別教室を除いて扇風機しかなかったとのことです。

もちろん、教室ではなく、例えば冷房のある保健室などで休ませれば良かったという意見はあると思います。

しかしながら、2013年に設置した扇風機の設置で当面十分だという不作為の認識が市にあって、豊田市の市長は、会見で「当時はこれで様子を見ようという判断で適切だったが、こういう事態があったので見直す」と述べたとのことです。

死亡した児童を含む梅坪小学校1年生の計112人は2018年7月17日午前10時ごろ、校外学習のため約1キロ離れた和合公園に徒歩で向かったとのことです。

そして、公園で30分ほど虫捕りなどをした後、同11時半ごろ教室に戻りました。

男子児童は教室で休憩中に意識を失い、救急搬送されたが死亡したとのことです。

男子児童が命を落とした教室にエアコンはなく、4台の扇風機しか設置されていませんでした。

さて、義務教育として国の宝である子供を強制的に学校に通ってもらっている学校教育関係者の皆さんにおかれましては、そろそろ、というか死人が出てからでは本来遅いのですが、少し考え直す必要がありましょう。

エアコンつける予算がないというのなら、どうして市庁舎や市長室、教育長の部屋にはエアコンが入っているのでしょうか。

明らかに、気温は一本調子に年々上昇しており、昔の暑いと今の暑いは全く違ったものになっております。

熱帯夜(25度以上の夜)も無かった昭和時代の以前すぎる経験をもとに昔の人が、昔は我慢したとか言うのが全く筋違いなわけです。

今は超熱帯夜(30度以上の夜)も珍しくありません。

市役所の建物より(義務教育の)子供のエアコンや冷房対策の方が明らかに緊急の課題だと思います。

東日本大震災の時の東京の計画停電の際に、皇居はもちろんその対象外であったけれども、天皇皇后両陛下の強いご意思で、計画停電で「第1グループ」に分類された地域の停電時間に合わせ、1回約2時間にわたり、明かりや暖房といった電気の使用を一切控え、時にはろうそくや懐中電灯を使いながら過ごされたとのことです。

人の上に立つ人というのは、こうでなければなりません。

ですから、この市の教育行政を司る市長と教育長くらいは、本気で自分の部屋のエアコンは即止めて、全ての小中学校の教室に冷房が設置され稼働を確認するまで、そのまま執務するべきだと思います。

私が市長か教育長ならば、その上で、時間を限って校庭の真ん中で青空執務させていただく覚悟です。

もちろん、官僚に必須のスーツとネクタイです。

それくらいやらないと、申し訳が立たない、夏が暑いということは統計的に明らかであるにもかかわらず、昭和な授業を適切な設備を用意せずに進めた不作為の罪は重いと考えます。

何なら、7月から9月は全校休校もしくは、10時~2時は休校にするなりすればよいのです。

必要な授業は、冬休みでも春休みでも使って行えばよろしいし、土曜授業を復活しても全く問題ありません。

昭和の授業にこだわるならば、筆者もそれが常識であった土曜半ドンを復活すれば良いでしょう。

もしくは、午前午後の二登校制にするとか、やり方はいくらでもあるはずです。

義務教育を掲げておきながら、最低限の安全対策を取ることすらできないのであれば、予算がないというのであれば、もはや義務教育の看板は下ろして、高認(昔大検といった)と同じく中卒相当の資格というものを別途認めて、小中学校に行かなくても良い自主教育の自由を認めるべきだと思います。

どうやら日本は、既に借金まみれのくせに、市役所を建てたり、参議院議員を増やすことには熱心なのに(総人口は顕著に減っているのですが)、こういうところが全く硬直的だなと思いました。

夏の外回りは厳しいですが、実はクーラーの効いた室内でこれを書いているのを反省したい筆者からの主張は以上です。

(2018年7月20日 金曜日)

2018年7月12日

自らはいい歳でもう自分は絶対にやらないことを他人特に何も知らない子供や年少者に勧めるのは欺瞞と思うという話です







おはようございます。

本日は若干筆致強めでまいります。

2018年7月のマスコミ大新聞の記事に関して筆者があくまで個人的に思うことを空気読まずに述べるという配信記事です。

2018年7月9日(月曜日)付日本経済新聞の夕刊(第4版)という日本有数の大新聞の一面に「あすへの話題」というコラムがありますが、この日の内容は、コニカミノルタ取締役会議長の松崎正年氏が書いた「「はだしっ子」が原点」という文章でした。

少し引用しますと、

「(子供時代は)毎日自然と格闘していた。子供たちは群れを作って元気に遊び回っていた。今日のモラルでは非難されるべきことも沢山あったが、多くの経験を重ね、体力・気力・感性・知恵等々、生きていくための基盤が知らずして育まれ・・」

「(中略)・・踏切の無い線路を北側に歩いて渡って、・・・暗くなりコウモリが飛び回る時間まで遊び回っていた。(線路の)南側に住む子供と北側に住む子供の石合戦をはじめ、落とし穴を掘ってサバイバルゲームをした・・」


といった一見、さらっと読めば昔は良かった的な牧歌的な話が語られています。

しかしながら、少し注意して読むに、さすが、取締役会議長ともなると、昔の想い出話を書くだけで大新聞の一面を飾れるのかと思う気持ちと、こんな文章をよく掲載OKした新聞編集側の危機意識の欠如と二重基準(ダブルスタンダード)に控えめに申し上げて当惑というか、率直に言って大いに落胆失望したのです。

どこが筆者の感性を大いに下方方面に刺激したかと少しだけ説明いたしますと、これだけ幼少期のいじめとか職場でのパワハラやセクハラ、学校大学でのアカハラ(アカデミックハラスメント)といった問題が取りざたされていて、児童や学生、従業員や社員、働く人々個人のモチベーションを維持向上させることが急務とされているのに、こうした問題点には何らの解決方針も示さず、幼少時の腕白遊びや「危なそうなところで危なそうなことをする遊び」こそ万全の解決策だと思い込んでいる、救えない懐古趣味です。

控えめに申し上げて迷惑ですし、率直に言って有害です。

もし本当にここに書いてあることがいいことであれば、年の大小に限らず、この筆者も、いい年なんでしょうが、今からも現役で「踏切のない線路を渡って」「石合戦」だの「防空壕探検」して、「今日のモラルでは非難されるべきこと」も沢山やればいいのです。

モラルで非難されるどころか、立派な犯罪です。

集団でのいじめや暴力暴行は暴行罪であり傷害罪ですし、踏切横断は鉄道法に道路交通法違反、落とし穴は(自分の土地でないことはほぼ確実でしょうから)不動産損壊罪や侵奪罪にあたります。

子供が暗くなって徘徊していたら、青少年保護条例で補導されます。

老人の徘徊だって警察保護の対象です。

または犯罪予備行為として職務質問の対象にもなりましょう。

さらに、このようなことをやったら今の世の中、いじめ、鉄道法違反、暴行障害としてすぐさま拡散され、思い切り世間の非難を浴び、SNSで叩かれ、そして学内アンケートによる教育委員会からのいじめ公表に始まり捜査機関の捜査と司直の裁判、そして大マスコミ(当然日本経済新聞も含みます)の格好の記事ネタとして長く繰り返し繰り返し晒されることになること必定です。

新聞の方も、こうした無責任なる文章を掲載しておきながら、いじめ問題などが起こると徹底究明が必要だと叩き批判するのはダブルスタンダードも過ぎる卑怯な対応だと思います。

現代を生きている、企業の経営者、管理職、そして学校の教諭や校長、そして家庭で実際に日々の子育てに奮闘している保護者や親に対して、この文章は全く、何ら有益なソリューションを提供していません。

石合戦して、自分の子供の目が見えなくなった怪我を受けたら、親としてはどうすればよいのでしょうか。

または、管理している学校の責任は?

怪我させた子供本人と、その保護者の教育責任は?

地域社会の取り組みは?

再発防止策は?

そんな特集記事を、大新聞やマスコミは、こぞって書き立てるのではないでしょうか。

それで、記事の閲覧数を増やそうと姑息にも考えるのではないでしょうか。

だいたい、はだしで駆け回って押しピン踏んで大怪我した、という場合ですら、裸足で走らせる方が悪い、いや押しピンを使わせている学校が悪い、という論調になるのが、今の大新聞・マスコミの大多数の報道姿勢ではないのでしょうか。

筆者は(筆者ももういい年ですけど)小学校のとき、普通の運動靴で外を走っていたら割れた瓶で凹型になっていて尖った部分を踏んづけてしまって、ガラスが足裏に刺さり、静脈を傷つけたのでしょう、靴下と靴が血でべっとり真っ赤に染まって大変なことになりました。

割れたビール瓶と破片はそこらへんに転がっている、そんな時代だったのです。

その時は危なかったな、注意して走らなきゃな、という感想くらいしかないですが、靴ですらそうなったのだから、やはり裸足は危ないな、というのが本音のところです。

防空壕探検なんて、天然洞穴探検で閉じ込められて1ヶ月近くかかって保護されたタイの子供達を笑えないのではないでしょうか。

もはや自らは功なり名を遂げた「いい年」であることを理由に、自分は絶対にもうやらないことを、他人、とくに何も知らない子供や年少者に勧めるというのは、大いなる欺瞞だし不誠実な態度だと思うのですがいかがでしょうか。

真におすすめすることであるならば、せめて野山を駆け回る、というところで止めておけばいいものを、俺だって昔は悪かったんだぜ、というのを公表して反省もなくかっこつけるじいさん経営者、控えめに申し上げても痛いしあまりにも恥ずかしすぎるのではないでしょうか。

恥ずかしい、という感覚すらないのではないかと思うのでした。

これと同じ文章やコメントを、70歳無職独身生活保護者の独居老人(男)が発した場合、受ける印象は全く変わると思います。

ですが、やったこと、は「やったこと自体」で評価されるべきで、「やった人」によってやったことの評価が変わるのはおかしい、ということです。

これは、筆者も大学法学部の刑事訴訟法のゼミでも、罪刑法定主義、ということで学びました。

ゼミでは圧倒的な劣等生であり不勉強であった筆者ですら覚えています。

大統領だろうが総理大臣だろうがスティーブ・ジョブズだろうが街中の浮浪者だろうが子供だろうが、言っていることは言っている人と分けて考えるということが必要なのではないかということを改めて強く思いました。

少なくとも、石合戦で怪我をした知人や知り合いが筆者のまわりにいたとしたら、筆者としては悲しいですし、小さい頃、冬の雪合戦で石を入れたのか偶然入ったのかが目に当たって失明寸前になった知り合いがいた、という話をリアルに知っている世代としては、全て子供のはだしっ子遊び、と割り切れる自称大物経営者、その想像力の宇宙レベルの粗さに驚きの思いを禁じえません。

いつもは適当な記事が多いのですが、こうした自称大物の「肩書ビジネス」に惑わされない、健全な批判的精神を持ってこれからも生きていければと思いまして、少しだけ筆者独自の解説をさせていただきました。

コニカミノルタのカメラなどは幸いにも持っていませんが、とりあえず他人のふり見て我がふり直せ、と改めて締め直したい筆者からのコメントは以上です。

(平成30年7月12日 木曜日)

2018年7月2日

二次元移動と三次元移動のフィールドにおける戦場の根本的相違について考察しました





おはようございます。

2018年7月の二次元移動と三次元移動のフィールドの根本的相違について考察するという記事です。

筆者は小さい時より、古来からの歴史、特に戦史に対してはひとかたならぬ興味を持って見てきておりました。

例えばアレクサンダー大王がペルシャ帝国ダレイオス一世と戦ったガウガメラの戦いから、おなじくペルシャ軍とギリシャがエーゲ海で戦火を交えた最大規模のサラミス海戦、カエサルのガリアでの戦いやアクティウムで古代エジプトプトレマイオス朝が滅びた戦いから、チンギスハーンの大遠征、そして日本海海戦、奉天大会戦、それから第一次世界大戦、第二次世界大戦と、ざっと数千年に及ぶ人類の歴史においてあまたあります戦争の歴史ですが、これはあくまで「平面上」の戦いであったと大きく定義できます。

もちろん、約百年前に登場した空飛ぶ乗り物であります飛行機の登場により、航空戦法というものが登場しましたし、その前には大艦巨砲主義で人のはるか頭上(一説には富士山の高さの2倍以上)もの高さに打ち上げ、数十キロメートル先の対象物を破壊しうる大容量の弾頭、それから自走するロケットやミサイルといった飛び道具も進歩しましたが、これとても、所詮地上から見れば数キロメートル程度の薄い皮の上を非常に限られた航続時間上作戦行動ができるという意味では、「平面上」の戦いの延長線上にあると言ってしまって過言ではないと筆者は考えております。

さて、この平面上の定義に唯一現在異を唱えられるとすれば、海中における潜水艦の戦いでしょう。

現代の潜水艦の潜水深度は、1,000メートルにも達しておりまして、こうした深深度に潜った潜水艦は、レーダーなどでは全く探知できません。

したがいまして、原子炉という無限の電池で動くということを前提にするならば、潜水艦こそ最強の隠密兵器ということになります。

当然ですが、海中においては三次元航行が可能でありまして、極端な話、漫画「沈黙の艦隊」で描かれていたように、最新鋭の米国イージス艦であろうとも、信管を抜いて爆発しないように処理された魚雷を直接スクリューにぶち当てて壊してしまえば、いかに有能な洋上戦であっても走行能力は失われ、かつ洋上からの飛行機の爆撃攻撃にはほぼ無力であるという平面上の戦いを強いられるというわけです。

もう一つ、こちらは現在においては想像上のものでしかありませんが、三次元上に無限に広がる戦域というのは、地球の大気圏内と海中を別にすれば、宇宙空間ということになります。

もし、宇宙戦艦ヤマトや銀河英雄伝説のような世界が現実のものになれば、将棋やチェスは二次元から三次元にそのルールを変え、サッカーもフライングサッカー、バスケットもクィディッチのような三次元世界のものに様変わりするのではないかと思います。

三次元の宙域に艦隊を配し、双方の指揮官の知略をふるって戦う宇宙上の艦隊戦が、見るもの読むものの想像力をかきたてるのは、こうした想像上の戦いが、これまで我々が歴史的に知りうるどの二次元平面上の戦いを超えた面白さをもつであろうことから来ているのではないかと思います。

円形に包囲するのではなく球状に包囲する、包囲戦だけとってもその意味するイメージはかなり変わります。

最後になりますが、アニメ「銀河英雄伝説 Die Neue These」という最新作が上梓されておりますが、これはなかなかよくできていると思います。

特に、三次元空間である宇宙空間における戦い方について、非常に示唆に富むものでありましたので、重ねて申し上げておきます。

結局、新しいテレビアニメが出てそれを見て書いただけの記事であることがばれてしまった筆者からは以上です。

(平成30年7月2日 月曜日)

2018年6月16日

万引きは作った人たちの思いを踏みにじる重罪であると改めて思った話です







おはようございます。

2018年6月の短い配信記事です。

万引き家族という日本の映画が、カンヌ映画祭で最優秀賞(パルムドール)に輝きました。

おめでとうございます。

作品として、エンターテイメントとして多くの人の印象に残る、そのような作品だったのではないかと思います。

ちなみに、筆者はまだ見ていていないのですが、例えばキャラメル一箱、鉛筆一本ができるまでに、どのくらいの人の手が関係しているか、かかっているかを調べたのを見たことがあります。

分業による効率化、大量生産、均一した品質の製品供給とか、そういう生産ラインのお勉強です。

そして、たとえば一個の商品にどれくらいの人の手がかかって実際の売り物になるのかというと、100人は下らないということでして、それは、単に鉛筆を生産するということだけではなくて、原料の調達先から工場の仕入れ、生産、そして卸売小売網での配送、そして店頭陳列まで含めると膨大な人の手がかかっているというわけです。

そうして、最後、その小売店なり販売所なりで、鉛筆やらキャラメルやらをお客さんに渡して、そしてお代を頂戴する、そのお金でもって、この膨大な人の手から人の手へ、という長いラインが完結し、そして次の取引へ繋がっていることになるのです。

そうして、万引き(窃盗)とは、その最後の大事な大団円、締めくくり、明日へのスタートを根こそぎぶった切ってしまうという、恐ろしい犯罪行為です。

筆者が例えば、と申し上げましたこの100人の鉛筆キャラメル生産販売の関係者は、この鉛筆やらキャラメルを手にした人の喜びのために、一生懸命自分の持ち場を守って仕事をしています。

お母さんが子供にキャラメルを買ってあげる。

おこずかいで子供がキャラメルを買う。

進学祝いで、鉛筆を弟や妹にプレゼントする。

そんな場面を見たい、想像したいと思って仕事をされています。

サプライチェーンをぶったぎる以上に、そんな多くの皆さんの思いを踏みにじる行為です。

聞くところによると、万引き(窃盗)行為自体に快感を覚えて繰り返す者もいるとのこと。

人間の業の深さを感じざるを得ません。

芸術作品は芸術として見るとして、実際の生きる場面で想像力を働かせれば、このような常識に立ち戻ることになるなとぼんやり考えました。

鉛筆は、未だ2Bを愛用しておりますキャラメル好きの筆者からは以上です。

(平成30年6月16日 土曜日)

2018年6月15日

ものごとは始めることより区切りをつけて終わらせることの方が数倍難しいという話です






おはようございます。

2018年6月の物事の始め方より終わらせ方に関する配信記事です。

小さく産んで大きく育てよ、といった言葉もありますが、事業でも趣味でも学校の部活動でも、実は始めることは簡単なのですが終わらせる、区切りをつける、卒業することのほうが難しいものです。

それまで積み上げた多少の技量や経験が勿体無い、という風に捉えられてしまう、というのが一般の理解かもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか。

実は、辞めることも練習が必要ではないかと思っている筆者がいます。

物事のはじめかた、についてはかなりやり方が広まっていて、興味を寄せる方法もたくさんあり、また勧誘の方法も出回っています。

しかし、物事の終わらせ方については、あまり広まっていなく、いわばノウハウの蓄積が少ない社会に私たちは生きているのかもしれません。

例えば、就職、そして転職です。

確かに多くの学生や候補者が自己分析をしっかり行って、企業側の採用選考をかいくぐって、そして多少なりの妥協を経て新卒採用にたどり着きます。

しかしながら、外から見る企業や会社と、中で働くことというのはそれこそ180度違います。

仕事の性格や質など、それは千差万別で、そしてその企業に就職している人たちにとっては、その企業や会社が自分の世界の多くを占めるため、勢い、そこから飛び出そうという人を心から応援するという風潮にはなりにくいのです。

世間で言われる大きな、立派な企業に勤めていればいるほど、周りの人(その人たちも同じ会社の人であることがほとんどなので、同調圧力、ポジショントークが無意識的に入っているのですが)からは、「こんないい給料はもらえない」「年収下がる」「大会社にはもう行けない」などと、脅しともつかぬコメントをいただくだけで、残念ながら有益なアドバイスがなされるということはほとんどないわけです。

しかしながら、人生とは時間の流れそのものではないでしょうか。

筆者も遅まきながら、それに気づいたので、最近やっていることは、毎日その会社に就職するつもりで出社する、ということです。

これは、故スティーブ・ジョブズというアメリカでアップルという会社を創業した人(このブログ記事がはるか将来に読まれてもわかるように)が、有名なアメリカ西海岸のスタンフォード大学(これも、はるか将来に読まれてもわかるように)で講演したときに、毎日この日が人生の最後の日だと思って過ごしなさい、そしてそれは必ずその通りになるから、といったことをもじって考えてみたものですが、毎日、その会社(同じ会社ですが)に転職して来た、というくらいの覚悟や心構えで接すれば、マンネリ化してしまう自分の精神に軸が立つな、と思ってやっています。

人間、「やめることができる」というのは最高の価値のあるオプション(権利)です。

生命は、その終わりが必ずあるから、輝くわけです。

嫌だったら(気がむかなかったら)辞めればいい、そして辞めた経験を少なくとも若いうちに多くやっていた方がいい、これは「挑戦する」というキーワードと同じくらい、対になって広まっていていいのではないかと思っています。

時間こそ人生であるならば、辞めるということはそのこと以外のことに時間を振り向けるということです。

やることができる、やめることができる。

何事も、前向きに行きたいものです。

やらなければならない、やめなければならない。

こうしたネバネバ病になると、時間は自分のものではなく、自分が生み出したねばねば病のものになってしまいます。

ちなみに悩むというのも決断の準備段階ですから、大いに悩むべきです。

こうした、大人になるための準備運動というのは大切で、自分の能力ややりたいこと(Will)に関係ないことを仕事にしてしまった人には、それ以外のちょこちょこした時間の節約方法やライフハックの手段をいくら教えてもそれはあまり意味がないということになってしまいます。

そろそろ、他者比較ではなく自分比較で行きたいものです。

過去や現在の自分と違った自分を、もしくは進化した自分をどれだけイメージできるか。

それが、日々の行動習慣や心構え、そして大きな目標設定といった手段で明確にすることができた人には、幸せな人生が待っているのではないかと思います。

自分の適性に合っていて、Willに従ったことであれば、人間大抵の困難には耐えられます。

耐える以上に、そこから大きく学ぶことすらできます。

高校卒業後に親の反対を押し切って上京し、新宿で複数店舗のラーメンチェーンを展開しオーナーになって成功したものの、働きすぎで体を壊して三宅島に移住、そこで小さなラーメン店やってリタイアしたと思ったら三宅島が噴火して全島避難、そしてさらに移住した福島県で始めたラーメン店で、また東日本震災の原発災害で立ち退き、それでも、齢80になっても、やっぱり仮設住宅で出したラーメンを食べたいと子供らがいうからまたラーメン店始めるよ、と語っていた人をテレビで見ました。

自分の外で起こる事象(自身の健康含めて)がいくら不幸なものであろうとも、自分のやりたいことに進めるならば、人間大抵大丈夫です。

人間続けることができます。

と、いうことで、人生においては、「挫折」「失敗」「挑戦」「成功」すべての経験が糧になるのだということで、このとりとめない文を締めたいと思います。

今日は眠いしなんとなく会社に行きたくない筆者からは以上です。

(平成30年6月15日 金曜日)

2018年6月9日

短所を改善することと長所を伸ばすことを両方やることが本当は必要だと思う話です






おはようございます。

2018年6月の人材教育に関する配信記事です。

よく、個々人の長所を伸ばすべきか短所を改善するべきかという問いがなされることがあります。

この点、最近の流れとしては、圧倒的に長所を伸ばす方が良い、企業や組織にも良い影響があるという論調が強いようです。

しかしながら、ことビジネスについては、短所を短所のままにしておくことによるデメリットは相当大きいと思います。

なぜなら、ビジネスというのは、相手があってのものですので、その相手方や顧客側が、いくらよい商品やサービスや営業担当といっても、基本的なことができていない場合、どうしても全面的に信用できず、取引や商品購入を躊躇してしまうことがよくあるからです。

つまり、長所を伸ばす教育も良いが、両方必要で、短所を改善することも当然大切であるということになります。

さらに、目線を思い切り下げれば、全てが長所となりますので、その意味でも、長所を伸ばすとか短所を改善するとかいう意味もそれほどないのかとも思います。

ただ、組織や企業においては、得てして短所を指摘する方が簡単でありよく目につくので、組織のトップや責任者の目線としては、できるだけ部下やメンバーの「長所」に目を向けて、長所も短所も等しく伸ばすように努めなければならないのではないか、というところです。

他人の長所を褒めることは意識しないと出来ません。

ですが、組織のトップや部門責任者自体が、長所をより伸ばして短所はそのままで良い、という風に考えることは危険です。

彼らは、短所を組織の中からは指摘され「にくい」立場にいるからです。

ですので、組織のトップに近い位置にいるものほど、むしろ短所を改めるように意識していかないと行けないのかもしれません。

危険なのは、自らが頼む長所といわれる部分を、トップが自らの時間を使いすぎて、例えばセミナーや同業者団体会合やらに出て、または本を読んで、自分に都合のよい共感できる本や講演ばかりに触れてしまうことかもしれません。

それだと、人の育て方や自己啓発に関わる本や情報ばかりになってしまい、自分の既に知っていることをさらに追体験して悦に入ってしまうことの繰り返しになってしまう危険性もあるのです。

偏りをできるだけ排除するように、バランスを取ること。

これも、経営者や組織のリーダーには必要な能力なのかもしれません。

記事の内容が、アニメコンテンツに若干偏っております筆者からは以上です。

(平成30年6月10日 土曜日)

2018年6月8日

個々の受講者や部員の現状のスキルに応じた個別の教育プログラムを施す必要について







おはようございます。

2018年6月の学業やスポーツ、芸能などの習熟や進化のための教育に関する配信記事です。

学業でも、いわゆる部活動のようなスポーツでも、芸能ごとであっても、文芸や絵画、音楽といった芸術分野であっても、その他プログラミングだろうが実験だろうが英会話であろうがなんでありましょうが、いわゆる教育による習熟度を上げていく仕組みとしてこれまでの人類社会でずっと行われてきたのが「スクール形式」と呼ばれる集団座学教育です。

これは、黒板(緑の場合が多いですが)に板書しながら、習熟度に長けた先生が、決まったテキストを用いてその解説を行い行間を示す授業形式を取ることが多いです。

この授業形式自体については、問題はないと思うのですが、問題は、この単一の一連の授業を受ける受講生側が、少なくても二十人程度、多いと数百人程度にも上ってしまうというところにあります。

受講生の側の「今から受けようとする」授業の現時点での理解度は、まちまちです。

それなのに、1人の講師や指導者の1つの授業というソリューションしか提示できないのは、あまりにもミスマッチであると言えるのです。

具体的には、上に示したグラフのように、教える側(教授側)において、一定のレベルで受講者側の学力習熟度は、逓増していくという風に割り切って、その進度に応じた最大公約数的な授業で進んでいくということになりがちです。

そうして、残念ながら、その教授側で勝手に設定した授業やスポーツ学習の進度についていけないスピードの生徒は、容赦無く切り捨てられてしまうことになります。

では、その授業の進度を遅くすれば問題は解決するのでしょうか(護送船団方式)。

やはり解決しません。

逆に、進度が早い生徒のモチベーションを著しく下げ、彼らの能力の伸びを頭打ちにさせてしまい、教育機会の欠如となってしまうのです。

これでは教える側も教わる側も、そして教わる側に確実に散在する進度が早い生徒も遅い生徒も不幸です。

さらに、同じ人物についても、教わる科目というのはそれこそ何百種類もあるわけですので、それ毎に、得意科目不得意科目といった偏りができてしまうというわけなのです。

これを防ぐには、各科目、できるだけ細かい進度を設定したクラス編成をするか、もしくは教えることをブロック形式にして、授業ではなくタブレットの視聴方式にして、ある課題がクリアされたら次の課題(ステージ)という風に考えざるを得ないのではないかと思っています。

すなわち、ゲーム的に段階を追って、スーパーマリオブラザーズのステージ1-1から8-4まで、順番に個々の受講者(プレイヤー)の進度と理解度習熟度に合わせて進めていくしかないのではないかと考えるようになったのです。

そして、インターネットとテクノロジーの進化によって、こうした個別切り分け授業の随時視聴ということも全く可能となった現在、教育プログラムも大きく変わることが期待されます。









すなわち、この図のように、まっすぐ切り上がった進度の早い学習者には、どんどん先に進んでもらうようにカリキュラムを自動的に高速回転することも簡単にできますし、標準的な進度の学習者にはそれに見合った学習速度で伸びてもらうことができます。

また、一旦つまづいて、または大きなブランクを感じた生徒で習熟度がその間全く上がらなかったとしても、次に態勢を整えて勉強をやり直してまたゾーンに入って急速に追いつくペースができたとするならば、一気に習熟度を急上昇させることもできるわけです。

なにごとも、習熟には、長い期間に渡っての、間を置いた反復が必要です。

ですので、あまり幅の広くない、限られたペースでの授業については、そこから外れた場合のリカバリーが大変ですが、そのあたりのつまづきも考慮に入れた、懐の広いカリキュラムの中では、なかなか脱落しないし、また進度が遅すぎてつまらなくなってしまって頭打ちになるというリスクも低くなろうかと思います。

これは、学業に限らず野球やサッカーのようなスポーツ競技でも、演劇や文芸、もしくはお笑いや芸能といった分野でも全く同じことが言えると思います。

個々の成長カーブに即した多様なカリキュラムを提示する、これがこれからの教育機関や指導者に求められるマルチな才能であるのかもしれません。

さて従来、伸びが今一つのままこの年になってしまいました大器晩成型の筆者からの意見は以上です。

(平成30年6月8日 金曜日)

2018年6月5日

お金がかかるゴルフ、サーフィン、釣り、スキースノボのマーケット崩壊について






おはようございます。

2018年6月のレジャーに関する配信記事です。

デートもお金を使わない、車は持たない、金かかる遊びはしない、このような草食系男子女子が増えているというような論調の記事を見ることが多くなりました。

それもそのはず、こうした記事を書いている昭和生まれのおっさんおばさんから見てみれば、若い人たち(平成生まれ)というのは絶対数が少ないのです。

数の力というのは、国会や政治の場でなくとも、さまざまな場面でその力を発揮します。

アイドルグループの高齢化、これはとりも直さずそれを支えるファン層の高齢化によるところが大きいのです。

みんな、絶対的な価値観を保ったまま、歳だけ重ねていくので、一見すると齢50を過ぎているタレント(現時点では、男性ならば福山雅治、女性なら小泉今日子などが例に挙げられるでしょうか)に対しても、彼らが20代だった頃のファンからすれば、間違いなくアイドルなのです。

さて、絶対数が少なくなれば、そうした人々が支えていたところのレジャー種目も、残念ながら衰退の道をたどります。

レジャースポーツと呼ばれる、ゴルフ、サーフィン、釣り、スキーやスノボといったマーケットは、利用者の高齢化に対応しながらなんとかマーケットを維持してきましたが、ここにきて、ついに、限界まで高齢者になってしまった利用者の大量卒業に見舞われ、マーケットが大縮小に向かっているのです。

具体的には、1990年には65歳以上の方は、全人口の12%であったものが、2025年には30%を超えます。

2025年というのは、いわゆる戦後の団塊の世代が後期高齢者になって通常の健康保険から切り離される年齢に達するというわけなのですが、その時で65歳以上が3割です。

そして、その子供たちであるところの筆者のような、いわゆる昭和40年後半生まれの「団塊ジュニア」に至っては、この世代が後期高齢者になる2050年頃(筆者も生きていれば75歳!)には、もはや誰も面倒を見てくれる人はいないであろうというのがこのまま日本が進んだ場合の掛け値なしの未来ということになっています。

今、過去には戻れないのでとにかくいま少子化を改善しなければ、このときに確実に日本は滅びゆくことになりましょう。

もっとも、少子化は全ての先進化した国の傾向であり問題ですから、お隣の韓国も中国も、日本に遅れることほんの少しで日本をはるかに上回る少子高齢化ロードを驀進しますので、同じく2050年頃には、国力もすっかり衰え他国の侵略など言っていられなくなっているのではないか、という思いも少しありますが、そのように、下が下見て安心するという思考回路は貧相ですので、まじめに考えたいと思います。

日本の団塊の世代から団塊ジュニア世代が主に取り組んでいる、いわゆるレジャースポーツのゴルフ、サーフィン、釣り、スキースノボのマーケットは、一番のお得意様世代であった団塊の世代が、どんなにお金があってもそろそろ外でバンバンスポーツできる、ということは難しくなってきたところで急速に縮小しているのです。

ちなみに、最も筆者が衝撃的だったのは、日本生産性本部がまとめた「レジャー白書2017」という資料に、ゴルフコースで年に1回以上プレーしたことのある2016年のゴルフ参加人口は前年に比べ210万人も少ない550万人だった、という記載を見たことです。

この1年間で27.6%減っており、実にピーク時の3分の1になった計算になる。

1年間で3割近くが減少するという衝撃です。

確かに、筆者も(下手ですが)ゴルフにはよく行っていましたが、最近はご無沙汰でした。

なぜなのか、考えてみますと、ゴルフのハードルはお金かかること以上に、いろいろと高いのです。

筆者の独断で、その高いハードルの順に並べてみますと、

1 休日の早朝から午後までかなりの時間がとられてしまう
2 同レベルの4人の予定をそろえないとそもそも始められない
3 クルマ(と運転手)がないとそもそもゴルフ場に到着できない
4 コースに出て失礼のない程度の技量に到達するまでの練習が必要
5 クラブやボール、ウェアなどの初期投資が大変
6 プレイコストもかなりかかる
7 接待の場としての接待ゴルフという「活躍の場」が急速に減っている
  (筆者も当初興味がなくても取引先接待があると連れて行かれて始め趣味にもなった人です)

というようなことで、お金に関すること(これも相当のハードル)でも5番目6番目に登場するという、非価格面における負担も相当に大きい「重い」レジャーということになります。

もはや、LCCのパック旅行で海外旅行行ったほうが結局安いんじゃね?という国内均衡レジャーでこれからもやっていくためには、ゴルフ場は生き残りをかけて、

1 そもそも都心からの交通の便が良く、またはお迎え付きで
2 高いけれどもステイタスがありサロン的雰囲気やネットワークが見込め
3 もしくは道具含めて極端に安くてボーリング行く感覚で楽しめる
4 インバウンドに対する対策がバッチリ

といった特色で攻めていかなければ苦しいと思うのです。

もちろん、こういった話はゴルフに限らず、サーフィン、釣り、スキースノボといった身体を動かすレジャー全般に言えることだと思います。

残念ながら、もう一つの対処策として、強制的に今の高齢者から若者に富を移行させる、世代間革命的なことを起こしていかないと、日本の消費はどんどん先細ることは間違いないと思います。

この予想が、いい方向に裏切られることを祈っていますと書いて本日の記事を終わります。

ゴルフは全くうまくならない筆者からは以上です。

2018年6月2日

少子化を食い止めるためにすぐやらないといけない保育費軽減の政策について





おはようございます。

2018年6月の保育に関する配信記事です。

日本の少子化が止まりません。

実は、ずっと合計出生率が2を割っている状態が続いておりまして、筆者のような中年が生まれた遠い遠い昔の昭和40年代後半を最後に、合計出生率は2を割っている、つまり、1人の女性が生涯に出産する子供の数の平均が2人未満である、すなわち平均寿命の伸びが止まれば即、日本の人口が減る時限装置がずっと作動していたというわけなのです。

この数年で始まった話ではないのです。

もうすでに50年近く、少子化なのです。

そろそろ、これは亡国の危機であるという認識をもって、ようやく政府も民間もこぞって少子化対策に乗り出しました。

その大きな一歩として、3歳から5歳の保育所の児童に対して、全国の認可保育所の平均保育料である一人当たり3.7万円を上限に補助をするという政府案が固まりました。

また、保育料が膨大になるために、全世帯には現時点では難しいものの、0歳から2歳児についても、住民税非課税の所得層の世帯には、原則無料になるように、月額4.2万円を上限に補助を行うということです。

そして、その財源は、現在2019年10月に予定されている消費税率10%への引き上げによる増収分で賄うということです。

自らの消費生活によって徴収される消費税が、このように自国の将来世代の保育事業に回ることは、自らの国の国民を維持する、将来世代に対する最低限の責務だと思います。

もっと子育てをするというのが、普通に受け入れられるような世の中にしていきたいと思う筆者からは以上です。

(平成30年6月2日 土曜日)

2018年5月16日

日本の労働規制によって役員も経営者も従業員も会社自体も大きな損失を被っているのではないかという話







おはようございます。

なかなか給料が上がらないのに消費税や社会保険料は上がってやっぱりきついなと日々感じている筆者からの労働慣例に関する配信記事です。

日本企業の給料が低いというのは、もはや世界的な常識となっているようです。

中国企業のファーウェイの新卒のエンジニアの月給が40万円だったり、アメリカのフェイスブックの社員の給料の平均(中央値)が2,600万円であったというような、景気の良い話が世界にはあふれています。

しかも、フェイスブックにおいては、この数字はパートタイムの労働者も含んだ数字であるということで、いわゆる社員の平均年収はさらに高いといわれております。

しかるに、日本企業において、このような景気の良い話はなかなか聞かれません。

業績絶好調な会社においてもそうなのです。

なぜなのでしょう。

筆者の私見を申し上げれば、大きく理由は二つあります。

一つは、新卒業種無差別採用、もう一つは超絶厳しい解雇制限制度です。

順番に説明したいと思います。

まず、新卒業種無差別採用、いわゆる「総合職」とか「基幹職」といったどんぶり採用形態で、しかも大学卒業を中心とした「新卒」採用に絞って日本の大手企業は採用を行います。

中途採用を通年で積極的にやっているという会社はまだまだ少ないのです。

新卒といっても、すでにそれまで高校や大学といった専攻や教育やもともとの志向や考え方により、どのような職種につくかどうか、かなり明確になっているのにもかかわらず、企業は、新卒一括採用というどんぶり勘定を続けています。

これでは、例えば、天才プログラマーとか天才ITアーキテクチャ、建築士や弁理士や弁護士、医者や研究者、暗号解読者やデジタルゲーム技術者といった特異な才能を持つ社員を、普通の会社は市場価値で遇することができません。

先に触れた、中国ITのファーウェイの新卒社員についても、まさか全員が営業一般事務ということで採用されているわけではないでしょうし、おそらく職種により、細かく決められた職能と給与体系により、明らかに事務と営業とエンジニアでは違った給与提示がなされているはずです。

同じ金融機関でも、営業事務と、神経と身体をすり減らしてITを駆使するリサーチャーやトレーダー、アナリストやクオンツ、フィナンシャルテクノロジーといった職種では、全く違った待遇体系になるはずなのですが、なぜかそのような個別の役職員の待遇をすり合わせることを日本企業は(大企業になるほど)嫌います。

変でやたら細かいだけのだた広い薄皮ミルクレープのような、ちまちました階層別人事給与テーブルを作って、定期昇給何千円、といった程度の給与改定しかできないのです。

ここの職能や職種を細かく査定しない、もしくは査定できないため、一律の(低い)給与体系となってしまうというのが第一の論点です。

では、第二の論点である、解雇規制が厳しすぎるという点に移ります。

こちらのほうがより問題です。

解雇規制があるということは、解雇してコストを削減するのがふさわしい人をわざわざ雇い続け、そしてその間、ずっと会社の利益が減殺されるという効果を生むのです。

会社は事業をやって、利潤を上げることを命題にしていろいろ活動しますが、人を雇うという原価は非常に重くのしかかってきます。

原価をかけながら、ろくな成果や結果が出ない場合、例えば工場やお店だったらたたんだり売却したりするのが普通です。

それが、こと「雇用(あえて「人」とはいいません、人は雇用を失っても死ぬわけではなく、別の「雇用」を得ればいいだけだし自ら「事業主」になってもよいわけですので)」に関してはできないのです。

これは考えようによってはむちゃくちゃです。

解雇できないコストを、ほかの社員と役員と会社(の持ち主である株主)みんなで払っているということになります。

たとえばコンビニチェーンがあるとして、売り上げが全く上がらないお店があったとしたら、即撤退しなければチェーン全体が傾いてしまいます。

そこへの出店は間違いだった、間違いは修正しないと会社自体が潰れます。

それが「雇用」の場合はできないのです。

守るべきは「人」であり、「雇用」そのものではない、と声を大きくして言いたいわけです。

「雇用」を失う「人」にフォーカスしすぎると、その「雇用」による余計なコストを支払わされている他の従業員である「人」や経営者の「人」、会社の株主である「人」の権利はどうなるのか?という問題なのです。

そろそろ気づいてほしいですね。

解雇するというのは悪い話ではなくて、その人に別のチャンスを与えるという前向きな意味もあるのです。

プロ野球の自由契約みたいなものです。

野球、もしくは仕事をやりたいのならば、雇用されやすい環境を整えて飼い殺しにしない、これは社会経済全体にとって善いことのはずです。

それなのに、明治以来の日本の労働基準法令は、強い解雇規制一辺倒です。

解雇=悪いことという一般観点があると「信じて」いるから、このように解雇しないようにという方向で規制がかかっているのです。

しかしながら、暴行や障害、セクハラやパワハラといった「不法行為」並みに解雇を捉えるのは本来おかしく、普通の私人間の契約である「雇用契約」の解除行為の一類型のものを、これだけ後生大事に保有しようとする規制や先入観が、この100年間の日本の成長を著しく阻害したと思っているのは筆者だけでしょうか。

当たり前ですが、「人」にフォーカスするのであれば、「解雇」を過剰に禁じることでコストを広く負担している多くの「人」に対しての提案として、一定の解雇手当と失業保険によるカバーで必要十分であると思います。

筆者も会社の従業員でありますが、解雇されず給料が高くて仕事が楽、というのを望んでもそれはかなり難しいことくらいわかっています。

企業の事業収益は、そんな一社員の思惑とは別に、実に様々な環境や事情により激変します。

そんな中、「雇用」だけ独立して安定させるというのは難しい、というより不可能です。

会社自体がなくなってしまいます。

乗っている船が揺れまくっている中、中の乗員だけ全く揺れない仕組みを作れ、といわれても無理です。

揺れまくっているうちに、沈没します。

企業とは、そのようにか弱い存在なのです。

現在の世界最強企業の一角であるアマゾンだって、1994年の創業、世界最大のデータ保有会社にして検索最強企業のグーグルだって、1998年の創業で、天地創造の時から未来永劫強い企業があったわけではないし、ありつづけるわけはないのです。

「人」に対するセーフティーネットというのは、断じて「雇用」そのものではなく、そのようなか弱くいつ消えてもおかしくない企業というものに負わせる義務ではなく、雇用保険などの「公的社会保険サービス」で担保すべきものだと思っています。

これであれば、個々の従業員が毎月の給料から支払っている保険料から支弁されるものですので、平等だし企業側も負担しているので、真に平等なシステムだと思います。

労働市場というように、雇用という原価、仕入れもマーケットによる需給原則にその価格は影響されます。

株や外国為替、不動産や債券を購入する人は、それらが売れる場を知っているからこそ、期間というリスクをとって投資を行います。

それなのに、22才で買ったら最低定年の65才までの43年間売れません、という状況で株や債券を買う人はいないでしょう。

労働市場は、このような「出口なき」閉じた市場という異常な状態なのです。

22才の若人も、65才のおっさんになります。

しかし、この経過する時間で何を生み出せるのか、そこが会社と従業員個々のおもしろきコラボレーションなのです。

しかるに流動性の全くないマーケット。

これは、市場とはいえません。

結果的に雇用における「最初の取引」である新卒採用の価値や手間やコストが「異常過剰なまでに」上昇します。

エントリーシートを何百社も出して、全く同じ黒いスーツを来て、女も男も予定調和の面接対応を行なっている日本の新卒対応を見ていると、就職側も採用側も、極めて無駄なコストを支払っていると本当に思います。

それよりも、2社目3社目でうちに来てね、と囁いておいた方が結果的によい採用、雇用ができそうです。

新卒一括採用は、就活の失敗で自殺者が出るような状況を生んでいます。

過剰な解雇規制の裏返しでもありましょう。

日本はいい国ですが、そろそろ変えるべきところは変えるべきだと強く思います。

さて、フェイスブックには能力不足で転職できなさそうな筆者からのコメントは以上です。

(平成30年5月16日 水曜日)

2018年5月5日

何はさておき目標設定と心構えが大切だという話を改めてしておきます






おはようございます。

2018年5月の勉強に関する配信記事です。

例えば身近な大学入試という試験に対する心構えを例に話します。

毎年東大合格者を輩出している塾や予備校があるとします。

しかしながら、別に自分には東大とか医学部とか関係ないし、レベルが違いすぎて関係ないとか、都会の高校と地方の高校とでは講義のレベルも生徒の練度も違うから、一緒くたにするのは間違っているといった意見が聞こえてきます。

これは、生徒それぞれの実情に寄り添って考えてあげているようで、全くそうではない御都合主義の考え方であると筆者などは思うのです。

確かに、東大や医学部に現役合格を目指す場合と、いわゆる中堅どころの大学とを目指す場合とで、勉強する「内容自体」が異なることは当然だと思います。

しかしながら、その勉強する「内容」を別にして、その勉強に向かう前向きな「心構え」や「目標設定」、「勉強する内容」についてはほぼ全く変わりはないと断言できます。

これは、勉学ではない例えば野球で甲子園を目指す、ラグビーで花園を目指す、サッカーで国立競技場を目指すといった場合においても、それぞれの高校において目指すところが、全国制覇であったり甲子園出場であったり県大会出場であったり一回戦突破であったりすることはありましょうが、こうして設定された目標に対する心構えや具体的練習にはほとんど差がないということと一緒だと思うのです。

これまで地区大会で一勝もできていなかった野球部が、地区予選一勝を目指す、そのための練習や心構えと、全国制覇(もしかしたら二連覇かも)を目指す野球部のそれでは、やる内容は段違いかもしれませんが、やるときの心構えや具体的練習メニューについて、それほどの違いはないということです。

つまり、自ら設定した「高い」目標に対して本気に取り組むことが大切なのであって、志望や目標を自ら下げて安心しようとするような連中は、その下げた目標達成すら、死に物狂いで頑張って目指している大勢のライバルに飲み込まれることは目に見えていると思うのです。

昔、商業高校しかなかった地方の島から、商業高校出て東京の大学に行きたいと希望した子供がいたそうです。

子沢山だったその家庭では、親がその学費を出せなかったので、兄や姉(当然大学出てない)がお金を工面して、その子を東京の大学に行かせてあげたそうです。

その行った大学が、偏差値的に東大に遥かに達しない場合であったとしても、田舎の島の商業高校卒の受験生がどれだけ頑張ったか、それは東大や医学部が第一志望の生徒と同じくらい、いやそれ以上に、必死に頑張ったはずなのです。

自分は行っていない大学の学費を、兄や姉が稼いで弟に出してあげる。

そんな大切なお金を出してもらった弟が、必死に勉強しないはずはないでしょう。

このような本気で取り組む姿勢を見せているライバルの横で、「このくらいの目標なら大丈夫だろう」などとナメてかかる者が勝てると思う方がおかしいと思うわけです。

自分の定めた目標は、自分にとっての東大でありましょう。

どんな目標でも、安易な姿勢で合格できるほど、世間は甘くないということです。

勉強に限らず、仕事やそのほかの本気な世界においてはなおさら、そういった内に秘めた強い姿勢を持って当たって欲しいと思います。

自分の父親は偉かった、という話を回りくどく書いてみました筆者からのコラムは以上です。

(平成30年5月5日 こどもの日 土曜日)

2018年4月27日

民法第770条に定める裁判上の離婚事由に関して今更ながら物申したい件






おはようございます。

2018年4月の裁判上の離婚制度に関する意見配信記事です。

筆者も法学士の端くれですので、民法などは知っていなければいけないのですが、この年になりまして今更ながら気づいた重大な論点がありますので、特に書かせていただきます。

民法第770条に、裁判上の離婚を定めた条文があります。

(裁判上の離婚)

第770条
夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
一 配偶者に不貞な行為があったとき。
二 配偶者から悪意で遺棄されたとき。
三 配偶者の生死が三年以上明らかでないとき。
四 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。
五 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。
裁判所は、前項第一号から第四号までに掲げる事由がある場合であっても、一切の事情を考慮して婚姻の継続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。

一見してさらりとした条文です。

しかし、民法は単に口語化されたに過ぎない、中身は明治の法律ですから、ここに、現在の社会においては重大な人権侵害となっているものが潜んでいると思われるわけです。

ズバリ、その文言は、同条第1項第4号です。

四 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。

に裁判上離婚ができる、つまり正当な離婚事由として法律が認めちゃっているわけです。

こういう法律上の文言は、例示列挙ではなくて、限定列挙であることが「常識」ですから、精神病、すなわち統合失調症等の患者になれば、有無を言わせず捨ててよいし、なった側は捨てられるということです。

他の病気は、限定列挙されていませんから、

たとえ、

「あ」から始まる

悪性リンパ腫
アトピー性皮膚炎
アレルギー疾患



から



メタボリックシンドローム
腰痛
緑内障
ロコモティブシンドローム(運動器症候群)


に至るまで、他のほとんどすべての病気では別れられないのに、統合失調症(精神病)のみ離婚事由として法的に認められているのです。

こんな意味不明な条文はありません。

誰もが統合失調症(精神病)になる可能性を秘めています。

なりたくてなるものではありません。

不貞行為、悪意の遺棄、そして生死3年不明。

それと同列に単なる病気の一種が扱われるとは、こんなにバカにした話はないでしょう。

さらに、「精神病」という定義もあいまいです。

脳の病気、であるに過ぎない一連の疾患に対して、民法という国民の根本法令がこれほどまで執拗に取り上げることに対する違和感です。

もちろん、病気が原因で夫婦生活が維持できないことはままありましょう。

しかし、そういう個々の事情のために、バスケット条項である五号「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」という条文があるのではないかと思うのです。

脳も、体の臓器の一部でありまして、それはそれは繊細な器官ですから、そこに何らかの疾患が起こることは、他の臓器器官と同様いやそれ以上の可能性があるわけです。

誰にだって起こりえることに対して、この無作法の極み、無礼千万な誰も幸せにしない条文、明治以来の項目であることが更に不快感を増大させます。

昨今あれだけ些細なことで膨大な国会審議の時間をお使いになられておられる国会議員各位におかれましては、このような些末なお仕事などお手のものでしょうから、軽くさっくりとなくしてもらいたいものです。

昔から、頭はだいぶいかれております筆者からの意見は異常です。

(平成30年4月27日 金曜日)

2018年4月25日

日本の崩れゆく年金制度の悪魔的抜本解決策を提示してみたいと思います






おはようございます。

2018年4月の年金制度に関する観測配信記事です。

財務大臣の諮問機関である「財政制度等審議会」というのがありまして、増大する一方の日本国政府の支出をなんとか削減ないしは食い止めようと奔走しておりますが、このたび、日本国民の高齢化および平均寿命の伸びに伴って増え続ける医療や介護、年金といったいわゆる社会保障費の「抑制」「削減」についてついに具体的な議論を開始しました。

このまま一般会計の歳出を増えるに任せていては、近い将来(数年後)、日本の財政は破綻したと世界中に「認定」され、自国民からも通貨「円」の信用が失われ、そして行き着く先は日本も太平洋戦争後に経験したあのハイパーインフレというのは目に見えています。

お金の価値が下がり続ける、これは現在の黒田日銀総裁が言っている「年率2%」の物価上昇といったゆるやかなものではありません。

通貨の信用を崩し、人為的にインフレを起こそうと日銀が躍起になっているのに、5年を経過してもその効果は現れていないのが現状です。

物価は上昇しないのです。

しかし、本当に通貨の信用が失われてしまった場合、その通貨の価値は暴落し、紙切れ以下につるべ落としとなるのは各国の歴史が証明しています。

こうした中、せめて歳出を削減し、消費税を増税するなどして国際的な「円」「日本政府」の金銭的信用を維持したいと考える政府当局の苦肉の策として、政府一般会計の大きな部分を占める「医療」「介護」「年金」の三分野について削減方向で見直すとしているのです。

こうして、新しい素案として

・医療についてはかかりつけの医師や薬局以外での受診や調剤について患者の自己負担割合を増やす

・介護については介護保険認定基準を厳格化する

・年金については年金支給開始年齢を、現行の原則65歳からたとえば68歳に引き上げる

といった具体案が提示されているようです。

この中で、もっとも削減額(歳出抑制額)が大きいのが、やはり年金に対するものでしょう。

支給対象年齢を引き上げれば、当然総支給額は減ります。

それではいっそこの際ですから、65歳から68歳に、といったちょこちょこした改革ではなくて、支給対象年齢を一気に120歳まで引き上げてしまってはどうだろうかと考えました。

そうすれば、ほとんどの人にとっては、年金は届かないものとなります。

長寿記録、すなわち世界最高年齢記録は123歳のフランス人女性だそうで、世界二位の長寿の人でも120歳未満らしいですので、これまでの歴史上この年金をもらえる資格者はたった一人という狭き門です。

しかしながら、テクノロジーの進化で今後どう転ぶかわからないのが人類の面白いところだと考えれば、年金支給対象年齢を120歳とし、支給は120歳に到達した瞬間にたとえば10億円を支給、そして現役世代における個人の年金保険料の積立は「なし」としてしまえば良いのではないかという画期的な案です。

こうすれば、120歳になって10億円もらった場合、そうした人はきっと周りにいる人たちに感謝の気持ちをもって還元してくれると思いますし、どのように使うかについてはあらかじめ生前贈与等で決定しておくことができることから、相互の助け合いというものが進むのではないかと思うわけです。

人類が、ほとんど到達したことのない年齢120歳(大還暦)への挑戦です。

どのような世界が見えるでしょうか。

政府予算としても、これくらいの支出は予備費で対応できるので問題ないと思いますし、これまで年金については半分を国庫負担で賄ってきたことを考えれば、年金保険料の積立分をベーシックインカムとして還元していることに等しく、変に運用で困ったり日本年金機構といった制度自体を運用する官僚組織のスリム化にも資するはずです。

ちなみに、これと同じような提言が、滋賀県あたりを拠点とする「虚構新聞」からも記事として出ておりましたが、本論は、同紙とは直接の関係はありません。

ただ、本案は、ゲームのガチャなどをはるかに凌ぎ、国民の射幸性を極限まで煽り、かつ目先の年金保険料の国庫負担および国民負担を一気に軽減させるという、一挙三得の妙案ではないかと思い提示する次第です。

ちなみに60歳で、半分の5億円でいいからこっそり前払いしてほしいなと思う筆者からは以上です。

(平成30年4月25日 水曜日)

2018年4月16日

フェイスブックが米国大統領や上院下院議員から大きく批判されている中で同社株式をあえて推奨する意味





おはようございます。

2018年4月のテクノロジーの進化についての配信記事です。

フェイスブックに限らず、現在のアメリカハイテク系の株価についてですが、今これだけトランプ大統領に叩かれ、世間に叩かれ、公聴会まで引きずり出されている割にフェイスブックの株価が暴落していないのは、ひとえに、サイレントマジョリティーであるフェイスブックのメインユーザー層(ユーザーだけで20億人、アクティブなユーザーとしては10億人)が、そんなもの(ユーザー自身が登録した個人情報の流失)として、意外に冷静に捉えていることからであると思っています。

10億人といえば、世界最大の宗派であるキリスト教カトリック(11億人)に迫る数です。

有史以来、言語や宗教、通貨以外のサービスとしてひとつの企業が提供する商品やサービスが世界を席巻したことがあったでしょうか。

筆者は寡聞にして知りません。

フェイスブックに対してよくわからない企業として質問をぶつけている高齢の米国上院議員などにとっては、フェイスブックなど無用の長物でしょうし(彼らは功なり名を遂げていて、あとは余生を穏やかに過ごしたいと思っているはずです)、これは、ユーロにとどまるイギリスのメリットはないから離脱しろと騒いだかつてのイングランドの旧守派(シニア層)と同じようなものだと思うのです。

この点、たとえば、自動車という商品製品は世界中に広がっており、この「走る鉄のイノシシ」というテクノロジーによって毎日何十人何百人の単位で世界中のどこかで人が死んだり傷ついたりしているわけですが、すでに時代を自動車以前や飛行機以前に戻すことを本当に主張する政党なり団体なりがあるとは思えません。

こうした、すでに世の中に広く受け入れられている製品や商品、サービスだってコモディディだって、最初に登場した時は、巷で言われる破壊的テクノロジーだったはずです。

ある一定以上のレイトマジョリティーもその存在を受け入れ、その便益を長い時間にわたって享受したところで、事実上の「導入」が完了したとみなせます。

決して安全性についてもっとも懸念する層(この場合はアメリカ議会の公聴会にてザッカーバーグ氏を質問攻めにしてつるし上げた議員たちおよびそのような議員を国の代表として選挙で選ぶ選挙民)の意識する「要求水準」を満たしたわけではないということに留意しなければなりません。

人が一人も死なない状況になるまで自動車や飛行機の普及に待ったをかけることはできなかったわけです。

フェイスブックやアマゾンといった、情報を根こそぎ持って行くように思われる産業に対しても、同様にいわゆる旧守派がアレルギーを持ちますが、これも自動車や飛行機と同じく、時間の経過によってそのサービスから便益を受ける層に入れ替わって行く段階で、自然とそうした批判も聞こえなくなってくるものだと思います。

自動車だって飛行機だって、人の命を根こそぎ預かって高速で移動する、という意味では、フェイスブックなどよりよほど危ないものでしょう。

具体的に、フェイスブックにより人が直接的に死んだのかといえば、自動車や飛行機並には論じられないし、フェイスブックはあくまで場を用意しているだけで(プラットフォーム)、そのサービスの乗り手である個々の人や組織が、それをどう使うかで結果は全く変わって行くという意味では、テロリストが飛行機の操縦桿を奪ってビルに突っ込んだ、飛行機製造会社に対して公聴会に呼び出すという、100年前なら通用したかもしれないけれども今では関係ないでしょうといわれかねないことだと思うわけです。

そのような巷の、普通の認識の通り、長期(10年)チャートで見るに、フェイスブックの株価は一本調子で上昇しており、今の踊り場価格から下がるとは思えません。

むしろ、これだけ世界中を騒がせておきながら、この株価に留まっているのが、逆に同社のサービスを世界中のサイレントマジョリティーである20億人のユーザーたちの明確な支持があるからだと思っています。

これは、別に筆者がザッカーバーグ氏のカリスマ性に賭けているわけではありません。

彼は33歳にして、ハーバードのオタクから起業家、一気にビリオネア、そして公聴会(日本で言えば国会の証人喚問)に呼び出されるというジェットコースター人生ですが、別に彼でなくてもテクノロジーの進化により同様のサービスが生まれたであろうと筆者は考えております。

この点、歴史小説「坂の上の雲」のあとがきで司馬遼太郎がいみじくも言っていた、秋山兄弟がたとえいなければいない場合であっても、明治のほかの誰かがその地位を占めたであろうという言葉と同じような感覚を持っています。

さらに、フェイスブックの企業としての比較優位性その他をとりわけ信頼しているというわけでもなく、筆者としては、単に自動車や飛行機が生まれた、産業革命が起こった、農業革命が起こった、そのような時代の節目にあってそのテクノロジーの担い手であるもの(組織とか企業体とか)に張るか張らないか、そのどちらが面白いかと言えば、張っとくほうが面白い、人生生きている実感があるなという程度の思いです。

また、同じ最先端テクノロジー会社であるグーグルに代表される検索サービスは、実は巨大なクローズドサービスであるSNS内の発言や情報は拾えないという究極の問題があります。

今の世の中、公開ブログや公開サイトに迫るSNS内のクローズド情報の中のほうにこそ、真の情報が含まれていることになっており、これはオススメの店を教えてもらうには公開情報よりも信頼できる友人からの口コミが一番、という感覚にも合致します。

そういう意味では、公開情報を検索し尽くしているグーグルを買っている以上に、SNS内の情報に価値を見出すならば、むしろフェイスブックこそグーグルよりポーションを厚めに置いておくべきだとすら思います。

どうせ張るなら、世界が前に進むような会社の株を買いたいものだと思います。

個人的な見解は以上です。

(平成30年4月16日 月曜日)

2018年4月14日

アメリカがイギリスフランスと共同してシリアを空爆した報に日本はどう声明するか






おはようございます。

2018年4月の国際政治に関する配信記事です。

ついに、シリアへの米国英国仏国の共同の空爆攻撃が行われた模様です。

シリアへの空爆については、2017年4月にも行われていますが、さて日本は本件に対してどのように対応するか、非常に微妙かつ双方にとって良い顔をした、有り体に言えばこうもり的な対応に終始するはずであるという予測をしますので披瀝します。

まず、前回の空爆に対する声明は、以下にあります。

【前回の声明】
https://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/actions/201704/07kaiken.html

政府公式見解ですので、全文を引用いたします。

***

 平成29年4月7日、安倍総理は、総理大臣官邸で会見を行いました。

 総理は、シリア・アラブ共和国の情勢について次のように述べました。

「シリアにおいて再び化学兵器によって何の罪もない多くの一般人が犠牲となりました。幼い子供たちもが犠牲となった惨状を目の当たりにして、国際社会は大きな衝撃を受けています。極めて非人道的であり、国連決議にも反します。
 化学兵器の拡散と使用は絶対に許さないとの米国政府の決意を日本政府は支持いたします。その上で、今回の米国の行動はこれ以上の事態の深刻化を防ぐための措置と理解しています。
 そして、東アジアでも大量破壊兵器の脅威は深刻さを増しています。その中で、国際秩序の維持と同盟国と世界の平和と安全に対するトランプ大統領の強いコミットメントを日本は高く評価します。
 今後、米国を始め国際社会と連携をしながら、世界の平和と安定のために日本は果たすべき役割をしっかりと果たしてまいります。」
シリアへの米英仏の空爆が行われたようです。前回(昨年4月)同様、日本は微妙な対応をするでしょう。

***

さて、ここに書いてあることは非常に勇ましいのですが、ここに敢えて書いていない(言えない)部分があります。

シリアに空爆したという米国ほかの国としての行為に対して、いいとも悪いとも何も評価を加えていないのです。

あくまで、米国の一般的な「化学兵器と拡散と使用」「国際秩序と世界の平和と安全に対するトランプ大統領率いる米国の強いコミットメント」については高い評価を手放しで与えて支持しているのにすぎません。

空爆そのものを国際法上正当化するのは難しいという、平和国家日本を彷彿とさせる態度をとっている、というのは早計です。

より直接的には、シリアの背後にいるロシアに対して、どのように対応するのか日本国としてスタンスが決まっていない、もしくは曖昧であるためこの点については触れたくないのです。

ロシアからは四島を取り返したいし、そのために決定的にロシアと断絶するのは得策ではない、という意見もあれば、どうせ返す気のない四島にこだわって弱腰外交(共同投資という名の経済支援)を続けていても実ることはない、実力行使を行えといった意見までいろいろあるので、統括する外務省や外務大臣としても、首相に対して空爆そのものの評価については棚上げしておくしかない、ということなのです。

ですので、空爆そのものを支持評価できない後ろめたさから、勢い他の部分では一生懸命言葉を尽くして言辞を弄して粉飾、お化粧したコメントとなっている、このように筆者のような者には映るわけです。

さて、これを読んだ海外のメディアは、そんな日本人の国際社会に向けた「忖度」など全く普通に理解しませんので、即日米同盟にのっとって「日本が空爆を支持(Japan supports airstrikes)」と報じます。

そして、こう書いてくれるのは、実は日本の外交当局(外務省とか外務大臣とか)にとっては、むしろありがたい勘違いということもあるのです。

さて、今回はどのような声明がなされるのでしょうか。

国際社会を渡り合っていくには、いろいろと勉強する必要がありそうです。

こうした事例に多く触れていけば、日本が置かれた立場や方針に沿った、対外的な声明の発し方や読み方が深まることだと思います。

日本には、言葉に宿る霊的な力が信じられており、それは言霊(ことだま)として一般にも知られています。

聖書にもはじめに言葉ありき、と記されていることからも、何を言うのかその背景を考えることは、このテクノロジー全盛の時代においてもとても大切だと思います。

語彙がなかなか増えない筆者からは以上です。

(平成30年4月14日 土曜日)

2018年4月9日

コインチェックをマネックス(8698)が36億円で買収して仮想通貨事業分野に本格進出





おはようございます。

2018年4月の仮想通貨についての配信記事です。

日本のオンライン証券会社グループを形成するマネックスグループ(8698)は2018年4月6日、仮想通貨業者のコインチェック(東京・渋谷)を買収すると発表しました。

4月16日付で同社の全株式を取得するとのことです。

買収額は36億円。

マネックスグループは仮想通貨事業を成長分野と位置づけ、今回の(傷ついた)コインチェックの買収で本格参入し事業基盤を拡充したい考えです。

なお、コインチェンクについては、2018年1月に突如として同社が顧客より預かって管理していた仮想通貨(XEM(ネム))のほとんど、当時の時価総額にして約580億円もの盗難があり、26万人にも上るその盗まれた顧客に対して代わり金を約460億円の「円」で返却したという記憶が新しいところですが、その後金融庁から改正された資金決済法に基づく業務改善命令を2度に渡って受けるなど、抜本的な経営体制の刷新なければ金融庁に対する業務登録などできないという状況にあり、喫緊の課題として迫られていたということです。

460億円もの代わり金を事実上の損失補填として顧客に支払っておきながら、なお株式売却額が36億円も残るという事実に驚きですが、これで、コインチェックの創業者である
和田晃一良社長、大塚雄介取締役ら経営陣および、これまでのラウンドで同社に資金を提供していたベンチャーキャピタル等は、一定の手金を得て解放されたことになります。

ここからはマネックスグループが代わって100%子会社としてのコインチェックを、無事金融庁の登録業者として登録完了すること、これが当面の課題として残ります。

マネックスグループには、往時のオンライン証券を金融庁と協議しながら規制なり投資家保護の枠組みを作ってきたという自負があり、仮想通貨についても、同様に規制当局と議論しながらそうした枠組みづくりを作って行きたいという意向のようです。

しかし、ゲームプレイヤーというよりゲームマスターやルールメーカーという役割になるこれらの役割を一民間企業が全て担うことを、規制する側がよしとするかは未知数です。

それでも、火中の栗を拾いにかけたマネックスの決断を興味深く見守りたいと思っています。

コインチェックの口座にXEM(ネム)を保有していて盗まれた26万人のうちの一人ですが、相変わらずコインチェック内に資産を保有している、意外に頑固な筆者からのコメントは以上です。

(平成30年4月6日 金曜日)

2018年3月29日

デザインの力は世界に通用する貴重な技術であると改めて思った話です






おはようございます。

2018年3月の海外渡航に関する配信記事です。

日本の福岡国際空港から、セブ島に向かっております

以前に海外渡航した時より、明らかに訪日外国人が多く、空港カウンターは人々でごった返しております。

筆者の海外渡航はこれで通算9回め、

釜山、ソウル、台北、シンガポール、シンガポール、シンガポール、クアラルンプール、ハワイ、そして今回のフィリピンのセブ島となります。

いずれも、日本人が過去国家として到達したことがある地点であるということが共通点ということで、何らかの縁を感じざるを得ないわけですけれども、今回は日本を出てすぐに感じたデザインの力について少し書いておきたいと思います。

過去の海外旅行や日本における訪日外国人に対するいろいろな情報提供は、これまではやはり「文字情報」が主だったように思います。

たとえば、同じことでも、日英韓中の4ヶ国語で表示するとか、そういうことですけれども、これでは同じ情報を違う言語ツールという手段で4回繰り返しているだけなので、なかなか情報量を載せられません。

その点、最近思うのは、こういう情報のやりとりに、フラットでシンプルなデザインが非常に多く使われるようになったということです。

たとえば、日本における観光資源である「食事」について、ごはん(丼もの)やうどん、ラーメンなどをこのように数個の共通のイラストで表示するといった具合です。

小さいことですが、これはものすごいセンスだと思います。

こうしたセンスが要求されるのがデザインの力であり、言語情報を超えた、デザインで一瞬で伝えるという力です。

このような世界に通用するイラストやアニメの力を持つ日本の誇るべき技術は、電子機械技術のほかにもあるのではないかと思いました。

何でも好きなアニメの話に持っていこうとしてしまう筆者からの論評は以上です。

では行ってきます。

(平成30年3月29日 木曜日)

2018年3月28日

明日からがんばるのではなく今日からがんばるのでもなく今日だけがんばる






おはようございます。

2018年3月の営業研修に関する配信記事です。

外部顧問的といいますか、外部役員的なお役目を頂戴しているところの、スタートアップ企業で話をしていましたら、人材育成や新人研修といった話になりました。

そこで筆者は、筆者自身も20何年か遡れば立派な新卒新人であったわけであり、もうほとんどのことを忘れてしまっているものの、一つだけ覚えていることがあり、それは、「ビジョナリーカンパニー」というビジネス本と「ナニワ金融道」という漫画のことであった、という話をしたところ、やたら反応が良く雑談に花が咲きました。

普通、外部役員的なおっさんが話をするとなると、非常に退屈なものだと思うのですが、やたらそうした話をしてくれという空気になりましたので、調子に乗ってどんどん深い議論になってきたのですが、そこで気づいたのは、筆者が新人であった20年前においてもすでに漫画コンテンツが心構えやモチベーションといった分野で非常に奥深い名言を残したり印象を与えたりしていたところ、時代が下りますますそうした分野においても漫画やコンテンツといった手法で訴えることがむしろ普通になってきているなというようなことでした。

つまり、歴史の授業、例えば日本史なんかの理解をさっと行うためには漫画「日本の歴史」を通読するのが一番です。

いきなり教科書を頭から読んでも頭にはいりませんところ、漫画日本の歴史では中だるみせず、日本の有史2,000年くらいをさらりと読破できるわけです。

同じように、金融業をやるなら(銀行業も金融業の一つ)ナニワ金融道で、取り込み詐欺の話や法定利息の話、取り立ての現場や現実を追体験することができるという意味で、その意義は図り知れません。

さて議論の中で、最近の漫画コンテンツの中で、目標設定や心構えに関する心の整え方、といったところで話に挙げたいのは、「賭博破戒録カイジ」というカイジシリーズ初期の作品中のセリフです。

引用します。

 「明日からがんばろう」という発想からは…
 どんな芽も吹きはしない…!
 そのことに 20歳を超えてもまだわからんかのか…!?

 明日からがんばるんじゃない…
 今日…今日だけがんばるんだっ…!

 今日がんばった者…今日がんばり始めた者にのみ…
 明日が来るんだよ…!

  講談社「賭博破戒録カイジ」第7話「亀裂」より

発言の主は、地下強制労働で他人から吸い上げることしか頭にない、大槻班長という超小物でありますが、こんな誰からも目標にされないような人間であっても、それでもその生き方に学ぶべきところがあるのかもしれないという、衝撃の名言です。

人間ですから、人間って、ついつい「明日しよう」と思ってしまいます。

でも、「明日しよう」はなんの決断でもないのです。

明日が今日になったらまた別の日です。

そうではなく、今日からずっとがんばるのではなく、とりあえず「今日だけ」頑張るという発想の転換です。

今日からずっとではなく、今日だけ、明日のことは考えない、今だけ頑張る。

明日も今日になった時に「今日だけ」頑張る。

こうして、1日1日を本気で生きていけば、けっこう人間変われそうな気がします。

「明日からがんばる」でもなく「今日からがんばる」でもなく「今日だけがんばる」を意識すること、こうすれば人生しんどいけど楽しくなっていくのかもしれません。

偉そうに若手の前で喋りましたが、今日やることは明日やる、明日になったら先延ばしの筆者からは以上です。

(平成30年3月28日 水曜日)

2018年3月21日

世の中を本気で変えたいと思ったらどう振舞うべきかを科学的に考えてみた話





おはようございます。

2018年3月の心構えや振る舞い方に関する配信記事です。

全ては思うところから始まる、とは筆者の恩師が述べた言葉だったと思います。

大学への入学でも、職探しでも、それよりももっと大きな世の中を変えたいといった漠然とした願いも、全てはより強く思うところから始まるというわけです。

その何とかしたいという思いを、かのソフトバンク創業者の孫正義社長が、「志」という言葉で熱く語ってくれました。

何かを成し遂げたいと希求する強烈な熱意、それが「志」いうわけです。

そして、その熱意は周囲に伝わり、その熱にみんなが参画して、思いを乗っけていくことになります。

そして、節目節目でそういった志をつないでいってくれる仲間や支援者やメンターや協力者がそこここに現れてくるものだ、というようなことを語っています。

世の中を変えるだけの人の条件は、志を持つこと、そして志は、全て思うところから始まるとなります。

もう少し具体的に話を進めます。

例えば、事業遂行能力や事理認識能力といった、いわゆる人の「能力」については、かなり客観的に測れるようになっていて、その多寡や度合いもわかるのですが、実はそれだけで世の中を変えるだけの原動力を持つ人になると問われたら、ほとんどの人たちが感覚的に違うと答えます。

経験的にも直感的にも、「能力」だけでは決定的に何かが足りないのです。

そして、このテクノロジー全盛の時代は、実は才能や能力すら、世界中にアクセスして借りてくることができるわけで(アウトソースできるともいう)、問題は、能力それ自体ではないという論拠をさらに強くしているように思います。

となれば、なぜ生きるのか、自分の人生において何を為したいのか、といったところを具体的に、期限を切って語れる熱い目標がある人が浮かび上がってきます。

そうした振る舞いができる人が、志がある人として人に認知され、そしてリーダーとなって行くのではないでしょうか。

そして、志という言葉には、目標に向かってハードワークする、必死に頑張るという過程が必ず対となってきます。

この、ハードな目標に向かう過程というか心構えがなければ、「志」は「願望」に格下げされます。

そうなったらいいな、では残念ながらその実現は遠いでしょう。

実現する前に寿命が尽きてしまうかもしれません。

というわけで、世の中を変える可能性のある人の資質を重要なものからまとめると、

・志

・努力する過程

・能力

というところだと思いますが、最後に、正しい方法論というのを付け加えておきたいと思います。

これだけの情報化社会にあっても、人間なかなか必要なところにリソースを割かないで、別の他に任せていいところにばかりこだわってしまったり、また逆に方法としては全く正しくない方法で突き進んで行ってしまうという失敗があとをたちません。

この方法論、こそ学習によって修正できるところではないかと思っています。

最後にまとめますと、世の中を変える人に必要な要素は、

・志、継続力(努力する姿勢、心構え)、能力、そして正しい学習による方法論の確立

というところになりそうです。

異論反論、論評お待ちしています。

いい記事を書けたみたいなので、まずは酒でも飲みたいと強く願う筆者からは以上です。

(平成30年3月21日 水曜日)

2018年3月12日

他人との適切な距離の取り方についての社会的合意がなかなかできないのがしんどいと思う話

ツイッターより「おじさんLINE」講座




おはようございます。

2018年3月の他人との適切な距離の取り方に関する配信記事です。

少し前より、主に若い学生、または働く女性の間で、いわゆるしつこいおじさんから読むのがしんどい、胃もたれするようなLINEメッセージをよく受け取ることがあって困る、といった記事がありました。

いつの時代にも他人の距離感がずれていて、このようにやたら一方的に距離を詰めてくる人は、別におじさんに限らずおばさんだろうがおじいちゃんだろうが、なんなら若い人でも子供でもあるわけですが、このような少数の人たちがいて少々困っている人がいるということが広く社会に認知されてしまうと、もっとよくない影響、すなわち本来距離を近づけてほしい人たちがやたら遠巻きにしか接してこないという問題が起こってしまいます。

つまり、セクハラやパワハラといった社会問題の「認知」が、これ以上ないくらいに職場や世間に浸透した結果、多くの「健全な」「普通の」おじさんが、若い女性(男性も含む)とうまく話し合う機会がなくなりつつあるという逆の社会問題を生むというパラドックスです。

「セクハラ」「パワハラ」という言葉は、すでに社会的一般名詞として人口に膾炙しています。

そして、男性の、特におじさんと自己認識している層のほとんどは、「自身の行動は全てセクハラだと指弾され批判される可能性がある」と認識せざるを得ない状況になっています。

何しろ毎週のように新潮や文春といった週刊誌にその手の話は載っていますし、#Metoo運動による大物著名人への告発といったネット社会を味方につけた運動も急速に高まり、これまで不当な待遇を我慢してきた(多くは女性の)芸能人の言葉を見ない日はないという状況です。

言葉や行動は、匿名性や時間の経過による忘却といった逃げ道を失ってしまいました。

「私や妻が関係していたということになればこれはまさに私は間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申し上げておきたい」

と約1年前に述べた言葉が繰り返し動画でアップされ、テキスト文字として駆け巡る世の中なのです。

そういうわけで、立派な中年おじさんであります筆者などの自己防衛手段としては、若い人たち、特に若い女性に対しては、「連絡の回数や接触は必要最低限にとどめ、かつオープンな場所で行い、セクハラパワハラなどと微塵も誤解をされないようにいわば木で鼻をくくった言動に終始しよう、なんなら直接話すのもやめてチャットで要件を伝えるだけにしよう」とするのが自然な行動になるわけです。

これは、おじさんおばさんと若い人たちとの間に横たわる、徹底的な「溝」になっています。

今の時代に、嫌がっているのに二人で飲みに行こうとしつこく誘うそんな典型的な昭和サラリーマンが多数派を占めるとは思いません。

しかし、社会にセクハラパワハラの「極端な」事例が蔓延してしまったことにより、普通の善良なおじさんが若い人に普通に連絡を取ることが非常に難しくなってきた、これは間違いないと思います。

どうも逆に生きにくい世の中になったのかもしれません。

こうなれば少子化高齢化まっしぐらじゃないでしょうか。

人の接触が減れば子供が少なくなるのは道理です。

みんなが目指したセクハラパワハラのない社会、どうも抑止効果が効き過ぎて、これではもっと前の高度経済成長期の終わりに言われた、

ビルの谷間の 川は流れない 
  人の波だけが 黒く流れて行く♪

あなたがいれば 
  ああ うつむかないで 
  歩いて行ける この東京砂漠♪

(唄:内山田洋とクール=ファイブ)

みたいな情景に戻ってきてしまったのかもしれません。

結局、セクハラとかパワハラとかに限らず、こうした社会問題の本当の解決策は、互いに誤解をされない程度の距離をたもつというコミュニケーションスキルの問題に過ぎないのではないかと思っています。

したがって、本稿の結論としては、

「こちらの心情を理解しようともせず、ひたすら距離を詰めてしつこく絡んで連絡をしてくるしんどい人」が、「適切な距離」を取ることができるようなスキルやノウハウが巷に広がることを期待したい、というところになります。

何事も、あまりにも神経質で、過剰とも思える対応をしてしまうと、却ってそのこと自体が人を傷つけてしまうことがあります。

これも、距離の置き方が適切でないことから起こっているのだと思います。

人間同士の心地よい距離感をつかむのは大変難しいところですが、適度なトライ&エラーで男性だろうが女性だろうが、とにかく「自然な人付き合い」ができるようになっていくのが理想です。

自分が忖度されたくないから上司には絶対忖度しないことをポリシーとしていきたい、「健全な」「普通の」おじさんではない距離感ゼロの筆者からの意見は以上です。

(平成30年3月12日 月曜日)