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2018年9月9日

プライベート時間で勉強しない人が勉強する人に仕事でも学習でも遅れていくことについての考察です






おはようございます。

2018年9月のプライベート時間の勉強に関する配信記事です。

働き方改革と言われて久しくなりました。

といいますか、人口減のこの世の中においては、限られた人材を如何に生かすかということが大切なのですが、これはとりも直さず同じ人間が、家庭生活でも、介護の世界でも、地域社会貢献の場でも、そして当然会社や職場でも、期待される仕事や活動ができるようになることが必要であり、かつ、そうしたマルチタスクへの対応力に優れた組織でないと、組織や社会としてそもそも生き残っていけないということと表裏一体だと考えています。

そして、それは、教育という領域にも如実に反映されてきつつありまして、すでに、例えば「プライベートでは一切勉強したくない」などと言うのは通用しなくなってきていると筆者個人は断言します。

もちろん、社会人20年超を数え、昭和な感じの職場もたくさん経験し、いわゆるブラックな職場環境も随分経験してきましたが、職場がブラックなのか否かということとは全く関係なく、その社員が社会人として職業人として伸びるかどうかについては、ひとえにその人が、如何に自立し自立的に勉強を継続できるかにかかっていると言って過言ではありません。

もちろん、プライベートで一切勉強しない、それより貴重な人生の時間を有意義に使いたいという意見については、別段賛同はいたしませんが十分尊重できるものだと考えております。

それを超えて、例えば企業の経営者や管理職として、業務時間を超えて勉強しろだの業務のやり方を覚えろなどと口に出して言うのは、残業規制がここまで実質的に厳しくなっている世の中非常に危険なことだと思っています。

しかし、技術職にしろ事務職にせよ営業職にしても、一般的に社会人たるもの常に直近の社会情勢や最新の技術動向については学び続けていかなければ使い物になりません。

自分にとって充実した人生を送りたいと言うことで、業務時間外は勉強しないと宣言するのは、逆に人生を貧相にし棒に振っているのかもしれません(あくまで私見です)。

筆者も管理職として、基本的に部下の社員のプライベートには一切関与しません。

よってプライベートの時間を使ってスキルアップしなさいとは言いません。

そこは自由です。

その上で、その自由をどのように行使するのか、それは自分のスキルや技術を含んだところの自身の人間力を上げてもらいたい、その一点に尽きます。

遊ぶなら、きっちり考えてしっかり遊んで欲しいと思います。

だらだらするのはよくないと思います。

そして、勉強する社員と勉強しない社員がいたとすれば、おそらく下のようになると思います。

これは、法則ですから多少の例外はあるかもしれませんが、ほぼ全てこの原理に従うでしょう。

すなわち、業務時間だろうがプライベートの時間だろうが、

1 勉強しない人は勉強する人より仕事はできるようになりません
2 1の結果、勉強しない人は勉強する人ほど給料は上がりません
3 12の結果、勉強しない人は勉強する人ほど重要な仕事を任されません
4 123の結果、勉強しない人は転職も厳しくなってくるかもしれません
5 1234の結果、自分の大切な人生をしっかり生きることが難しくなってくるかもしれません

ということになるであろう、というのが、完全な筆者の私見ながら、現在の筆者が到達した思考の結果となります。

普通に考えますと、勉強しない人が勉強している人に勝つことは困難で、そして勉強しなくても全く問題ありませんが、その自身の勉強しないと言う選択の結果については、上記の箇条書きのようなところについて責任を取らなければならないだろうというだけの単純なことです。

やったことの責任をとる

ことより

やらなかったことの責任を取らされる

ことの方がはるかに容易です。

残業ゼロの超絶ホワイトな企業があったとして、それゆえ十分準備されているであろうプライベートな時間の使い方については、全く自由であり、どのように過ごそうとも本人の自由です。

しかしながら、いかなる時間の使い方をしたとしても、それはプライベートという完全に自身の最終決定権に基づき自己責任としてその結果はきちんと受け止めなければならない、というか如何にその結果から逃げようともなるようになってしまうことは当たり前のことです。

それは、決して会社のせいではありません。

そうした、本当に簡単な根源的なこともわからないようでは、社会人になる前に戻って教育しなおしてもらうことが必要なのではないでしょうか(繰り返しますがあくまで私見です)。

会社で研修する、その有無に関わらず技術や会社の業務や政治経済その他世の中の動き全般が好きで興味を持っている人は、業務時間だろうがプライベートだろうがどんどん自分で時間を見つけて勉強を進めます。

当然、時間の経過と共に勉強する人としない人との差は開いていきますから、「勉強しない」という選択をするならば、時間と共に周りに後れを取ることを受け入れられるか否かというところで人間としての選択が試されるということになります。

プライベートで勉強しないことが「悪い」と言っているのではなくて、その結果については受け止めざるを得ないがその覚悟なり諦念なりはきちんとあるか否かという話になります。

勉強と言いましても、別に1日何時間も詰めて勉強しろというわけではなくて、例えば通勤電車の中で1日行き帰り合計1時間の時間でも、立派な勉強時間に充てられます。

人生、何事も勉強だと思います。

勉強すべきということを繰り返して書きましたが、実は結構勉強は嫌いで、できればネットサーフィンしながらぷらぷらしていることの方が性に合っていると思っております適当な筆者からの記事は以上です。

(平成30年9月9日 日曜日)

2018年8月8日

映画「シン・ゴジラ」を見ながら映画の漫画との垣根の喪失というテーゼについて考えた話です






おはようございます。

2018年8月の邦画に関する配信記事です。

2016年映画「シン・ゴジラ」を改めて見ました。

Amazonのプライム会員のサービスで見放題のラインナップに、ついにこの映画も含まれることになったのを偶然PC画面で見てしまったので、時間を作って視聴し堪能しました。

映画館で3回(うち1回は4DX)、DVDなどになってから数回、いずれも2016年~2017年に視聴しましたが、2018年の8月になって改めて見ても新しい気づきがありました。

一番の気づきは、この映画は漫画やテロップ付きバラエティ番組に慣れた現代日本人にとって、非常に心地よい理解が図られるものである映画であるという「説」です。

台詞を音声で話すより、文字を目で追う方が数倍の速度で頭に入ってきます、というのは周知の事実です。

しかしながら、それでも音声での演説がなくならないのは、それは、演説が身振り手振り、声の抑揚といった、「文字情報以外」で伝える部分が過半を占めており、例えばかのヒットラーのナチス党大会のニュルンベルク演説を動画サイトなりで見ることができますが、ドイツ語がそんなにわからなくてもなんとなく現場の熱気は伝わってくるということからもわかることだと思います。

しかしながら、単なる情報として処理を求める場合、台詞はより早口になり、登場人物の紹介や参照法令や自衛隊機や特殊車両や職位については、一瞬のテロップで済ますという「手法」が使われ、2時間という映画時間いっぱいいっぱいを使って、このシン・ゴジラ登場の背景や影響について、目いっぱいの情報を詰め込んだ映画に仕上がっています。

登場人物も非常に多く、エキストラ含めれば日本映画史上随一ではないでしょうか。

ゴジラ自体の動きも、能楽師(狂言師)の野村萬斎さん(この方は2020年東京オリンピックの総演出にこの度就任とのこと、おめでとうございます)のモーションキャプチャーだそうですが、ここまで細部にわたって作りこまれたゴジラ世界を「表現」するには、スターウォーズで採用されている、映画の最初にテロップ文字で「序章」「背景」を流すあのやり方と同じく、視聴者を引き付ける方法として有用だと思ったりしました。

これから、映画や動画のセリフも、目で追う時代になるような気がします。

そこで、このシン・ゴジラも、別途映画の全セリフを取り寄せて、それを横に見ながら再度視聴してみますと、非常に理解が深まりました。

これぞ求めていた映画の深読みなのかもしれません。

耳では今一つうまく何度聞いても聞き取れなかったセリフも、言語化しているので助かりました。

例を挙げると、一方主人公の「君の~~~には助けられた、例を言う」のどうしても聞きとれなかった~の部分が、「キャラ」という非常にスラングな普通の言葉だったことを知って、意外に安堵するといった具合です。

ストーリー漫画というものを生み出し、それを世界中に広め、そして映画の世界でも迫力の映像だけではなく、ストーリーを極限まで早口で語らせ物語の世界観に深みと現実感を出していく、こうした映画の取り組みの先に、全セリフの日本語字幕、というものがあるような気がしました。

そんな感じで夜中を過ごし、そして禁断のカップラーメンに手を付けてしまった積み深い筆者からの回顧録は以上です。

(2018年8月8日 水曜日)

2018年8月3日

世紀末は少し過ぎてしまったけれどそういう背景で流行った漫画の有名な台詞について





おはようございます。

2018年8月の世紀末は少し過ぎてしまったけれどもそういう背景で描かれた昭和の漫画についての配信記事です。

「ヒャッハー!」というセリフ(歓喜の声)は、かの有名な「北斗の拳」という原作漫画・アニメ・映画にメディアミックスされた昭和末期の鉄板コンテンツであり、筆者のような団塊ジュニア世代の前後については強烈な記憶を呼び覚ます、鳥山明「ドラゴンボール」「Dr.スランプ」などに並ぶ一世を風靡した秀逸な作品です。

時は世紀末。

核兵器(熱核兵器)による全世界レベルの戦争(核の炎と形容)の後、恐怖と暴力が支配する荒廃した世界において、悪党どもがあげる歓喜の叫び声。

それがヒャッハー!と呼ばれます。

主に自分より弱い者を見つけた際に集団で使うと解説されています。

しかしながら、こうした歓喜の声もつかの間、たまたま居合わせてしまう、または出会ってしまう一子相伝超絶殺法(拳法)の使い手であります、ケンシロウや、たまにレイなどに、次のページでは痛いお仕置きをされてしまうという哀しいキャラクターたちでもあります。

そして、面白いのが、実は、この「ヒャッハー!」という台詞、原作の「北斗の拳」においては、実は一度も登場したことがないのです。

原作の中で、この描写に最も近いのは、

「ヒャッハッハッ水だ――っ!!」
「食料もタップリもってやがったぜ!!」

原典 ~『北斗の拳』第1話より抜粋~

という非常にこの漫画の世界観を表しているこの第1話の描写であることは間違いありませんが、それでも、筆者含め、こうした集団悪党の歓喜の声らを総称して

「ヒャッハー!」

と脳内変換して、いつしか

ヒャッハー
水だ水だ!

などとネットスラングなどで語るようになってしまったのです。

そして、たまにこの言葉そのものが、原典の漫画のどこにもないことに改めて驚くのです。

まさに、マレーシアのイスカンダル計画、もしくは宇宙戦艦ヤマトがコスモクリーナーDを受け取りに向かう惑星イスカンダルで有名な「イスカンダル」が、あの大王「アレクサンドロス」のペルシャ語訳から来ているという、驚きの音位変換が起こっていることと同じようなものなのかもしれません。

人間の記憶というものは曖昧で、しかも集団記憶となるともはや修正するのは不可能です。

アレクサンダーがイスカンダルになるくらいに時を経れば、ヒャッハー!も別の言葉として語られているのかもしれません。

世紀末199X年からやってきた筆者からのコメントは以上です。

(平成30年8月3日 金曜日)

2018年7月23日

承認欲求についてつらつら考えてみたことを書いておきますという記事です








おはようございます。

2018年7月の承認要求に関する配信記事です。

ちょっとした(オンライン)ゼミのワークショップにおいて、承認欲求についての話題になりましたので、筆者も少し考えてみました。

承認要求とは、人に認められたいと願う人の欲求のことです。

この、誰かに認められたいという社会的欲求は、誰しもあるものであり、それは適度な緊張感を呼び起こし、自らの行動の源になるものだとも思っていたのですが、最近そうでもないなと思い始めました。

自分も、他人の評価を得たいと思って努力しチャレンジするという前向きなイメージを持っていたのですが、ひょんなことから、その他人から認められたいと思う自分自身のほうが、きちんと他人の個々人をそういった観点から「評価」「評定」しているかといえば、全くそんなことはなくて貧相な自己イメージで相手を勝手に批評している程度にすぎないではないかと思ってしまったわけです。

自分自身の面倒をろくに見ることすらできないのに、他人を偉そうに評価することができますでしょうか、という感じです。

そういうわけで、今に至っては、(ごく限定された仕事とか芸術の特定分野とかいう場面であっても)他人に承認ばかりを求めることは危険であるという感じるようになりました。

これは、筆者の大学からの友人のことも大きく影響しています。

大学の法学部同期から転部して文学部に転じ、そして修士博士と進んでいったところ、ずっと指導を仰いでいた担当教官の転勤(自大学から他の大学への転籍)などがあり、自らとは説を異にするところの次席担当教官が所属研究室において繰り上がり教授となり指導教官となった挙句、ろくな指導を受けることもなく、そのまま当該大学院生は、それでも研究成果をまとめて博士論文の草稿として事前提出しましたが、その担当教官は当該大学院生と十分に議論せず受け取りを拒否した、という博士論文不受理の最中、事態は当該大学院生の突然の自殺で闇の中という「事案」「事件」を経験している身としましては、他者の評価などどうでもよい、自分が生きてこそ、という思いを強くする出来事でございました。

もちろん、ここに書いたことは筆者の単なる「推測」「推理」に過ぎませんのですが、当該大学院生、であった筆者の大切な友人はもはや絶対に生き返らないという厳然とした「事実」だけは残っており、そしてもはや真実がなんであったのかを調査し明るみにする機会は永久に失われたのであります。

だけど筆者は自分が死ぬまでこのことを覚えて、そして考えるでしょう。

他人から良い評価をしてもらえるように先回りして行動するということは危険です。

それは、行動の価値判断が自分軸から他人軸に振りかわることを意味し、それはそのまま自分の人生を生きていないということになるのです。

ああ、我が友よ!

君は日本のクソ大学の大学院博士課程なんかすっ飛ばして、そのまま世界に雄飛すればよかったのです!

そして、くだらないアカデミック・ハラスメントなんかどうでもいい、気にするな、君の研究は素晴らしい大丈夫だ世界が認めていると、我々友人はもっと強く、強烈に彼に伝えてあげるべきだったのです!!

現地のタイ国の警察制度という研究対象に対し、原文のタイ語で書いた論文など読めない、せめて英語か日本語にしろと迫ったとか言ったのならば、それが学術的「指導」の名に値するのかどうか、こちらは学部卒に過ぎない浅学ですが、そのような「(指導)教官」と言われる方々とは、一度とっくりと話し合ってみたいと思っております。

さて、他人に人生を握られるのではなく、自分の人生を生きる方法は、やはりここでいう承認、に説明を加えて「自分自身」を入れることではないかと思います。

自分のやっていることを認める、自分の心象を認める、自分の存在価値を自分だけは認めるということです。

そうすりゃ、少々の他人の批判や無関心など、大したことはなくなります。

自分の意思決定の過程において、他者との関わり合いはとても大切だと思います。

しかしながら、自律し個が確立してからの語り合いでなければ、単なる他者への忖度人生に堕する危険もあるのではないかと思いました。

同じように、何かの成果を比べるにしても、他者基準や他者評価より、自分基準や過去の自分との比較をしたほうが有益で軽やかだと思います。

成人式を2回も超えてまいりますと、他人は他人でコントロールできない、変えられるのは自分のみ、という傾向を強くなっておりまして、その方が他人の自由や権利を尊重する、ということにもつながると最近とみにそう思うのです。

変えられるのは自分だけ、そうすれば世界が変わる、とは誰かの名言でした。

意外に真実はシンプルにできているのかもしれません。

いろいろと書きましたが、飲み会と夜のラーメン好きはどうしても変えられない筆者からは以上です。

(平成30年7月23日 月曜日)

2018年5月10日

機動戦士ガンダムシリーズの背景をおさらいして昭和のクリエイターの大構想に触れようという話です

2018年5月5日公開





おはようございます。

2018年5月の壮大なアニメ、といいますか宇宙世紀の伝説、日本の誇るいわゆるガンダムシリーズというコンテンツのさわりだけに関する配信記事です。

筆者が小学生の頃にはすでに完成していた宇宙世紀の世界観について少し補足して話を始めますと、宇宙世紀は「世紀」とは称しますが、100年区切りのセンチュリーの世紀ではなくて、実際には「年」をカウントする「暦」「歴」のことであります。

例えば、ガンダムシリーズ第1作「機動戦士ガンダム」の舞台となる「宇宙世紀0079年」とは、宇宙世紀に入って79年目の年であることを意味します。


そして、その呼び方は、常にゼロを含む4桁で表記されることも決まっておりまして、読みも0001年は「トリプルオー・ワン」、0079年は「ダブルオー・セブンティナイン」、0123年は「オー・ワン・トゥエンティスリー」と英語読みするのがならわしです(ここ重要、テストに出ますよ!)。

宇宙世紀は、本来ならば宇宙暦とでも称するべきですが、そういうことで最初の設定を変更せずそのままきまして、略称も、西暦のA.D.や紀元前B.C.に習い、U.C.と表記されます。

これは、長い地球上の紛争を経てついに地球統一政府である地球連邦政府初代首相に就任したリカルド・マーセナスという人の演説によると、本当は「ユニバース・センチュリー」とするべきところ、「人類はひとつになれるという事実を普遍化し、協調し、一個の種として広大な宇宙と向き合う」という祈りを込めて、あえて普遍的世紀(ユニバーサル・センチュリー)と名付けたといいます。

「universal」には、宇宙に関するという意味合いもあるといえばありますので。

さて、そもそも西暦何年をもって宇宙世紀0001年とするのかは、公式には定められておりません。

ただ、人類のスペースコロニーへの移民が開始された年を0001年(元年)とすることだけは決まっています。

ですので、このSF(サイエンス・フィクション)に現実世界が追いつくことをもって、公式に西暦何年から宇宙世紀が始まるのかどうかは決まってくるということだと思います。

さていよいよガンダムシリーズの本論を…まず一年戦争の手前から…、と思いましたが、すでにだいぶ紙面を割いてしまっているので、次回以降に繰り延べたいと思います。

ただ一つだけ、宇宙世紀0079年の初頭から0080年の年頭にかけて行われた「一年戦争」とは、スペースコロニーと地球政府とは壮絶な戦争を行ったもので、人類はその総人口110億人のうち、実に半数の55億人を一週間で失ったという、恐ろしい動乱のはじまりです。

宇宙世紀元年以降、地球における人口爆発の根本的解決策として、宇宙への移民が進められ、そうして建設されたスペース・コロニーへの移民が地球連邦政府による事実上の強制によって強力に推進された、という背景があります。

そうして、一年戦争開戦前までの時点で人類の総数110億人のうち約半数がコロニーに移住するに至ります。

ここで、地球から最も遠いスペース・コロニーであるサイド3において、地球連邦政府の圧政を跳ね除けようという独立戦争という動きが起こるのです。

そしてガンダム観たことのない人でも観たことがあるであろう、放棄したスペースコロニー自体を地球に落下させ、数十億人の命を奪った「ブリティッシュ作戦」(通称コロニー落とし)の有名なシーンに続くのです。

この世紀の大虐殺、植民地(コロニー)を喪失したことで大英帝国が衰退した故事にちなみ、さらにその植民地(コロニー)を本国にぶつけるという意味で「ブリティッシュ作戦」と名付けたようですが、こんなこと現代で構想したならイギリス政府から公式ルートで抗議が届きそうなレベルです。

有名なガンダムやザクやグフ、ドムやズゴック、ゲルググといったMS(モビルスーツ)も、そもそもそうした宇宙戦争を勝ち抜く兵器として開発されたのです。

なんとここまで書いてもまだまだ物語の「背景」にしか過ぎないというところに、これを構想した日本の昭和なクリエイターたちの壮大な世界観、これが50年近く経過してもまだ広がっていることに、驚きを禁じ得ないわけであります。

いつも構想なきままに書き始めてしまうので、いつも尻切れとんぼな記事にしてします筆者からの雑文は以上です。

(平成30年5月10日 木曜日)

2018年4月21日

クラウドシステムを用いた学習ノウハウの共有化についての論考です







おはようございます。

2018年4月の英語学習に関する配信記事です。

直近に受けたTOEICのスコアが気になる筆者です。

スコアの前に、やっぱり実力をつけるのにはどのようにしたら良いか、自分なりの隙間勉強法を今回は記載して、広く皆さんの助言なりをいただこうと思います。

まず、筆者は日本の受験勉強スタイルで育ちましたので、リーディングのやり方はあまり困りません。

とにかく英字新聞だろうが穴埋め問題だろうが、多くの英文に触れて読みこむ、これで十分だと思っています。

確かにリーディングについても一部、文法的な言い回しやコロケーション(日本語でもありますけど、目薬を差す、といったり辞書を引く、といった決まった言い方)といったところで若干の考慮が必要な部分はあるけれども、特に方法論で困ることはなくて、あとは英文読むのをやるだけだと思っています。

しかしながら、リスニングはそうは行きません。

英語圏にぶち込まれて日本語は遠い国にワープできればいいのですが、なかなか日常的に英語を耳にするという環境に身を置ける人間は、実は今の日本でも少ないのではないかと思っています。

こうした英語独学話者にとって、リスニング力をどう強化したら良いか、ここはとても課題になってきます。

真面目な学習者ほど、迷路のように解決策が見つからないわけです。

ここで、少し語学を勉強と思わずに、所詮コミュニケーションの一手段に過ぎないと考えることができれば、インターネットなどを介した英語の生の声や音源を探し当て、とにかく聴きまくるという環境を自ら構築することができると思います。

筆者も、リスニングの講座を、それこそNHK基礎英語から一通り取り揃え、時間があれば聞き流すということを始めた結果、累計で、感覚的に500時間くらい聞いてきたところで、なんとなく英語というものがわかるようになってきて、それからはとりあえず聞いてわかるところを拾うという感じになってきました。

おそらく、TOEICのリスニングで満点を取れるレベルに達するには、あと500時間、合計1,000時間程度は最低限必要ではないかと個人的な感覚で思います。

とすれば、とにかく英語のラジオでもNHKニュースでも、聴けるものはなんでも聞いておくというのが良さそうです。

今は、スマホのポッドキャストで無料の英語のニュースやショートストーリーも聞けますし、アマゾンプライムで無料の映画(字幕なしですが)も観ることができます。

こうしたクラウドシステムによるノウハウ共有が今日の教育現場に与える影響はものすごく大きいのですが、残念ながら現在の教育システムは江戸時代の寺子屋時代以降の(それはそれでとても優れたシステムですが)座学スクール形式を踏襲していて、個人個人の興味や深度に即したものになっておりません。

このあたり、もう少し体系的に理論立てて突き詰めてみたいと思います。

実験ソースは自分自身ですので、適宜進捗ありましたらレポートいたします。

こちらからの、「勉強のやり方」についての記事はこのようになりますがが、勉強への興味の持ち方については相変わらずわかっていない筆者からは以上です。

(平成30年4月21日 土曜日)

2018年3月17日

朝の光を浴びて体内時計をリセットすれば1日をスッキリ過ごせるという話です






おはようございます。

2018年3月の生活習慣に関する配信記事です。

本日は、できるだけ同じ時間に起きるようにすれば1日の体のスケジュールが整ってスッキリ過ごせる可能性が高まるという話をしたいと思います。

人間は、太陽を中心とした1日24時間のリズムより少しだけ長い、1日25時間の生体リズムで生きていると言われています。

なぜぴったり24時間に合わせていないのか、そこは遠い遠いご先祖様に聞いて見ないと本当のところはわからないのですが、一説には、完璧に24時間に合わせてしまうと、何かの事情(安全の確保等)で眠らずに遅くまで動いていないといけない場合などに備えて、わざと長くずらしたものと考えられています。

そうして、人間の体内時計は1日に25時間のサイクルで回ろうとしているので、現実の生活としては、毎日毎日1時間分の体内時計を戻して行くという必要があるというわけです。

そうして、その体内時計のリセットに最も有用なのが、朝の陽の光であることもわかってきているということで、日光が目を通して脳に信号として送られると、体内時計が一旦リセットされて、そこからまた1日が始まるというわけです。

それでも、夜は1時間分体内時計がずれたまま進んでいますので、できれば早く寝るように心がけて、そうして翌朝また眠いけれども一気に陽の光を浴びて、体内時計をリセットするのが、長期的に最も人間としてのパフォーマンスを上げる最も適した方策ということになるのです。

ということで、朝起きる時間を一定にし、できれば起きるときに陽の光を浴びて二度寝しないという習慣を身につければ、非常に強力な力となることはわかったと思います。

逆に、夜中に強い光の下にいることや、朝食を抜いたり、夜食を取ったりすることは体内時計を後ろにずらし夜型生活パターンを助長することとなりあまりよくありません。

よいこともよくないことも、よくよくわかったところなのですが、どうしても宵っ張りの朝寝坊、夜中のラーメンから抜け出せない煩悩に浸かった筆者からは以上です。

(平成30年3月17日 土曜日)

2017年9月19日

いまさらですがロングテールというマーケティング理論について説明します






おはようございます。

2017年9月の記事です。

今回はマーケティングの世界で特に最近言われるようになったロングテールという用語について、いまさら聞けない筆者のような人のために簡単に解説するものです。

ポニーテールのことではありません。

ロングテール(Long tail)とは、ネット通販などによる「在庫無限大」の販売戦略が取れるようになってきた頃から言われ始めた現象でありまして、すなわち、売れ筋であるメインの商材の売上合計より、あまり売れないニッチなマニアックな商品群が大きく上回ってしまう、それによって全体の売上を極大化する、といった現象や理論のことを指します。

これは、歴史的にはアメリカのWired誌編集長のクリス・アンダーソンが提唱したものらしく、彼は、左からX軸に「売れ筋商品」と「それ以外の商品」を並べ、それぞれの売上をY軸に示しそれぞれの商品の売上高を並べたグラフを作ると、売れ筋商品の群が恐竜の頭に、そして売上の少ないほうの商品群(テール)が、長く長く低く図示され、それがまるで恐竜のしっぽに見えることから、ロングテール(長いしっぽ)と称されたようです。

ポニーテールのことではなかったのです。

このロングテールの考え方によって、これまで鉄板の販売法則であった、2割の優良顧客にフォーカスしようという戦略は大きな転換点を迎えることになります。

すなわち、実店舗などでのリアル販売においては、全体の2割を占める売れ筋商品に注力したほうが全体の売上が上がるという研究がなされてきました。

パレートの法則(別名 80:20の法則)などと呼ばれ、「売上の8割は2割の優良顧客が生み出す」「2割の重点項目で80点取れる」といった応用で考えられ、伝統的にずっと2割の優良顧客を優遇するというマーケティングが取られてきたのです。





販売宣伝コストや在庫陳列コストが極少化された





なぜかというと、実際の店舗で売れない死に筋商品ばかり並べていても、全く売上が立たないし、在庫として置いておくだけでコストもかかり、かつ商品を説明する販売員の人件費や店舗の賃料などの固定費を回収できないため、勢い売れる商品を並べることが必要となるからです。

店舗面積(棚の面積)が有限である以上、経営資源(リソース)を全ての商品に満遍なく割くことはできません。

ですので、店舗ごとに「何を売っている店か」に特化して、生鮮スーパー、小売店、お菓子屋といった業態カテゴリも生まれてリソースを効率的に使おうとします。

しかし、特にインターネットでの販売の場合、インターネットモールという仕組みを作ってしまい顧客を誘引することに成功すれば(ここが一番難しいのですが)、これらのコストは限りなくゼロとなります。

例えば、Amazonは売れるまで人がつく必要もなく、在庫として並べておく必要もないのです。

ひと月に一つしか売れないような「死に筋商品」でも、それらを星の数ほど保有してインターネットモールに並べておけば、そういう死に筋マニアック商品の売上が結果として人気商品の売上を逆転しうる、これこそがロングテールの考え方となります。

尻尾は長ければ長いほど良いのです。

尻尾商品それ1つ1つはごくごく少数しか売れないですが、ちりも積もれば山となり、その総体として莫大な売上を生み出すのです。

繰り返しますがやっぱりポニーテールのことではないことを最後に強調して、本稿を終わります。

(平成29年9月19日 火曜日)

2017年9月17日

年末に向けて政治家への寄付などをしてみむとて気をつけておくべきこと







おはようございます。

2017年9月の記事です。

現職首相が衆議院解散について言及した、という政治状況から、年内の解散について現実味が急に増してきました今日この頃です。

さて、政治家と一律に言いましても、筆者のような在野の政治好きから国会議員や内閣総理大臣までいろいろ種類があります。

そして、それらの政治家のうちの一部に対しする活動資金を支援する意味での個人としての寄付行為は政治献金として寄附金控除の対象になります。

だいたいこんな感じです(国税庁ホームページより)

次のいずれか低い金額-2千円=寄附金控除額として所得控除の対象となる

イ その年に支出した特定寄附金の額の合計額
ロ その年の総所得金額等の40%相当額



政治家とはどの範囲の人をいうのか




そして、政治というのは経済と同様に国民生活のあり方そのものですから、本来は選挙権の有無にもかかわらず国民全体に関わるものですが、狭義の意味で個人献金が寄付控除の対象となる政治家とそうでない政治家がいますので、ここで詳しく解説しておきたいと思います。

所得税の寄付控除の対象となる一部の政治家への寄付とは、正確には、政党や後援会など政治団体への寄付になります。

そして、その政治団体とは、何かと申しますと、

特定の団体といいまして次の五つの団体です。

(1) 政治資金規正法第3条第2項の政党
(2) 政治資金規正法第5条第1項第2号の政治資金団体
(3) 政治資金規正法第3条第1項第1号の団体のうち、国会議員が主宰するもの又は主要な構成員が国会議員であるもの
(4) 政治資金規正法第3条第1項第2号の団体のうち、公職に既についている人の後援会
(5) 政治資金規正法第3条第1項第2号の団体のうち、これから公職に就こうとする候補者の後援会

以上、 - No.1154 政治献金と寄附金|国税庁
 https://www.nta.go.jp/taxanswer/shotoku/1154.htm

ご参照ください。

これを読者目線で解説しますと、

(1) 国政政党(自民党、民進党、公明党、共産党、といった国政政党そのもの)
(2) 国政政党が指定する政治資金団体(自民党の国民政治協会、民進党の国民改革協議会など)
(3) 国会議員が主宰・構成する政治団体(派閥やグループの正式名称で呼ばれる政治資金団体など)

ここまでは総体、組織としての団体なので、より政治家個人にフォーカスして献金したいという場合は、以下

(4) 公職(注)についている人の後援会
(5) これから公職(注)に就こうとする候補者の後援会

が対象になります。

そして、(注)が非常に重要になりまして、(注)に限定列挙される政治家とは

・国会議員(衆議院議員と参議院議員)
・都道府県の議員(東京都議会議員とか京都府議会議員とか大阪府議会議員とか北海道議会議員とか県議会議員とか)
・都道府県の知事(東京都知事や大阪府知事、北海道知事や福岡県知事など)
・政令指定都市の議員(横浜市議会議員とか福岡市議会議員など)
・政令指定都市の市長(京都市長とか熊本市長とか)

と限定されています。

というわけで、全国の、2017年現在20ある政令指定都市ではない市、及び町村の議員(政令指定都市ではない市議会議員、町議会議員、村議会議員)と首長(政令指定都市ではない市長、町長、村長)への個人献金(寄付)は控除の対象ではない、ということになります。

筆者の近隣で整理するとこうなります。

・福岡県知事、福岡県議会議員→OK!
・北九州市長、北九州市議会議員→OK!(北九州市は政令指定都市)
・福岡市長、福岡市議会議員→OK!(福岡市は政令指定都市)

ですが

・糸島市長、糸島市議会議員→だめ!(糸島市は政令指定都市ではない)
・福岡県鞍手郡鞍手町長、福岡県鞍手郡鞍手町議会議員→だめ!(町は例外なくNG)
・福岡県朝倉郡東峰村長、福岡県朝倉郡東峰村議会議員→だめ!(村は例外なくNG)

となります。

あくまで現行は上記の通りですが、個人的には広く政治を志す議員や議員立候補者に対する個人寄付の裾野が広がることが望ましいと筆者は思っております。

政令指定都市でない市、及び町村議会議員や首長が、役所への単なる連絡係やお世話係といった付随的な役目を超えた真の政治家としての役割を担ってもらうためには、最低限必要な処置ではないかと思っております。




その他大事な留意事項





その他、もしこれを読んだ方が政治家(の後援会)に寄付したい、と考えた時に気をつけてもらいたいことを列挙しておきます

・繰り返しますが、寄付できるのは個人のみで、会社や団体など法人名義での寄付はできません

・年間50,001円以上の寄付の場合、後援会の収支報告書に氏名・住所などが掲載されます

・年間50,000円以内の寄付でも、確定申告で寄付金控除の申請をすると、後援会の収支報告書に氏名・住所などが掲載されます

・そして、後援会の収支報告書は、開示対象の文書です

・そして、もしあなたが外国人の場合は寄付できません


(以下ディスクレーマー)

1.控除の計算方法などの情報は、国税庁ホームページなどを再度ご確認ください
2.個別の政治家後援会への寄付や控除は、それぞれの後援会にご確認ください
3.確定申告については、お近くの税務署や税理士にご相談ください

繰り返しますが、筆者への個人献金は、大変ありがたいのですが、現時点では、控除の対象外です(後援会もありませんので)!

こちらからは以上です。

(平成29年9月17日 日曜日)

2017年2月15日

地方自治体の首長が国会議員を出す全国政党の党首や幹事長になる論点






おはようございます。

2017年2月の配信記事です。

2012年の冬あたりから、大阪市長や大阪府知事(どちらが上司でどちらが部下かよくわかりませんが)、滋賀県知事や名古屋市長などが国政に関与すべく、「地域政党」の党首や幹事長として振る舞う姿が出てきています。

日本における市長や県知事とはそのように軽い職責なのでしょうか。

また、兼務する国会議員というのは何でしょうか。

国会議員はその本来の職務に専念すべきであるとされており、衆議院参議院議員の兼職はもとより、原則として国会法により国または地方公共団体の公務員との兼職は禁止されています。

兼務は例外として、内閣総理大臣、国務大臣、内閣官房副長官、内閣総理大臣補佐官、副大臣、大臣政務官、両議院一致の議決に基づきその任期中内閣行政各部における各種の委員、顧問、参与その他これらに準ずる職に就く場合や特派大使、政府代表、全権委員、政府代表又は全権委員の代理並びに特派大使、政府代表又は全権委員の顧問及び随員といった外交上の特権を持って赴く場合などに限られています。

日本は議員内閣制を採用しており、首相並びに国務大臣の過半数は国会議員を充てなければならないため、この例外は憲法の予定しているところと言えますが、憲法自体が地方自治の拠り所として規定している地方公共団体の首長を兼ねて良いとはどうみても解釈できません。




どっちつかずにはならないか




かような状況がありますので、大阪市長や滋賀県知事は政党の代表として自らが国政選挙に出馬できるよう(自らの地方公共団体の首長という地位は保持したまま)、いろいろとメディア通じて運動しているわけですが、それこそ現時点では、自らは安全なところに隠れて文句を言うだけの者に過ぎないとも言えるのです。

国政に出たいなら、知事や市長の職は辞して行うべきで、これは憲政史上すべての国会議員がやってきたことです。

もし、首長が国会議員を兼ねて良いということになれば、同じ論理で市議会議員のまま衆議院議員にもなれますし、県議会議員のまま参議院議員にもなれることになります。

もっと言えば普通の公務員の窓口にいて住民票などを出している一般職員がそのまま市長にもなれてしまうし県会議員にもなれてしまうことになってしまいます。

これでは国政とか地方自治とかいう以前の問題になってしまいます。

筆者は、憲法学徒としても、憲法が予定している地方自治を破壊する無秩序な状況を作り出すことが目的としかいえないこういった動きについては否定的です。

どうかそのような場合は堂々と、無職となってから国政に打って出て貰いたいものだと思います。

飲み会の幹事の役目だけは、無投票再選多選しております筆者からは以上です。

(平成29年2月15日 水曜日)

2017年1月15日

金融用語でよく出てくる「原資産」というものを超簡単に解説します





おはようございます。

2017年1月の記事です。

今日はちょっとむずかしい話をします。

投資を考えるときに、金融オプションなどの金融派生商品については特に、原資産が何かということをきちんと理解することが大切です。

原資産とは、先物やオプション取引の基本となる金融商品や現物商品そのもののことを指します。

通常は、株式、債券などの個別金融商品から通貨、株価指数、標準国債、作物、天気、気温など、金融取引の基準となりうるあらゆる商品を総称して「原資産」といいます。

たとえば、取引されている「株式」という現物資産が原資産であり、この株式という原資産を基にして取引されている、たとえば日本を代表する研究開発型のエレクトロニクスメーカーの株式に連動して上下3倍の振れ幅で価格が上下するという金融商品があれば、この金融商品(デリバティブ)の原資産はかのエレクトロニクスメーカーの現物株式ということになります。

さて、為替取引における原資産は、外国通貨(通常米ドル)となります。

FXとは外国為替証拠金取引(margin Foreign eXchange trading)の略で、外国の通貨を売買して、利益を得る取引のことを意味します。

そのまま外国為替取引を行う(現物取引を行う)こととの一番の違いは手元の資金を担保に、何倍もの金額の取引ができる「レバレッジ」が使えることです。

例えば、100万円が手元にある場合、レバレッジを10倍にすれば、1,000万円分の通貨を原資産として取引できます。

為替差益やスワップポイントも10倍になります。

しかしながら当然リスクも10倍ですので、仮にここでの原資産である1,000万円の為替が100万円の為替差損を抱えた場合、手元資金100万円は消し飛んだ、ことになります。

このようにリスクもリターンも自由に設定することができますが、あくまでリスクとリターンは表裏一体というものということになりますので、気をつけましょう。

投資の下手な筆者からの解説は以上です。

(平成29年1月15日 日曜日)

2016年12月3日

ほぼ雑談ですが「黒い三連星」というお題で面白い話をいたします

黒い三連星



おはようございます。

2016年12月の記事です。

今のところ架空の商品開発の話です。

ただし今後実現するかもしれません。

***

平成も四半世紀が過ぎようとしていた年末のこと、わが国の筆記用具業界は商品の単価下落、海外の安価製品の攻勢を受け壊滅寸前であった…。

地方の中堅ボールペン会社である慈恩(じおん)の商品開発部で、霧紫亜(きりしあ)部長の下、鎧亜(がいあ)、折手賀(おるてが)、末主(まっしゅ)の三兄弟部員は、こうした危機を打開すべく今までのボールペンの常識を覆すブレイクスルーを考えていた。

早くしなければ、このままでは我が社は市場のコモディティ化の波に飲まれてしまう!

当時の心境を三人は赤裸々に語ってくれた。

三人は、異なる色を一本のボールペンで出すことのできる多色多機能ボールペンにその活路を見出そうとしていた。

第一の試作品として百色の多色ボールペンを試作しこれを百式と名付けたが、これは重量と太さが大根並みとなってしまい、両手で握って書くかガリバーを絵本かラピュタの国から連れてこなくてはならないことが判明したために断念した。

三人は、鉛筆をくるくる回しながら考えた…。

ふと末主(まっしゅ)がつぶやいた。

「多色ボールペンって、結局黒ばっかり替芯しているよね…」。

そうなのだ。折しも世に存在するボールペンの文字色は90%以上が黒であり、残りもほとんどが「赤」「青」が占めるという調査結果が出たのであった。

その証拠に、世の中には3色でも黒のインクだけが切れている「2色」ボールペンが会社の使用済み文房具入れに大量に眠っているではないか!

さりとてボールペンの黒替芯を常備しておき取り替えるのは消費者には大変面倒だ。

だったらボールペン自体に黒を複数在庫したらいいんじゃないか?

ここに3色ボールペン「黒い三連星」のアイデアが誕生した瞬間であった。

試作したところ、3色ボールペン「黒い三連星」は更に驚きの性能を発揮した。

どの芯をノックしても黒色の色が出るのである。

つまり、黒はどれかとノックする前に確認する手間がいらないのである。

画期的であった。

これで間違って大事な契約書サインやラブレターの文字が赤面したり、真っ青になったりすることもない。

3人はこれは行ける、戦えると確信した。

その後の商品の大ブームは、世の皆さんのご存知のとおりである。

追い込まれた3人が生み出したジェットストリーム・アタックは見事ヒットしたのであった…。

ボールペン業界よ、永遠に…。

(平成26年1月28日)


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2016年9月4日

「こちら葛飾区亀有公園前派出所(通称こち亀)」40年連載200巻で終了






おはようございます。

2016年9月の記念すべき長寿漫画に関する記事です。

「こちら葛飾区亀有公園前派出所」という長寿漫画が、ついに記念の200巻目をもってフィナーレを迎えることになりました。

作者の秋本治(あきもとおさむ)氏は、1976年にこの漫画の連載を週刊少年ジャンプに始めてから、なんと一本もネームを落としたことがないという伝説的な人です。

この領域には、同じく週刊少年ジャンプで連載を開始し、今(2016年9月時点)でも連載シリーズが続いている「ジョジョの奇妙な冒険」の作者荒木飛呂彦氏くらいしかおられませんが、とにかく激務と極限までのプレッシャーを要求される漫画週刊誌において、40年もの長きの間、根強い支持を得て連載を続けてきたことは驚嘆の一言です。

淡々と努力する、そして非凡に至るという鏡のような方々です。

1976年より節目の40年、思えば主人公の両津勘吉巡査長はあらゆる日常の一コマに登場し、そして神様やロボット、美女に下町に少年時代とありとあらゆる場面で大活躍してきました。




筆者の人生にまさに重なるこち亀





筆者も、この漫画とほぼ時を同じくして生きて過ごしてきましたので、4年に1度オリンピックの時に登場する日暮巡査といったレアキャラや、いつもの定番キャラなど、実に多彩な漫画の世界を見せてくれました。

一つの時代が終わったと感じた瞬間でした。

1976年と言いますと昭和52年、そこから昭和63年まで12年、そして平成はなんと28年間も続けて足かけ40年を旅した壮大な旅となります。

ページ数にすると実に3万ページ強。

連載途中に、本物のほうの「派出所」の呼称が警察庁によって廃止されて「交番」が正式名称となってからも同じ「派出所」のタイトルで連載が続きました。

こんな漫画は今後出ないかもしれません。

最終話に期待しましょう。

実は親が警察官だったという漫画ばっかり読んでいる筆者からは以上です。

(平成28年9月4日 日曜日)

2016年8月27日

カードゲームのトランプにはいろいろな意味があるとあれこれ考えた話です







おはようございます。

2016年8月の記事です。

カードゲームのトランプの話をいたします。

トランプが52枚なのは、1年が52週であることからといいます。

そして、13枚ずつ4種類あるのは、ダイヤが春、ハートが夏、クラブが秋、スペードが冬の四季を現しているとのことです。

これにカードの数字を全て足すと364になり、最後にジョーカーを1加えると365日になります(7ならべでわかるとおり、1から13(キング)まででの真ん中の数字は7であり、7日で1週間となることからもわかると思います)。

本当はうるう年が4年に1回あるので、⒈25枚加える必要がありますので、トランプの中には、ジョーカーが2枚入っているものもあるということです。

このように、天体の動きなどと、いろいろな人間の営みは関連しているようです。




天文学に通じる話





天体は周回運動をして元に戻るものですが、さて、世界最大の年金基金である日本の年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は、2016年8月の報道で2四半期連続で巨額の運用評価損を計上した模様です。

国内株価の下落や円高をカバーしきれず、運用資産額は大きく目減りし、一説には大規模な金融緩和前の水準に戻ったとも言われます。

あれだけ金融緩和して、借金を更に積み上げて財政出動してきたのですが、少子高齢化には抗せられなかったということなのかもしれません。

物価上昇目標2%という設定も、原油などの資産価格の下落や円高基調における輸入品の割安感などで、お世辞にも前進しているとは言えない状況です。

物価は上がらず、金利は常時マイナス水準をつけるという、金融理論的には異常な状況が通常になりつつあります。

資金運用難はますます続き、マイナス金利が日本の銀行等の貯蓄性金融機関の収益に与える影響は甚大です。

ここは、トランプになぞらえて大幅な政策のシャッフルが必要なのかもしれません。

そして、デフレは続く少子化社会においては「当たり前」「通常のこと」であり腰を据えた長期的な対策が必要であるという理解が求められているのかもしれません。

財布の中身はいつもデフレの筆者からの雑感は以上です。

(平成28年8月29日 日曜日)

2016年8月14日

(日本人の基礎知識)日本の都の変遷をおさらいしておきます

都の跡(イメージ)





おはようございます。

本日記事執筆は平成28年8月14日日曜日です。

日本の現在の首都は東京ですね。

そして、本格的に都というものが隋の都洛陽や唐の都長安のようなものをまねて造られたのが「正式に」確認されている難波宮から数えると、どのようになるか一説を教科書的にご紹介します。

因みに、都で「京」と呼ぶ場合と「宮」と呼ぶ場合とがありますが、「京」は、条坊制を整えた都市が造られた場合にのみ、そう呼ばれます。

それ以外で原則天皇のいらっしゃるところの場合は「宮」というそうです。

宮殿があるところ、という意味なのでしょう。

さて、歴代日本の都の一覧です。






[歴代日本の都]






不明(諸国乱立)→

難波宮(651年造営)→

近江大津宮(667年造営)→

飛鳥浄御原宮(671年程度)→

藤原京(694年遷都)→

平城京(710年遷都)→

恭仁京(およそ740年)→

難波宮(およそ740年)→

紫香楽宮(およそ745年)

平城京(745年遷都*二回目)→

長岡京(784年遷都)→

平安京(794年遷都)→

福原京(1180年遷都)→

平安京(1180年遷都*二回目)→

東京(1869年遷都*2016年現在に至る)

となります。

南朝の吉野宮などもありますが、ここはあえて平安京で統一しております。

書いていて、平安京から東京というところの飛び方が改めて凄いと感じました。

古来、飛鳥奈良から近江(滋賀県)、大阪、京都そして神戸くらいまでは変遷しましたが、一気に東の果ての江戸まで都が遠征するわけです。

地理的にも、文化的にも、臣下であった征夷大将軍のお城を皇居に変えるなど、なかなか我が国はエコ精神に満ちているのかもしれません(諸外国なら力を失った大君の城等は打ち壊すのが通例かと)。

最後に、それだけぶっ飛んだ前例として、是非「不明」の部分の一つには九州大宰府の都を入れてもらいたいと願う九州出身の筆者からは以上です。

(平成28年8月14日 日曜日)

2016年6月19日

映画の年齢制限レーティングについてじっくり考察してみたというお話

ポップコーンの食べ方も下手です





おはようございます。

2016年6月の映画に関する配信記事です。

さて映画館にはあまり行かない筆者ですが、時々見る時に紹介されている横についている「G」やら「PG」やらの記号の意味がわからなかったのでちょっと調べてみました。

知っていて別にものすごく役に立つわけではありませんが、映画というものをどのような意図で作っているのか、その一端がわかるものでもありますので、ちょっとお付き合いください。

これらの記号は、映画のレーティングと呼ばれ、一般に何歳以上が見ることができるのかといった指針として使われます。

そして、各国によって微妙に運用が違い、それゆえに混乱の原因ともなっているのですが、ここでは我々が見る映画として多いであろう日本やアメリカのレーティグを主にご紹介します。




レーティングの例





「G」・・・「General Audiences」で、一般の略称です。つまり誰でも見ていいということです。

「PG」・・・「Parental Guidance」の略で、その後につく数字は子供の年齢です。日本でPG12ならば、一般に小学生の子供に見せる場合、親がついていったほうが望ましいという意味です。

「R」・・・「Restricted」です。数字の年齢以下の子供だけで見るのは禁止されます。日本ではR+15というのが有名だと思います。

実際の映画で言いますと、太平洋戦争の激戦を描いたアメリカ映画「硫黄島からの手紙」は15+のレーティングです。

確かに指揮官自身がアメリカ駐在時代にアメリカ将校たちから貰ったピストルで自決するシーンなどが出てくるのでさすがにGというわけにはいかないのでしょう。

しかし、同様に第二次世界大戦や太平洋戦争を描いたアメリカ映画「プライベート・ライアン」や日本映画「男たちの大和」はG指定なのです。

筆者の少ない映画鑑賞暦で、もっとも感動したのは日本映画「南極物語」でリーダー犬リキやシロが死ぬところ、そして最もトラウマになったのが日本映画「はだしのゲン」で原爆が投下されて多くの人が溶け落ちるところ(目が飛び出て蒸発するシーンは正視に耐えない)ですが、「プライベート・ライアン」のノルマンディー上陸のシーンの凄惨さもそれに匹敵するもので、気分が悪くなって映画館から出て行ってしまった人もちらほらいたくらいです。

これでGというのは、かなりGの概念は広いものなのかもしれません。

それからリアルに戦慄しましたのは、韓国映画「シュリ」の冒頭、北朝鮮の工作員の訓練風景が淡々と描かれるところで、こちらも相当気分が悪くなるものでした。

この「シュリ」も「プライベートライアン」も、なぜか女子と一緒に見に行ってしまい、振り返れば非常に選択を誤ってしまいました。

映画をあまり見ないので、わかっていないのです。

それなのに、宮崎アニメ「耳をすませば」は男同士で行ってしまうというバランスを欠いた対応となっております。

繰り返しますが映画はあまり見ないので、どうやって誘ったらいいのかわからない筆者からは以上です。

(平成28年6月19日 日曜日)

2016年6月8日

ハードルを限界まで下げて初動負荷を軽くするという対処方法がある話








おはようございます。

2016年6月にもなりまして、なかなか良い習慣が身につかないビルメン王(@shinya_ueda)です。

昨日もやってはいけない寝る前のビールという、胃腸と脳に過大な負担を強いるいけないことをやってしまいました。

今日は飲まないぞと決めて、帰宅遅い夕食といい感じで進んできたのに、寝る前の最後の悪魔のささやきに抗することができませんでした。

まあ、いつものことなのですが…。

さて、習慣化するために自分のような意志が弱いものでも取り組める方法を考えてみました。

まず、「〜しない」という目標は持たないほうが良いです。

先のビールの件にしても、ビールは飲まないぞ!と「決意」したところで、一瞬先においては何にもなりません。

冷蔵庫になくたって、コンビニまで買いに行く始末です。




決意とか覚悟などは個人レベルではあまり役に立たない





一瞬しか効用が続かない「決意」「決心」「覚悟」といったものは、あまり習慣化には役に立ちそうにありません。

ですので、「ビールの代わりに炭酸水を飲む」という目標設定にするといった方がよい解決策となります。

炭酸水を買いに、わざわざコンビニに行っても良いのです。

炭酸水の代わりに、白湯でももちろん可です。

白湯なら沸かすだけです。

次に、「やる前の緊張感」を極限まで落とすために、目標のハードルを思い切り下げるという方法もあります。

初動負荷を「想像」して身構えてしまうのです。

42キロ走ろうと決めたらなかなか体が動きません。

そこで、500メートルとりあえず走り始めてみよう、と思って外に出るのです。

英字新聞を1日分読破しようと決意しても、なかなか読み始められません。

日本語の新聞でも全ページを読むことはほとんどないと思います。

ましてや英語です。

1記事、もしくは1行でもいいので、目標を極小化します。

そうすると1分もかからずに達成できるので、始める際のハードルが下がります。

目標達成してから、もう少し読むかな、走るかなと判断すればいいのです。

人間面白いもので、一旦設定した目標を「達成」する実感を持つと、次々に目標を設定したくなるものです。

なので、本を最初の1ページ読む、とか英文記事を1行だけ読む、といった限界まで下げた目標や日課を設定することで、心理的負荷をコントロールすることができるのです。

快適な目標ライフを送りたいものです。

ブログも1行書くという目標で臨んでおります筆者からは以上です。

(平成28年6月8日 火曜日)

2016年5月28日

ハードルを下げるということが時には続ける際の妙薬になったりします

ハードルを設置しない




おはようございます。

2016年5月のハードルを下げるとよいという配信記事です。

ツイッターネームはビルメン王(@shinya_ueda)です。

先日、ブログの読者と一緒にリアルな場所でうまいものを食べながら語り合うという貴重な機会がありまして、そこでなかなかよい話が対話の中から展開されたので共有したいと思います。

かなりの長文になりましたが、よろしくお付き合いください。

自分らしい人生を生きる一つの方法として、「ハードルを下げる」ということが結構重要ではないかということです。

人は、人や自分に「期待」しながら生きています。

しかしながら、こうした「期待」は大きすぎれば自らや他人を縛るという点もあることもあるのです。

どうして毎日ブログを書けるのですか、という質問をもらった時に自然に答えたのは、習慣化している、すなわち朝起きてトイレに行って顔を洗って歯を磨く、といった必ずやることのうちにこの「ブログを書くこと」を入れているのです、ということだったのですが、ふと、この「習慣化する」ことこそ「ハードルを下げる」ということにつながるのではないかと閃いたのです。

ブログの記事が1万人に瞬時に読まれて世界中に拡散し、ヤフーニュースのビジネス面の隅っこを飾って誰の目にも留まるといったところまでの大それた欲求はありませんが、一応書いたものは「見られる」ことを前提としており、そこにはより多くの人に読まれたいという「期待」がつきものです。

この程度で終わっている分にはいいのですが、過度な「期待」が、すぐに「いい記事を書かねばならない」というハードルを上げる方向に働くと、書く前から身構えてしまいます。




そしたら書けなくなります





そして書けなくなるのです。

勝手に、自らに「期待」することによる「ハードルの上昇」が、無用な心理的負担となり自らに襲いかかり、結果その前でストレスを溜めながら立ち止まってしまうのです。

客観的には立ち止まっているだけですので、物事に着手できません。

勝手にハードルを上げたことにより、動きが取れなくなってストレスを感じます。

このストレスを振り払うには、相当の「決意」を持って前に進んで取り組まなければなりません。

やり始める時からくたくたです。

こうなると、日常流れるように過ごしている中に自然とある「歯磨きのようにブログを書く」といった幸せな状況からは遠く離れ、書くことが物凄く労力のいる苦行や精神修行のように見えてくるので不思議です。

そして、取り掛かるのにそのような「決意」が必要な作業を繰り返していきますと、失敗は許されない、完璧なものに仕上げたい、だってこれだけの「決意」の下に行っているのだから、という「ハードルを際限なく上げる状況」に陥ってしまいます。

そして、ある時バーンアウトしてしまうのです。

「必勝の精神」とやらで戦争に勝てるならば、すべての戦中の日本人には精神修行を行えば良かったし、「必勝の決意」で売り上げが上がるのであれば、現在の企業研修でも精神力を高めるための訓練のみを行えば良いことになります。

しかし、プラクティカルに「やるべきこと」を繰り返して失敗を修正するプロセスがなければ、物事いつまでたっても上達しません。

能力開発もなされません。

話しながら筆者は、人生において使える「決意」の総量はどんな人間でもそんなに変わらないのではないか、とさえ思うようになりました。

つまり、決意とは相当に非常な状況や環境下において、とりあえずその状況を脱するために使う非常手段のようなものであって、能力開発をしようとか、習慣づけをして経験を積もうとか、英語を話せるようになりたい、といった前向きな取り組みの際には、無駄に使わないほうがむしろよいと思うのです。

やる前で立ち止まってしまう、という無用な「決意」の浪費をするより、「習慣化」によって、「やる時間になったらやるだけ」の状況に自らを置いてしまい自然にやるほうがはるかに楽です。

そうすれば、ブログ記事一つにおいても、「今やるべきか、明日まとめて2記事書くか」「今のうちに3記事書いておけば三日間フリーだ」などという「選択肢」の出現によるどれか一つへの「決定」という身体をすり減らす行為は不要になります。

朝起きて、顔を洗って歯を磨く、ということについて、非常な「決意」を必要として実践している人は希少だと思います。

今日から先の10日分の歯磨きをしておく、という人もいないと思います。

こうした日常の行為とできるだけ同じように、ブログを書くとか英単語を少し覚えるとか英語のラジオを聞くとか仕事の報告事項を軽くまとめておくといった行為をさりげなく入れ込んでいくのです。

こうすれば、いちいちそれらを行う時にハードルを感じずに済みます。

ハードルを、意図的に上げないように努めるのです。

メジャーリーグの野手として成功した松井秀喜選手の書いた「不動心」という本がありますが、ここで言っていることを筆者の責任で一言で表しますと、「自分のコントロールできないことで悩まない」というものかと思います。

明日雨が降るか、取引先が自分の提案を受け入れてくれるか、それは相手方や第三者や環境という「自分以外の要素」の決定によるものであるので、そういったことに心を乱される暇はない、むしろ自分自身が100%責任を負えること、例えば毎日素振りをするとか、ストレッチをして怪我を防止するとかといったことに意識を集中しようというものです。

これも、無用なハードル設定による心の不安を鎮める方法として非常に適していると思います。

自分の意思ではどうにもならないことで必要以上に悩まない、ということです。

もちろん自分の「期待」の方向に物事が進まない時には大いに残念がってよいのです。

筆者も、いつだってそうですが買った株が下がれば残念です。

しかし、買うまでのプロセスや読みについての反省は必要ですが、起こった結果について必要以上に悩んでも仕方がないのです。

ハードルを下げて、淡々と習慣の力により継続する、こうした継続力で、かのイチロー選手(何と筆者より年上)も、前人未到の4,200本安打の先へ邁進しているのかもしれません。

などと書きながら、この記事が10万人に読まれてヤフーニュースのトップページを飾ってしまったらやっぱりどうしようと悩む筆者からは以上です。

(平成28年5月28日 土曜日)

2016年5月20日

都道府県名が常用漢字入りしたので読みかなをつける必要がなくなった話






おはようございます。

2016年5月の漢字に関する配信記事です。

現在小学校で習う必須の漢字は1,006字だそうです。

現在の指導要領が定められたのは1989(平成2)年だそうですが、小学校の6年間でこれだけの漢字を覚えさせるというのは世界的にもかなり教育熱心ではないかと思われます。

ここまで漢字の書取りをしているのですから、日本国民にとって、英語など本当は容易いものなのです。

話が逸れましたが、国語の時間で覚える漢字とは別に、社会の時間で覚える都道府県名と県庁所在地名(こちらは中学校に入ってかららしいですが)があります。

良く考えますと、都道府県名に使われている漢字で、小学校では習わない漢字がけっこうありまして、それらにはカナがふられております。




大阪ですらおおさかとルビが振られる変な教科書




「大阪」ですら、阪は習わないので「おおさか」とルビが振られているというわけです。

これでは少々ちぐはぐではないかということで、文部科学省の諮問機関である中央教育審議会において、そういった漢字についても必修漢字に加えて一本化しようという議論がなされております。

この議論によると、近い将来本格導入された場合、小学校で習う漢字が少し、具体的には20文字増えるということになります。

では、具体的にどのような漢字が追加されるのか、筆者が地図を見ながら挙げてみると意外な漢字が出てきます。

茨城の茨、愛媛の媛、福岡の岡、新潟の潟、熊本の熊、岐阜の阜・・・などです。

これまでは、都道府県名や人名は別物の漢字として習って憶えていましたが、こういう風
に統一してしまったほうが国語とか社会とかいった人為的な教科別教育による混乱が少しでも減ることになるので、非常に良いことではないかと思います。

英単語などはさっぱり入ってこない筆者からは以上です。

(平成28年5月20日 金曜日)

(答え)
茨、媛、岡、潟、岐、熊、香、佐、埼、崎、滋、鹿、縄、井、沖、栃、奈、梨、阪、阜
(以上20字)

2016年4月16日

歴史文化好きには好感がもてる原文調忠実読みの普及について述べます

横浜中華街



おはようございます。

2016年4月の雑な論考に関する配信記事です。

最近、我が国でも多言語他民族に即した表記が進んできているように感じます。

もっとも顕著なのが、名前の呼び方で、最近はNHK基礎英語でも、山田花子さんはYAMADA, Hanakoと呼ぶようになっています。

Hanako YAMADA ではないのです。

つまり、語句と発音から明らかに日本人の名前であることがわかる場合、その呼び方も日本式である姓名順で呼ぶべし、というルールなのです。

Junko Takano で中学教科書を覚えてきた筆者などには衝撃です。

さらに、外国の要人の名前についても、最近は変化が見られます。

中華人民共和国を建国したのは毛沢東ですが、「もうたくとう」と読ませるのが日本の過去では一般的でした。




毛沢東はもうたくとうで勉強した昭和世代です




しかし、これでは中華人民共和国の人には何のことかまったくわかりません。

原文に忠実に読むとすれば、「マオツートン」というような響きになります。

ナンバー2の周恩来、こちらは「しゅうおんらい」と日本で読みまして日本の人には実は毛沢東より有名なくらいですが(筆者個人的にももっとも尊敬すべきと考えておりますうちの一人です)、原文忠実読みでも「ヂョウオンライ」みたいな感じで似ています。

これは、たまたま似ているということですので、「しゅうおんらい」と呼んでも中華人民共和国の人にもひょっとしたらわかるかもしれません。

さて、現在の同国の国家主席は、習近平と書きますが、これはどう読みましょうか。

「しゅうきんぺい」より「シージーピン」の方がより使われているような気がします。

先代の胡錦濤は「こきんとう」一辺倒の読み方で、「フーチンタオ」と呼ばれたのを聞いたことはないので、時代は急速に変わってきているのかもしれません。

中国語はほどんどできませんが、日々中国人旅行客に道を尋ねられる外観の筆者からは以上です。

(平成28年4月16日 土曜日)